曖昧トルマリン

graytourmaline

幽谷響〈壱〉

 まだ暑さを残して照りつける陽の光から逃れるように、は緑色の木陰に人の形をした影を隠しながら石の階段をひたすら上っていた。
 疲れている訳ではないのだが、元が山犬という事もあり、体温調節が得意でない彼の褐色の額には玉のような汗が浮かんでいる。
 顎から滴った水滴が熱せられた石の上にぽたりと落ちて、瞬時に水分を奪ってしまった。
「 全く 情けない 」
 その隣では、息一つ乱すどころか汗一筋かいていない薬売りが、いつもの涼しげな表情で階段を上っていた。一段進む毎に中身がぶつかり合い、背負っていた薬箱がカタカタと音を立てる。
「返す言葉も御座いません」
 いつものように、項垂れて変化の名残である尖った耳を寝かせるが、薬売りは黙して階段を上り続ける。表には決して出さないが、彼もこの暑さと先は見えているというのに、一向に辿り着けない階段に辟易しているようだった。
 視線の遥か上方には朱塗りの鳥居が僅かばかり姿を見せ、周囲の林からは生き急ぐ蝉の声が聞こえる。ふと背後を振り返ってみれば、眼下には小さな集落と、それを囲うようにして山が鎮座していた。
 この山間の小村は、すぐに上げる事の出来るような特産品もなく、何処にでもあるような、典型的な、言ってしまえば大変地味な集落だった。
 何の娯楽もない、街から離れた農業だけを生活の支えにしているそこは、しかし村人は誰もが幸せそうで、若い男衆も遠くの町に出て行くような事をせず村に留まり、小さいながらも活気のある村だとも同族伝手に聞き及んでいる。
 その噂は事実で、宿の女将は器量良しで、村娘たちも皆外からの訪問者を良くしてくれた。難を言うならば、そんな娘たちに対して亭主は少々傲慢そうで、しかも彼女等は文句一つ言わずせっせと働いている所くらいだろうか。
 他にも少々、には気になった点があるのだが、こんな田舎に来たというのに薬が一つも売れなかった、と表現するよりは女性が一人も寄って来なかった薬売りに声を掛けるのが恐ろしく、とても言えるような状況ではなかったのだ。
 それでなくともに方向性を間違えた恋慕をしている薬売りにとって、彼が若い年頃の娘にばかり気を取られているのが腹立たしくて仕様がない上、その心中を一向に察しない事で不機嫌の臨界点はとっくに突破しているというのに。
「 ようやく 見えてきましたね 」
 ぽつりと漏らされた薬売りの言葉に、が顔を上げる。
 確かにその言葉通り、先程まで赤い鳥居らしき物体としか認識できなかったそれが、はっきりと古びた鳥居として確認できるまでになっていた。
「これで何も無かったら悲惨ですね」
「 その時は 判っているだろうな 」
 何となく零してしまったの言葉に反応した薬売りが、自らの薬箱にちらりと視線をやって、怪しげな笑みを浮かべる。
 いつもより激しく音を立てる薬箱の中身を無視して更に石段を上るその背中を眺めながら、は些か申し訳なさそうな表情で頭を垂らした。自分の一言で、本当に何もなかったら確実に八つ当たりの対象となってしまった薬箱の中に居る存在は、今頃目一杯の言い訳をしているに違いない。
 そうこうしている内に、やっと視界が大きく開け、目の前の景色が変わった。額束が読み取れない鳥居を潜った先には、村に見合う小さな拝殿と、宮司の自宅らしき建物が並んでいた。
「 は 神仏の類は平気なんですね 」
「一応。あっしは悪いモノという訳では御座いませんので……昔は祠に棲んでおりましたし」
「 そう言われれば そうでしたね 」
 打掛の中に風を通すように手を翳したのは、日差しを避ける為であったのだろうか。
 ややあって、下っ端ながらも天狗であるは、決してそうは見えない外見で境内を用心深く観察するがやがて肩の力を抜き首を傾げる。
「こういった中にはナワバリ意識の強い方もいらっしゃいますが」
「 此処には居ないのか 」
「それどころか祀られている方の姿すら見当たりませんよって」
「 まあ こんな場所に祀られれば逃げ出したくもなるだろう 」
「それは神として如何なものかと……」
 急な石段の先にある神社であろうとも、相変わらずな蝉の鳴き声が会話に混ざり、意味もなく夏の空気に消えていった。
 やがて二人分の下駄の音が石畳を打ち、砂利を擦らせながら境内の中を横切り、まるで始めからそうするつもりであったかのように一本の杉の木の前で止む。
 他の杉よりも二回り程太く、注連縄に紙垂が結ばれている所を見ても御神木に間違いはなさそうなのだが、垂直に伸びるそれを眺めるの目は、経験の浅い詐欺師を見るそれとよく似ていた。
「 違うんですか 」
「ええ……単なるスギの木ですね」
「 だ そうだ 」
 何時の間にやら持っていた退魔の剣に話しかける薬売りの横で、はまだその杉の木を見上げている。
 拝まなければならないほど神聖なものでもなければ、斬らなければならない『ハナ』でもない、そんな縄を巻かれた単なる木から連想された言葉を口に乗せた。
「メザシの頭も何とやら。でしょうか」
「 信心 それと 目刺ではなく鰯ですよ 」
「あっし生魚苦手なんです」
「 だからと言って勝手に干すな 」
 瞬時に突っ込まれた台詞も軽く受け流し、何も考えて居なさそうな顔で足元をじっと見つめる。こんな場所でも頻繁に人間が出入りしているのか、土は固まっていて沢山のヒトの匂いが混じっていた。
 他には何かないものか、と顔を上げると、丁度神社の境内に姿を現した女性と目が合う。陽の光に溶けてしまいそうなくらい白い肌をした、可愛らしい顔立ちの女性だった。
 紫陽花の練り香水と、真後ろに伸びる杉の木とよく似た香りのするその女性に微笑みかけ、手を振って見せると同時に後頭部に鈍器で殴られたような激痛。恐る恐る振り返ると、そこには退魔の剣を持った薬売りが鬼の形相で立っていた。
 彼の背の薬箱の中身がやたらと鈴の音を響かせているのも、決して気のせいではない。
 石段を上っていた時とは違う、体を心から冷すような汗が背中を落ちていく。一体自分の何が薬売りの機嫌を損ねているのか一寸も理解していないは、痛いやら恐いやらでその場から動けずにいた。
「 後で覚えていろ 」
「!?」
 訳が判らず固まっているに吐かせた台詞は彼の理解の範疇を超えており、一体何を覚えていればいいのだろうと震えながらも頭を抱える。
「うう。痛い」
 手加減無しで殴られたのか、普段より一層痛む後頭部を摩りながら顔を上げてみれば、薬売りは先程の女性と何やら話し込んでいて、自分が殴った男の事など気にも留めていない様子に見受けられた。
「せめて一言。口で仰ってくださればいいのに……」
 僅かに溜まっていた涙を拭い、木に背でも預けようかと重心を後ろに移動させようとした所、全身の血の気が引く感覚を覚えて慌てて背後を振り返る。
 そこに何か居る訳ではない。杉の木は単に杉の木でしかなく、この妙な、胸騒ぎに似たものを覚えるような原因にはならない。
 全身の毛が総立ち、寸での所で一命を取り留めたようなこの感覚は一体何か、本能と勘に導かれるままに杉の木の後ろに回り込もうとした所で、ようやく何故そうなったのかを理解することが出来た。
 杉の木の後ろには地面というものが存在しておらず、視線の下方に転がるのは剥き出しの白い岩肌で、深い緑色の川が渦を巻きながら音も立てずに流れている。
 幾ら彼が人間離れした肉体を持っていても落ちて打ち所が悪ければ死ぬ高低差に、は胸の前で拳を握りゆっくりを息を吐き出した。
「後でシロウサギにもお知らせしないと」
 ヒトであると言い張るが、自分とは違いこの程度でどうこうする薬売りではない。そう理解していても、万が一怪我をしたら大変だから言うに越した事はないと深く頷いた。
「 何をしているんだ  」
「嗚呼。シロウ……」
 丁度いい所に、という言葉に辿りつく前に投げられた白い物体がの頬を皮膚を裂き、勢い余って杉の根に突き刺さる。
 穏やかな笑顔を浮かべていた顔は凍りつき、彼の時間だけが停止した。蝉の声に天秤の鈴の音が混じり、褐色の頬からは血が垂れてくる。
「 先に宿に帰って下さい くれぐれも道草をしないように 」
 口調は優しいはずなのに、思いやりといった類の感情が全く見受けられない行動をされ、それでもは思考と体を分離させ頷くことに成功した。
 反応しなければすぐ第二投目が脳天目掛けてやってくる事を何十回という経験で学習していた彼は、大急ぎで立ち上がり、一本歯の下駄で全力疾走を開始する。
 人間よりも犬に近い素早さで視界から消えたに、薬売りは吐息をついてから背後の女性に向き直った。
 どこか生気を感じさせない、良く言えば儚げなその女性は口元に手を当ててくすりと笑う。
「酷い事をなさるんですね」
「 いいんですよ あれはおれの物なんですから 」
「まあ、そうでしたか」
 宮司の妻だという彼女は白魚のような指を組んで首を傾げてみせた。
 村の他の女性と同じく薬売りや花売りの色香に惑わされない姿勢に、内心眉を顰める。勿論今まで出会ってきた異性の中には、彼女のように男の外見に釣られない女性も居たが、それが小さいながらも村丸々一つとなれば話は別だった。幾らなんでも異常過ぎる。
「ところで、どうしてこんな辺鄙な村へ?」
「 モノノ怪をね 斬りに来たんですよ 」
「モノノ怪、ですか」
「 ええ 」
 あまり理解していない素振りをする女性は、組んでいた指を解き薬売りに一歩近付く。
 嫌な予感がして、薬売りは口を開きかけるが、それよりも早く女性が白い両腕を勢い良く前と突き出した。
 化粧では隠せない程に驚いた表情をした薬売りは、体勢を立て直そうとしたところで下駄が木の根に躓き、杉の木の向こうへと姿を消す。
 根元に刺さったままの天秤が、蝉の声に隠れるようにリン、リン、と鳴り、女性は最初と変わらない笑顔のまま踵を返した。夏の日差しに熱された風が誰も居なくなった杉の木の前を通り過ぎ、やがて蝉の鳴き声も一斉に止む。
 後に残されたのは、主の為に鈴の音を鳴らし続ける、一個の天秤だけだった。