塵のように舞う黒い文字。のようなもの
それに
オナゴの声と……
「よし……よし……」
『 …… …… 』
「ネコ……ネコ……」
『 』
「いい子……」
『……さま』
「……いい子」
『あにさま』
化猫〈大詰め〉上
『……っ!?』胸を締め付けられるような。懐かしい……聞き覚えのある声に慌てて体を起こしてみても。そこに佇んでいたのは望んでいた姿ではありませんでした。
ただ。薔薇色の打掛が。ヤマイヌ姿のあっしにかけられていただけで。
『……』
隣には。知らぬ間にシロウサギがいらっしゃって。
何か言うべきかと口を開きかけて。目の前の光景に続きの言葉が。出て来ませんでした。
帰して?
帰してだと?
私に指図とは
口の利き方を教えてやる。
匂いのない。恐らくは『ハナ』が見せている過去の記憶。
この恩知らずが!
わかったな!
わかったな!
わかったな!
ぎり。と歯を食いしばれば。低い唸り声がおのずと漏れ出してしまい。それに気がついたシロウサギの手があっしの頭をゆるく押さえました。
何時の間に怪我をしたのでしょう。少しばかり血の匂いのする手を舐めると。指先であっしの鼻を撫でて下さいました。
視線を合わせる事はなく。痣だらけになって蹂躙されるその姿から。せめて……出来る限り目を逸らさないようにしながら。
「 これ は 」
ぽつりと。聞こえてしまったシロウサギの言葉に。あっしは何も返すことが出来ずに。唯黙って。恐らくですが『ハナ』の『マコト』と『コトワリ』を見続けておりました。
「 ……過去 」
初めて聞いた。シロウサギの震えるような声色。
人の姿であればどうとでも出来たのでしょうが。今は未だこのヤマイヌの姿。
「 最後まで 拝ませて 頂く 」
その声に反応するように。天井から吊り下がった牢がオナゴを閉じ込め。それをにやにやと笑いながら眺めるオトコの姿。
ふと。耳を傾ければネコの声が何処からかして。
「久しぶりに、入ってみれば、巣を、作り、やがったか」
そうして。いつの間にか姿を現していた黒いネコは。
悲鳴を上げながら刀に切られ。唯の肉塊へ。
オトコの笑い声と。ネコの声に反応するオナゴの汚された肩。
「食べられないのなら、もう、持って来ないよ」
次々に移り変わる場面。
この声は……サト。という名の?
「あんたを養うのも、ただじゃないんだからね」
この屋敷に似つかわしくない。みずぼらしい食事。
閉まる隠し扉の音にまぎれて。先ほど切られたネコの……恐らくは子供であろうネコが。場に合わない。優しい声を上げる。
「……ネコ」
暗い瞳に僅かながらの生気が宿り。手を伸ばせば。小さなネコはその指先を舐めました。
オナゴの笑顔は。とても可憐なもので。
だからこそ。胸が痛んで。
彼女は。用意されていたその僅かな食事ををすべて。そのネコにやって。誰に何と言われようとも。自分の口には一切入れずに。ネコにすべて与えて。
胸の中に抱いたネコを。優しい手つきで撫でて。
「もっとお食べ……」
好きなだけお食べと。どこか。諦めたような声でそう囁いて。
いつかあなたは
外へ
おまえは・・・
強くなって
大きくなって
自由になるの・・・
あなただけは
そうして見ていると。唸る事すら出来ずにいると。
『兄様と。一緒だね』
また。耳元に知った声がして。
思わず振り向いても。そこには誰も居なくて。
「声を……立てるな」
先ほどとはまた違うオトコの声に。視線を戻してみれば。そこにはあの。ヨシクニというオトコが。オナゴを。
「父上が最近、あんたを持て余している……可哀想になあ」
「ネコ……ネコ、いい子にしておいで」
また。蹂躙されるその姿に。引きつったような泣き声は。目の前のオナゴのものではなく。
いつの間にか隣にいらっしゃった。カヨ様のものでした。
オダジマ様は。両の手を握り締めて俯いていて。この中で彼女と『ハナ』の過去を直視出来ているのは。恐らく。シロウサギだけで。
「伊国……」
「ち、父上」
「この、いつの間に……田舎者の、分際で! 汚らわしい!」
そのシロウサギも。許さぬと叫ぶオトコを睨みつけていて。
ネコ・・・ネコ・・・
おまえは・・・
「なんだ、こいつは!? 畜生の分際で!」
立ち向かおうとした最中。彼女の最期の言葉を聞いて。
お・逃・・げ・・・
外の世界へと言った彼女は。ネコの身だけを案じて。息を。引き取りました。
ゆるりと。風もないのに打掛は揺れていて。それが。普段よりも幾分か重く感じました。
「後の事は、笹岡めに……お任せ、下され」
そうして。彼女の遺体は……あの。井戸の中へ。
ああ。そうだったのですか。あの井戸の微かな。本当に微かにした腐臭は。彼女のものだったのですか。あの井戸から汲む水が『重い』理由が。やっと判った気がいたします。
『しろうさぎ……ドウカ。はなヲ。摘ンデヤッテクダサイ』
「 ……? 」
『何卒……何卒。宜シクオ願イ致シマス』
これは。あっしが持って来た仕事。
普段は。持ってくるだけの仕事。
けれど今回だけは。シロウサギに無理やり連れて来られて。何とか此処まで生き延びてやってきた。『ハナ』を『摘む』という作業。
それが。こんなにも辛いものになるなんて。思いも寄らなかった。
『宜シク。オ願イ致シマス……』
「……承知」
シロウサギのその返答を聞いて。耐えていた涙が。一筋だけ零れ落ちました。