曖昧トルマリン

graytourmaline

「さて。如何致しましょうか」
 え。はい。何でしょうか。
『死亡ふらぐ』が立った?
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 えっ?

化猫〈二の幕〉下

 ええ。では何ですか。あれですか。あっし死亡は確定事項ですか。
 いえ目の前に迫っている存在を見ればそんな事言われなくても判りますがね!
「これがネコですか……」
 見上げなければならない程の大きさのこれが『ネコ』。けれど。これは『モノノケ』……何時か。誰かが刈らなければならない開花した『ハナ』。
 鈴の音と共に近付いてきた巨体に。澱んだ二つの黄色い目玉。
 時折足元で散る紫電はあっしの張った鬼門除けが破られている証拠。ああ。クスリウリ様。矢張りあっしにはそういったような才能は全く御座いませんよ。
 第一。それ程の力があったら。今。こんな所に居るはずないではありませんか。
「せめてもう少しでも躊躇って下さると。あっしも浮かばれるんですがね」
 完全に破られてしまった鬼門除けを前に脂汗を流している。人の姿を取るあっしを見つめ。『ハナ』はにやりと口元を笑わせたように見えました。
 まあ。あくまで。あっしがそう見えただけですが。
「……?」
 ふと。ぴたりと止まった『ハナ』の脚。
 あっしと。目と鼻の先の距離。その間に。白い塩の線が結界の変わりに作用してて。関心するやら虚しいやら……複雑な心情です。
「しかしこれも。時間の問題ですかね」
 襖を隔てた向こうの部屋が不気味に静かで。けれど。あっしの背後にはクスリウリ様の気配があって。
 ……ああ。そうだ。
 あっしのすぐ後ろには。まだ。『ハナ』の『カタチ』しか存じないクスリウリ様がいて。あの二つを。どうにかして。探しているんでした。ね。
「だからと言って。あっしが守る。なんて出過ぎた言葉は……身の程を弁えなければいけませんからね」
 塩の線に沿って部屋の奥の方へ移動していく『ハナ』を追い。徐々に磨り減っていく塩の線を見つめながら。ゆっくりと重心を低くして。
 踵が上がって全身が灰色の毛と筋肉に包まれて。視力は動くものだけを機敏に捉えるそれになって。鼻はヒトの姿よりもずっと利くようになって。
 ……もう口から漏れるのは人間の言葉ではなくなって。ただの唸り声だけで。ヤマイヌに戻った今の姿では。誰とも。何とも意志の疎通なんて出来はしないのですけれど。
 塩の線が完全に切れてしまう前に。一声だけ遠吠えをすれば。怯える人間の声に混ざって。クスリウリ様の掠れた声があっしの名を呼んでくださったような気が致しました。
 あっしは返事もしないで。と言うよりも出来ずに居ました。
 切れた塩の間から侵入してきた『ハナ』の前足に牙を立てて……ああ。もう。本当に。この姿で獲物を狩るなんて久し振りですよ。
『今シバラク。御付キ合イ願エマセンカ?』
 力任せに引き千切った前脚にも全く動じない『ハナ』に。ヤマイヌの言葉で話しかけても。まあ。当然ですが通じるはずもなく鼻で笑われました。
 一瞬で再生した前脚が襲い掛かり。辛うじて避けれたと思えばもう片方の脚で頭を殴られて吹き飛ばされまして……随分冷静に見えるって。実はそうでもないのですが。常人であれば即死でしたし。まあ平気そうに見えると仰るのならそういった事にしておきましょうか。
『嫌デスネ。血ノ匂イガスル』
 随分向こうに『ハナ』の姿が見えます。たった一撃でかなり吹き飛ばされてしまいましたか。
『気持チ悪イデスシ。肩ノ肉モ抉レタ……アア。全ク。最悪デスヨ』
 体格差があるとはいえ一振りで役に立たなくなってしまったあっしの体。肩から胸にかけて残された大きな爪痕と。そこから溢れ出す赤い……血。
 全身の筋肉を膨張させるようにして。今度は背後から『ハナ』に襲い掛かってみたのですが。そこでようやく納得致しました。
『成程。牙ヲ突キ刺ソウガ爪デ傷付ケヨウガ。貴方ニトッテハ何等損傷ヲ与エラレナイノデスネ。全ク。一体ドウスレバイイノヤラ』
 言葉が通じているのかいないのか。恐らく後者でしょうが。黄色い眼球があっしをちらりと見て。またにやりと笑ったように見えました。
 確かに。物理的な攻撃しか出来ないあっしなど。『ハナ』にとってはどうでもいい存在なのでしょう。今まで殺されたものはただ単に一撃で即死したのですが。まあ。普通はそうですよね。
「たっ、まき殿っ!」
 今の声は。確か。ミズエとか言った。この屋敷の奥様でしたっけ。
 気絶しているとばかり思っていたのですが。あの襖の向こうで一体何が……
『貴方……死体ヲ使イマシタネ』
 如何使ったのかまでは判りませんが。獲物を誘き寄せるために死者の体に細工をしたのでしょう。
 中にも。そしてあっしの目の前にも『ハナ』が存在していると言う事は。これは分裂なりなんなり出来る……と考えてよろしいのですかね。
「何でも償いますから、来ないでっ!」
 中でも。そしてこちらでも獲物を弄りながら追い詰める。まったく困った『ハナ』です。
 いっそ一思いにやって下されば。こんな血の匂いを撒き散らしながら遊び半分の攻撃を必死で避けなくてもいいというのに。
「 奥へ! 奥へ逃げろ! 」
 ああ。クスリウリ様の声が聞けた。
 そう僅かに注意を逸らした途端。巨体の突進に再び突き飛ばされるあっしの体。だから本当に。その牙で一撃で仕留めて欲しいのですがね。
 背中も痛い。血も止まらない。体が冷える感覚がする。口の中も切った所為で鉄錆の味が一杯に広がっていて不快で仕方ありません。今の状態で四肢が折れていないのが不思議なくらいですよ。
 あっしが動けないのを確認した『ハナ』は。三度にやりと笑い。目の前から姿を消しました。
 何故って無論。本命の獲物を狩るためでしょうに。あっしなんて所詮そんな程度のものでしょうから。
 頭に響く。酷く心地悪い悲鳴と。開かれる障子の音。訪れた一瞬の静寂。
「化物めえっ!」
「 止めろっ! 」
 珍しい。本当に珍しい。クスリウリ様の慌てた声を聞いて。慌てて体を無理矢理動かして……痛みは。当たり前ですがかなり酷いものでしたが。
「 バケネコめ! 」
 大丈夫でしょう。まだ走れる程度には動けますから。
 急いで外に放置してあった塩の瓶を咥え。襖を体当たりで破って中に入る。
「な、なんだ!?」
「犬!? 犬がどうしてこんな所に……」
 うろたえているヒトを無視して。辛そうに。たった一人で『ハナ』を押さえ込んでいるクスリウリ様をどうにかしたくて……そうしたら。何故かカヨ様と視線が合っていました。
 あっしが何を言いたいのか理解してくださったのか。あの重い薬箱を背負ったまま。カヨ様はあっしが咥えていた塩を持ち上げ……
「塩でも喰らえーっ!」
 豪快に。本当に豪快に回し投げてくださいました。
 カヨ様の素晴らしさに暫し唖然とするあっしとクスリウリ様でしたが。今はそんな事をしている暇も御座いません。とにかく奥へ。奥へ逃げなければ。
「 何を 怒っている!? 」
 肩で息をしているカヨ様の着物を引き。奥へと導くと。クスリウリ様が『ハナ』に問いかけながら結界を張っている声を耳に致しました。
「 お前の理は何だ!? 」
 何か。妙な……ああ。そうか。人数が先程よりも少ない。
 ええと。多分三人くらい。
 いえ。構いません。クスリウリ様と。カヨ様と。オダジマ様さえ無事ならば……そして。『マコト』と『コトワリ』をご存知の方が一人でも居て下されば。
「 お前の真は何処にある!? 」
 最後の襖に結界を張ると。クスリウリ様はすぐに此方に来て耳の寝たあっしの頭を撫でて下さいました。これは……ええと。どういった意味で撫でて下さるのでしょうか。
『くすりうり様……ソノ。ゴ無事デスカ? オ怪我ハアリマセンカ?』
 常人にはただヤマイヌが鳴いている声にしか聞こえない言葉。それでクスリウリ様に話しかけると。驚いたように目を見開かれました。
 ええと。クスリウリ様。あっしの本来の姿は覚えていらっしゃいますよね。声も通じますよね。
 一体何に驚かれているのですか。
「 おれよりも …… 」
『ハイ?』
「 ……  」
「あれが物の怪、化猫か……?」
 何事かあっしに言おうとしていたクスリウリ様の言葉を遮り。投げかけられた問いに。目の前の端正な顔に何やら恐ろしい形相が……
 ま。まずいのですが。今の見て血の気が引いて。ただでさえ血を流し過ぎたというのに。
「 そうだ …… 加世さん 薬箱をこちらに 」
「あっ、は。はいっ!」
「義明は、勝山は死んだか?」
「……恐らく」
「  これを飲め 止血と増血作用がある 」
 先程の『ハナ』と何かあったのでしょうか。僅かに震えているように感じるクスリウリ様の手から丸薬を甘噛みするように咥え。丸呑みを……まあ。当然ですが。非常に苦い訳でして。
「 我慢しろ 体力だけが取り柄なんだろう 」
 鼻先に皺を寄せて薬の味の感想を述べたあっしに。クスリウリ様は布で傷口を塞ぎながらそう仰いました。
 いえ。否定は致しませんがね。他に取り得なんて御座いませんけれどね。
「ところで、何だ。その犬は。お前の犬か?」
「 …… あれは誰だ あれが真の一部 理の形だろう 」
「おい」
「 奥方は『珠生殿』と呼んだぞ 他の誰も 娘の事を知らないのか 」
 クスリウリ様。凄いですね。見事に質問を無視しておりますね。
 まあ。確かに。時間もないことですし。仕方のない事なのかもしれませんが……おや。この地響きに似た音は。
「な、何だ?」
「 一部屋結界が破られた ここまですぐ来る 」
「まっ、まだ抜けんのか!? 早く抜けっ!」
「 こいつに聞いてくれ 尤も 刀を抜いたとしても モノノ怪の力に勝てるとは限らないがな 」
「な、何だと!? 退魔の剣だと言ったではないか!」
「 …… 剣を操るのは 人間だ 」
 すぐそこまで迫っている『ハナ』に。未だに対処が出来ないもどかしさなのでしょうか……クスリウリ様のそれは酷く重く聞こえる言葉でした。
 また一つ。結界が破られ。もう目と鼻の先だというのに……これだから。ヒトといったものは。
「 おれの技量には 限界が …… ある 」
 ざわりと。逆立てられた毛を撫で付けるような仕草で。クスリウリ様の手があっしの背中を擦ると。流石に申し訳なくなってしまい。ゆっくりと耳を寝かせて意思表示をしたのですが。
 それでも。生死が関わっているというのに。何故こうも。
「まだ奥に、逃げられる」
 ひどく。落ち着いた口調でそう言ったのは……
『……腐臭ガ』
「 ? 」
『アア。嫌ナ臭イバカリガ致シマス……』
 腹の底から出した。低い唸り声をぶつける先に在ったのは。遊女屋でよく嗅ぐ匂いと。それに混ざった……数え切れぬほどの死の匂い。
「  奥へ …… 」
『行キマセン』
「  」
『アンナ所ヘ逃ゲ込ムナンテ』
「 あんな所とはどういう意味だ 」
 しかし。あっしが何か言うよりも早く。誰かの狂ったような。サト。とか言う女性の笑い声が聞こえてきて。その口振りは。矢張り何かを知っているようで。
「無駄よ! 無駄無駄無駄っ! どうやったって逃げられないんだわ!」
 まるで。全てを知っているかのような口振り。
 もっと早くに口を割れば。誰もこんな目に遭わずに済んだというのに。
「 知って いるんだな 」
「……っ」
 その沈黙の先に存在するのは。恐らく。幾重ものオナゴの死骸。
 白粉や香に混ざった。あっしの鼻では隠れきる事ができない体液と血と肉の匂い。その血の数は両手の指で収まりきらないほどの。
「あんた達の所為よ……」
 ゆっくりと後ろを振り返ってみると。もうすぐそこに『ハナ』の気配があって。
 相変らず恐怖はありましたが。こんなものに巻き込まれた事を哀れに思って。
「あんた達、男共が! 物の怪を呼び寄せたのよ!」
 耳障りな声に呼応するように現れた赤黒い『ハナ』は。相変らずあの表情であっしを見下ろして。牙の生えた大きな口を開けて。
「 っ! 」
 『ハナ』に飲み込まれる寸前に見えたクスリウリ様の表情は何故かとても辛そうに見えて。しかしそんな事よりも。あっしはもっと大切な事を思い出し。少しばかりの後悔をしておりました。
 クスリウリ様はあっしの名をちゃんと呼んでくださったというのに。『ハナ』に追われてからずっと。あっしはあの方の事をシロウサギと呼べませんでした。
 まあ。今となっては。どうでもいい事なのですが……ね。