「 何を 唐突に 」
「さっき。一瞬で。頭の中に死んだ弟が」
「 弟 ね 」
「……こんな形でも。弟に会えたなら」
「 はい 終わりました よ 」
「っ! な、何故わざわざ怪我した部分を叩くんですか?!」
「 馬鹿な事を考えているから ですよ 」
化猫〈二の幕〉上
すぐ後の事で御座います。あっしの後頭部に出来た大きなタンコブを見て。それはそれは大きな溜息を吐かれたクスリウリ様は。オダジマ様の熱心な頼みも手伝ったのか。それを治療して下さいました。
その際。カヨ様に。あっしの顔は直視すると目に毒だからと。わざわざ誰の目にも触れないように壁際に追い込まれてからの。治療となりましたが。
ええ。その台詞で少しばかり。心に傷を負いましたよ。
まあいつも通りといってしまえば。それまでなのですけれど……あ。矢張り投げられた衝撃で籠が少し傷んでいる。後で直さないと。
「 の 」
「はい?」
「 顔を 誰かに見せるのは 正直嫌なんですがね 」
「シロウサギ……確か以前も。同じような事を仰っていましたね」
ええ。全く意味は理解出来ませんが。
別に人様が卒倒するほど怖い顔でも醜い顔でもなし……寧ろ男前だと思っておりましたが……何故シロウサギがこのような事を仰るのやら。
「 おれ以外の人間は知らないんでしょう の素顔 」
「まあ。あっしは花や『ハナ』を顔で売っているわけでは御座いませんから」
そう。言われてみれば。確かにシロウサギくらいなものですよ。あっしの素顔を知っているお方も。ここまでちょっかいを出す方も。
他のお客はあっしの事になんて興味を持ちません。皆。欲しがるのは珍しい南蛮の花や。偶に手持ちの生薬。それに。そのどちらでもない『ハナ』ばかりですから。
尤も。最後の商品だけは。捌き方に注意しないと。幾ら上客でも数刻後にはただの肉の塊になっていたりするので。扱いが難しいのですが。
「 だからこそ ですよ 」
「何が。でしょうか」
「 阿呆のの記憶に残る個人なんて 数えるほどしか居ないでしょう 」
「否定は出来ませんが。あまりヒトと交流も御座いませんし」
ええ。あっしはヤマイヌのくせに記憶力はトリ並みですよ。三歩歩いたら言われたことも忘れますよ。いえ。今のは流石に大袈裟ですが。
しかしよくよく思い返してみれば。こうして『ハナ』を売るお相手だって。自慢ではありませんが。シロウサギ以外は思い出せません。ええ。
いえ。匂いで判断しているので。一つの「個体」としては認識できるのですが。男とか女とか。どういった性格だとか。そんな事まで一々覚えてはおりません。面倒ですし。
第一『ハナ』を売って金を受け取ってはい。終わり。という関係なら。そんなものでしょう。
命令されれば。まあ。話は別ですが。誰も好き好んであっしのようなアヤカシを使役しようなどとは考えていないようなので。
自分自身で言うのもなんですが。本当にあっしは能無しで。せいぜい力仕事くらいにしか使えませんので。
「 それに おれの素顔を知っているのも だけですから 」
「はあ。それがどうか?」
……あ。
今。何か。空気が冷えたような気が。
「 後で薬代請求しますから 」
「ま。まさかまた『ハナ』を『摘む』のを手伝えと?」
「 さて 今度はどうしましょうかね 」
「今回の件であっしにそれは向いていないって判って頂けないんですか?」
「 それを判断するのは おれですから 」
「もう嫌ですよ。ご迷惑ばかりかけているじゃありませんか」
「 否定は しませんがね 」
「ううっ」
「ん? おい、酒がないぞ。誰か、酒を持って来い」
……はい?
え。ええ? 今この状況でこの台詞が言えるとは。大物なのか阿呆なのか。はたまた唯の酔っ払いか。
あっし等も緊張感の欠片もない会話をして何ですが。それにしてもこの空気の読めなさは。
いえ。兎に角迷惑な事この上ないのですが。周囲の方々が完全に沈黙なさっていますよ。そうですよね。あんな事があった直後では嫌ですよね。
「さと」
「た、ただいま。加世、行っといで」
「えっ?」
「は?」
「早く。御酒だよ。場所は判ってるだろ」
「……」
「 殺気 」
「っ。だって……」
幾ら何でもこれはあまりにも。
死ねと。言っているようなものです。
ええ。だから死なれると困るんですよ。唯でさえ今この場にある死体からの匂いで……それでなくとも。若く美しいオナゴが無残に殺されるのを静観出来ましょうか。
「 仕方がありません ね 」
「シロウサギ?」
「 はこれを 」
「はい?」
ぽん。と商売道具を叩いて。何処かに御用でもあるのでしょうか。
これはつまり。担いで付いて来いということですよね。きっと。
「 塩を取りに行く 荷物持ちに使って上げますよ 」
「っ。はい。喜んで!」
「 …… 成程 」
「は?」
「 こうして近くで の笑顔を見れるという事を考えれば この髪型も悪くはない 」
「よく判りませんが……あっしもこちらの方が楽で好きですよ。視界が広くて明るいですし。それに。シロウサギのお顔もよく見えますから」
「 そう …… か 」
え。何ですか。その妙な間は。意味深な笑みは。
何というか。非常に怖いのですが。
「 さて 無駄話はこれくらいにしておきましょうか 」
「あ……あの。髪はこのままで宜しいので?」
「 ええ いいですよ 」
「左様で」
実は。絶対に馬鹿にされるからと黙っていたのですが。どうも髪を下ろした状態で歩いていると。視界が悪くなるのでたまに何もないところで躓いて……人目もありましたので相当気まずい思いをしていたのです。
え。いえ。内緒ですよ。絶対に。
そんな事をシロウサギに知られた日にはまた髪を下ろされるので。いえ。なんとなくそんな気がするだけなのですが。
「おい! 何処へ行く!?」
あ。オダジマ様。
そんなに怒鳴らなくてもあっしらには聞こえますよ。と言いたいところですが。どうもこのお方の場合は地声が大きいようで。
余計な事で御座いましたね。失礼しました。
「 塩がいる 」
「ついでですので。酒も一緒に持って参ります」
「な、勝手に花売りを連れまして動くなっ!」
「 これはおれの物だから構いはしないだろう 」
「いえ。あっしは誰のモノでも御座いませんが……」
そもそもモノでも御座いませんから。
いくらあっしがアヤカシでも。正体を知っている方にモノ扱いされるのは。何と言うか……非常に心が痛むのですが。
「ほら見ろ。大体薬売り、お前は……」
「あの。オダジマ様……何か勘違いされているようなのですが」
「何だ花、売……」
「クスリウリ様にはご恩があるとはいえ。あっしはあっし自身の意志でこの御方に付いているのです。なので決して……あの。オダジマ様。顔が赤い上に何故逸らすのですか。あっしの話を聞いていらっ。ちょっ。何を為さるんですかクスリウリ様?!」
そこで何故あっしの耳を引っ張るんですか。
ちょっと。本当に体が反れて……い。痛い痛い!
曲がりませんって! 薬箱背負っているからそれ以上は不可能です。倒れてしまいます。背中と肩と腰と痛いです。無理無理無理ですって耳離して下さいっ! 爪食い込んでいます!
「ク。スリウリ。さま。あの。耳もげる……!」
「 だから言っただろう こいつの顔は慣れない内は毒なんだ 」
「ええ。無視なさるんで!?」
だ。誰かこの方の手を……カ。カヨ様! どうかお願い申し上げます!
え。な。何故そこでまた顔を逸らすんですか!? あっしの顔はそんな直視が耐えられないほど目に毒なんですか!?
どれだけ不細工なんですかあっしの顔! 自分では結構男前だと思っていたのに……
「 判ったならば邪魔立てするな 奴がまた来る前に手を打っておく 」
「いぃッ……っ!?」
クスリウリ様! 後生ですからあっしの耳を摘んだまま動か……っ!
ち。千切れる千切れるっ! 本当に誰か助けてください!
「く、薬売り! 動くなら花売りから手を離してからにしろっ!」
「 なら こいつを離したら動いていいんだな 」
「な!?」
「 そう言ったのは 小田島様ですぜ 」
「ぬ、うう……」
……もしかして。あっしはこのためだけに痛い思いを?
あ。耳に爪の跡。本当に引き千切る気だった。訳ありませんよね。クスリウリ様。ちょっとばかり血が滲んでいますが。そうですよね。ええ。そういうことにしておきましょう。
何か。最近。クスリウリ様の傍に居るようになってからというのも。生傷が絶えない気が。
「 花売り殿 」
「はい。只今……あの。オダジマ様?」
何故あっしの肩を掴んでいらっしゃるので。
ええと。それとクスリウリ様。何故そんな険しい顔をなさっていらっしゃるのでしょうか。貴方様の殺気であっしの胃に今すぐにでも穴が空きそうなのですが。
「薬売り。こいつは怪我人なんだぞ、連れて歩くなんて……」
「 話を聞いていなかったのか おれはこいつに強制はしていない 」
「しかしだな……!」
「あの。お二方様。一つ宜しいでしょうか」
何というか。これはあれでしょう。反りが合わないとかそういった話なのでしょう……そういう事にしておきましょう。もう面倒なので。
「余り猶予している場合でも御座いません故。あっし一人で行ってきた方が早いのでは」
必要なのは酒と塩でしょう。それくらいならあっしでも判りますから。持って来れますし。
「 駄目だ 」
「そうだ! 第一さっきのに襲われたらどうするつもりなんだ!?」
「あの……」
何ですか貴方方は。仲良いのですか悪いのですか。はっきりして下さい。
第一あっしが一人で行くと言った途端に意気投合するというのも失礼な話では御座いませんか。いえ。確かにあっし一人では何も出来ない未熟者ではありますが。
「 仕方ない 小田島様 一緒に来ちゃどうだ こちらとしてもその方が有り難い 」
「うおーお、行ってやる。残念だったな千載一遇の機会を逃してな!」
「はあ」
……ああ。もう構いません。考えるのも面倒ですから。
しかし。この三人組。どうやってもあっしがあのお二方の間に板ばさみになるような気が。いえ。気のせいではなく実際なっているのですがね。今。丁度。
あ。胃が……痛い。
「 開けるぞ 」
「はい」
「お、おう……」
ええ。オダジマ様。扉を開けることが恐ろしい事だというのはあっしにもよく判ります。
思わず声も裏返ってしまいますよね。判っております。
クスリウリ様。こっそりオダジマ様を覗き見て笑うのは止してください。オダジマ様。あっしを挟んでクスリウリ様を睨むのを止してください。
「 用心棒が居るのは 有り難いね 」
……クスリウリ様。あの。ですから。あっしを挟んでオダジマ様にそういう事を言うのは止して頂きたいのですが。その色々と。
「あ、あたしも行きます!」
「え。カヨ様」
「その……何か、花売りさんが可哀想で」
「……お心遣い。痛み入ります」
「あっ、あの、でも……」
「万が一。カヨ様に何かあっても。絶対にお守りしますから」
「はっ、はい!」
ええ。こんな良いオナゴに傷一つでも付けさせたら男としての名折れで御座いますよ。
先程死体や血の匂いがどうと文句を垂れていたあっしをどうかお許し下さい。
「 」
「はい」
「 気配は 」
「御座いません」
「 …… 念の為 一番後ろに 」
「承知」
「 さて 行きますかね 」
あっしが最後尾に付くと。クスリウリ様は土間の方へと歩き始めました。
その後ろにカヨ様が。少し離れてオダジマ様……ええと。慎重になり過ぎてあっしが中々前へ進めないのですが。あの。クスリウリ様も。普段よりも歩むのが速いような。
「 小田島様から離れろ 」
「いえ。あっしが並んでいるのでは」
「 いいから 離れろ 」
「しょ。承知しました……あの。オダジマ様。男二人が並ぶと歩き辛く御座いませんか」
「ん、ああ。そう、だな」
刀に手をかけたまま。オダジマ様はカヨ様の傍へと……もしや。オダジマ様。あっしを心配して下さっていたのでしょうか。
いえ。ですから何故視線が合うと顔を逸らすのですか。先程とはいかないまでも。あからさまにそうされると傷つくのですが。
「土間に行くのか?」
「 塩を借りるだけだ 」
「奴め、この期に乗じて毒を入れるつもりか……」
「オダジマ様。クスリウリ様はそのような事を為さる方では御座いませんよ」
「そうですよ! そんな人じゃありません。どうして小田島様はそんな風に言うんですか」
「ああ、いや……」
オダジマ様の言葉に。ほぼ同時にあっしとカヨ様が言い返すと。流石に分が悪いと察したのか黙ってしまわれました。
確かにクスリウリ様は少々……いえ。少々どころではない程に意地の悪い方では御座い。ます。が。
「クスリウリ様っ!」
「ひゃっ!」
「なっ、なんだ。どうした花売り!?」
クスリウリ様が手を掛けた扉の向こうの部屋。土間から。獣と血の匂い。
この屋敷に来た時には無かった残り香。
先程のバケネコと。同じ匂い。
「 居るのか この先に 」
「……いえ。気配は全く。ただ。先程まで居たのか。酷く強い匂いが」
「匂い? 何の匂いもしないぞ」
「 小田島様は黙っていろ 花売り殿 まだ近くに居るのか 」
「いいえ。それは御座いません……あんな大物が近寄れば。それこそすぐに勘付きます。例え。今から気配を消したとしても」
あんな強く大きな『ハナ』の視線を感じれば。それでなくとも。匂いは絶対に消せないもの。
それは。ヒトにも。アヤカシにも。モノノケにも。言える事に御座います。
「 そうか …… また何か気付いたら 出来るだけ早く言ってくれ 」
「はい。お引止めして申し訳ございません」
「 いや 」
何の躊躇もせず。戸を引いた先の空間は。見た目では。何の変哲もない普通の台所。
この屋敷に来た時と。何等変わらない。
しかし。血と。ネコと……この生臭い匂いは。サカナでしょうか?
まな板の上には一尾大きなものが……しかしこの匂いは。どちらかというと魚油でしょうか。となると。バケネコが此処に来た理由は……食事?
「 何処だ 」
「あたしが行きます。竈の奥にあるから……待っててくださいね。何処かに行ったりしないで下さいね」
「行くもんか。大丈夫だ……って、おい! 花売りお前勝手に!」
「あの。カヨ様……失礼ですが。油は普段どうなさっていますか?」
「え? 油も要るんですか? 確かここら辺に……」
「いいえ。そうではなく。妙にここが油臭い……っうわ!?」
「だ、大丈夫ですか!?」
「ああ。いえ……少しばかり滑っただけですので」
何だか先程から。あっしばかり怪我している気がするのですが。自業自得ですね。はい。
あんな大きなバケネコが律儀に瓶から直接油を舐めるはずありませんよね。普通倒して舐めますよね。
「誰よ! こんな所に油こぼした人! 油ちゃんとしまってあるはずなのに!」
「ああ、けしからんな。誰の仕業だ……立てるか、花売り」
「あ。ありがとう御座います」
反射。とでも申しましょうか。
差し出されたオダジマ様の手を取って立ち上がり。ふと。視線を上げた先には……今にも眼力であっしを射殺さんばかりのクスリウリ様。
あ。あっし今なら。今なら本当に一瞬で臓物に穴空けて血を吐けそうな気が……!
「ん? 手の平がやけに滑るな。油の所為か」
違いますオダジマ様。それはあっしの脂汗です。というか。後ろ振り向いてください。いえ。矢張り振り向かないで下さい。
何か静かに近寄っていらっしゃるクスリウリ様が怖い。
あ。しかし。右手に持っているのは御酒でしょうか。クスリウリ様もカヨ様のために……いえ。ではあの左手で軽々と持っているは。まさかとは思いますが。塩の瓶ですか?
見たところ。かなりぎっしりと入っているようなのですが。
「 もう少しだけ小田島様の気を引いておいて下さい 」
「あの。まさかとは思いますが……その瓶でオダジマ様を?」
「 おや 意外に鋭いところもあるんですね 」
おおおおオダジマ様! 矢張り今すぐ後ろを向いてくださいっ!
このままだと貴方様のお命が!
「 冗談 ですよ 」
「……で。ですよ。ね?」
「 そんな証拠が残ってしまうようなやり方は おれはしません よ 」
「オダジマ様! あっしはもう平気なので手を離してくださっても結構で御座いますっ!」
「そ、そうか……?」
「早く御酒と塩を持って帰りましょう!」
「あ、ああ……?」
理由はまったく判りませんが。とにかく今はオダジマ様の傍に居てはいけない事がよく判りました。
ですが。出来れば何が気に食わないかくらい仰って欲しいのですけれど。クスリウリ様。
「ん」
「え?」
あ。御酒はカヨ様が持っていかれるんですね。
では。あっしはそちらの塩の瓶を……え?
あのクスリウリ様。そこで何故オダジマ様を見ていらっしゃるのですか。
「ん」
「あ?」
ちょっと。そんな重そうなもの気軽に渡して……!
「ぬ、うおおおっ?! お、おれに持てってのか!?」
「 先程 こいつが怪我をしていると散々喚いていたのは 誰だったかな 」
「お前が持てばいいだろう!」
「あの。オダジマ様。無理をなさらずとも。あっしが持ちますから。こちらに……」
「そ、それは出来ん!」
「 気にするな花売り殿 小田島様が責任を持って塩を運んでくださるそうだ 」
「だからお前が持てと言っているんだ! なぜおれが持つ必要がある!?」
「 毒を入れる暇がないようにな 」
「う、うう……聞こえてやがったのか」
「 あれほど大声で話されちゃあ 嫌でも耳に入ってくるさ 」
「ば、馬鹿にしているなお前!」
「 おおっと 気付いていやがったか 」
「おいっ! 何処へ行く!」
「 手を打つと言ったろう 花売り殿 加世さん 」
「只今参ります」
「はーい」
「だから勝手に動くなと言っているだろう!」
……何だ。先程はわかりませんでしたが。仲は。良いんですね。多分。
演技じゃありませんよね。クスリウリ様……どうしよう。先程の事もあってあまり信用できないのですが。いえ。あっしも似たようなものなのですが。
ああ。でもあんな重そうな物をヒトに任せて……大丈夫でしょうか。
「ねえねえ、さん。薬売りさんって案外子供っぽいんですね」
「子供ですか。あっしはそうは思いませんが……あれ。カヨ様は名前を何処で?」
あっしの名は。クスリウリ様しか知らないはず。
いえ。知らないも何も。名付けたのがクスリウリ様なのですが。
「さっき小田島様を庇った時、薬売りさんが呼んでましたから」
「それは……珍しいですね」
生憎その辺りはあまりの痛さと怖さに記憶が飛んでいてあまり覚えていないのですが。
でも嬉しいです。あっしの事を心配して下さったんですね……ああ。けれど。嬉しいなんて不謹慎ですか。心配を掛けたのならもっと違う。そういったものがあるはずですね。
「 花売り殿 」
「はい……それでは。カヨ様」
「あっ、ありがとうございました」
「あっしは何もしてはいませんよ」
「でも! ありがとうございました」
丁寧に頭を下げるカヨ様にこちらも御辞儀をしてから。りん。と剣の鈴の音を鳴らして。クスリウリ様があっしに居場所を知らせると。そこにはあの重そうな瓶を持ったままの小田島様が。
ああ。クスリウリ様は塩の線を描いて居られるので。
「何で怪我をしている花売りを態々呼ぶんだ!」
「あの。オダジマ様。どうぞ瓶を……」
「だ、だからお前は休んで居ろと!」
「しかしそれでは……」
「 花売り殿 鬼門除けは出来ますか 」
「鬼門除けですか……少々お待ちを」
鬼門除けといえば。丑寅の方角にモモの木を植えて邪気を祓うというあれでしょうか。
確かヒイラギやナンテンでも代用出来たはずなので……ああ。二つともあったあった。
籠は空だというのに何処にあったかと。
ええ。実はこの打掛が特殊でして。あっしの所有物で紋に出来る物なら勝手に何でも食ってしまう……まあ。少々厄介な能力が御座いまして。他人様に迷惑はかからないので。そこは安心しているのですけれど。
いえ。あまり役には立ちませんよ。本当に何でも食いますから。
ついこの間もあっしが食っていたミョウガを横取りされまして。ああ。そうです。あれはあとで取り戻さないとまた忘れて数年経ってしまいそうですね。思い出せてよかったです。
そうそう。数年前に整理した時。生きたハトやらウマやらが飛び出して来た時はそれは驚きましたよ。いっそ花売りを止めて奇術師として行商しても面白いかとは思ったのですが。まあ。あっしの格好が格好なのでそれは止しておきました。
あとは。そうそう。少しばかり丈夫なので刀などで切りかかられても怪我をしないという利点が。これは中々便利で御座いまして……
申し訳御座いません。どうでもいいですね。こんな話。ええと……それで。何の話をしていたのやら。
ああ。そうです。鬼門除けでしたね。
「略式で宜しければ」
「 ではお願いします 塩はこのまま 小田島様に持って頂くので 」
「なっ?!」
「 ならば代わりに小田島様が鬼門除けを? 」
「だからなんでそうなるんだ!? 大体お前は……」
ああ。また話が長くなりそうなのですが……なんでしょうかクスリウリ様。いいからさっさと行けと。はい。承知しました。薬箱は此処に置いておきますから。ええと。鬼門はどちらだったでしょうか。
しかしオダジマ様に何時までもあんな重そうな物を持っていただくのも申し訳ありませんし……出来るだけ早急に済ませてしまいましょうか。
ええと。鬼門にヒイラギで裏鬼門にナンテンでしたか。
そう言えば盛塩も効果があると思ったのですが。まあ。塩の線で囲うので問題ないですよね。しかし。どれもこれもバケネコ相手に効くかも判りませんが。
「さて。鬼門はこの辺りでしょうか」
アヤカシのくせに結界など張れるのかと。
ええ。まあ。一応。ある程度は……一応。念の為言っておきますが。天狗は結界という存在そのものがあまり効かないアヤカシの類なので例え下っ端でも簡易の結界に引っかかる事は稀なんですよ。
稀と言う事は引っかかったことがあるのかと言われても。そりゃあ御座いますよ。あっしを何だと思っているのですか。他所様が張った結界をうっかり壊した事だって御座いますよ。
……申し訳ありません。決して威張ることでは御座いませんね。御尤もです。幾ら何でも今のは調子に乗りました。
まあ。そのような訳ですから。あまりこういった場には来ないようにしていたのですがね。クスリウリ様に連れてこられた以上は仕方ありません。
「さて。あとは裏鬼門に……おや。あれは」
クスリウリ様にオダジマ様。
もう此方にまで線を引きに来たのですか。
……何だか。えらく直線と呼べばいいのか。綺麗に塩の線が繋がっておりますね。
「 まだ終わっていないんですか 」
「クスリウリ様が速すぎるんですよ」
雑念交じりの結界を張っていたあっしもあっしですが。
「 向こうに行くのは構いませんが もしも線を切ったら 」
「切ったら?」
「 化猫相手に大立ち回りを演じていただきましょうか ね 」
「絶対に切りません。誓って切りません」
あのバケネコ相手に取っ組み合いなんて冗談では御座いません。命が幾つあっても足りません。目が合っただけで肝が冷えたというのに。
しかし万が一にでも線を切ってしまっては取り返しが付きませんし。少し線から離れて……。
「あ、おい。花売り!」
「はい。何でしょうかオダジマ様」
「本当に無理はするなよ。腕の治療も満足にしていないんだろう」
「はあ……ああ。あれですか。あれは大丈夫ですよ」
「だっ、大丈夫な訳ないだろう!」
幸いこの打掛の上からでしたので大した怪我もなく……ああ。そういえばオダジマ様はこの打掛の事はご存じなかったんですね。
「不可思議なのは何もクスリウリ様だけに限った事でも御座いません故」
「 おや 花売り殿には無駄口を叩いている暇があるのですか 」
「申し訳御座いません」
そうでした。無駄口を叩いている暇などこちらには無かったのですよね。
どうもオダジマ様には……こう。一等親しみを感じるというか。懐いてしまうというか。そういった雰囲気を持った御方のようでして。
え。クスリウリ様ですか。
クスリウリ様はまた別格ですよ。そういった枠の中で考える事の方が難しい存在の御方ですから。
「さて。裏鬼門はこの辺りでしょうかね……おや。カヨ様の声が」
「手伝える事があれば、何か……」
「 有り難い そこの口ばっかりの木偶の坊よりはよっぽど頼りになる 」
「あ? 誰が木偶の坊だ!」
何と言うか……不謹慎ですが。あちらはとても楽しそうですね。
いえ。別に独りで作業するという行為自体は慣れているのですが。流石に三対一だとこちらも寂しいというか。話し相手くらいは欲しいというか。
……向こうに行ければいいのですが。如何せん恐いものがあります故。いえ。バケネコでは御座いません。勿論それも恐いのですが。
「それは、何だ!?」
「 天秤も見たことがない 」
「天秤!?」
あっしは天秤が恐いのです。決してマンジュウコワイとかではなく純粋に恐いんです。もう額を刺されたくないんです。痛いのは嫌なんです。
ああ。鬼門除けが終わったはいいのですが。正直あちらに戻りたくない。戻ったら刺されるような気がする。しかし戻らなくても絶対に刺される。
……何故。何故あっしがこんなに悩まなくてはいけないのでしょうか。第一あっしが一体何をしたと言うのでしょうか。
もしや何もしないから?
いえ。しかしそれにしては……
「天秤で何をはかるっていうんだ。物の怪の重さか?!」
あの……いえ。オダジマ様。流石にそれは不可能では。大きさ的に。
「 距離だ 」
「距離!?」
「 モノノ怪との距離を測る 」
「天秤の何たるかも知らんのか。天秤ってのは距離を測るもんじゃない、重さを量るもんだ!」
まあ。確かに道理ですね。
しかしクスリウリ様やあっしみたいなものが持っている道具にそういった理屈は通用しないのですよ。ヒトが扱うモノとは違いますので。
ええ。もう。理屈なんて考えていてはいけないのです。それがどんな理屈であろうとあっしに天秤が投げて寄越されたりする過去や事実は変わりないのですから。
「お、花売り! お前も薬売りに何か言ってやれ!」
「ああ。オダジマ様……に。カヨ様とクスリウリ様」
「花売りさんっ……は、何してるんですか?」
「い。いえ。ちょっと鬼門除けを……も。申し訳ありませんカヨ様それ以上はっ!」
いいえ。決してカヨ様を嫌いになった訳ではないのです!
しかしその肩に天秤が乗っているとなると……!
「……え?」
「 ああ そう言えば苦手でしたね 天秤 」
クスリウリ様!?
一体誰が苦手にしたとお思いなんですか!
え。何を笑っていらっしゃるんですか。化粧をしていてもはっきりと判るのですが。もうあっしの事を苛める気満々ですか。ちょっ……クスリウリ様の指先に乗ってる天秤があっしの方向いて構えている!?
「え、花売りさんって天秤が苦手なんですか?」
「カヨ様っ! 後生ですからその天秤を持ったまま此方にはどうかっ!」
「「……ぷっ」」
わ。笑われたっ!
カヨ様とオダジマ様に。わ。笑われた。
「だ。だって恐いんです!」
「恐いってな、花売り。幾らなんてもそれは……!?」
「……っ!」
オダジマ様の手が。あっしの肩に触れるか触れないかというその瞬間。
金と白の色をした鋭利な何かが。とんでもない速さで。あっしとオダジマの横を通り抜けていった。ようなの……ですが。
あ。頬に血が……今ので。切れてる。
「 花売り殿 」
ああ。クスリウリ様が。呼んでいる。
しっ。しかし。振り向きたくありません。
恐らくクスリウリ様の正面を見ているであろうオダジマ様のお顔の色が優れません。カヨ様のお顔の色も少々白っぽいです。そして背中が妙に痛いのです。胃の裏側がキリキリと痛むのです。
「 花売り 」
カヨ様? え。なんでしょうか。振り向け? 振り向けと仰っているのですか?
え? オダジマ様。止めろと仰いますか。
な。え。胃……胃に更に圧迫感が。
「 」
「はっ。はい!」
振り向いて。しまいました。
クスリウリ様は。無表情で怒っていらっしゃるようでした。
隈取した目は据わっておりましたが。口元だけは化粧で笑っているようにも見えるので。その恐ろしさといったら……とても言葉には。
ああ。こっちに来いと仰っています。声には出さず。雰囲気で。
「あの……クスリウリ様」
「 鬼門除けは? 」
「おっ。終わりました」
「 そうですか では 」
「……っ?!」
また。バケネコの。気配が。
天秤も。今。傾いて……
「どうしたんだ、花売り!?」
まだ。気配が。ある。
また。こちらを伺うようにして。荒い吐息が……
「 腕を下げて欲しいのですがね 」
「し。しかしバケネコが……腕?」
よくよく見てみれば。反射的に伸ばした腕は。丁度クスリウリ様を庇うような形になっていたようで。
「も。申し訳御座いません!」
反射とはいえあっしよりもお強いクスリウリ様を庇うなんて。何て大それた事を。
今度こそ怒られる。
笑っているように見えるあの表情で迫られる。
「 いえ 別に 」
「あ。あれ……?」
「 どうか しましたか 」
「怒って。いない。んです。か?」
「 いませんよ 」
「し。しかし」
「 そんなにおれに怒られたいのなら話は別ですが ね 」
「いっ。嫌ですっ!」
「 なら いいじゃありませんか 」
クスリウリ様が指した先には。既に元の状態に戻っている一つの天秤。
確かに。周囲を観察してみても。バケネコの気配は既に消えているのですが……え。何ですかカヨ様。その何かを悟ってしまったような目は。
何でそんな可哀想な子を見るような目であっしとクスリウリ様を見ていらっしゃるんですか。
あっしの頭は確かに可哀想かもしれませんが。少なくともクスリウリ様は様々な箇所が色んな意味で常人以上なのですが。
「 化猫も ひとまずは去ったようですし 」
「化猫だと!?」
「 この天秤で距離を測ると言っているだろう 」
ああ。クスリウリ様が。あっしを見るような目でオダジマ様を見ている。
なんと表現するのが的確なんでしょうか……ええと。馬鹿を見下すような目付き?
自分で言っていて阿呆ではないかと? いえ。あっしが阿呆で馬鹿なのは今更でしょう。その。オダジマ様には申し訳ないのですが。
「物の怪を斬ると言ったな!?」
「 ああ 」
「だったらこんな悠長な事をしている場合じゃないだろうが!」
オ。ダジマ様。
それは……その。今更ではないでしょうか。
こう言っては何なのですが。結構無駄な時間もあったと思います。あっし的に。
「さっさと見つけ出して斬ればいい! それが出来んのは、矢張り嘘か」
「あの。オダジマ様」
「なんだ、花売り」
「非常に言い難い事なのですが。その。クスリウリ様はちゃんと説明しました……よね?」
「何の説明だ」
あの。もしかして聞いていらっしゃらなかったのでしょうか。
クスリウリ様結構早口でしたから……いえ。それとも戯言と思い聞き流されたのかもしれません。でも二回くらい説明したような気がするのですが。
え。何でしょうかクスリウリ様。より低脳が居たとはって……いくら何でもそれはオダジマ様に失礼ですよ。
「 言ったはずだが 」
「ああ?」
「 モノノ怪を斬るには あと 真と理が必要だ 」
マコトとコトワリ。
別種族とは言え。あっしとしては。あまり知りたいとは思わない事なのですが。クスリウリ様はそうも行かないんですよね。
「 それが明らかになるまで この剣は……抜けん 」
厄介などと。愚痴を零してはいけないのでしょうね。
あっしは吐きたくなる息を必死で押さえ。静かに剣を眺めるクスリウリ様が動き出すまでずっと。一面に広がる天秤の列を眺めて冷や汗を流し続けていました。はい。