曖昧トルマリン

graytourmaline


 掻っ切られた喉から滴る
 鮮血


 噛み砕かれた脚から覗く
 人骨


 腹から引き摺り出された
 臓物

 血と骨と肉の……真新しい匂い

 嗚呼嫌だ
 嗚呼嫌だ

 こんな鼻など
 潰れてしまえばいいのに

化猫〈序の幕〉下

「ぶっ無礼者! この期に及んでまだそんなことを! 何が物の怪だ! 不吉な!」
「……別に。モノノケ自体は不吉という訳では。御座いませんが」
「何だと。花売り」
「 花売り殿 」
「失礼。口が過ぎました」
 ああ。しまった。
 あっしとしたことが。口に出してしまいました。
 ええ。そうですね。クスリウリ様。
 モノノケは。ヒトやアヤカシとは相容れませぬが。だからと言って別に。不吉な存在ではないことは。貴方様が一番判っているのでした。
「何卒。ご容赦を」
「なっ、い……いや。そこまで頭を下げんでも」
「……左様で」
「ったく、極端な奴だ。調子が狂う」
「大体の方は。そう仰います」
 ふっと。詰めていた空気を吐き出しながら笑えば。今まであっしの前で仁王立ちをしていた……確か。オダジマという名前の……男が。少し纏っていた雰囲気を変えました。
 ヨシクニさんと。クスリウリ様は。何やら抜けない剣の話をしておりましたが。ええ。確かに剣に細工らしい細工は見当たりませんでした。
 しかし。どういった仕掛けなのかは皆目見当が付かず。オダジマ様が渾身の力で抜こうとしている様子をしばらく眺めた後で。おもむろにクスリウリ様の方を見てみました。
「お前なら抜けるのか?」
 あっしの後頭部の方から。ヨシクニさんの言葉がクスリウリ様に振り。クスリウリ様はと言えば。あっしを見ながら。仰いました。
「 まだ無理ですよ 」
「また、まだか」
「 斬るモノノ怪の 形 真 理 が揃わなければ 抜けません 」
 何とも奇妙な会話の仕方で御座いますが。余計な事を口に挟むと。またクスリウリ様に窘められそうなので。黙っておきましょう。
 それにしても。クスリウリ様の剣はそのような条件で抜けるとは。初耳で御座います。
 いえ。『ハナ』の『ナマエ』を一緒に売ったも勿論御座います。しかし。これが理由だとは……今度からは。出来るだけ『ナマエ』も調べるように気をつけましょうか。
 ああ……しかし。一度そうしたら。クスリウリ様が大層ご立腹になった事もあったのでした。
 あの時は油断してしまって『ハナ』に見つかってしまい。何とか逃げ延びたついでに『ナマエ』も判ったのでお教えしたのですが……あれは何が一体いけなかったのか。
 ……そうだ。そんな事を考えている暇はない。昔より今の方が大切です。
 バケネコの事は。どうしたらいいのでしょうか。
 今の話を聞けば。少なくともあっしには『ナマエ』……いいえ。形がもう見えてしまったのですから。言った方が。いいのでしょうね。
「面白い男だ」
「 心外ですね つまらない人間ですよ おれは …… そうは思いませんか 花売り殿 」
「あっしは……基準が曖昧な以上。発言は控えさせて頂きたく」
「 別になんと言われようが 怒ったりはしませんぜ 」
「そう。言われて素直な意見を言うと。何時だったか怒ったじゃあ。ありませんか」
「 ほう 流石に 学習しましたか 」
 ええ。学習しましたとも。
 ヒトの世の中で。思ったことをそのまま口に出すのは危ないと。身を以って教えてくださったのはこのクスリウリ様で御座います。
 いいえ。感謝はしていません。
 気に入らない答えを返すと問答無用で天秤を投げてくるお方に。感謝など出来ましょうか。
「 悪い意味で素直過ぎるんですよ は 」
「そうは。仰いましても」
「 もう少し 穢れて下さい 」
 何故か。今。再び。身の危険を感じているのですが。
 先程の寒気も。実は。原因はシロウサギなのでは……理由は。判りませんが。
 あ。もしやあれでしょうか。この寒気はあっしが虐げられる前兆を持って生まれた本能が全力で知らせているのですか?
「  」
「え?」
 ほら。少し意識を遠くに飛ばせば。シロウサギはその隙を狙って。こうして間合いを詰めるのです。
 出会った当初こそ驚きましたが。いやはや慣れとは恐ろしい。
 しかし慣れているのはここまでで御座いまして。相変らず何か。正体不明のおぞましい寒気が背中に張り付いているの。ですが。
「 おれは別に を穢したい訳じゃないんですよ 」
「シ……クスリウリ様。その。近いのですが」
 声と共に吐き出される息が耳にかかって。むず痒くて仕方がありません。ちょっ……だから。全体的に近いんですって。シロウサギ!
「 むしろ 穢れた貴方に …… 汚されたい 」
「んな?! 薬売り貴様っ!」
「 おや 盗み聞きはよくありませんぜ 」
「きっ、聞きたくて聞いたんじゃない! 聞こえたんだ!」
「 聞いてしまったのなら 同じ事 」
「喧しいっ!」
 何故。オダジマ様の声はこれ程大きいのですか。それにシロウサギもシロウサギで。ヒトをからかって一体何が面白いのか……。
 胸は苦しいし。耳鳴りもするのですが……ああ。まずい。涙出てきた。
 ええ。もう本当に勘弁して下さい。
 今のあっしの心の臓にあまり負担を掛けないで下さい。ただでさえ。血の匂いで吐き気が……ああ。意識したら。更に胸が気持ち悪く。
 あと。シロウサギ。貴方様の仰っている言葉の意味も。非常に理解し難いのですが。
 ええと。詰まり。泥塗れになって擦り寄れと言う事でしょうか……それは流石に勘弁願いたいのですが。そんな事をしたら貴方様に殺されそうです。それに。あっしはこれでも綺麗好きで御座い。まして。
 何か。意識は。まだ。はっきりしているのですが。目の前が暗く……なっ。て。
「もお勘弁ならん! 番所に突き出してやる!」
「待て! それはいかん、騒ぎになっては困る」
「勝山様」
「これはお家の一大事なのだ」
 耳鳴り……耳の裏側から。膝の裏への。気持ちの悪い浮遊感。
 頭頂部。側頭部。
悲鳴。首筋。肩。背。女性の金切り声。腰。また。頭……血の気が。引いて……駄目だ。声。支えきれ。ない。倒れる。女の声。
「お、おいっ! 花売り!」
「……」
 声が。出せない。
 噎せ返る程の血の匂いに。どうも。体が先に……音を上げてしまったようで。申し訳ありません。シロウサギ。矢張りあっしはただの足手纏いで御座います。
「大丈夫か!?」
「 それに触るな 」
 あっしを抱き起こそうとしたオダジマ様に。シロウサギが厳しい声で制止をかけて下さったようで。誰も。あっしには触れない。
 正直……そちらの方が有り難いので。
 治まる耳鳴りと共に。視界が黒から
白へ。そして。元の色……少しずつ。元に戻って来たところなので。今。抱き起こされてしまうと。また。倒れかねません。
「 今は 下手に 動かすな 」
「しかし!」
「……いいえ。少し。足が痺れただけですから」
「そんな真っ青な顔をした奴が……!」
「あの。さして珍しい事でもないので。出来れば。放っておいては頂けませんか?」
 温い床に倒れこんだままそう言えば。オダジマ様は何やらあっしの後ろに回り込み。その。後ろ手に縛られていた縄を解かれました。
「弥平」
「へいっ」
「坪内先生を呼びに行ってくれ。水江様と……ついでにこいつも看て貰おう」
「へえ、ただいま」
「いけません。それは……なりません」
「おい、起き上がるな。折角縄を解いてやったんだ、そこら辺で寝ていろ」
「外に。出ては……なりません」
 今。外に出てしまえば。バケネコの餌食になってしまう。
 身勝手と承知の上で申し上げます。これ以上死体が増えると。あっしが困るんです。
「  」
「はい」
「 外の連中は 」
「バケネコに。酷い殺され方をされたようで……」
「 化猫 か 」
「ええ。恐らく」
 未だ床に転がったままの状態で。クスリウリ様にそう告げますと。今度は何やら。剣に話しかけていしゃっらるご様子で。
 顔らしいものが付いていたので剣も喋るのかと思いましたが。別段そうでもないようで……少なくともあっしには何も聞こえません。
「 全く 役に立たない …… 」
「申し訳」
「 の事では ありませんよ 」
「……?」
「 いいから 今は横になっていなさい …… 苦手なんでしょう 血の匂い 」
「……シロウサギが。優しくて。不気味です」
「 後で酷使して差し上げますよ 山犬の花売り殿 」
「クスリウリ様が殺生なことを仰る」
 どうやら。一言多かったようで。
 けれど。クスリウリ様と話したおかげなのか。少し。気分が楽になりました。
 まだ脂汗をかいている体を起き上がらせると。クスリウリ様の蒼い瞳が。微かに笑ったように見えました。
 しかし。一瞬の出来事だったので。もしかしたら。血が戻っていないあっしの頭が見せた幻だったのかも。しれませんが。
「 …… 弥平さんとやら 外には出ないほうがいい 」
「黙れ!」
「 結界が完全じゃない 」
「そんな戯言を!」
「いいえ。今は。まだ。外に出てはなりません」
「お前は寝ていろっ!」
「……警告は。致しましたよ」
「まったくコイツ等は……」
「いいか、くれぐれも余計なことは言うな。水江様がご不調とだけ伝えて、お連れするんだ」
「へっ、へい……」
 ……それでは。ヤヘイさん。御機嫌よう。
 ああ。全く。死体を増やされて。困るのは。あっしだというの……に?
「 何か気付いたんですか 花売り殿 」
「『ハナ』が。随分と興奮してきているようで」
「 …… 殺し過ぎ ですかね 」
「通例ケモノは。血に興奮する性質でしょうから」
 あっしの場合は。無論例外ですが。
「そろそろ。先の結界も危ういのでは」
「 少々 …… 痛い目を見せないと 口を割りそうにない連中ばかりのようですから 」
「下働きが一人死んだところで。クスリウリ様の求めることを素直に喋る面子とは。到底思えませんが」
「 その時はその時 ですよ 」
「左様で」
 まったく。容赦のないお方です。
 あっしはそうではないのかと。いいえ。まさか。
 だってあっしはアヤカシですよ。容赦も何も御座いません。
 ヒトが一人や二人。どんな殺され方をされようが構いは……いえ。致しますね。出来れば血のあまり出ない殺され方が鼻には優しいので。
「塩野の屋敷にも、誰か使いを」
「殿。それはまだなりませぬ」
「何故だ?」
 遠くの。潜める必要のない気配に。全身の毛が。少しずつ逆立つ。
 足音。と。低い。唸り声……エモノは。恐らく見つかった。
 このままでは逃げ切れない。今ならまだ。戻れば間に合う……しかし。
 ヒトに対し。もう。警告は十分過ぎるほどいたしました。本来なら。最初のものですら。必要なかったのですが……矢張りあっしは。愚かなのでしょうか。
「真央様が頓死したなぞ知られては、塩野がどう思うか。塩野だけならまだしも、お上に知られては。急病ということにして、時間を稼いだほうがよろしい」
「ぬっ。ううん……」
 ああ。これだからヒトという存在は……
 クスリウリ様は。このような状況は慣れていらっしゃるのか。涼しい顔をしておいでですが。あっしには。この空気はどうも。
「 花売り殿 …… 鼻か耳 塞ぎますか 」
「どのようにして?」
 嗚呼。向こうから断末魔の。叫び声。
 と。また。血の匂い。
「僭越ながら勝山殿」
「なんだ」
「隠し立てはかえって不味いことになるのではありますまいか」
「何い!?」
「人の口に戸は立てられないもの。心象を悪くしてまで隠さなければならないことなのでしょうか」
「ならないことだ! それが判らないのか!」
「私は賛成できませんね。塩野に限らず、腹を打割って助けを求めたほうが早い。そもそも、もっと昔にそうしていれば塩野に」
「そなたの企みは分かっておる。はっきり言ったらどうだ!」
「私は殿をご心配しているだけです。勝山様こそ企みと言うのなら、私が何を企んでいるのか明らかにしていただきたい」
「その手には乗らん」
 ……いいえ。合う合わないよりも。もう。何というか。言葉が出なくなってしまいました。
 ええ。確かに。毎度のようにこんな場面に出くわしては。眉一つ動かさなくなるというのも。何やら納得いきました。あっしですら。呆れてものが言えません。
 とは言っても。大半は。気分が良くないので。あまり口を開きたくないだけなのですが。
 おや。何方かがこちらに歩いてくる音が。恐らくはカヨ様でしょうね。
「あの。灯りを……」
 襖の所為で。こちらからはその愛らしいお顔を見る事はかないませんが。その声を聞けただけでも十分で御座います。
 しかし。もう灯りが必要な時間帯になってしまいましたか。
 このお屋敷に足を踏み入れてからと言うもの。普段よりも時間が速く過ぎていくような感覚に。いえ。それとも時間が狂っていると言うべきなのか。
「あ、あれ。花売りさん。どうしたんですか!?」
「いえ。ちょっと」
「 足が痺れたと抜かしましたが どうも貧血を起こしてしまったようで …… まったく 頑丈な図体の割に内側は軟弱で困る 」
 え。ちょっと。クスリウリ様。それは酷くありませんか。
 確かに激しい動悸と。吐き気。眩暈とくれば症状としては貧血と大差ありませんが。もうちょっと。こう。あるでしょう。遠まわした言い方というか。そういったものが。
「はあ。貧血ですか……花売りさんって健康そうに見えるんですけど。人は見かけによらないんですね」
「いえ決して病気という訳では」
「 今度 当帰芍薬散を処方して差し上げますよ 花売り殿 」
「トウキシャクヤクサン……いえ。結構です」
 だからあっしは別に病気ではないんですって。
 第一その薬ってオナゴの聖薬でしょう。あっしは文盲ですが薬のことは多少は判るんですよ。いえ。判っているからこそのお言葉でしょうが。
 トウキシャクヤクサンが一体なにかと。ええと。簡単に言えば対婦人病の。下腹部の痛みや。冷え性や。勿論貧血に効果のある生薬で御座いまして。
 いえ。だからどうというわけではなく。ただ。何故体に特に問題が見当たらないあっしに飲ませようとするのかが理解できない……嫌がらせですか。そうですか。
 ……何ですかクスリウリ様。その愉快な玩具を見つめるような目付きは。
 嫌ですからね。飲みませんからね。いくらクスリウリ様の仰る事とはいえ。
「 まったく花売り殿は 舌が子供で困る 」
「誰が……」
「もう、花売りさん。そんな下らない事で薬売りさん困らせちゃ駄目でしょ」
「いえ。あの……」
「大体、そんな似合いもしない遊び人みたいな格好して子供みたいな我儘言ってるから、女の子が寄り付かないんですよ!」
 あ。何か今。心の臓に止め刺された。
 何故でしょうか。心が折れたような感覚がしたのですが。
 あれでしょうか。折角あっしとまともに話せるオナゴと出会えたというのに。こんな事を言われたからでしょうか。涙が出てくるほど言葉が痛い。
「 花売り殿 部屋の隅で泣くのは止めなさい …… まったく鬱陶しい 」
 い。今。今シロウサギ小声で鬱陶しいって!
 酷い。幾ら何でも酷過ぎる。
 確かにシロウサギはお綺麗な方です。顔も声も仕草も。どれも欠けてはいらっしゃらない。百年に一人出会えるかどうかも判らない麗人に御座います。
 だからとは言え。だからとは言えこの言い草は!
「これでも。これでも昔は。若いオナゴの方から寄って来たというのに」
「花売り……判ってる、判っているから。何も言うな」
「オダジマ様……」
 このヒトは。心根はとても優しい方なんですね。
 先程もあっしを心配してか。縄を解いてくださいましたし……まだ。このようなヒトも。この世には存在していると思うと。
「 花売り殿 」
 ああ。シロウサギ。いえ。クスリウリ様がお呼びです。しかも。声が何故か怒っていらっしゃいます。
 なんだか行きたく……
「 花 売 り 殿 ? 」
「は。はい……」
 怖い。声が静かだからか余計に怖い。今すぐ行かなければ殴られそうなくらい怖い。
 一体クスリウリ様は何を怒っていらっしゃるのですか。あっし悪くありません。絶対悪くありません。悪くないに違いありません。
「何か御用で」
「 何でもありません よ 」
「……あの」
「此処に居てください」
「でも……」
「 いいから お前は 此処に 居ろ 」
「……っ!」
 め。命令形。ですよ。
 しかも。お前呼ばわりで。眼力付きの。
「……はい」
「 判れば いいんです 」
 何故か。オダジマ様の哀れみの視線が背中に痛い。目の前のクスリウリ様の視線も胃に痛い。お願いで御座いますお二方。どうかそのような目であっしを見ないで下さい。
 カヨ様。どうか何か一言喋っては頂けないでしょうか。
 この空気。あっしには重過ぎます。
「加世。真央様のところにも、灯りを点けておいで」
「えっ……?」
「何? 早く行きなさい!」
「だって、亡骸が……」
「だから何! まさか嫌なんて言うんじゃないでしょうね! 早く行きなさい!」
「あの婆……」
「  声と口調 」
「……失礼しました」
 どうもあっしはあの婆が気に入らないので。ええ。それを声に出すのはまずいというのは承知しておりますが。中々自制が。
 おや。溜息など吐かれてどうなされたのでしょう。
 オダジマ様がカヨ様のところに。
「え?」
「私が一緒に行こう」
 ……あ。クスリウリ様が。笑った。
 珍しい事に御座います。あっしの前でも。あまりこのような笑い方はされないので。
 矢張りオダジマ様は。優しい方……今。剣が一人でに動いたような。
 いいえ。気のせいでは御座いません確かに動きました。
 何かの。合図でしょうか。
「ご隠居様」
「おぉ」
「 花売り殿 何か気配は 」
「いえ。今の所は……まだ」
「 そう か 」
「灯りを……」
「入るがよい」
「ただ」
「 ただ ? 」
「失礼します……」
「『ハナ』は。気配を消す様子が御座いません。恐らくはクスリウリ様にもすぐに判るかと」
「 何故 」
「脚の遅い弱者を狩る為に。強者が気配を殺す必要など有りましょうか」
「 確かに 」
 襖の向こうに消えた二人の背から視線を外し。火打石の音に……足。音。
 これは。間違い。ない。来る。来ている。すぐ。そこまで……!
「なんだ? 犬の唸り声か?」
「一体何処から……っ、おい。花売りどうした」
「居る。すぐ。向こうに……」
 全身の毛が。また。逆立つ。
 濃い。血の匂い……それに。噛み殺された。ヤヘイという。男の。匂い。
 まだだ。まだ。様子を伺っている。どうする。こちらから動くべきか。
「 待て  」
「……何故?」
「 まだ 動くな 」
「……宜しい。ので?」
「 『ハナ』が本当に『ネコ』であれば 貴方が役に立つ かもしれない 」
「期待は……外れると。思いますがね」
 ピンと。張り詰めた。空気。
 立ち上がったまま。動けない。否。このまま指一本でも動かしてしまえば。恐らく体は有無を言わさず障子の外へと……駆けて行ってしまう。
「おい。なにか、聞こえなかったか」
 それがバケネコを退かせる為か。此処から逃げ出す為なのかは。
 判断が付きませんが。
「いえっ、なにも……」
 出来る事ならば。今からでも逃げ出したくて仕方ありません。
 対峙するまでもなく。力量はあちらの方が上でしょう。この暑さだというのに背中には冷や汗が流れ。歯の根が合わない。
 カラダが。逃げろと言っている。
にゃあーおぅ
 向こうから。ネコの。鳴き声がする。
 震えが全身に……手の平に食い込んだ爪が。痛い。
にゃあーおぉお……
 ……逃げたい。今すぐここから逃げ出したい。
 でも。もう遅い。遅過ぎる。
 背中を見せれば……一瞬で喰われる。もうここまで付き合ってしまったのならば。後は全身の毛を逆立てて牙を向くしかない!
「ウエ。に」
「 花売り殿 ? 」
「ネコは。ウエで……ミてイます」
 ……怖い。恐いに決まっている。しかし。腹を括るしかない。
 忍ぶ足音。二人分のヒトの足音。襖の音。殺された血生臭い吐息と唸り声。
「な、なんだ小田島。お、おどかすな」
「どうかなさいましたか」
「なんでもない」
 鼻から吸う空気。怯えた声。煩い鐘の音。煩い。忍ぶ足音。煩い。
 何も聞こえない。
 血の匂い。煩い。生臭い。邪魔だ。
「弥平はまだか。なにをそんなに時間が掛かっておる」
「先方にも都合があるのでしょう」
「まだヨウスを」
「こちらは大事なのだぞ。都合なぞどうとでも」
「大事だと。言ってはならぬと言われたのは勝山殿ですよ」
「ウカがって。イる」
「うっ……ぬ。それにしても、遅すぎるだろうが」
 雫が落ちる音。ウルサイ。鐘の音。足音。血の匂い。水音。鐘の音……水の。音?
「……おっ? うん?」
「……?」
 赤い。水のおと。
 におい。
 チのニオい。
「 花売り殿 」
「……キた」
「 一体何処に 」
「小田島。なにか見なかったか」
「ウエ……ムこうに」
「 獲物が 」
「なにか、と言うと」
「 落ちて 」
「猫だ」
「 くるんだ 」
「この屋敷に」
 赤い。紅い。緋い。朱い。アカい……でも。クロい。
 チの。シタタる。オト。
「猫はおりませぬぞ、お…っ!?」
「……ソコ!」
「 そうか 」
 指差された先。蹴られる音。ヒトの声。倒れる音。
 ああ。殺されたエモノが……
「カエって……キた」
 回る。回る。落ちる。潰れる。これは。内臓が潰れた音……間……女たちの。金切り。声。
 嫌な。血の匂い。耳が破れるような。音。
「 これは下働きの 」
「……ヤヘイさん。ですね」
「 おや 花売り殿 正気に戻りましたか 」
「あっしは何時でも。正気ですが?」
「 どうだか 」
 何故笑うのですか。別に可笑しい事でもないでしょう。
 今は。少々神経を集中させていただけですよ。いえ。まだ。していますが。
 だって。まだ。バケネコはあっし等のすぐ近くで。息を潜めて命を狙っているんです。血生臭い息を吐き出して。低く唸りながら。あっし等の様子を伺って。いるんです。
「弥平!」
「何故?」
「ど、何処から……」
 ざわり。と。全身が粟立つ。
 狙われている。殺気を隠そうともせず。牙を向いて威嚇している。
 ……威嚇?
 何故に。そのような事をする必要が。何故脅しつける必要があるのでしょう。
「 花売り殿 」
 どう判断しても強者はあちら。狭い部屋の中で喧しく騒ぎ立てているこちらではありません。あっしがヤマイヌだから。いや。違う。実力には格段の差。勿論。此方の方が劣っているという意味で。
 警戒は。多少はするかもしれない。モノノケとアヤカシの違いはあれ。元を辿れば。あっし等はネコとイヌなのですから。
「 花売り殿 」
 しかし。何故唸るのか。何故これほどまでに威嚇しなければならないのか。
 恐怖からでないとしたら。この感情は……怒り。それとも。怨み。
 バケネコならば。成り立ちから考えても恐らくは後者。
 ……駄目だ。判らない。そもそもあっしには頭を使った作業が向いていない。
「 花売り殿 」
「あ……失敬。何か」
「 今のうちに結界を張る 勝手をしないよう見張っていろ 」
「承知」
 いつの間にやら。しんと静まっていた室内で。クスリウリ様の声だけが通って聞こえました。
 部屋の内は。壁の両側に結界としての札を投げつけて行く音で埋まり。外では。ようやくその音が結界と気付いたバケネコが。奥へ。奥へと。
 まるで。剣の鈴の音を追うように。して。
 最後の。部屋を。
「 一人は 危険だ …… 皆と一緒にいろ 」
「お前なんという口のきき方をぉ!?」
 ……何だ。あの奥の部屋は。
 見目は他とよく似ている。しかし。ならば何故。
 ヒトが通った匂いが。壁の向こうまで続いているのか。
 お屋敷にはよくあるという。隠し部屋か通路……に。しては。妙な。
「大丈夫だ。奴は入ってこれない」
「奴?」
 地面が激しく揺れる。しかし。それだけ。。結界はどうやら。間に合ったようで。
 しかし結界で作られた小さな檻の中に立て篭もるネズミが気に食わないのか。そのすぐ外で。大きなネコが酷く暴れ回って……
「どういう仕掛けか知らないがそのカラクリ、暴いてくれるっ!」
「ッ……開けるな!」
 開けられる戸。オダジマ様を庇った。その右腕に食い込んだ。
 黒い牙。と。絡まった黄金の視線。
「……っ!」
「 っ!? 」
「とッ……戸をっ!」
 震える声で叫ぶや否や。畏れを振り払うように力任せに腕を引き。バケネコの鼻頭を殴り付ける。
 痛みを感じたのか。黒い頭は大きく振られ。反動で。柱に。頭を……
「花売り!」
「花売りさんっ!」
「痛っ……ッう」
 このまま頭が割れるかと思う程の痛み。
 何度か。経験したことのある。ぐるぐると回る世界。
 ああ。これは。
「おい! 大丈夫か花売りっ! 花売り!」
「……きた」
「え?」
「こぶ」
「コブ?」
「でっかいタンコブ。出来た……痛い」
「こ、こぶで済んだのか?! あんなよく判らん奴相手に!」
「舌……痺れた。頭。痛い」
 回らない舌で涙混じりにそう告げると。オダジマ様が酷い事を仰いました。
 済んだって。済んだって何ですか。タンコブって痛いんですよ。とても。打ち所悪ければ死んでいましたよ。今の投げられ方。あと勿論腕も痛いです。
「 気配が去ったな 」
「なんだ、あれは……!? 姿形は、よく解らんかったが」
「 言ったろう モノノ怪だと 」
 鈴の音を連れて。クスリウリ様が皆に向き直り。本日何度目かの忠告をなさいました。
「 結界の外に出れば奴の餌食だ 結界もいつまでもは持たん このままでは早晩 」
 外の
「この」
 死体のように
「ように」
 なってしまう。
「なる」
 それはヒトもアヤカシも。
 クスリウリ様も。あっしも。同じ事。でしょう。
「 …… ところで 花売り殿 」
「何。でしょうか」
「 言い付けは きちんと守ってください 」
「あっし。いいつけ。守りませんでした?」
「 おれは 見張っていろと 言っただけですよ 」
 ……ああ。そう言えば。
 手を出せ。や。守れ。なんて。一言も仰いませんでした……が。
「オダジマ様はあっしの縄を外して下さいました」
「 別に 貴方も自力で どうにか出来たでしょう 」
「行動如何ではなく。その心根に対しての恩義に御座いますっ」
「 …… まあ いいでしょう 」
「それよりも」
「 それよりも なんですか 」
「クスリウリ様にも。お土産です」
 どこか呆れたような。でも。怒ったような物言いのクスリウリ様に。右手に掴んでいた黒い毛を渡すと。なんとも言えぬ顔をされて。あっしを見下ろしました。
「 この量 毟ったんですか 」
「毟りました」
「 よくもそんな余裕がありましたね 」
「まさか。無我夢中で」
「 それにしても 小さな禿が 出来そうな量ですね 」
「気遣う余裕がありませんでしたので」
「  …… ネコは七代祟るんですよ 」
「天狗の血筋に七代って。一体何千年祟る気ですか」
「 さあて しかし 元を斬ってしまえば同じこと それに 」
「それに?」
「 貴方に嫁ぐ女は一生存在しません 安心して下さい 」
 ……は?
 ええ。何ですかそれ。この状況で仰る台詞ですか。というか。あっし一生独り身ってことですか。要りませんよそんなお墨付き。
 別にヒトのオナゴを伴侶になどと考えた事は御座いませんが。いえ。好きですよ。大好きですよヒトのオナゴは。可憐で温かくて柔らかくて良い匂いがする……大体ヒトのオナゴが好きでなければ同属の雄になど化けましょうか。
 まあ。確かに。どちらかというと天狗は。婚姻とは遠い場所を彷徨ってはおりますが。しかしそれは恋愛をしないという訳ではないんですが。
 はあ。ではあっしが恋慕した事があるかと。
 ……いえ。それは。まだ御座いませんが。
 ならば黙れと仰いますか。いえ。だって……申し訳ありません。はい。黙ります。
「 どちらにしろ モノノ怪は 斬らねばならん それが どんな存在であろうと 」
「……承知。しております」
 鈍い痛みを抱えるあっしに意味深な笑みを残し。クスリウリ様は呆然としているヒトの子等に。朗々と口上を述べ始めました。
「 モノノ怪は 斬らねばならん しかし 退魔の剣を抜くには条件がある 」
「……」
「 形と真と理を 剣に示さねば 抜けぬ 」
「……まずは。カタチ」
 『ハナ』の『ナマエ』
「 そう …… これは 化猫だ 」
 再び。りんと澄んだ鈴の音。そして拍子木のような音に。皆の視線が集まる。
 あっしもまた。その一人。
 ああ。しかし。だからクスリウリ様には必要だったのですか。
「 モノノ怪の形を成すのは 人の因果と縁 よって 皆々様 」
 何故。バケネコが生まれ。
「真と」
 何故。バケネコが怨んでいるのか。
「理」
 それを必要と。していたのですね。
「お聞かせ願いたく候」