曖昧トルマリン

graytourmaline

Shiny New

 たった数年、ものによっては数ヶ月の間隔で目まぐるしく塗り替えられていく街の景色にも長年変わらないものがある。行政の管理下に入っている公園などはその最たるもので、剪定された黒い木々と波打つように隆起する根を押し退けるようにして真っ直ぐに舗装された石畳は十分な手入れを受けながら何十年も前からそこに在り続けており、散歩の延長として久々に敷地内へ足を踏み入れたは夏の夜に不釣り合いな緩い笑みを浮かべた。
 ゆったりとした歩調を保ったまま頭上から降り注ぐ極彩色の光とビルの明かりを掠めながら空を見上げ、煌々と輝く街路灯に目を眇めてから視線を水平に戻すと等間隔に設置されたベンチに腰掛けたまま項垂れる幾人かの男性、稀に女性が目に入る。彼等は皆、身なりこそ整っているが纏った雰囲気は澱んでおり、誰一人例外なく頭を抱え苦痛に晒されたかのように呻いていた。
 浮浪者に雰囲気は近しいがそうではない、仕事終わりに酒に浸かった脳を頼りない月明かりに晒し酩酊をやり過ごそうとしている訳でもない。彼等が何者なのか、何故嘆いているのかをは知っている。
 これもまた昔から変わらない光景の1つであったからだ。
「この辺りだと、カラスさんの縄張りだったかな」
 カラス銀行中央支店の地下で行われる違法賭博。
 未だ青年と呼ばれる時代に足を踏み入れ、価値観の相違から一度もテーブルに着く事なく縁を切ったあの施設はこうして自分が老いても健在かと若干呆れがちに口の中で呟き、感興がうすらいだと表情で語りながら気怠げに踵を返す。そのの鼻孔を夜風に乗った香りが引き止めた。
 ウッディな香りがベースにあり、スパイシーだが少し甘い。ただ、あの日とは異なり燻製に似たものも混ざっている。やや重い印象を受けるのは湿度と気温の関係からだろうか、それとも自分が彼を知り、細部まで強烈に脳へ焼き付けている所為だろうかと振り返り、いや違うと静かに訂正した。
 獅子神、第三者を経由して知った青年の名前がの思考に爪を立て、強引に作り出された隙間から掻き分けるように這い出してくる。次のアクションを起こせず立ち止まったままのと同様に、目の前の影も予期せぬ出会いに狼狽えているようだった。
 夜のはじめとはいえ人も疎らで飾り気のない公園内の事である、獅子神もまた、まさかこんな場所でに会うとは予想していなかったのだろう。周囲を観察する視線、進路と退路を確認する僅かな仕草、どうする事も出来ずに中途半端に彷徨っている傷一つないように見える右手、そこから微かに拾える燻製香。成程、どうやら彼は後輩のようだとは結論付ける。
 年長者として夜の挨拶でもしようかとが考えた矢先、背後で幾人かが立ち上がった音をきっかけに穏やかな好々爺から不敵な因業爺へと大袈裟に表情を変化させる。残念ながらそれで警戒態勢に入ったのは目的の人物達ではなく目の前の獅子神だけであったが、これ程あからさまな牽制を理解出来ないからこそ背に佇む彼等は公園で処刑までの時間をただ浪費するしかない立場に落ちぶれたのだろうとは内心で酷評した。
「こんばんは」
「……どーも」
「ウエットティッシュ、使うかい?」
 墨流しのように漂う剣呑な雰囲気に似つかわしくない二言目に獅子神は表情は見せずとも分かりやすく疑問を感じた態度を見せ、は挑発じみた笑みを意識したまま視線でのみ目前の右手を指し示す。隠されてはいるが手の平には大きな傷跡があり、そこからイカサマの匂いが漂っていた。
「それは良くないから早急に隠滅するべきだ。勝ったのなら、尚更ね」
 銀行が主催するどのようなゲームの何に使用したのかはにも分からない、ただ、彼の右手から香るそれが透明蛍光塗料の匂いである事だけは知識として知っていた。
 イカサマに使用する諸々の小道具の特性を教えてくれた古い友人の眼光鋭い顔を思い出しながら昔よりも大分匂いが和らいだと技術のこと進歩に触れ感慨に浸っているの正面で獅子神は小さく唸ってから一歩、また一歩と距離を詰める。街路灯の下までやって来た黄金色は相変わらず恒星のように輝いて見え、モデルの経験がなければあまりの眩しさと己の中から湧き出る羞恥にみっともなく顔を覆っていただろうとは大部分の感情をすり替えて皮肉げな笑みに映るよう口端を吊り上げた。
 その笑みの理由が分からない獅子神は不穏な雰囲気を纏ったまま少し上背のあるを見上げ正面から怒気をぶつける。目の粗い紙ヤスリを素肌へ強く押し付けられるような感覚と機嫌を損ねた幼獣のような威嚇方法には益々笑みを深めた。
「賭場荒らしで引退したって噂、嘘じゃねえのかよ」
「困ったな、荒らして引退した訳じゃないんだけど大変な誤解が広まっているみたいだ」
「謙遜に見せかけた自慢が一番ダセェんだよ」
「君のように慎ましく振る舞うつもりはないよ。出禁になったと訂正したいだけだから」
「へえ、何やらかしたんだ」
「ものを語るにはそれに相応しい場所があると思わないかい?」
 夜の中に潜んでいた淀みを火口に焦がすような空気が2人の間に流れ始め、喜色と怒色の違いはあれど猛獣同士の戦闘が始まる気配をようやく悟った背後の人間達が距離を詰めるために動かしていた足を止めた。
 進んで厄災に巻き込まれに行く覚悟と胆力がないのなら法外のギャンブルなど手を出すべきではなかったのにとは静かに笑みの種類を変え、視線と顎で大通りの方角に行こうと獅子神に語る。
「近くにカジノバーがあるはずだ。ひと勝負お相手願おう、勝利の余韻は早く醒まさないと二日酔いよりも酷いものになってしまうからね」
「引退した癖にとんだ自信家だな。いいぜ、惨めったらしい吠え面のかき方を思い出させてやるよ、老いぼれロートル
「いい顔をするね、それでこそギャンブラーだ。ご褒美に君には似合いの口枷を見繕ってあげようか、仔犬君ルーキー
 挑発と共に周囲の者をすり潰すような禍々しい気配を放ちながら連れ立って歩き始めた2人は悠然とした足取りで公園の敷地から抜け出し、統一感のないネオンの光に晒されながら大通りに出て細い道へと入り、何処にでもある雑居ビルのエレベーターに乗り込む。
 振り返りざまに背後の最終確認を済ませたは狭く息苦しい昇降用の箱の中でごく小さく一息つき、次いで獅子神をギャンブラーとして軽く検分した。
 警戒はしているようだが度合いは非常に緩い。元が付くとはいえ相手がギャンブラーだと知りながら誘いに乗り文句を言わず連立つのは、の実力をブランクを含んで見抜いているというよりも一方的に識っている元有名人がいきなり赤の他人を嵌める事はないだろうという油断からなのだろう。そのように演じて付け入る機会を狙っている可能性も考慮したが先程の出会い方を思い返すに違うだろうと判断を下した。
 総評、危機管理能力はやや過剰ながら脇は甘い、良く言い換えれば見る目と才覚と行動力が伴っているので経験不足を補う環境さえ整えれば伸び代が十二分に見込める青年、それが元ギャンブラーのから見た獅子神だった。
 謀り欺き嵌めて騙す、イカサマ上等と自分以外の全てに対して中指を立て牙を剥き出しにする対人戦が主流のカラス銀行に出入りするギャンブラーにしては珍しく分かりやすいタイプで、態度こそイキっているが本来の意味合いでの粋ぶる性質が滲み隠せていない子だという感想をは飲み込む。代わりに、エレベーターを降り先導する年長者を疑う様子を欠片も見せず闘争心を糧に輝く青い瞳を見据えながらウエットティッシュを差し出し、そういえばと今更のように切り出した。
「名乗るのが遅れてしまったね。だ」
「……それ、本名か?」
「うん? うん。そうだよ、本名なんだ」
「そうかよ。オレは獅子神敬一」
「獅子神君か、よろしく。ああ、2人共初めてだけど初心者ではありません」
 フルネームを知ったという単純極まりない動機から浮上しかけた感情を踏み出した一歩と共に踵で押し込めたは、初めて名前を知った風を装い使い慣れた笑顔を形作る。
 入り口に差し掛かった時点で2人を出迎えったスタッフが世代も表情も異なる美丈夫に目を奪われるが、が笑みを深めると仕事を思い出したのか若干紅潮しながらも丁寧な動作で新規客を案内した。
 重厚な雰囲気を払拭し明るく清潔な店内にはバーカウンターを追い遣るように複数のテーブルが所狭しと設置されており、ポップミュージックの合間を縫うようにしてあらゆる場所から歓声や溜息が放たれている。リングゲーム用のテーブルではポーカーの流れについての説明会が開かれており、初心者でも気軽にカジノを楽しめる場所をコンセプトとしている店舗のようだった。客層は若く、従業員を含めこの店で最も年嵩なのは自分だろうとはなんの役にも立たない見当を付けた。
 拙い技術ながらトーナメントで白熱するポーカープレイヤー達と、勝っても負けても笑顔を絶やさないルーレットの参加者、運を天に任せ大勝負に出たブラックジャックのテーブルを横目にと獅子神は休憩用に設えられたソファに腰掛け、ゲームの種類やチップ、ドリンクの説明を一通り受ける。
 敷居の高さを感じさせない気安さに見合ったチャージ料だが金額でゲームの質が大きく変わる訳でもないので2人は特に気にするでもなくこの店のルールに軽く頷きながら了承の意を見せ、最後に付け加えられた言葉にのみ強い反応を示した。
「申し訳ございませんが、ただいまポーカーのトーナメント中でしてリングゲームのテーブルもご用意出来ない状態になっております。ポーカーを希望される場合はテーブルが空き次第となってしまいますが、ブラックジャックとルーレットならばすぐにご案内させていただけます」
「その2択ならブラックジャックと言いたいところだけど、あのテーブルに水を差したくないなあ。獅子神君はお酒飲めるかい」
「オレは外で酒は飲まねー主義なんで遠慮しとく。カウンターでただ待ってるってのも退屈だな、ルーレットで暇潰すか?」
「ルーレットは、ボクはあまり」
 渋い顔をして言い淀んだの声は勝敗を決したテーブルから湧いたどよめきに掻き消されてしまった。大勝負に出たプレイヤーが見事に勝利を掴み更なる博打に出たのが立ち上がらずとも分かり、確実に熱が上昇している。あの様子では手持ちのチップが溶けるまで冷める事はないだろう、そう判断したのはも獅子神も同じであった。
「人生の先輩らしく、カジノのマナーくらいは守らないとなあ」
「……そうだね、未練たらしい真似はボクの流儀に反する。獅子神君が潰される暇になってしまうのはとても心が痛むけれど」
「随分大きな口叩くじゃねえか。やる前から勝つ気かよ」
「ルーレットならボクは負けない。だから、あまり勝負事にしたくないんだ」
 穏やかながらも絶対的な自信に裏打ちされた断言に獅子神は若干警戒の色を見せたが遊ぶゲームが決まったなら早速とスタッフが割って入ったのでそれ以上の接触は避けられた。
 テーブルへ案内するスタッフの背中を追い、先にグループでゲームを楽しんでいた女性達に会釈をすると小波のような黄色い声が上がる。は勿論、獅子神も外見に寄せられる行きずりの好意に過剰なサービスを振る舞う人間ではないようで、適当にあしらいながら高額紙幣を嫌味にならないくらいの慣れた手付きでテーブルに置いた。
 先に20枚のルーレットチップを受け取った獅子神と、そして女性客達の視線が同じ額の紙幣を静かに置き額面を指定したに注視される。ディーラーだけは稀にそのような客が来るのか、呆れがちな視線を半ば隠しながら指先で摘みあげた1枚のチップを豪胆な年輩客の前へ差し出した。
「ハッタリもここまで来ると清々しいな」
「光栄だ。見栄でオールインをする程、年若く見て貰えるなんてね」
 含み笑いをするの前でディーラーがプレイスユアベットと賭け開始の合図を出し女性客達が戦略も法則もなく思い思いのベッティングエリアへチップを置く。インサイドもアウトサイドもお構いなしで春に咲く色とりどりの花のようにチップが置かれ、好きな数字や誕生日や記念日を口にしながら手を動かす姿はカジノに不慣れながらもゲームを楽しんでいる様子が見て取れた。
 逆に獅子神はというと運要素が強いゲーム故に先人の知恵を借り既存の法則に則って手堅く攻めるつもりなのか、ファースト・コラムに1枚だけチップを置くと腕を組んでしまう。そうして、碧い視線が動こうとしていないを射抜いた。
「まだ賭けねえのか」
「ボールが投入されてからじゃないと分からないからね」
「まるで入る場所が計算出来るような言い草だな」
「……うん。ご愁傷さま」
 獅子神の言葉に被さるようにされたスピニングアップの宣言と共に返事や相槌ではなく独り言として呟いたは迷いを一切見せないまま手元のチップを00と白く印字された場へ置き、ディーラーから賭け締め切りの合図がされてから腕を組みながら顎に触れて、未来を見据えるかのように薄く目を閉じながらボクの一人勝ちだと続ける。
 気が早いと感想を抱きながらも今までの強気な発言が引っかかるのか、獅子神は13箇所ずつに塗り分けられた赤と黒、そして2箇所の緑の何処に落ちるのかすら分からないボールを黙って追い、やがて停止したウィールを見下ろしながら喉から絞り出すかのようにマジかよとだけ口にした。
 白いボールが指定し筒状のマーカーが置かれたのは00の上、だけが唯一のチップを賭けていた数字だった。
 配当36倍の一点賭けに勝ち自分達の事でもないのに歓声を上げ笑顔でスゴイヤバイを連呼する女性客に大した事はしていないと無言の愛想で応え、偶然だろうと言い聞かせるように払い戻しをするディーラーに向き直ったはカラーアップとチップの整理を願い出て受け取った全てのチップを1枚に纏めるよう指定し目を剥かせる。
 アッシュグレーの下に隠していた勝負師の顔を覗かせたはチップを指先で手前に引き寄せてから顔を動かさず獅子神を見た。勝負をまだ続けるかという無言の問い掛けに獅子神は一度視線を逸らし、自身の中の迷いと戦うために強く目を閉じてから緑の布が張られたテーブルを見下ろす。
 長い指先に摘まれたチップが先程と同じファースト・コラムに置かれ、唇を引き結んだまま力強い視線で続行を態度で告げられたは組んでいた腕と張り詰めていたものを解き、ボールを投げるディーラーの手元に視線を移しながら頷いた。
「うん、良い返事だ。勉強熱心な君に敬意を評し手本を示して差し上げよう、きっと残りは少ないだろうけれど時間が許す限り貪欲に追求しなさい、新人君ルーキー
 は歴戦のギャンブラーから学びの場を与える教師のような態度へと大きく変化をさせながら柔らかい口調と声色で優しい笑みを浮かべる。
 ウィールの速度、投入のタイミング、台とディーラーの癖、歌うように大雑把な単語を並べながら年齢を感じさせない手が白抜きされた数字の上へ滑り、一切の躊躇いを見せないまま1枚のチップが物静かに置かれる。たった1ゲームの勝利だというのに、そのチップが再び増えると確信を持たせる空気に異を唱える者は誰もいなかった。