Shiny New
開店時間から15秒しか経過していない、その日初めての客としては件の店を訪れた。正規の客としてこの店の扉を開くのは初めてだなと含ませた笑みを隠さないまま敷居を跨ぐと、何とも間抜けな面を下げた店主兼友人がいらっしゃいませのイの字のまま唇を固め声を出す事なく凝視する。
「鹿とキョンのステーキをお願いしてもいいかな、バターを使わずに炭火だけで。飲み物は烏龍茶のアイスを」
「おっ、ま! 来るなら、連絡を、入れろ!」
「もう営業時間中だろう、あまり騒がしくするものじゃないよ」
「要返信って付け加えなかったオレが悪いのか? 獅子神さん今日来る? きっと来てくれるよな? 定休日以外毎日来てるから来るよな?」
正論だがのあまりの言葉に店長は絶句し、エプロンを隙なく着込んだ従業に向けて疑問の渦を放ち始めた。対して、放たれた方は澄まし顔を崩し投げやりな口調ながら誠実な返答をする。
「30分以内に来なきゃ駄目じゃないスかね。どーもさん、今日もイケメンっスね憧れます」
「ふふ、ありがとう。この間とワックスを変えたのかい? 今の君もとても魅力的で格好良いよ、ああ、でもネクタイに手を加えた方がもっと格好良くなるかな。少しアレンジしても構わないかい?」
「あざーす。流石元モデルさん、テンチョー全然気付いてくれなかったのに。ねーねー、このワックスどうすか」
「ツヤを抑えた感じがナチュラルで、店に雰囲気に馴染んでいいね。今のワックスが君の髪に合っているのならレディース向けのスティックタイプも予備として1つ持っていると何かと便利だよ」
「うー、レディースかあ」
「おじさんだけどボクは無香料タイプを持ち歩いているよ。手が汚れないから出先で重宝するんだ」
「さんが使ってるならオレも使ってみます!」
「誰かオレの味方に付いて安心させろよお!」
熟成庫から鹿とキョンの肉を取り出しながら騒ぐ店主を筆頭に騒々しい空気が絶えない系統に店舗を鞍替えしても十分やっていけそうな気がするが、客層が大きく変わる上、そもそもオーナーの意志に沿っていない営業は出来ないだろうとは若い従業員の曲がっていたネクタイを直した後であの日と同じ席に座る。
居酒屋と異なり少しばかり洒落たグラスに入った烏龍茶を一口飲み、抱えた不安を全て口に出す店主を観察しながら炭火で焼かれる肉の様子も同時に観察する。獅子神さん、獅子神さん、獅子神さんと何度も出される名前には胸の内を確認するも、特に嫉妬らしい感情は浮かんでこなかった。
「てか、テンチョーから連絡行ったの昨日の夜なのによく来ましたね。さん即断即決するタイプには見えなかったんで意外っス」
「うーん、実は、何も決めていないんだ。ボク自身がどうしたいのかすらね」
あんなあからさまに一目惚れした事を隠せるとは思っていないは素直に無計画だと白状し、目を丸くする2人の反応を見て困ったように指先で頬を掻いた。
「そもそも、彼がこの店に来る理由すら、ボクは知らないから。だからまずは知る事から初めようと思って来たんだ」
「いや、向こうも一目惚れだろ」
「勝手に推測して断言するのは良くないね」
ここ数日ずっと獅子神を見てきた店長の言葉をは容易く跳ね除け、それよりもと外に続く扉を見る。直後来店した2人組の客に、今まで騒いでいた店長と気を緩めていた従業員が姿勢を正して応対し始めた。
もう一口、烏龍茶を飲んで腕の時計を確認し、30分かと呟く。ステーキを食べ終えるまでに彼が現れなければ潔く帰ろうと決めてテーブルに置かれた白い皿と扇状に盛られた2種類の肉を見下ろす。
香ばしく焼かれた表面から火が十分に通りながらも鮮やかな紅色を保った中心部までのグラデーションが美しい。彩りを添える新鮮な野菜を囲うように濃い赤のソースが垂らされている。ただ良い素材を焼くだけでは辿り着けない一皿を前にナイフを取り、口に運んで、舌の上に広がる旨味を噛み締めた。
とろけるようでも、ほどけるようでもない。箸で切れるようなと持て囃される料理とは真逆の力強さがしっかりと残った料理。脂は乗り始めているがそれでもパサつきやすい鹿をここまで上手く料理に昇華する技術に関心しながら丁寧に食べ、同じようにキョンにも手を付ける。
ぽつりぽつりと現れる客には意識は向けない。待ち人が来るかもしれないと扉が開く度に顔を上げ、期待に胸を弾ませながら食事をするのは彼の美意識に反していた。寧ろ、平然とした表情を装っている店内の2人の方が不安と興奮から浮足立っているように思える。
そうして、きっかり30分かけて皿の上を綺麗にしてからはごく自然に席を立った。獅子神は来なかったが落胆はしていない。予定も決めていない、連絡先すら知らない間柄なのに会えると高を括る方が間違いなのだ。
席の空きを待つ客が出て来ているというのに未練がましい視線を送ってくる2人を視線で制し、美味しかったと伝えて支払いを済ませると淡々と店を出る。外は、あの日と同じように何も変わりはしない。
逃げる必要のなくなったは車を停めた場所と反対方向に足を運び、気分転換に光と音が溢れる大きな交差点で無秩序な屋外広告を見上げる。夜色のカンバスを奪い合うように照らし出された広告の中には実力派俳優となった先輩や、初々しさを武器にのし上がろうとする後輩達の姿が見て取れた。
彼等のファンであろう年若い女性達がその内の一点を指差し、黄色い嬌声を上げる。可愛い、格好良いというごく短く普遍的な言葉に込められた強い感情は何時の時代も変わらないらしいと彼も同じ方向を見上げた。タレントを経由して俳優に転身した同期が、近々公開する映画の主演として宙を見据えている。
「やっぱ若手よりイケオジだよね、映画絶対見に行こ」
「応募した試写会当たるといいなあ」
何も特別ではない言葉。その中に込められた限りない熱意と憧れを煌々と全身から放つ女性達から離れるように、は青に変わった信号に従い歩き出し、人工の光に溢れた夜の中で目を眇める。
大舞台に上がる者が輝いているのではない、彼女達こそが舞台に上がる者に光を照らす側なのだ。それを受けて初めて、彼等は、過去のは光を照らし返す事が出来る。
都会の街の雑踏、何処までも続くように見える車の列、分刻みから数時間に1本までの全ての電車の中、田舎のコミュニティ、学校の休み時間、至る場所にある娯楽施設、静かな家のテレビやパソコンの前、何処にでも連れて行ける手に収まるサイズの小さな端末の先。それを持つ人々こそが太陽だ、そして彼自身は太陽がなければ凍えてしまう月であり、地球であり、惑星であり衛星である。下手な比喩だが、これが彼の持論だった。
「世界はいつだって眩しい」
だから、大舞台から降りた自分もまた、淡いながらも彼等を照らす一条の光として在りたい。今はまだ照らすべき相手は見付けられないが、いつか必ずとは信じている。
夏の盛りを迎える夜空を見上げは前髪を掻き上げる。月しか見えない空の下を、彼は迷いのない足取りで進み始めた。