曖昧トルマリン

graytourmaline

Shiny New

 恋の熱と甘さに酔って逆上せられる程、という男は若くなかった。彼は自分が壮年を過ぎた年齢だった事にこれ程感謝をした事はない。
 名前も知らない青年と出会った日から一晩、また一晩と静かな夜を越えても感情は燻ったままだったが、それを上回る羞恥が重い蓋となり進展に繋がる行動までには至らなかった。少なくとも表面上は、の日常生活は以前と何ら変わりなく流れている。
 モデルとして人並み以上に成功していた僅かな期間と人には言えない仕事で稼いだ金銭を元手に複数の不動産投資で不労所得を得て、諸々が不自由しない程度の田舎で独身貴族として悠々自適な暮らしを実現させていた故に、彼の変化に迷惑を被る人間はいなかった。
 アーリーリタイアの成功者として長い余生を送るにとって狩猟とは明日を生きていく糧ではない。筋トレに適した肉の確保という実益と、害獣駆除且つジビエの供給という利他を兼ねた、ただただ鹿を撃ちたいという趣味の延長線に存在するだけのものだった。
 もしも猟師が本職ならば確実に支障を来して貯金を切り崩す羽目に陥っていただろう。そんな仮定を考えては打ち消す日々が続いたが、しかしその程度で収まっているのだから幸運だろうと誰にでもなく言い聞かせ、トレーニングに没頭する事で無駄な思考を削り感情を抑え込む。
 今日も若干オーバーワーク気味の日課を終えたはフォームチェックの為にスマートフォンで撮影した動画をパソコンで確認し、難しい顔でモニターを睨んだ。トレーニングのリズムが崩れており、それが如実に数値として現れ始めている。過度な負荷と喉を通らない食事、体重が減っている原因は分かりきっているとデスクに肘を付いて眉間に親指を当てていると、膝の間に柔らかく大きな毛玉が控えめに突進して来て鼻笛を鳴らし始めた。思わずその態勢のまま笑ってしまうくらい愛しい彼の唯一のパートナーが膝に挟まれたまま首を傾げる。
 黒虎毛の、見た目からは恐らく甲斐犬と判断出来る犬は狩猟ではなく愛玩動物として飼っており、つい先程まではが黙々とトレーニングメニューを熟す横で盛大なヘソ天を晒しながら待機していた。凛々しいのは顔立ちだけでのんびり屋で人懐こく若干引きこもり気味の怖がりな我が子を撫でながら、目の前の黒とは異なる金色が脳裏にチラつき思わず手を止める。
 色以前に種族も性別も違う。何も共通点などありはしないのに、何故連想してしまったのか。酷い不具合を抱えた脳が生み出した幻覚を振り払う為に立ち上がり、オーバーワークを更に重ねる所業と承知でランニングに出掛ける準備を始めた。
「一緒に散歩に行きませんか、お嬢さん?」
 既に太陽は西に姿を消し外が十分に涼しくなった中で夜の散歩は済ませていた。だからなのだろう、散歩という音の意味を認識している黒い毛玉は飼い主からの提案を欠伸で返し、寝床として利用している座布団の上で体を丸めて眠る態勢に入る。ゆっくりと左右に動く尻尾が行ってらっしゃいと言っているようで可愛らしかったので動画に残そうかとスマートフォンを手に取ると、まるでタイミングを見計らったかのようにメールの着信を伝える音が鳴った。
 普段なら無視して動画撮影に入るも差出人の名前を確認して手を止める。あの日、鹿肉を届けた店主からのものだった。
『あれから毎日お前を探しに来てるぞ、獅子神さん』
 ジビエ注文用のメールの最後に打ち込まれた文章ばかりを目が追ってしまい、スマートフォンを握り締めるようにして伏せて大きな溜息と共に言い訳を吐く。
「気の所為だろう、そんなの。夏鹿に魅せられているだけだ」
 見たところ、彼は常連客でや店主と同じく高タンパク低脂肪の肉を愛するトレーニーだ。しかしジビエたる鹿肉には幾つか欠点がある。飼育によって安定した品質が常に保たれている肉とは異なり、年齢と性別と季節、そして何よりも猟師の腕が肉の味に直結するのだ。だから質の高い鹿肉を提供する店に足繁く通い詰めるのは想像に難くない、現に、自身がそのような人間でだったからだ。
 鹿の旬は春から秋にかけてと幅広いが、特にこれから訪れる晩夏に絶頂を迎える。つまり今の時期、既に質の高い肉を提供する店を見つけたのなら秋口までは確実に味が保証されている。今まで毎日通わなかった理由だって簡単に説明出来るだろう、彼は常連らしい振る舞いではあったが、たとえば半年前から通い始めていたとしても毎週同じ時間に顔を出せば十分に常連と言えるから。
「そうだ。単に、別々のものが重なって見えているだけだ」
 あんなに綺麗な子がこんなおじさんに。呪文のように呟いて握り締めていたスマートフォンをもう一度見て正しい文章はお前を探しにの一文を消去したものだろうと自分自身に言い聞かせたは、幸せそうに眠る愛犬の背中を軽く撫で、行ってきますと声を掛けてから家を出る。
 あの日の夜とは異なる空には遥か遠くに漂う雲が朧がかった丸い月を作り出しており、星は月の強い光に殆どが掻き消されていた。山の輪郭から下の景色は闇に塗り潰されていて周囲には人の姿どころか気配すらない。しかしそれを当たり前だと知っているは不気味がる様子もなくタイマーをセットし夜道を走り始め、目ではなく身体で覚えた未舗装の道を普段よりもハイペースで進む。
 対向車と擦れ違える程度には広さがある舗装された道路まで出ると左手から無花果の葉の香りが風に乗って運ばれてきた。果実の収穫はまだ先だろうと緩く微笑みながらその香りを追い越し、小さな市街地へ抜ける為に林と電信柱が夜に溶けた林道を下る。ガードレールの横から沢の音が聞こえたら市街地まであと半分。
 風に揺れる木々のざわめきを耳にしながら脚をひたすら動かし、ただ1人、だけが利用する街頭の下をペースを落とさずに駆けていると、目の前に街頭とは違う背の低い光が差し込んだ。
 つい最近になってやっとスマートフォン対応型に変わった自動販売機だと正体に気付いたは、普段は通り過ぎてしまう四角い箱の前で立ち止まりスポーツ飲料を購入して休憩を取る。いつもなら給水も休憩も無理にならないよう気を付けるのに行き当たりばったりだと古びたベンチの座って苦笑し、酸素を全身に送るため力強く動いている心臓に手を当てた。
 この鼓動は運動によるものだ。動揺や、気分が高揚したからではない。
 意図せず、あの綺麗な青年の名前を知ってしまったからではない。
「これじゃあまるでストーカーじゃないか」
 それがどれだけ悍ましい行為で、対象に定められた人間のストレスになるかよく知っているは自己嫌悪から来る胸焼けに胃の上で拳を握る。今からでも遅くない、もっと夢中になれる何かを探さなければ、けれど田舎の娯楽はあまりにも少ない。仕事でもないのに綺羅びやかな場所へ出てしまえば、きっと自分は親子ほど年齢の離れた彼の姿を無意識に探してしまう。
 何の接点もない、会話すらしていない。ただ、一目姿を見ただけの、親子程年齢の離れた同性なのに。
 内側で悶々と渦を巻く気持ちをどうするべきか。せめて何かしらの区切りが必要だ。そう思い至って、若い頃に得た感覚を手探りながら思い出す。状況こそ大きく違うが、持て余し膨れ上がる不安を笑顔の下に押し込めようとした日々が蘇った。
 記憶の衰えが著しい、年を取ったものだと溢れた声は夜の闇に転がり落ちて消える。
「……気持ちに区切りを付けよう。立ち止まり、悩むだけでは好転しない。悩みながらでもいい、動け、状況が悪くなろうとも動いた結果は必ず残る。立ち止まったまま残るのは、いつだって後悔だけだ」
 眩い光に照らされた世界で己を磨いていた時に、頻繁に自分へ言い聞かせていた言葉を口にしたは空のペットボトルを捨てて重い腰を上げた。往路よりも短い、街頭のないルートで帰ろうと決め再び走り始める。
 僅かな光だけが存在を主張する夜の中で緑と土の匂いが濃くなり、夏の盛りの訪れが近いと空気が無言で告げていた。