Shiny New
ジビエ料理専門を謳うこのレストランに顔を出したスーツ姿の紳士然とした男性は来店した人間に構う余裕のなさを醸し出す開店時間前の空気を少しだけ深く吸い込み、姿を確認出来ない店長の名前を呼ぶ。
従業員専用の部屋に引っ込んでいるかと思いきや返答は近く、厨房をコの字に囲うカウンター下からカジュアルながら渋い色合いのコックコートを来た男が勢いよく顔を出し、救世主を待ち望んだ民草の表情を浮かべながら筋肉に覆われた太い両腕で手を振った。入り口に佇む彼の距離からでは見えないはずなのに、店長の光り輝く瞳に映ったサマースーツを着た自分自身の姿が見て取れたのか思わずはにかむ。
「待ってたぜ愛しの鹿肉ちゃん! 無理を聞いてくれてありがとう友よ!」
「ふふ、お待たせしたね、注文通り熟成したばかりの鹿のロースを持って来たよ。開店時間直前だけど、この様子だとオーナーさんとお連れさんの到着には間に合ったかな」
「十分な。同伴相手と合流したら連絡入れるとよ」
「それは何よりだ。それにしても2人分にしては追加量が多くないかい、先にも連絡したけれどボクは必要分だけ買ってくれれば十分だよ」
「無理して持ってきて貰ったんだ、欲しいもんだけ頂いて、なんて事出来るか。ったく我儘オーナー様がよ、SNS映えして、希少部位で、しかも旨いジビエが欲しい? なら事前に連絡くらいしろってんだ」
「解体処理の腕を買われた証拠だから、ボクは誇らしいけれどね」
この店の主力商品の片翼を担う鹿肉を卸している男性は、慈愛を含ませながらもしっかりとした口調で肩に下げたクーラーボックスを何気なく掲げた後で白髪を隠す為に染めたアッシュグレーの髪を耳に掛ける。
窓ガラスに反射するその姿は壮年期も終わり既に中年と言っても差し支えない年齢だが、服の上からでも分かる鍛えられた肉体と渋みを伴った精悍で端正な顔立ちからおじさまと形容されるに相応しい容貌をしており、事実、十二分に整った顔を直視した店長以外の唯一の従業員は同性にも関わらず顔を赤くして魂を抜かれたように口を開けていた。クーラーボックスをカウンターに受け渡しながらその様子を知り、懐かしがるように目を細め、きらきらと目を輝かせる細身の青年の前に立つと挨拶を口にしながら握手を望む。
「初めまして、猟師のです」
「りょ……えっ? さんて猟師なんスか!?」
「ああ? 何で取引先の顔も知らねえんだよ、開店当初からの付き合いだぞ」
「それに関してはマジ申し訳ないっす! でもこの顔で猟師って」
「20年前に一世を風靡したモデル様が電撃引退後に転身した猟師だよ。にしてもだ、芸能活動中からアマチュアフィジーカーとしても有名なのに何で知らないんだ」
「こらこら、若い子はおじさんの現役時代なんて知らなくて当然だろう。ボディビルやフィジークだって興味のある子はそんなに多くないよ」
「さーびしいなあ! 皆もっと筋肉鍛えようぜえ!」
お淑やかな店内とは裏腹に騒がしい店長を眺めながらは苦笑し、空になったクーラーボックスを受け取る為に両腕を差し出す。しかし、彼の腕にそれは戻って来なかった。
「無理して来て貰ったんだ、せめて一杯飲んでいってくれ」
「ありがとう。じゃあ、お心遣いに甘えて」
「特製プロテインドリンクと、烏龍茶と、蕎麦茶の三択だ」
「温かい蕎麦茶をお願いします」
「特プロバニラひとつ入りまーす!」
「なんかほんと、すいません。うちのテンチョーお客さんいないと常に居酒屋か焼肉屋みたいなテンションで。料理は美味いし尊敬してるんスけど」
「賑やかだよね、彼の人柄はボクも気に入っているから」
指定されたカウンターの一番端に腰を下ろしたは恐縮しきりな従業員の若者に微笑みかけ、紅潮する頬を下から眺めるように肘を付こうとして留まる。きっちり3秒後、開店時間を告げる音が小さな店内に流れると居酒屋じみていた喧騒が鳴りを潜め、日常から少しだけ距離を置いた丸みのある空気がゆったりと流れ始めた。
時計の針に支配され軽やかに弾ける炭の音以外は殆ど音がなくなった店内で、の視線がゆっくりと動く。肉の卸先としての付き合いは長いが営業中の様子を見るのは初めてで、知っているはずの店なのにどこか擽ったさを感じていた。
程なくしてお待たせいたしましたの声と共に薄い色の蕎麦茶が注がれたティーカップがカウンターの向こうから現れ、普段見る姿とは大分異なる店長の姿に思わず腹筋が引き攣る。従業員の方は流石に慣れているのか姿勢を正したまま澄まし顔を保っており、それが余計にの笑いを煽った。
内心に吹き荒れる感情を晒さないままは煎られた蕎麦の香ばしい匂いが立ち昇るカップを見下ろし、聴覚を揺らした柔らかい音色のドアベルに顔を挙げる。開店直後にも関わらず店の空気に変わりはない、常連客かと想定しながら不躾にならないよう再度視線を伏せた。
少し分厚い扉から初夏の熱と共に夜の下で屯する人々の音が店の中に流れ込み、遅れて、成人男性の靴音が離れた席に向かう。着席直後に淀みなく注文する声は美しく瑞々しい張りがある。心地いいテノールに1人で来た若い男だと耳だけで判断を下し、これならば静かにお茶の風味を楽しめると安堵した。同世代か少し上の、特に異性の場合、前職の都合から稀に騒ぎに発展するのだ。
お湯で温められてからお茶を注がれたカップは冷める気配を見せず、仕方がないからゆっくりと待とう取り繕った表情の下で考える。滴り落ちた脂が炭の上に落ちる音だけが鼓膜を揺らす店内で啜るのはなんとなく品に欠けるような気がしていただけない、そんな思いから顔を上げると、視線を感じて意識が対角線側に向く。
その先で、若く美しい男性と目が合った。
擦れ違った人間が思わず目で追いたくなるほど惹き付けられる華やかで整った容姿と滲む色香、広い肩幅と鍛え上げられた筋肉質な体躯は男でも憧れるものだ。澄んだ瞳と明るい色の髪は彫像のような美貌をより鮮やかに彩り、垂れ目がちな目元に一点添えられた泣き黒子が陰と憂いを含ませている。年齢は20代の半ばくらいだろうか、男盛りと呼ばれるにはまだ早く、可愛らしいと評される時期を脱したばかりの青年だ。
そんな美しい男が、驚いたように目を丸くして慌てて顔を逸らすように伏せる。
あの反応はかなり長い時間凝視していたのだろうか。理由は分からないが、可能性としてはカウンターの向こうに座る男の正体が元モデルだと知ったから辺りが妥当だとは浅くなる呼吸を誤魔化すように分析をする。
彼の年齢から逆算すると小学校の低学年くらいが自分の全盛期で、そこまで意識せず考えてしまったはずっと俯いている青年から強引に視線を外してから連鎖的に顔を出し始めた思考を振り払いティーカップに口を付けた。
まだ熱かったがなんとなく居た堪れなくなり、舌が火傷するのも構わずに一息で飲み干すと余韻も楽しまないまま席を立つ。急に熱い飲み物を胃に入れ熱を帯びた頬を拭おうとするが、行動を読まれていたのか若い従業員がクーラーボックスを手に待ち構えていたので小さく礼だけ言って逃げるように店を出る。
必要なもの以外の全てを置き去りにして背にした扉の前で呆然としていると冷たくも心地良くもない湿気を含んだ夏の風が髪を掻き乱し、高い湿度から来る不快感に意識が辛うじて現実へ引き戻された。眼前の広がるのは地上から夜の闇を追い遣るネオンの光と都会の喧騒で、は振り返ってしまえば終わるとでもいうようにその場を離れる。
トレーニングや狩猟の後とは違う動きで早鐘を打つ心臓を無視して遠くへ停めていた車へ飛び乗り、熱を持つ顔を持て余したまま帰路へついた。
隣県までの道のりは遠く、オーディオの力を借りなければ酷く億劫になるドライブであるはずなのに、気付けば砂利の敷かれた敷地内の駐車場に車を停めており自宅である平屋の古民家の前では感情を直視出来ないまま項垂れる。
僅か数秒、目が合っただけだ。一方的に声を聞いただけで会話すらしていない。最大限譲歩しても昔の芸能人だと気付いて見ていただけだろう。
なのに、中年にもなって年甲斐もなくこんな感情を持ってしまうなんて。
「……ああ、なんて恥ずかしい」
湧き上がり渦巻いた後に取り残された一目惚れの四文字を捨てられず、はハンドルをきつく握り締めたまま車のライトに照らされた藪を赤らんだ目元できつく睨んだ。