1日目の馬
女装については出掛ける前に既に突っ込み済みだったが、矢張りというか予想通りというか、着替えてはいなかったようだ。
女以上に似合っている事と当人が微塵も嫌がっていないので無理矢理剥ぐのも躊躇われる上に、説得だろうが力尽くだろうがリドルが脱がせようとする構図は洩れなく犯罪臭が漂うのであまり強くは出られない。
一体どうする事が誰にとっても、というより、リドルとの尊厳が傷付かない方法なのかと頭を悩ませているその隣に、振袖姿の幼子がちょこんと座ってにっこりと笑った。
「ただいま。リドーさん」
「ああ、お帰り」
「はい。これ、おみやげだよ」
昨夜の宴の喧騒が嘘のように静まり返った昼過ぎの光の中、屋敷内にある神社への初詣から帰って来たがまだ冷たい手で何かを差し出す。
小さな両手の平に乗る陶製の動物を模した何か。摘み上げると、カロンと音が鳴った。
「鈴?」
「うん。リドーさんに、たん生日のプレゼントだって」
誰が、と尋ねる必要もない。初詣に行ったのだからその神社に祀られている神なのだろう。
神の癖に鈴一つとはケチ臭いと思ったものの、お揃いで自分も貰ったのだと一回り小さい同じような鈴を嬉しそうに見せるを目の当たりにしてしまっては言うのも憚られた。この子供は本当に、どんな些細な事でも嬉しければこれ以上ないくらいに幸せそうに笑うのだ。
何の変哲もないただの鈴は形こそ随分デフォルメされているが、姿形から多分馬だと予測がついた。しかし何故馬なのか、その疑問が表情に出ていたらしい。
「今年のえとは、ひのえうまだから」
「えと。ああ、干支か……確か、十干十二支だったか?」
恩師の出身国だからと学生の時分に独学で調べた知識の棚を高速検索し、暗記していた内容をつらつらと口にするとの瞳に尊敬の念が宿る。
リドル自身、恩師が日本人でなければこの極東の島国など興味の範疇にも入らなかったに違いないので尊敬されるような事でもないと思っているのだが、如何せんこの視線を壊すのは忍びない。それに気付いたのだろう。は子馬の形をした鈴を指先でかろかろと鳴らしながら話の方向性を変えた。
寒さで熟れた林檎のような色になっていた頬が、更に朱を帯びる。黒目がちの瞳が恥ずかしげに伏せられた。薔薇色の口唇が少し躊躇った後で言の葉を紡ぐ。
「来年、じゃなくて、今年は、ちゃんとプレゼント用いするからね」
「ありがとう。私も来年はちゃんとしたプレゼントを渡すからな」
昨晩の事を言っているに違いない。酔ってはいたが記憶は飛んでいなかったようで、今年のプレゼントを思い出したらしいの顔が熱を持った。あの時は酒の力が強過ぎて笑うばかりだったが、この子の根底はこれだなとリドルは緩く笑う。
「改めて考えると、嫌だったか?」
「い、いやじゃない……けど」
「恥ずかしい?」
「うん」
白く柔らかい指先がふっくらとした自らの唇に触れて昨晩の思い出をなぞる。
その仕種がまるでその先を誘っているように錯覚してしまい、冬の寒さに視神経が千切れ飛んだに違いないから今すぐ修復しろと理性が全力の警告を鳴らした。
反対に脳内の悪魔、しかも何度も手を染めた殺人罪や強盗罪ではなく、性犯罪系の悪魔が二度も三度も同じだろうと囁く。確かにあの時は酔いが醒めた後にもう一度してやろうとは思ったが、あれは云わばその場のノリだと反論した。そこまで煩悩塗れな訳がないと強く思うが、悪魔は嫌がっている訳ではないのだからいいだろうとそれを嘲笑う。
「リドーさん、どうしたの?」
今まで笑っていたはずのリドルが急に黙り込み思い悩み始めたのが気になったのか、細い腕が袖を掴み熱を持った顔が、唇が近付いた。吐息が近い、掻き抱いてしまえばすぐに触れ合える距離だった。
腕を差し出し昨晩のように頬に手を当てると、もその行為を思い出したのか同じ仕種で火照った顔を冷たい手に擦り付ける。それがまずかった。
普段ならば気にも留めない微かな接触、手の平に色付いた唇が触れた瞬間にリドルの理性は決壊した。空いていた手を少しずつ狭い背中に回し、頬に添えられていた手は顎まで下がる。怖がらせないように出来るだけゆっくりと引き寄せるれば、小さな体はすんなりと腕の中に収まった。
「リドーさん?」
「、何も怖い事はしないから少しの間だけ目を閉じでっ!?」
がん、と硬い物がこめかみに命中し、軽い音を立てて畳の上に転がった。かろん、かろんと間抜けな音を鳴らす、先程リドルが受け取った馬の形をした鈴だった。神からのの賜り物だからか、元から丈夫な材質だったからか、壊れた様子はない。
その丈夫な鈴で突然急所を攻撃されて痛いやら、甘い空気をブチ壊されて腹が立つやら、様々な感情が入り混じったリドルはありったけの怒気を赤い瞳に込めて鈴が飛んできた方を睨み付ける。しかし、その怒りは一瞬にして殺がれ、ついでに血の気も失せた。
当たり前である、目の前に立っていたのはこの幼子の祖父であったのだから。
何故盆でもないのにこんな所に居るんだとかそういった疑問が勿論あったが、優先順位の問題で後回しとする。今は彼をどうにかしないと、最悪命が危うい。
『どうも、こんにちは。新年、あけましておめでとうございます。どうぞ今年も、宜しくお願い致しますね。さん、りどるさん』
にっこり、という擬音が一番似合いそうな表情で青年の顔をした幽霊が場違いな程穏やかに新年の挨拶をする。その声にも態度にも表情にも気配にも殺気はなかったが、リドルの背に滝のような冷や汗が流れた。
対称的に、別に疚しい事をされている自覚のないは、こちらも穏やかに笑って丁寧に頭を下げ挨拶を返している。
「ええと、あけましておめでとうございます。きゅう年中は大へんおせわになりました。今年も、よろしくおねがいいたします」
『ふふ、家族なんだから、そんなに畏まらなくても、いいんだよ』
「したしきなかにもれいぎあり、です」
『さんは、素敵な言葉を知っているんだね。りどるさんも、そう思うよね』
「え、ええ。そうですね」
妙に圧力を帯びた笑顔が向けられ、リドルの表情が引き攣る。先程から殺気は一切ないのだ、表情も目もちゃんと笑っているし、気配だって凪いでいる。だというのに、冷や汗は一向に引く気配がない。
『本当は、昨日も会いに来るつもりだったのだけれど、ゆかりさんと一緒にお喋りをするのが楽しくて、年が明けてしまったんだ。うっかりしていてすまないね』
「い、いえ、そんな事は……」
『おや、りどるさん。人とお話しするときは、相手の目を見て話した方がいいですよ。疚しい考えがあると思われてしまいますから』
強く咎める口調ではないのだが、リドルの冷や汗は止まらない。死者の言葉の一つ一つが銃弾のように心に穴を開けていく。早く手を打たなければ特大の砲弾がめり込むに違いない、そう予想したリドルは畳みに両手を付き伝家の宝刀、土下座を繰り出そうとした。
イギリスに居る部下がこんな闇の帝王を見たら世を儚んでしまうようなその光景は、しかし、リドルの頭が下げられる前に停止される。砲弾が放たれたのだ。
『所で、りどるさんは何時の間に種馬になったのかな。青田買いという言葉もあるし、優秀な遺伝子を残したいという気持ちは、判らないでもないけれど。私が人類なのだから、孫のさんも人類で、決して競走馬ではない事は判るよね』
「ジン。全力で謝りますから許しては戴けませんか」
『うん? 私は取り立てて、何かを責めている訳ではないのだけれど。りどるさんは、一体何を謝ろうとしているのかな』
それをの前で言えと、と訴えるリドルに反して、私は何も知りません、と幽霊は心底不思議そうな顔をして返した。どう見ても演技には見えないが、どう考えても彼はリドルの心を殺す気だった。
種馬の意味が理解できずリドルが馬なのかと首を傾げている無垢な幼子が輝いて見える。その子供の前で自身の薄汚れた欲望を告白しろと遠回しに要求する男の腹の中が読めない。否、確実に怒ってはいるのだが、それを一切表面に出さないから怖いのだ。
普段恩師にばかり振り回されていて忘れかけていたが、本当に恐ろしいのは普段穏やかな彼のような人間だと知っていたはずなのに。
キス程度と、中には思う人間がいるかもしれないが、ここはイギリスではなく日本で、の祖父は孫の事を心底愛しているのだ。
例えリドルを息子と同じように扱っていたとしても、正直に告白し双方合意の上ならば兎も角、騙まし討ちのような形でそんな事をしようとすれば怒るに決まっていた。
『ああ、そうだ。さん、私もね、誕生日の贈り物を用意したんだよ』
「あ、ありがとうございます!」
『どういたしまして。それと、二人共、お誕生日おめでとう』
突然何を思ったのか、幽霊は向かいのの部屋を指して包装されていない本の束をプレゼントだと言った。この際、死者に買い物できるのかという疑問は置いておく。
向かいの部屋では、祖父からプレゼントされた百科事典のように分厚いそれを見た幼子の目がきらきらと輝いていた。童話か詩集だろうか、どうやら欲しかった本だったらしい。
親馬の鈴を気味が悪いほど優しい手付きで撫でている青年の手元を出来るだけ見ないようにして、リドルは来年の為に一体何を贈ったのか、そしてあわよくば話が逸れる事を期待して質問した。
『うん。興味があるって、言っていたからね、買ったんだよ。りどるさんへは、間接的な贈り物になってしまうかもしれないね』
「……参考に聞きたいのですが、何の本ですか。料理の本という感じでもないんですが」
『ある意味料理だね、主な材料は人間だけど』
「軽率な行動を起こして本当に申し訳ありませんでした」
今度こそ完璧な土下座を披露したリドルにが驚いた表情で二人の顔を交互に見る。
何でもないから男女別拷問大百科を読んでなさいと、さりげなく一番上に置いてある男性版初級編とやらを勧めている幽霊を前に、リドルは全身全霊を込めて謝り倒すしかなかった。