365日目の蛇
「楽しんでいるかしら、リドル」
雑多な音の中から声をかけてきた屋敷の主、リドルの師は普段よりも値の張りそうな服を着て、普段通りの振る舞いで声をかけてくる。彼女の背後には酒瓶と、酒樽と、酔っ払って眠っている妖怪達が転がっていた。どうにも、また飲み比べをしたらしい。
慣れない日本酒にリドルにも少し酔いが回ったようで、考えてから言葉にするまで普段より時間をかけてから回答した。
「ええ、割と」
「あまり楽しんでいないみたいね。さんでも呼びましょうか」
の名前を出されて、リドルははっとしたように辺りを見回す。年越しの宴が始まった時には傍にいた小さな存在が今居ない。名を呼んで引き寄せようと顔を上げ、目の前の光景を改めて見て、無理かもしれないと弱気になった。
リドルの居るこの建物は、屋敷の敷地内にありながら母屋からは少し離れた場所に建ち、普段は武道の鍛錬場として使われている為にそれ相応の広さがある。加えて、今はそこに屋敷の妖怪達が代わる代わる現れては飲み食いをしたり、舞を踊ったりして年の終わりを祝い、楽しんでいた。
ここから一人の少年を見つけるのは至難の業、と思っていたが、リドルのお目当ての少年は割りとあっさり見つかった。普段から鮮やかな着物を着ているが、今日はいつにも増して煌びやかな振袖を纏っている上に、頭にも色々飾っている。何よりも、ちょこちょこと動いていたのでとてもよく目立つ。
「先生に言いたかった事を思い出しました。またに女物を着せましたね、あの子は可愛らしい顔をしていますけど男の子ですよ?」
「あら、今回は女性の妖怪達よ」
「……そうでしたか。すみません」
「彼女達にあの着物を見せたのは私だけれどね」
「やっぱり先生が原因じゃないですか」
アルコールが回って叫ぶ気力がなくなっているのか、ぐったりした様子で姿勢を崩したリドルは、違和感無く女物の着物を着ているに視線を戻す。
天井に届きそうなくらい背が高いのにアメンボのように細い男に呼び止められ、菓子を貰った。隣に居た緑色のよく判らない何かは美しい花を黒い髪に挿す。喧嘩をしていた烏の天狗と尾の数が矢鱈に多い狐はそれを止めて美しい石を持たせ、山犬達は暖を取っていけと小さな体を包んだ。ここに居る妖怪達は皆が皆、を呼び止めては何かを渡し、愛おしそうに頭を撫でたり、触れたりしている。
幸せそうだな、と他人事のようにリドルは考えた。
「そう言えば。リドル、貴方、結構前からさんの母親の事を調べているんですって?」
「ええ」
「どうだったかしら」
「近いうちに、一度イギリスに戻って調べ直してみようと思います」
「……イギリスね、貴方に出来るかしら」
呟いて、彼女はすっとリドルの隣に座ると、手酌で何度目か判らない酒宴を始める。肴をつまみながら思案顔になるが、リドルの視線に気付くとどうしたのかと目で問いかける。
「ジンやの目には、何か秘密があるんですか?」
「どうしてかしら?」
「今年の夏の事ですが、私がの母親を調べている時にジンに出会いました。その時、そういった言動をされたので」
「あらあら、甚九郎さんはお喋りさんね」
御猪口を片手にふんわりと笑うと、濃い茶水晶のような瞳がリドルのルビーに似た目をじっと見つめる。品定めをしている目だった。
やがて、そのお眼鏡にかなったのか、他所に言わない事を約束させて、師は口を開く。
「甚九郎さんの生家は千里眼、視るという事に優れているの」
「視るというと、透視の類ですか?」
「色々よ。ただの透視から、人の心、未来の事まで視える人物も居たそうだわ。甚九郎さん自身は透視の力が強かったけれど」
「では、にはどんな力が」
「私が知っているはずないでしょう。そもそも、そんな力があるのかしら」
「……そうでしたね、話を戻します。生家というと、昔にジンは婿養子と聞きましたけれど、そんな特別な血筋の人間が他所の家に入ることが許されましたね」
それ程特殊な家柄は、基本的に一族の血を外に出すという事をしない。嫁や婿を取るか血族間で婚姻を繰り返し、血を守る。血が外に出てしまえば家の価値は下がりはすれども上がりはせず、メリットがない。
リドルの問いに対して、許嫁だったから、と含み笑いをする師の笑顔は、どちらかというと邪悪な部類に分類できるものだった。
恐らく、本来ならば師が夫の家に入る予定だったのだろう。彼は極端に病弱だった事が理由だろうかと考えたが、しかしその程度で血を外に出すような家ならばとっくの昔に血が広がり、血の価値など無に等しくなっているに違いない。
特殊な血を持つ家の者が外に出される理由。幾つか浮かんだ案の中で、現実との照らし合わせの結果、最も有り得そうなものを口にした。
「元々ジンは妾腹で、力も無く、家を出た後で能力が開花した?」
「そう。あの人は家に捨てられてからずっと、この屋敷から外の世界に憧れて、余りにも憧れ続けて、いつの間にか視えるようになったんですって」
「捨てられた?」
「あら、私ったら。思ったより酔っているみたいね」
頬に手をあて、相変わらず不純な笑みを浮かべている女性を、リドルは何か言うでもなくじっと見つめ続ける。やがて、笑いが収まった口から優しい声で呪詛が吐き出された。
「あの人は捨てられたの。14歳の、丁度こんな風に雪の降る夜に。正妻との間に生まれた弟さんに目の異常がある事が判って、父親から、祖父母から、お前は要らない子だって正面から切り捨てられたの。皆の前で、私の前で」
彼の母は既に他界し、父には見放され、その辺で野垂れ死ねと着の身着のまま捨てられて、とても放ってはおけなくてこの屋敷に招き入れたのだと擦れた笑い声は続ける。
「そんな奴を養ってどうするんだって家族に言われたから、私も頭にきちゃって。この人は私の夫だと言って、家の妖怪引き連れて出てきちゃった」
「……全部ですか?」
「ええ、全部よ」
「今この家にいる座敷童も?」
「半年もしない内に生家は没落して、一年経つ頃には消滅しかかっていたわね。流石に血統が立ち消えられると困るから、今も消滅しない程度に援助はしているけれど」
居ることで幸を家の中に運ぶ座敷童を連れて行ったのだから、その日からこの女性の親の家は不幸の連続に見舞われたに違いない。自業自得だと感想を内心で述べていると、貧乏神はきちんと持て成すと裕福になれるのだと師が話を強引に逸らした。
薄暗い沈黙が二人の間に降りる。どうしようかと思案し底の見えない暗い笑みで酒を注ぎ足している師を見つめた。その細い腕を、三毛と黒の毛皮を持った肉球がぽふんと止め、もにゅっと掴む。先に居たのは二足歩行の三毛猫と黒猫の雌猫二匹で、両方共に鉤状に曲がった尾が二つに分かれていた。
『手酌は寂しいものですよ』
『年の終わりには目出度い話をしようじゃありませんか』
『何やら少し昔の話で盛り上がっていますね』
『ならば少し昔の目出度い話をしようじゃありませんか』
もにゅ、もにゅ、と二つの肉球がなおも揉みながら割ってきた話を続ける。
『ゆかりちゃんと甚九郎ちゃんはね、そりゃあラブラブだったんですよ』
『甚九郎ちゃんの為にね、ゆかりちゃんは医者になったんですよ』
『ゆかりちゃんのドイツ留学も甚九郎ちゃんの為でしたしね』
『甚九郎ちゃんは絵葉書が届いては、そりゃあ毎回嬉しがってね』
二匹の猫又はくすくすと笑い合って尾を揺らしている。横目で師を見てみると、そんな事もあったわね、と穏やかな表情で過去を懐かしんでいた。リドルなら、そんな過去を猫に暴露された日には憤死してしまうそうになるのだが、彼女はそうではないらしい。
夫の何が可愛かったとか、美しかったとか、酔いに任せて色々惚気始めた師を横に、リドルは誰かに助けを求めようと一瞬考え、誰も助けてくれるはずがないと酔っ払いが多くを占める宴会場の片隅で溜息を吐いた。
猫達はというと、炙ったスルメを片手に互いに酌をしながら幸せそうに酔いどれている。
『ラブラブですね、三毛さん』
『ラブラブですね、黒さん』
『仲良き事は美しきこと』
『愛し合うは麗しきこと』
二又の尾で器用にハートマークを作った猫達は、鐘の音の数がどうと話し合い始め、やがてからからと笑いながら師に耳打ちをすると、三人で他の妖怪達の方へと歩いて行った。
女三人で姦しい、などと現実逃避している場合ではない。何やらとても嫌な予感がするのは、果たしてリドルの気のせいなのだろうか。
その予感が拭えないまま、しかし宴会場から抜け出せずにいると、やがて黒い方の猫がを連れてやってきた。しかし先ほどと違い、のテンションが若干可笑しい。顔を赤くして、それはそれは楽しそうにけたけた笑っている。ついでに息が酒臭い。
「誰だこの子に酒を飲ませた馬鹿は!?」
女装よりも遥かに大きな衝撃に酔いや暗い気分などというものは跡形もなく完全に吹っ飛び怒号を発する。鬼の形相で辺りを見回すと、宴会場に集合した妖怪の内、約4割が挙手で応じた。駄目妖怪共が多過ぎる。
「リドーさん、リドーさん」
皆の真似をしているのか、両手で元気に挙手をしたは万歳の体制のままリドルの胸へと雪崩れ込む。触れた体は酒の所為でいつもよりも熱く、外気に晒された皮膚は熟れた桃の果実ような色をしていた。
頬を包むようにして手の平を置くと、それが冷たくて気持ちいいのかうっとりと目を細め小動物のような仕種で擦り付けてくる。
「、取り合えず水を飲みなさい」
溺愛しているの前では流石に鬼の顔をする訳にもいかず、やんわりと説得をすると、口移しなのかと訊ねられた。
何故口移しなのか、入れ知恵をした馬鹿は八つ裂きにしてやる、と視線を下げたところ、にやにやと笑っている黒と三毛の猫二匹。正しい意味で、この畜生が、と内心思い切り罵る。
「口うつしだめなら、キスしたい」
「よし、判った。お前に要らない事を吹き込んだ輩は全員塵に還して……おい、誰だ私の体を羽交い絞めして押さえつけている奴等は!?」
「はい、さん。これでリドルにキスできるわよ」
「先生もなに総指揮を執ってるんですか!?」
妖怪達にリドルが動けなくなるよう指示を出す恩師は、いつも浮かべるようなとてもいい笑顔で自らの気持ちを表わした。即ち、リドルが面白いからと。
何のものとも判らない手に顎まで固定され喋れなくなったリドルにの唇が迫る。別にとのキスが嫌なわけではないが、流石にこんな公開処刑みたいな形ではごめんだと顔を逸らそうとする。しかし、それすら出来ない。
何も出来ないままもがいていると、程なく女性よりも柔らかい唇が触れた。歓声が沸き立ち、遠くの方で鐘が一つ、二つと鳴った。三つ目が鳴らない事に気付くと、の顔が離れリドルの体が自由になる。怒鳴り散らしてやろうと息を吸ったその瞬間、四方八方から誕生日を祝う言葉が降ってきた。
「リドーさん、あけまして、おめでとうございます。たんじょう日、おめでとうございました」
腕の中の子供が祝福の言葉を告げ、気が付くと体が花や菓子に埋もれ始めている。周りの妖怪達が皆輪になり、二人の上にこれでもかというくらい降らせながら口々に祝いの言葉を乗せていた。
まさか新年の祝いよりもこれがしたかったのかと師に視線で問いかけるが、含み笑いと共に逸らされてしまう。しかし、その反応は語られるよりもずっと判りやすいものだった。
小さく感謝の言葉を呟くと、やっと脳が冷静になり何が起こっているかを認識し始める。妖怪達はリドルと、もう一人を祝福していた。寧ろ、リドルは彼のついでと言っても差し支えない程、彼は盛大に祝われていた。
「」
「なあに、リドーさん」
リドルと一緒で、花や菓子を頭に乗せながら赤ら顔でふにゃりと笑ったもまた、多くの存在に誕生を祝われている。周りの言葉をよく聞くと、彼の誕生日はリドルの誕生日の次の日、年初めのようだった。
「あけましておめでとう。そして、祝ってくれてありがとう」
「うん。どういたしまして」
この時初めての誕生日を知ったリドルには、当然用意したプレゼントはない。そして、どうやらも先ほどリドルの誕生日を知ったばかりらしかった。当然だが、リドルの誕生日にキスを贈り、自分の誕生日にそれを貰おうなどという不純なプレゼントを考えたのはこの子供ではなく、離れた場所で笑っているあの猫だ。そうに違いない。そうでなければならない。
後で皮でも剥いでやろうかと物騒な復讐も考え付いたが、それよりもこちらの方がいいだろうと腕の中の体を引き寄せて唇を重ねる。再び歓声と、今度は大多数の怒号が混じる中、先ほどと同じくらいの長さでキスをし終え柔らかい頬にも軽く口付けた。
「誕生日おめでとう、」
「ありがとうございます」
キスをされた事に抵抗を感じないのか、それとも単に酔っているだけか、はいつも通り礼儀正しく頭を下げて笑っている。
騒がしい新年を迎えながら、どうせならば酔いが醒めた後でもう一度キスをしてやろうと、その後の様子が手に取るように判り、心から愉快そうに笑った。