曖昧トルマリン

graytourmaline

 残暑、という言葉が存在する。
 日本では毎年のように使われているがイギリスではあまり使用されない、或いは使用されたとしてもここまでの暑さを体感する事はない言葉である。
 現在10月初旬。天候は晴れ。
 気温27℃、湿度高し、加えて無風。
「リドーさん、大じょうぶ? のみもの、のめる?」
「……ああ、いや」
 ぐったりとした様子で部屋の隅に仰向けで倒れているイギリス人男性の傍に、涼しげな顔をした日本人の幼子が近寄り、端正な顔を覗き込んでから団扇でゆっくりと扇ぎ始めた。風を感じた赤い瞳が閉じられた瞼に隠される。
 9月は沢山雨が降り例年に比べ気温が落ち着いていたので、月を跨いで戻ってきた暑さにやられたらしい。リドルの世話をしていたはというとイギリスと日本の気候は全く違うようだと学習し、事前に色々調べてから行かなければとこっそり決心する。
「夏を乗り切ればと思って、油断した」
「ことしは、すずしかったからね」
「……あれでか?」
 閉じていた赤い瞳が再び開かれ、が冗談を言っているのではないのかと表情を探る。しかし、この幼子の祖母なら兎も角、嘘どころか冗句とも縁が薄い彼がそんな事を言うはずがないのはリドルもよく知っていた。
 きっとそれは、リドル一人にとって残酷な真実なのだろう。
 来年の夏、日本で生きていられるか若干不安になったリドルは目を覆うようにして手を当て低く唸った。その指の隙間から、硝子のコップが2つ用意されているのを見付ける。氷が浮かび、表面には汗を掻いていて、非常に涼しそうだ。
 そう言えば先程、が飲み物を飲むことが出来るかと訊ねていたことを思い出してゆっくりと身を起こす。扇いでくれていた幼子に礼を言い、一緒に飲もうと誘うと笑顔が輝いた。
「つくりかた、おしえてもらったの」
が作ってくれたのか」
「うん」
 恥ずかしげに頷くの頭を撫でると、今までなんとも無かった頬が朱に染まる。挙動不審に動く大きな瞳も可愛らしく思えた。
「しゅ虫さまがね、きっと、げん気になるよって」
「シュチュウ?」
「本とうは中ごくのようせいさんなんだけど、たまにね、あそびに来てくれるの」
 ドラゴンなら兎も角、中国の妖精までは流石に知識の範囲外だったらしく、リドルはそんな妖精も居るのかと呟く。グラスを受け取った手の平がひんやりとした冷たさを伝え、優しい香りがふわりと広がった。しかし次いでやってきた微かな香りに思わず動きが止まる。
、待て。飲むな」
 同じくグラスを傾けようとしていた幼子を制止し、もう一度注意深く香りを嗅ぐ。数秒後、結露に濡れた手が盆の上にグラスを戻した。
「幾つか聞きたい事があるんだが」
「うん」
 なあに? と可愛らしく首を傾げている幼子を見て、リドルは出来る限り優しい笑みを作って盆の上の2つのグラスを指した。
「先程のシュチュウとは、漢字にするとどんな字になるんだ?」
「おさけって字と、虫って字だよ」
 酒虫でシュチュウ。これはもう間違いようがないと赤い瞳の奥に殺気が篭る。
「そうか。その酒虫に習ったこの飲み物の作り方を教えてくれないか?」
「ええとね、よもぎのおさけと、たんさん水と、こおりを入れて、かるくまぜるの」
 去年に漬けた蓬酒を使ったからとてもいい香りでしょうと無邪気に笑うに同意をし、薬酒を作れるという事を褒めるとまた頬が赤くなる。これがアルコールで染まったものではなく本当に良かったと安心し、ゆっくりと立ち上がった。
 最早、残暑による体調不良など気にしていられない。未成年どころか、まだ幼児であるに対し、意図的にアルコールを摂取させようとした輩を靴底で擦り潰すことでリドルの頭の中は一杯になっていた。
 不思議そうにリドルを見上げる黒い瞳のなんと無垢な事か。見れば見るほどその所業は赦し難くなってくる。
「リドーさん、どうしたの?」
「お前を誑かす悪い虫を潰してくる」
「わるいむし?」
「心配するな、すぐ帰ってくる。ああ、それは飲まないように」
「え、うん……いっちゃった」
 殺気塗れで部屋を出て行ったリドルの背中を見送ると、今まで静かだった隣の部屋から10センチ程の赤黒い肉の塊がひょこひょことやってきた。
『あれ、酒虫様。どうなさったんですか』
 若干グロテスクな大ミミズ、或いは二次元でよく見かける肉色の触手のような外見の酒虫は、表情こそ読めないが気配で笑いながら幼子の膝の上に乗る。恐らく頭だと思われる部分が持ち上がり、ゆらりゆらりと揺れた。
 口の付けられていない二つのグラスを見られ、申し訳なさそうな顔をするに酒好きの妖怪にでも渡せばいいと一笑する。
 それよりも、と揺れを収めた頭がリドルが消えた方角を眺めた。
『どうだい。元気になっただろう』
 その言葉にが困ったように頷き酒虫が愉快そうに笑ったのを、リドルは知る由もない。