光雪の麓
日が山の向こうから顔を出すまで空にあった真白の雪雲はとうに流れ、見上げればひたすらに冷たいばかりの薄明るい空が広がっている。まだ日が昇りきったばかりの蒼を仰ぎ、自分の息が立ち上って消えていくのを見た後では正面に視線を戻した。
松の緑も南天の赤も雪に埋もれ、辛うじて幹だけが黒に近い色を曝け出している。門から見える外の世界も同様で、視界一面が輝くように白かった。
さくり、と凍った水滴が崩れる音が聞こえ、隣と雪の下で何かが動く気配がしたかと思うと、青年を過ぎた男の声だけが唐突に語りかけてくる。
『これで三十と三日目。あの男も何時になったら戻って来るのやら』
『道塞ぎ殿、もしや貴殿があの男の往来を阻めているのではないのか』
『否。物岩殿、人の前に立ち塞がるは確かに我の性、塞ぎたくて塞いでいる訳ではない。だとしても、が悲しむのなら我はその性すら曲げようぞ』
「おはようございます。道塞ぎ様、物岩様」
『む、我とした事がに挨拶を忘れておった。お早う』
『吾も失念しておったわ。お早う、』
雪の中から突如として湧いた声に驚くことなく、はおっとりとした仕種で可愛らしいお辞儀をする。道塞ぎと呼ばれた妖怪は姿が見えない姿のままお辞儀を返し、物岩と呼ばれた岩の妖怪は全身雪に埋もれたまま声だけを返した。
幼子が今朝も駄目だったのかと尋ねると、二人の妖怪が首を横に振った時に出るような溜息を吐いて、道塞ぎがもう一度、これで三十三日目だと告げる。それは即ち、リドルが家から姿を消して33回目の朝が来たという事だった。
1ヶ月程前にリドルの姿が屋敷から忽然と消えた当初は心配していたが、妖怪達はそれ程気には留めず今日出される七草粥が嫌で逃げ出したに違いないと笑っていた。しかし、昼を過ぎ、夕餉の時刻になっても現れない事にやっと異常を感じたのか、その頃になって妖怪達は騒ぎ始めていた。
対して、半日かけてリドルの行方を捜したはというと、荷物が無くなっていた事と祖母が全く慌てておらず、祖父に至ってはその内帰って来るからと苦笑していたので、リドルは自らの意思で消えたものと確信し随分落ち着きを取り戻していたのだが。
大丈夫、祖父の言葉通りその内また家に来てくれる。自分に言い聞かせるように何度も呟き、そして今朝もまた、33回目の台詞が門の前で吐かれた。日に日に元気が無くなっていく幼子を見て耐え切れなくなった幾人かの妖怪達は、いっその事忘れてしまえと言ったばかりに泣かせてしまったのは記憶に新しい。
『仕様のない男だ。帰って来たら吾が簀巻きにしてくれよう』
「物岩様、リドーさん簀巻きにしちゃ駄目です」
『真に受けてはならぬよ、。例えに過ぎぬ、物岩殿は動けぬではないか。あの男を簀巻きになど出来ようはずがない』
『確かに、吾は動けぬのであった』
『お主本気であったか』
『では道塞ぎ殿』
『やらぬよ』
『何故。道塞ぎ殿があの男を屋敷から出さなければも喜びましょう』
『や。物岩殿には我からよおく言って聞かせておくから嫌いにならないでやってくれないか。この御仁は屋敷の立つ前から此処に居た故、少しばかり人同士の関係に疎いのだ』
「嫌いになんてなりませんよ?」
道塞ぎがどうしてそんな事を言うのか判らなかったは首を傾げて黒い瞳を宙の一点に向ける。その辺りの空気がふと笑い、黒い髪が風もないのにさらりと揺れた。
では、また、と風に言葉が流されるとそこにあった気配がふわりと消え、雪の下の存在も自らの姿を思い出したかのように口を噤んでしまう。日に晒された雪が解ける音すら聞こえてきそうな静けさの中で耳を澄まし、虚空に視点を合わせて人間の気配を探っても、見つかるのは自分と祖母だけで青年のそれは見当たらなかった。
ほう。と息を吐き、外気に晒された肌がこれ以上冷たくならない内に室内に入ろうと踵を返す。この時期と夏場はあまり長く外に長居をしていると心配性の過ぎた妖怪達が捜しに来るので、うかうかしてはいられないのだ。
夏場、と単語が脳内を過ぎり、半年程前の光景を思い出す。初めて出会ったのはこの門の前ではなく、今朝のようにひたすらに静かな竹林を抜けた先だった。
「そこなら、いるのかな」
気配を探っても見つけられないというのにそうであって欲しいと願い、は雪の中を走り出した。日が地面からも注ぐ中で、居るはずもない人間を目当てに走るなんて馬鹿なことだと一瞬考えてしまい、涙が出ないように唇を噛む。
心細いという言葉を腹に収め、白い息を吐き、氷のような空気を肺に送りながらは走った。屋敷の裏手に回り、凍った池を過ぎると、雪に埋もれた竹林の中にするりと滑り込む。
風が吹く度に、とさり、とさり、と葉に積もった雪が流れ落ち、時折の肩や髪の上にもその白を落としていった。しかし、願うように走るはそれを払うことはせず、ただ前へ前へと飛ぶ鳥のように駆けて行く。
やがて、竹林の出口が近くなるとそれまで緩められることの無かった速さが徐々に緩やかになっていった。雪の鏡で白く焼けた地面が光り、薄暗い竹林の中からも確認できる。
けれど、そこにはあの日のような影法師はいない。そんな事は、この林を抜けるまでもなく判り切っていた。それでも、もしかしたらと、信じてみたかったのだ。
「大丈夫、その内また来てくれる」
走る事に疲れ、とぼとぼと歩いて竹林を抜けたはあの時とは比べ物にならないほど小さな影法師を見つけて足を止める。
視線の先の二羽の雀が、丸々とした体を寄り添わせ、この辺りで一等日の当たる場所で羽を休めていた。暖かい空気を含んだその体は丸まっていて、突けばころんと転がっていきそうに見える。今の自分に似ているという感想と、けれど自分には誰も寄り添っていない現実を認識して、また泣きそうになった。
唇を結んで手を強く握り、込み上げてくるものを全部粉々に打ち壊す。ゆっくりと何度も深呼吸して、声の震えがなくなるまで咽喉を冷した。
「……おいで」
やがて落ち着きを取り戻したはその場にしゃがんで手の平を差し出し、水底から呼びかけるような落ち着いた声で二匹を迎え入れる。近くで観察するとその姿形はいよいよ丸く見え、茶と白の柔らかい毬に鳥の尾が生えているようにしか見えない。
温かい空気を含んだ羽毛を指先で撫でれば、うっとりと目を細められた。水を掬うようにして合わされた手の中で、二羽はよりいっそう体を密着させ仲睦まじげに暖を取っている。
時折、小さな瞳がを見上げ、この間に入って来いとでも言うように優しく鳴く。そう出来たら何と幸せなことだろうと二羽の気遣いに微笑み黒い頬を擦るようにして撫でていると、空を飛んでいた雀までもが下りてきての手の中に入ろうと争い始めた。しかし幾ら小さな雀といえど幼子の手に乗るのは精々数匹が限度で、一匹が頭を突っ込めば反対側から一匹転げ落ちていってしまう。
飽きも譲り合いもせず場所を取り合う雀達を見て、いっそ皆を腕に抱えてしまおうかと考え始めた矢先の事だった。空を飛んでいた一匹がチチチ、と警戒の鳴き声を発したかと思うと地上にいた雀が一斉に飛び立ち、翼を持たないだけがその場に残される。
抜け落ちた羽毛がゆっくりと落ちてきて、雪の積もった髪の上に音もなく降った。澄み過ぎた空に雀達は黒い点となって去り、その姿を目で追おうと太陽に向き合った時、視界を黒い影が横切った。
男性の手の形をしたその影に驚き、慌てて振り返る。厚手のコートに覆われた高い背丈、黒い髪と見開かれた赤い瞳、マフラーに埋もれた唇はの名を呼ぼうとした形で一瞬固まり、次いで辺りを揺らすような叫び声を上げた。
「!? 大丈夫か!」
黒い影の青年、リドルの姿を見て糸が切れたようにその場に倒れ込んだは、あろう事か顔面から雪へ埋もれそのままぴくりとも動かなくなる。暗い中ぼんやりとした頭で自分が倒れたという事実を確認し雪が冷たいなどと感じていると急に視界が開けた。
目の前には血の気の引いたリドルの顔と雪景色と冬の青空があり、雪の上には口の開いたトランクと分厚い本が散ばっている。
「熱はないな……待っていろ、今屋敷に」
「リドーさんだ」
「ああ、私だ。吐き気や眩暈はあるか? どこか痛い箇所は?」
「リドーさんが、来てくれた」
冷たい頬を胸に押し付けるようにして抱きつくと、深呼吸の後に頭の上から安堵の息が降ってきた。手袋が外されたばかりの暖かい右手が髪に積もった雪を払い、左手が背中に回されて優しく撫でる。
「体調が優れないわけではないな?」
「うん、げん気だよ。ビックリしちゃっただけ」
「そうか。驚かせてすまない……」
そこで言葉を切ったリドルはを抱えたまま空いた右手で口元を覆い、苦しそうに呻いてからもう一度、小さな声で謝罪をした。
不思議そうに首を傾げる黒い瞳の主の視線に晒されるとその表情は一層苦くなる。
「深夜だからといって、お前に何も言わずに出て行ってしまって……ここに着いた途端色んな妖怪達に捲し立てられた。毎日、門まで私が居ないか捜しに来ていたんだろう」
「……うん」
「寂しがらせたな」
言って額に唇を寄せられてもは返事をせず、顔を隠すようにきつく抱きつくだけだった。それが何よりも雄弁に物語っていて、小さな体を包み込んだ人間の気配がゆらゆらと揺れる。
「今度からはちゃんと、出掛ける時には声をかけるようにするから」
「うん」
「約束する」
「うん、やくそく」
もう一度きつく抱きつくとはその場から離れて膝に付いた雪を払いながら立ち上がるリドルを見上げ、つめたくなっちゃったねと笑いかけた。リドルもそれに笑顔で返し、雪上に散ばっていた本を魔法でトランクに納めていく。失っていた笑顔を再び咲き誇らせながら手伝うと申し出ると、すぐに終るからとやんわりと返された。
仕方なく一冊、また一冊とトランクの中に戻っていく本を眺めながら、いつの間にやら戻ってきた雀を頭の上に乗せて遊んでいると、ふと戻されていく本に共通する単語を見つけ、それをぽつりと呟いた。
その言葉を拾ったリドルが再び驚いたような顔をするが、すぐに考え込むような表情に変化し、最終的には眉間に皺を寄せた難しいものに固まってしまう。
一体どうしたのだろうと頭の上で雪だるまになっている雀に語りかけても返事はただの鳴き声で、しかもその声は軽く響きとても返答として受け取れるようなものではなかった。年末に、鳥は頭が小さいから物覚えが悪いと老狐が烏天狗をからかっていたことを思い出す。
「あ。そうだ」
は回想を終了させスノーマンになっていた雀を空に見送ると、最後の一冊をトランクに納めたリドルのコートを軽く引っ張り、おかえりなさいともう一度告げた。
「……ああ、そうか」
先程は驚きのあまり返事が出来なかった事を思い出したのか、眉間に寄っていた皺を消して穏やかに微笑むと、随分冷えてしまった右手を差し出しての柔らかい左手を握り、ただいまと言って静かに口付けた。