はじまりの根本
日本に来てから1ヶ月が経ったが、イギリスの魔法界から縁遠いこの国では敵対勢力に追い詰められるような状況には未だ陥らず、毎日食べて、眠って、屋敷で手伝いをして、というサイクルを繰り返していた。
しかし元々妖怪達が取り仕切る屋敷の中で異国の人間であるリドルが出来る事は限られていて、お陰で連日時間だけは有り余っていた。だからといって、それを無駄にするような事はしていなかったが。
「見当たらないな」
純和風の屋敷内では珍しく、近代建築風の造りになっている地下書庫の一角で、リドルは余った時間でとある人間の事を調べていた。
先日、彼の師から写真で紹介された女性。の母親の事である。
名前はマーガレットという特に珍しくもない名前だったが、ダンブルドアの養女という他は一切の情報が存在しない奇怪な経歴の持ち主であった。日本語、独逸語、英語を中心として小規模な図書館並には蔵書数が存在するこの地下書庫で一冊の資料も見当たらないのなら、意図的に消された可能性もある。
「そうなると、それなりに地位がある家柄なんだが」
師の言葉を信用するのならマーガレットの父親は狼に襲われているという。狼とは恐らく野生種ではなく人狼の事だろう、もしもそれが本当ならば醜聞だ、無事だった者は家の為に決して外部には漏らさないよう徹底するに違いない。しかし、徹底し過ぎると逆に怪しい痕跡が残ったりするのだ。
少なくとも、彼自身の家系を調べた経験上はそうであった。
「幾ら遡っても条件を満たす家が見当たらないな」
基本的に魔法使いという種は人間と寿命はそう変わらない。1世紀前まで遡っても見当たらないとはどういう事だろうか。マーガレットという名前自体が偽名なのだろうか、しかしそれならば、リドルの師が調べてみろなどと言う必要はない。
「ここだけの資料では手詰まりか」
持っていた分厚い本、生粋の貴族―魔法界家系図を棚に戻し、日の光でも浴びようと立ち上がる。そこで、何処からか視線が来ていることに気付いた。
屋敷の妖怪のものではない。それならば姿を隠す必要なんてない。これは何だと考えながらも杖を握り、何が起こってもいいよう構えを取る。重心を低くしていつでも動けるように全神経を集中させ、降ってきた声に息を飲んだ。
『驚かせてしまったかな』
突如背後から音もなく忍び寄られた割にはおっりとした声だったが、それでも反射的に肩が跳ね、杖を強く握ったまま振り返ると、懐かしい顔が本棚をすり抜けて宙に浮かんでいた。
「……ジン?」
視線の先に居た男。それはまごうことなく恩師の夫、17年前の春に亡くなったの祖父、甚九郎その人だった。
存命ならばもう四半世紀ほど歳を取っているはずだが、目の前の青年はあの時と寸分違わない、薄命の佳人によく似た儚い愁いを帯びた少女的な姿でふわりと微笑む。
『こんにちは。しばらく見ない間に大きくなったね、私のもう一人の息子さん』
「どうして、死んだはずなのに」
『今はお盆の時期だからね、向こうから帰ってきたんだよ。りどるさんは、お盆を知っているのかな。すまないね、英吉利の文化はどうにも疎くて』
撫肩の小柄で華奢な体格。濡れた黒目がちの大きな瞳に病的な白い肌、美しい薔薇のように色付いた頬と唇。仕草に口調、それに体の部位の一つ一つがとても青年とは表現し辛い青年は片仮名を辛そうに発音しながらゆらりゆらりと宙を漂い姫百合の花のように微笑む。
『毎年の事だから、ゆかりさんと、さんにはもう会ったのだけれどね、書庫からも懐かしい気配がしたから、挨拶をしようと来てみたんだ』
「……つまり、今は夏場のハロウィンで、ジンはゴーストという事で宜しいですね」
『はろいん? ごおすと? 幽霊と一緒の意味なのかな』
死んだお陰で英語が話せなくても会話は出来るけれど通訳が欲しいな、と透けた茶色の瞳が書庫の入り口を見た。するとほどなくして、その意思が通じたのか彼の孫が姿を現す。
何も知らずにやってきて扉を開けたは、リドルと祖父の組み合わせに驚いたような顔をして、すぐに知り合いだった事を思い出したのか、少し恥ずかしがるような仕種をしながら祖父の方へと小走りでやってきた。
自分達以外いない事は判っていても小動物のようにきょときょとと辺りを確認してから日本語で何かを伝え始める。
『ゆかりさんが、そう言ったのかな?』
責める口調ではないのだが、祖父にそう返されたは慌てて首を横に振り更に日本語で言葉を続けた。徐々に尻すぼみになっていく声の主に透けた白い手が翳される。
『さんは優しい子だね』
いい子いい子と、決して触れることの出来ない手が頭の上を動くとは照れて俯き、胸の前できゅっと手を握り締めた。それを見て、青年は孫の頭部を抱き締めるような仕種をする。慈愛に満ちた二人のやり取りの傍で、師の言っていた縁切りの呪いは死者に対しては無効らしいと、距離を置いて観察していたリドルは結論付けた。
『心配しなくても大丈夫だよ。ゆかりさんが向こうへ着く頃に移動するからね』
ところで、一つお願いしてもいいかな、と幼子の視線の高さまで腰を落として耳打ちすると、は戸惑った後でゆっくり首を縦に振った。
普段から騒がしさとは縁遠いがそれよりも格段に大人しいの様子が気になり、リドルが小さな黒い頭を見下ろしながら思案していると、少しだけ潤んだ大きな瞳が二人の大人を交互に何度も見ている。どうやら、祖父とリドルが会話をしていたので遠慮をしていたらしい。
『立ち話も何だから、向こうに座ろうか』
「ゴーストなのに座れるんですか?」
『まあ、見ていなさい』
生前と全く変わりのない様子でおっとりと呟いた青年は、が用意した革張りの黒い椅子に座ってみせる。すると椅子は軋んだ音を立て、後ろに凭れればその通りに動いた。
『ほらね、座れたよ』
「……仕組みが理解できません」
先程は本棚をすり抜けたというのに何故椅子には座れるのかと赤い瞳が問いかける。青年は向かいの椅子に孫を座らせながらリドルにも椅子を勧め、相変わらず穏やかに笑った。
『さんや、この椅子が特別だという訳ではないんだよ。ただ、ほんの少しだけ心を込めて貰ったんだ』
「心?」
『そう。これは貴方の為に用意されたものですよ、と生者に許可をして頂くんだ。私はこういった生活が長いから許可が無くても触れる事は出来るのだけれど、それは疲れるからね、滅多な事ではやらないかな』
私が偶々向いた体質だっただけで許可を貰っても触れることが出来ない人は大勢居るけれどね、とまで言うと青年は少しだけ表情を改めてまだ続けるかい、と問いかける。
リドルもそれには首を横に振り、折角の再会にこれ以上無駄話をする必要もないと返した。三人が椅子に座ると、間に挟まれたが慣れない環境に居心地が悪いような仕種をする。その様子を、リドルと祖父は微笑ましそうに眺めていた。
『さて、改めて挨拶しようか。久し振りだね、りどるさん』
「はい。またこうして会えるとは思っていませんでした」
『屋敷の皆とは、うまくやっているかい』
「いえ、まだここに来てそれ程経っていないので……や先生からは、私が居る事は聞いていなかったようですが?」
既に会っている二人からは何も聞いていない事を知ったリドルは青年とその孫を交互に見つめる。すると、幼子の黒い瞳は祖父を見上げ、祖父の茶色の瞳は孫に語りかけているようだった。祖父の言わんとしている事をは理解できているらしい。
「しることは、かなしみが、ひろがるから」
「知る事は悲しみが広がるから?」
が囁いた言葉を口にするが、理解出来ないと首を傾げ続きを促す。
「おじいちゃんは、しんでるから、なにもできないから。かなしいんだって」
「けれど、死者が何も出来ないのは仕方のない事ですよね」
『魂にも、感情はあるんだよ。知る事で増えるのは、いつだって悲しみばかりだ』
寂しがる妻にも、落ち込んでいる孫にも触れることが出来ない、悩める子供達を慰めることも出来ない。出来ない事が当然であっても、それでも悲しいと青年は言う。
元々酷く病弱でそれが原因で他界したので、の祖父の思考は常にネガティブな傾向にあった。リドルは彼がそれを死後までそれを引き摺っているとは思いもよらなかったが、死んだくらいで直る性格ではないらしい。恐らく、生前からの他人嫌いも継続しているのだろう。
『ゆかりさんには敵しかいない、さんには誰もいない。息子夫婦は此処にいない。君は私を必要としていない、私には何も出来ない』
「そこまで落ち込まないで下さい」
『落ち込んでなどいないよ。これは事実なのだから、それだからこそ尚悲しい』
「皆も、私もジンに会えることを喜んでいます、それでは駄目なんですか」
『駄目なんだよ。りどるさん、一時の幸福は麻薬と同じで、それが終わりを迎えてしまった瞬間から長く味わうのは、喪失と絶望なんだ』
茶水晶の瞳が暗く澄み渡り青年の声は悲嘆にくれる。元々潤んでいた瞳は涙で更に潤み、細い腕が肘掛を撫でた。その指先を、幼い手がなぞった。
大人二人の視線がその手の持ち主に向くと、幼子は困ったような顔で祖父を見上げていた。
「おじいちゃん。おばあちゃんのところに、いかないの?」
『ああ。そうだったね、私が、ゆかりさんに何を食べたいか伝えなければならなかったね』
「うん、そうするとね、おばあちゃんは、とってもよろこぶから。おじいちゃんと、おばあちゃんがうれしいとね、もね、うれしいよ」
愛孫であるにそう告げられると、危ういところを漂っていた精神が僅かに持ち直したのか、青年は先程会ったときのような笑みに戻り孫に触れようとしていた。決して触れることが出来ないと判っていても、まるで本当に触れられているようにも振舞う。
「おばあちゃんと、いっぱいおはなし、してきてね」
『そうだね。そうしよう、せめて彼女がこの世に絶望しないように。それが手遅れだとしても』
青年の様子を見ていて、死の寸前もこうだったとリドルは思い返す。若くして死から抗えない男は妻とまだ腹の中にいる子供を残して逝く事に悲しみ、夫を見取るしかない女は涙を堪え気丈に振舞っていた。
あの時のリドルはただ傍にいるだけだったが、それでもこんな立派な息子が居てくれて幸せだと二人は言っていた。それが、生まれて初めて家族というものに触れ、その言葉の意味と存在を理解した日だった。
『そうだ。りどるさんは、始まりの根を探していたね』
あの春の日と変わらない声で青年がリドルの名を呼ぶ。遠くへ飛ぶために透け始めた腕が書庫の一角を指した。
『私やさんは、人より目が優れているから見つけることが出来るのだけれど、りどるさんは普通の目だからね。少しだけ、お手伝いをさせて貰おうかな』
「どこから見ていたんですか」
『私の傍らにゆかりさんが居てくれたように、君達にも全てを赦せる誰かが傍に居てくれるよう、祈らせて欲しい』
質問を無視され、再度一体どこから見ていたのかと問い詰める前に、音もなく煙のように消えてしまった青年の最後の一筋を目で追う。
しばらく沈黙の余韻に浸っていると、残されたリドルを見上げた幼い瞳が根っこを探しているのかと問いかけてきた。
「にんじん? ごぼう? じゃがいも?」
「……いや、そういう意味での根ではないな、多分」
「それじゃあ、うず? ぶし?」
「なんだそれは?」
聞いた事もない単語を放たれ逆に質問すると、は少し考えた後で書庫の隅に移動してカラー印刷された植物図鑑を持って帰って来た。薬草ばかり載っているようで、中には学生時代によく使用した植物も丁寧な説明が添えられて書かれている。
幼子はその中から、何故か猛毒植物のページを探し出して短い指で挿絵をさした。
「トリカブト……」
「とり?」
「いや、態々探してくれてありがとう。けれど、私が欲しいのはそれでもないようだ。それと、この花を見つけても絶対に採って来ては駄目だぞ」
「うん、そうだね。おはなさん、かわいそうだからね」
「は優しい子だな」
腰を屈め頭を撫でるとが不思議そうな顔をして、次いで納得したような、安堵したような、そして寂しそうな表情になる。
先程祖父にも同じ言葉を掛けられ、撫でられていた事を思い出したのだろう。感触という何よりも大きな違いを確かめるように、は猫のような仕種でリドルの手に頭を擦り付けた。
「はやく、おじいちゃんが、さびしくならないように、しないと」
「あの人を出来るのか?」
余りにも悲観的で、身内以外には決して心を開こうとしなかったあの青年を救えるのかと視線で問いかけると、小さな体は力強く肯定した。
「が、つよくなったら」
「まだ、それに固執していたのか」
「こしつ?」
「弱いままでも、私が守ると約束しただろう?」
片膝を付きふっくらとした頬に手を添えると、子供特有の高い体温が手の平から伝わってくる。リドルの冷たい手が気持ちいいのか、も頬を押し付けて悲しそうに目を閉じた。
「が、いちにんまえ? になれば、おばあちゃんは、じゆうになるの」
「自由になったからといって、ジンは……」
言いかけて、の言おうとしている事が、恩師が今望んでいる事が見えてしまいリドルの表情に影が差す。以前言われたとおり、彼女は既に寂しい老人という境遇に押し潰されてしまいそうになっているのだろう。
が独り立ち出来れば、確かに祖父母の悲しみは軽減されるだろう。けれどそれは同時に、に深い悲しみを与える結果になってしまう。
それでいいのか、という問いは咽喉で止まった。
「私でいいのか?」
「うん、リドーさんがいてくれるなら、いい」
だから約束通り傍に居てくれ、その意思表示なのか、頬に触れていた手を小さな手が握り締める。開かれた瞳の奥には、喜びとも悲しみとも付かない感情が複雑に混じり合い、あの青年ですら達し得なかった底知れない澄んだ黒となっていた。