曖昧トルマリン

graytourmaline

海辺の酒宴で懐旧談

 リドルの膝の上で仔猫のように丸まって眠っているの姿を見て、すっかり懐いちゃったわねえと年配の女性は呟いた。テーブルの上から溢れ床にまで乱立する並ぶ徳利を片っ端から空にして、随分経った頃の事である。
 月の浮かぶ海に面した部屋の中でふいに零された言葉に、リドルは少し躊躇った後でこの子供が全身に持つ傷の事を尋ねる事にした。酒豪と名高いその女性は、酔った様子も見せる事無く微笑みと共に言葉の続きを促した。
「泣いていたんです。弱い子は必要ないと言われた、と」
 そんなの嘘ですよね、声無くそう問いかける紅色の瞳は残酷なくらい薄っぺらな感情の元でリドルの言葉を肯定する仕種をした女性を捉え、目を見開く。
「嫌ね、非力だから泣けば済むと思って」
「そんな言い方は」
 反論しようとして膝の上の柔らかい体を思い出し、ゆっくりと深呼吸をしてからを起こしていないかを確認した。それからまた視線を投げると、どうしてと呟く。
 リドルはこの女性を信頼し、好いていた。たった数年だったが、ホグワーツで教鞭を取った日の本の国から来た魔女。
 ホグワーツ出身どころか欧州の出でもない、無名の国の女性。ダンブルドアにスカウトされ極東から来た若い魔女が教諭になった時に出た不満を、力という名の最も単純で純粋な方法を用いて認めさせた実力者を尊敬していた。
 誰にも等しく薄っぺらい優しさを振り撒いていたが、飛び抜けた才能を持つ生徒は手厚く庇護していた。その最初で最後の一人であるリドルの残虐さに目を瞑り、孤児院に帰る必要はないと長期休暇中は彼の身を預かった。ダンブルドアと不仲で衝突ばかりしていた、そんな、気性の激しい女性。
 マグル間で戦争が始まった事を理由にホグワーツを辞してからも密かに交流を続け、夫が他界しても悲しそうな素振りを一切見せず、うんざりするほど自らの息子を自慢していたあの女性が、何故孫にはここまで辛く当たるのか。リドルにはそれが判らなかった。
「辛く当たっている訳じゃあないの。ただ、どうでもいいだけで」
「どうでもいいって」
「貴方がその子の事を気に入ったのなら、拐かしてもいいわよ」
 リドルの思考を読んで先回りした答えを投げた女性は、底知れない波の上を滑る月光を眺めながらゆっくりとした動作で冷えた酒を飲む。
 肴を摘み、舌鼓を打つ様子は普段と何も変わらない。その向かいで、沈黙に窒息しそうになりながら、リドルは次の言葉を紡いだ。
「息子さんの事はあんなに気に掛けていたのに、の事は、愛してないんですか?」
「今は愛していないわ。色々と事情があってね」
 ゆらゆらと揺れる満月から視線を逸らさず、蒸し暑い夜の中で艶を失った唇が動く。
「その子、厄介な呪いに掛かっているの」
「だからって」
「まあ、ちょっと落ち着いて聞きなさい。感情が昂ぶり易いのは貴方の昔からの欠点よ」
 老いても昔と変わらない強い光を帯びた瞳がリドルを見据えると、それだけで言葉が留まってしまった。別に何の圧力もないというのに視線だけで動きを封じられた教え子を眺め、元教師は座椅子に深く腰掛けた。
「1947年、だったかしら。あの冬の日に貴方をイギリスに追い返した後、再婚相手になった従弟殿の頭が予想通り悪くてね。傾いた家の癖に歴史だけはあるのだから、諸々の権力争いに巻き込まれちゃったのよ」
「逃がしてくれた、に訂正しておきますね」
「勝手になさい」
 夜の闇に視線を向けたままリドルを見ようとしない元教師は、過去を見る目で遠くを眺め言葉を続けた。
「不本意だったけれど負ければ地獄を見る羽目になる。勝つ為に手段なんて選んでいられなかったから、不本意だけど息子と同い年の従姪だった義娘もできたわ。尤も、あの男は5年前に死んで離縁したから、今はその義娘が本家を仕切っているけれど」
「5年前というと、が生まれた年ですよね」
 言外に男の死との呪いが関係しているのかと確認したリドルに、茶水晶の瞳が笑う。女性は少しだけ朱を帯びた顔で御猪口を置き、一枚の写真をリドルに見せる。
 写っているのは、今とそう変わらないように見える目の前の女性と、まだ少年である彼女の息子、名前も覚えている。伊織という、イギリス人であるリドルには少し発音し辛い名前だった。そして彼の隣には、学生でも成人でも通じるような不思議な顔立ちをした白人の女性。緩いカーブを描いた黒髪のボブに白い花の髪飾り、誰もが一目で振り返るような華やかさはないが美しい女性で、純粋に黒い瞳には力がある。
「イオリは大きくなりましたね」
「当たり前でしょう。リドルが最後に見たのは生後半年の姿よ」
を最初に見た時、イオリにしては小さ過ぎると思いましたが、まさか息子だとは思いませんでした」
 はイオリ似ですねと言った後、今度は隣の女性に話題を移す。
「彼女がの母親ですか」
「ええ、素敵な女性よ。名前はマーガレットと言って、本当に可憐な女性だったわ。でも、見ての通り日本人ではなくてね、大事な跡取りのまさかの恋人に周囲は大反発」
「因みに先生は?」
「リドル貴方、相手が誰であろうと私が息子の恋路の邪魔をすると思っているの?」
「いいえ、まさか」
 自信に満ちた笑みを浮かべる女性を見ているうちに昔の記憶が蘇ったのか、リドルも少年の頃と変わらない笑みで応える。
 しかし、同時に深くなる疑問は写真を常に持ち歩くくらい愛している夫婦の息子を彼女が愛していないという呪いの種類。顔付きは彼女の息子に、目元はその伴侶によく似て、これ以上ないくらい愛らしい子供には見向きもしない程に酷なものなのか。
 先を促すリドルの視線に、女性は相変わらずねえと呟いて写真を仕舞いこみ、新しく酒を注いで胃と喉を熱くさせた。
「数百年前の繁栄を再度この家にと、伊織を通じて良家と縁を結びたかった連中で、最も反対したのが私の再婚相手よ。あの男と前妻の間には女の子が一人しか居なかったから」
「けれど、今はその子が家を問題なく仕切っているのでしょう。それとも能力以外で、彼女自身に何かあるんですか?」
「良くも悪くも、普通の子よ。それに、あの男の前妻も立派な方だった」
 何百年も続く家だと聞かされ、血に重きを置くリドルの表情が疑問に曇る。
 他人が貴方を理解出来ない事もあるように、貴方には下らない理由に思える信念を持つ人間も沢山いる事を忘れてはならないと声が続ける。
「女が家を仕切るなんてとんでもない、って平然と口にするような男だったから、どうしても息子が欲しかったんでしょうね。あの男の前妻だった人も、女の子を産んだから殺されたようなものだし」
 魔法界征服を企むのはいいけれどそんな風にはなっちゃ駄目よ、と目だけで笑い、写真をしまった胸元を優しく撫で上げる。本来ならば、もそうして触れられるはずだったのにと思うと居た堪れない。
 リドルが沈黙を通していると、彼女はふと笑みを零した。
 を妊娠している時にも此処にも何度か連れて来たと目を細めて思い出を語る女性に、リドルは酷く曖昧な笑みを返す。膝の上の小さな体が寝返りを打った。
 昼間言っていた、来た事はないけれどある、とはそういう事だったのかと膝の上の頭を撫でると、小さな手がきゅっと握られる。
「この子のお腹に命が宿った時は流石に私でも骨が折れたわ。毎日のように母子を殺そうと刺客が来たり、呪殺の怨念が飛んで来たりしてね」
「その時はまだと母親を守っていたんですか?」
「そうよ、私と伊織で……でも、全てをね、防ぎ切る事が出来なかったのよ」
「先生の実力でも?」
 向こう魔法の力もさることながら、こちらの魔法界でも相当の位置にいるはずの女性が防ぎ切れなかったという攻防は、最早リドルの想像の外にあった。
 それは一体どれ程激しいものだったのだろうか。
「買い被り過ぎよ。そうね、それでも、自分の力不足を痛感したわ。幸い、母子が危険な状態になる前に伊織が根源を絶ってくれたから、死ぬ事はなくなったんだけれど」
「それでも、呪いは残った?」
「そういう事。呪った相手が死んでいようがいまいが、呪詛は関係ないのよ」
 白い手が空になった徳利を畳の上に置きまだ中身が残っていそうな物を探るが、見当たらないのか狭く小さな肩が竦められた。
 手の平を打ち鳴らすと紙で出来た人形がするりと襖から現れて、熱帯雨林のように不規則な並び方をしている徳利を片付けていく。新たな酒を断り、リドルに向き直った茶色の瞳が一度だけ縮こまっている幼児の体を見下ろした。
「先生、結局それは、どんな呪いなんですか?」
「名前は付いてないのだけれど、強いて言うなら、縁切りの呪いかしら」
「縁切り?」
「家族、恋人、自分を取り巻く全ての人々、そしてこれから出会うはずの全ての存在から、縁という縁を切る呪い。世界から孤立し、誰からも相手にされない呪縛」
「……だから、は」
「そう、だから」
 の元に両親は居ない、目の前の女性も孫の事を気に掛けては居ない。一人の人間として扱われるが家族としては扱われず、傍に寄るのは人間が嫌いな魔法生物だけ。
「と、本来はそうなるはずだったのけれどね。さんも生まれる前から抵抗したみたいで、近しい血縁者以外は全く効いていないし、2親等の私でもこの子の存在を認識してやれる位には相殺したのよ。代わりに、呪術師としての力は塵にも等しいけれど」
「そうですか、しかし力を失っている割には魔法生物と仲が……」
「力を失っている事と妖怪との仲が良い事には何の関連性もないわ。魔法という存在に重きを置き過ぎね、相変わらず頭が固いんだから」
 少しだけ昔の事を思い出したのか、女性は口元を緩ませて再び窓の外を眺める。
 月は先程より西に傾き、静寂が濃くなっていた。
「あの男から呪いを受けたのが臨月だったから、そんなに時間はなかったけれど。それでも誰もが皆、やれる事はやったわ」
 最後の贈り物になるかもしれない名を考え、人間の生活を知る妖怪を呼び、知りうる限りの妖怪に子供の未来を託し、形ある財産は将来全て与えるよう書類を作った。体内で動き、時折元気よく蹴られる大きなお腹を撫で、ゆっくり生まれておいでと囁いた。
 呪いが少しでも弱まらないか神や高位の妖怪を訪ね、ぎりぎりまで文献を漁り、今の内しか出来ない家族旅行をして、此処にも4人で来たのだと懺悔のような思い出語りをする。
「あの頃の世界は、今でも忘れなれないくらい光り輝いてたのにね。何故今は、こうも酷く鬱々として暗いのかしら」
 情を喪ってしまったようだと呟いた女性は赤い瞳が幼子に向いている事に気付き、どうかしたのかと訊ねた。ただ、その口調は先の言葉が判っている風でもあった。
「……先生」
「何かしら、リドル」
「この子は……は、望まれて生まれて来たんですね」
「そうよ。私も、息子夫婦も、屋敷の妖怪達も、皆がこの子が生まれることを望んでいたの。息子夫婦はこの子供が生まれてすぐ他所へ消えて、私もただの寂しい老人になって、残っているのは人ならざる存在だけれど、この子が産声を上げる日までは、確かに私達も幸せな家族だったのよ」
 月を見上げたまま、女性は歳相応の笑みを浮かべて立ち上がり窓際へ寄る。窓を開けると波の音が耳に残った。
「伊織がね、どう足掻いても時間が足りない事を悟って、ちゃんと愛してくれる人間に預けようと言い出して、でも、結局実現しなかった案があるの」
「誰に預けようとしたのか、差し支えなければ教えて下さい」
「……あの髭の男を覚えていて?」
「はい」
 あの髭、彼女がそういう男はリドルが知る限り一人しかない。当時は変身術の教師を務め、今ではホグワーツの校長となっている男のことだろう。
さんの母親はね、あの男の義理の娘よ。伊織はそれを知っていて預けようとしたの」
「……正気ですか?」
「いっそ狂気で居て欲しいと願う程度にはね。あの子は、あの髭の事を文章で知っているだけで、この事があるまで直接会った事が無かったから」
「実現しなくてよかったと思います、ええもう心の底から」
「でしょう。伊織は引取りに来いって殴り込みに行ったのだけど、すぐあの男がろくでもない人間だと判ってみたいで帰って来たわ。尤も、そうじゃなくても皆あの髭とは仲が悪いから難航したでしょうけれど」
「先生がこちらに居る時点で難航で済むレベルとは到底思えないんですが、この子の母親も不仲だったんですか?」
「マーガレットは昔実父に狼けしかけて、あの髭に引き取られた後に罰としてチシャの葉ごっこさせられてた所を伊織が一目惚れして攫ったらしいから」
「狼……」
「興味があるのなら調べてみなさい、きっと面白い事が判ると思うわ」
 魔女らしい笑いを浮かべた女性は、一つ伸びをしてから物足りないわと呟いて、窓を閉めた。知り合いと飲み比べをして来ると告げるその小さな背中は、相変わらず逞しかった。
「それじゃあ、おやすみなさい」
 ひらりと手を振って襖の向こうに消えた女性を見送ると、リドルは膝の上で震えている体を抱き起こして、濡れたタオルで目元を拭ってやる。
 ふっくらした頬は薔薇色に色付いていて、大きな瞳からは真珠のような涙が溢れていた。
「よかったな、。お前は愛されているんだ」
 幼子が泣き止むまで熱を持った瞼や頬にキスを落とし、傷だらけの柔らかい体を撫でれば小さな指にぎゅっと力が入る
「私も、お前を愛しているから。お前は一人じゃないから、大丈夫だ」
「うん」
 夜よりも深い黒色をした母親譲りの目で笑ったその顔は、確かに写真で見たあの夫婦の子供に間違いのない、花の様な笑みだった。