曖昧トルマリン

graytourmaline

痛いの痛いの

 そうだ、温泉に行こう。
 そう告げられたのは本日の午前、正確には日が昇る前の布団の中での事だった。リドルから布団を剥ぎ取り、また発案者兼実行者でもあるの祖母曰く、家族内親睦会だそうだ。
「ここは私の知り合いが経営していますから安心して寛ぎなさい」
「はあ」
 寝惚けたまま朝食もそこそこに車に突っ込まれ、訳も判らないまま半ば強引に連れてこられたリドルはというと、これ以上親睦を深める気が更々なさそうなの祖母にそう言われ複雑な気分になった。
 一応は彼女の性格の一片を知っているので最初から諦めていた事もあり、抗議らしい抗議はしなかったが、それでも見えない所で溜息を吐く。
「そういうことですから、リドルはさんと同じ部屋で。私は隣に居ますから」
「……え?」
「あら。こんなおばあちゃんと一緒の方が良かったかしら?」
「いえ、そうではなくて」
 何がそういう事なのか、そして何故この幼子と自分という組み合わせなのかと尋ねたかったが、彼女は自称老人とは思えないような綺麗な笑顔のまま、有無を言わさずにをリドルに押し付ける形で隣の部屋へと消えてしまった。
 結局それ以上なにも言えずに背中を見送ると、既に部屋に上がり荷物の整理を始めている小さな子供に目が止まる。動くたびに背中の色鮮やかな帯がゆらゆら揺れている。
 仕方なくその小さな背中の隣で膝を折り、荷物整理の傍らで実年齢よりも幼く見える子供を覗き見た。
 彫りの浅い童顔の日本人顔で、乳白色の肌を覆う髪は黒く肩甲骨の辺りまで真っすぐ伸びている。目は大きくアーモンド型、長い睫も相俟って瞳は黒目がちだった。幼子の父親か、或いは祖父によく似ていて、顔立ちは少女的である。
 そして、そのどれもこれもが小奇麗で、屋敷で大切に扱われて育ったのが手に取るように判るような子供であった。
 出会って数日、本当にまだ間もないが、それでもリドルはが年不相応の思慮分別のある子供だという事くらいは判っていた。
 英語が不得手なため口調こそ幼いが、彼には子供らしさ、特に大人の癇に障るような子供らしさがない。活発ではあるが生意気という言葉とは縁遠く、まだあまり慣れない異国の言語も出来るだけ丁寧に話すよう心がけている。癇癪や我侭、理不尽に直結した感情を表に出した姿をまだ一度も見ていない。
 他人と距離を置いてきたリドルだから判ることかも知れないが、彼はいつもどこか一線引いていて、他人と触れ合うことを人当たりのいい笑顔で拒んでいるようだった。

「はい」
 子供らしい子供、それも聞き分けのいい子供を作っているような雰囲気が、そうせざるを得ない歪んだ状況がこの幼子の周囲にはある事を薄々感じ取っていた。
 今見ているのは何かきっかけがあるとすぐに壊れてしまうような、まだ安定していない表面上の顔。そしてリドル自身は、それに気付いていない振りをする大人を模倣した顔。
 開心術を使うまでもない。どれもこれも偽物ばかりだなと、内心で苦笑する。
は、これからどうするんだい?」
「おふろ、いく」
「こんな時間から?」
 まだ午後の3時を少し回った時計を見て、リドルは不思議そうに首を傾げた。
「おふろ、すきで。ここが、おんせん。かしきる、だから、です」
 長距離の移動に疲れたのだろうか、の言葉が文章として怪しくなってきていた。本人はそれに気が付いていない様子で普段よりふわふわとした表情を浮かべたまま、整理し終えた荷物の前にちょこんと座る。
「リドーさん、どうする、ですか?」
「そうだな、此処にいつまでもいても仕方がない。一緒に行ってもいいかな」
「はい。きがえ、です。これ」
 そう言っては旅館に置いてある浴衣をリドルに渡し、自分は持参した可愛らしい襦袢とタオルを持って部屋の明かりを消した。
 案内をすると買ってでたの小さな背中を先頭に歩いていると、備え付けで用意されている大きなスリッパが掠れた音を立て絨毯の敷かれた廊下で音を立てた。
「随分詳しいようだが、はここに何度も来た事があるのかい?」
「……ない、でも、あります。ちょっとだけ」
 少しだけ考える仕種をしたがとても幸せそうな顔で答えるが、言っている内容が理解できなかったリドルは曖昧な笑みを浮かべてから数回の訪問で場所を覚える事ができるのは凄い事だと見当違いな部分を褒めて会話をかわした。
 それからはいつものように当たり障りのない話をしながら長い廊下を歩いていく。シーズンオフというわけでもないのに客の姿はあまり見ず、宿の人間と明らかに人間ではない何か数人と擦れ違っただけだった。
「ここ、かしきりばしょ、です」
 場所を覚えているというのは本当だったようで、は迷う事無くリドルを案内し、紺で染め抜かれた暖簾をくぐって脱衣所に入る。
 小さいが清潔な脱衣所に設置された曇りガラスは湯気で向こうの様子はあまり判らない。しかし窓の上方で、まだ明るい青空が辛うじて見えた。
「露天風呂なのか」
「リドーさん、しってるですか?」
の家の露天風呂に入った事なら何回もあるよ。それにジン……のお祖父さんも風呂好きだったからね」
「おじいちゃん、しってる?」
 の為に脱衣籠を床に下ろしていたリドルはその手を止めて、どう答えようか逡巡した後、面識がある事を正直に告げる。
「君のお祖母さんとお祖父さんには、本当に良くして貰ったんだ」
 祖父の名前を出すと脱衣籠を受け取ったの瞳に光が帯びた。口に出さずとも顔に自分は祖父の事が大好きだと書かれていて、その様子に思わず含み笑いを浮かべる。祖母の事も勿論大好きだと更に口に出して言う所も微笑ましい。
 しかし、リドルはある事に気付く。
 この幼子の祖父は17年前の春に他界しており、どころかその父親とすら顔を合わせていない。なのに何故そこまで慕っているのか。疑問に思ったことを訊ねられずにはいられなかったリドルが服を脱ぐ手を止め幼子を見下ろすと、途端にの表情が曇り、唐突にくしゃっと顔を歪め涙目になってしまった。
 あまりにも突然の事にその疑問が吹き飛んだリドルは、慰めるようにの前に膝をつき一体どうしたのか、何故泣いているのかと尋ねる。
「てあて、てあてしないと」
?」
「せなか」
「背中?」
 そう指摘され、思い出した。
 この子供は、何時だったかに付けられまだ完治していない背中の傷の事を言っているのだろう。傷自体はかなり大きいが特に呪いがかけられている気配もなく、見た目ほど酷くも深くもないから今まで気に掛けていなかった。
、これはもう痛くないから」
「やっ」
 溜まっていた涙が溢れ出しぼろぼろと零れ落ちては頬を伝う。擦ろうとする腕を押さえてタオルで拭ってやると、今度は口から嗚咽が洩れ始めた。そうしていると、何の痛みも感じなかった背中の傷が急に疼き出したような感覚に陥る。
「私は大丈夫だから」
「や。だめ」
「大丈夫だよ、見た目ほど酷くない。傷も塞がっている」
 泣き止まない子供に心配をかけないよう慰めているはずなのに、その傍から言葉に反して血の流れる感覚が背中を伝う。
 出血は当の昔に止まっていて、傷も癒え始めている状態だというのに、心臓の裏を刺すような痛みに汗が滲み出た。
 その変化に気付いているのか、は目の前で腰をかがめているリドルの首に抱きつき、尚も泣き続けながら小さな手で背中を撫でてはしゃくりあげる。
「リドーさん、いたい、だめ。いたいの、ひどいの、やなの」
「大丈夫、痛くない」
「いたいの、やなの」
 涙声が小さく叫んで、小さなてのひらが傷に触れる。何をしているんだと表情で問いかけると、悲しみに震える声色で「てあて」と言われた。
「て、あてる。だから、てあて」
 が精一杯腕を伸ばして懸命に手を当てようとする。
 しかし、一体何がこの幼子の感情に波を立ててしまったのかと首を傾げると、その小さくて柔らかい体には自分とよく似た、否それよりも酷い傷を見つけてしまった。
 魔法で付けられた傷ではない。物理的な、殴られた痕や切られた傷、治癒力の高い幼い体でも完治させない程、沢山の。
「これは、一体誰が……」
 この子供の祖母、それはありえない。こんな言い方は良くないが、彼女ならもっと、ずっと上手くやる。こんな大きな証拠を残すほどあの女性は間抜けではない。
 それでは誰か、あの家の妖怪のうちの何かなのか。だとしたら、彼女は何故それを黙っているのか。ここまで酷いならば、気付かないわけがないのに。
「リドーさん?」
「私の事より自分の心配をしなさい。こんな酷い傷を負って」
「……は、いい」
「良い筈あるか!」
 思わず声を荒げるが、はきょとんとした様子で涙を止めて、次いで、花のように笑った。子供らしいと言えば子供らしい、無邪気な笑みだった。
「つよくなる。しゅぎょう? だから、いいの」
「強く?」
「しゅぎょう、してる。つよくなる、それで、まもる、みんなを」
「誰から、誰を?」
「にんげん、から、おうち。みんな、まもる」
 だからこれは望んで付けられたものなのだと、誇らしそうに傷だらけの胸を張る姿があまりにも歪で眩暈を覚える。
 こんなのは違うと告げても、幼子は首を傾げるだけだった。
「にんげん、いらない、きらい。みんな、いう」
「確かにあの屋敷に人嫌いは多いが、だったら、だって人間だろう?」
 言われて、軽く頷いたは何でもない口調で返した。
「うん、にんげん。、いらない、いう、いわれる。いなくなる、じぶんで」
「違う。、それは違う」
「うん、ちがう。まだ、いる、いわれる。は、みんなだけ。だから、みんな、いらない、いう、は、だれも、いらないこ」
 幼子の言葉の先にある世界は、リドルが目指す物と似ている。唯、重きを置く存在だけが明らかに異なっていた。リドルは排除する側に立っていたが、この子供は自らを排除される側に置き、そしてその事を疑問に思っていない。
 吐き気がする程綺麗で、融通の一切利かない小さな世界観を見せ付けられ、背中の傷が感情と同調するように疼く。
 再び背中の傷に手をあて始めたの体を逆に抱き込んで、背中を撫でた。こんな生まればかりの体が傷だらけなのだと誰が想像出来るだろうか。
 まだ自分にはこんな心が残っていたのかと驚きはしたが、自嘲はしなかった。
 もう何年、何十年も前の話だがそれでも、リドルにだって塵ほどの良心や愛情が存在していた。渇望し、叶えられなかったからこそ、善に属する感情を厭い軽んじた。
 吹けば飛ぶように薄くなった感情は誰にも向けられず、誰からも向けられず、時と共に消滅したと思っていた。
 唇の形が歪む。同情か愛情かも判らない感情が皮膚の下を這いずり回った。
 自分の中に芽生えたそれを早々に認めてやろうではないかと、リドルはいやに挑発的に自分の感情に判を押した。
「ならば、私が必要としてやる」
「リドーさん、ひつよう、ですか?」
「私がを必要としてやる。誰が何と言おうと、私という人間がの存在を必要とする。だから、二度と今の言葉を口にするな」
「でも」
「頷け」
 強い口調でそう言って抱き締めた小さな体は、しばらくすると先程とは違う理由で泣き始め、喉が切れるのではないか心配になるくらい大きな声が部屋全体を震わせる。
 何故こんな子供がここまで歪められてしまったのか、何故誰にも言えずここまで育ってしまったのか、何故この子の周囲には誰も何も居ないのか、何故その歳で強さを求めるのか。
 湧き上がってきた疑問を抑えきれず、掠れた声でなんで、と呟いた言葉を拾ってしまった幼子は一層強く抱きついて声を張り上げた。
「だって、おばあちゃん。よわいの、いらないって……!」
 自分に最も近しい人間である祖母にそう告げられ、誰からも簡単に見捨てられる事を理解してしまった恐怖は、頭脳だけ育まれ、何の力も持たない幼子にとってどれだけ残酷な現実だったのだろうか。
 止む事無く溢れ出る涙の合間に告げられた言葉で全てを納得した。
 血の繋がった人間からも軽々と捨てられてしまうのなら、異種族である妖怪であれば尚更で、そんな事がもしも起これば、幼い子供にとって世界と同義であるである屋敷で独りきりになってしまう恐怖に晒されていたのだろう。
 箱庭のような狭い世界をそう認識する事を愚かだとは思わないのは、偏にこの幼子が現実に屈服せず抗い続けているからに他ならない。
「弱いままでいいんだ、。私がお前を守ってやる」
 柄にもない台詞だったかもしれない。けれど、全て本心だった。本当にこの小さな子供だけは守ろうと思ってしまったのだ。
「もう、孤独に怯えることもない。私がいてやる、だから」
 笑ってくれ。その言葉通り、幼子は涙を流しながら静かに頷いた。