曖昧トルマリン

graytourmaline

■ 時間軸:退院後、墓参り前

■ お爺ちゃんの事をお母さんと呼びそうになるメルヴィッド

■ お爺ちゃん視点

誰もその名を口衝けない

 オーブンから出されたばかりの、小さなブルーベリーのパイ達を温かいうちに取り分けようとした昼下がり。シャツの裾を引っ張られたので振り返ると、何故か酷く驚いた顔をしたメルヴィッドが立ち竦んでいた。
 開きかけた口を閉じ、また開きかけて、何とか声を出そうとしている様子を見て、まさか薬の調合に失敗して喉を痛めてしまったのだろうかと心配したが、それを言葉にする前に声に出して何でもないと遮られる。
 とても納得出来る答えではなかったし、シャツの裾は未だ強く握り締められたままだ。悪夢でも見たのだろうかと考えたが、寝起きという感じではない。第一、矜持高いこの子は余程の事がない限り私に縋ったりはしないだろう。今現在、三本の箒で起きたアレと同程度の現象が起こっているとは考えられない。
「お腹が空きましたか?」
「……空いた」
「バニラアイス添えたら完成しますから、ちょっとだけ待っていて下さいね」
 ひとまず感覚を日常の物に戻すよう誘導し、念の為背伸びをして頬に触れてみるが熱がある様子はない。しかし、矢張り変だ。何時もなら既に出来ているだろうと目の前に並ぶパイを1つ掴み、先に食べても構わないだろうだとか可愛い許可を求めながら口に運ぶという律儀なのか大雑把なのか判断出来ないような事をやるのに。
 普段とはかけ離れた様子に味見をしないかと誘ってみるが、首を横に振って俯いてしまった。俯いたからといって表情が見えなくなるかと言えば逆で、この子よりは随分と背の低い体を使っている所為で今にも泣き出しそうな表情を直視してしまう。
 親を求めて彷徨って、疲れ果ててしまった迷子の男の子のようだ。
「ああ、そうか。そういう事ですか」
 比喩ではなく、今の彼は迷子の男の子なのだ。ただ、迷っている場所が肉体の場ではなく精神の場だというだけで。
、お前にはこれが、何か判ったのか」
「判断は、そうですね。付きます」
 もう一度手を伸ばし、今度は体温を測る為ではなく慰める為に頬を撫でるが困った顔をされるだけだった。眉尻の下がった情けない顔が、いじらしく思えて仕方がない。
「けれど、それ以上の事は出来ません。判断しか、出来ません」
 年上の人間を母、或いは父とで呼んでしまう、あの現象を私は上手く説明出来なかった。恐らく、メルヴィッドも説明した所で理解出来ない。理解出来ても納得出来ない。単純な理由だ、この子も私も、物心付く頃に両親と触れ合った経験が無かった。
 甘い菓子を焼く私の後ろ姿が、この子の内に幼い頃から存在していた何かに触れてしまったのだろう。咄嗟に口に出てしまいそうになったが、しかし、その単語の部分が真っ白だったのだ。知識としてすら、この子の中には存在しない。
 声に出してしまえばちょっとした笑い話になったのに、それにすら届かなかった。
「これは、何だ。判るなら教えろ」
 今にも泣き出しそうな迷子の表情のまま、シャツが強く握られる。こんな天気の良い暖かな午後なのに、独り震える指先が可哀想だった。けれど、何も出来ない。
「出来ません。私も、それに貴方も、この屋根の下、に住む者は皆」
 そこへ当て嵌めるべき正しい名前と、感情を教えられない。