曖昧トルマリン

graytourmaline

■ 時間軸:リチャードの遺体回収後

■ 検死官と捜査官と分析官による科学捜査の話 in 死体安置室

■ 魔法のまの字も出て来ないが、魔法界のあれこれは登場

■ 検死官の台詞が全体をほぼ覆い尽くすタイプの台本書き

Hello, Mr. Anonym!

 初めまして。
 気分はどうかな、ミスター・アノニム。
 書類上で見るよりもずっと、君の体は素晴らしい状態を保っているようだ。長い事この仕事に携わってきたが、君程の完璧な屍蝋を相手するのは初めてだよ。是非お手柔らかに願いたいね。では、早速解剖を始めよう。
 私はピーター・パーカー、このモルグの検死官主任という肩書きではあるが、中身は精神的にも、内臓的な意味合いでも別にそう偉かない人間だ。無論、検死の技術には自信と誇りを持っているよ、しかし、それ以外は公園で鳩に囲まれている薀蓄好きの偏屈な年寄りと何も変わらないから、気を楽にしてくれたまえ。
 ああ、そうそう。
 ドクター・パーカーではどうも味気ないからね、親しい仲間は私の事をウェブスリンガーと呼ぶんだ、中々洒落の効いた呼び名だろう、初対面だが君さえよければ遠慮せずそう呼んで欲しい。うん、ミスター・アノニム、間違いなく、君は死亡しているね。
 検死台の上でそうして寝ているだけでは暇だろうから、眠気覚ましに私の事でも話して上げよう。初対面の相手に対しての情報開示は友好を築くのに一役買うからね。じゃあ私も、君の事を知る為に腹腔を開こう。いや、まずは抜糸かな。大丈夫だ、麻酔はないが痛みを感じる事もない。なんせ君は死んでいるからね。
 さて、何故私が網打ちことウェブスリンガーと呼ばれているかだが、それは漫画のキャラクターに由来している。ミスター・アノニム、君は漫画を読むかね。子供の読み物だと馬鹿にしてはいけないよ、最近の漫画は私のような老人が思いも付かないような、映画顔負けの迫力を持った素晴らしいストーリーを展開するからね、DCコミックのウォッチメンが良い例だ。アラン・ムーアはイングランドが生み出した宝だよ。
 ふむ、手触りは肉ではなく石膏に近い。死後硬直した死体ともまた違う固さだ。先程までは君とは真逆の腐乱した遺体を解剖していてね、肉が液状化してオートミールのようになっていたよ。腐敗処理をしなかった死体というのは空気に晒されていると1週間程でそうなるから、夏場になると偶に墓穴待ちの棺桶が爆発したりするんだ、腐敗する際に発生するガスを内部に溜め込み過ぎてね。今回破裂したのは棺ではなく庭に隠したポリバケツだったが、彼女の頭は隣人の敷地にまで吹っ飛んでいたそうだよ、フットボールのボールみたいに。鯨の爆発というものを知っているかね?
 いかんいかん、君は殺人犯だが救命士でもあったから死体の話では盛り上がれんだろう。漫画の話に戻そう。
 その漫画の中でも、特に私のお気に入りはマーベル・コミック刊行のアメリカン・コミックスなんだ、スーパーヒーローやヴィランが登場するあれだ。君は土の下で眠っていたから知らないだろうが、この間パニッシャーというアンチ・ヒーローが映画化されてね。パニッシャーというのは、いや、このダークヒーローに関しての詳細な説明は不要かな。ああ、これはスキンステープラータイプの縫合か。止めるのは楽だが、君を開きにするのは中々の手間だぞ。ちょっと待ってくれ、今リムーバーを持ってくるから。
 時間を延長する為にもう少しパニッシャーの話をしよう。
 映画の、あくまでも映画の話である事を留意しておいてくれたまえ、ストーリーはジャパニーズヤクザを相手に大立ち回りを演じる内容になっていてね、アクション映画としての出来はまずまずだがパニッシャーである必要性に疑問を持ったのも確かだ。個人的にはぎりぎりの及第点といった所だろう。
 仕方がない、何せオーストラリア製なんだ。本場のアメリカが手掛ければもう少しまともな作品になったと思うんだがなあ。まあ、成功の秘訣は大いに失敗し、学び取り、そして再チャレンジする精神だから、近い内にリメイクされるだろう。よし、じゃあ抜鈎しよう。なに、怖がる事はない、リムーバーさえあれば針もすぐに抜けるさ。
 話が逸れてしまったから戻そうか。別に死体の話をしたかった訳でも、パニッシャーの事を話したかった訳でもないからね。そんなパニッシャーが存在しているマーベル・コミックスは、X-Men、ファンタスティック・フォー、キャプテン・アメリカのようなヒーローが活躍している出版社の漫画なんだ。
 そして、その中にスパイダーマンと呼ばれるヒーローがいる。彼の動きはスタントマンで表現出来る領域を超えているから実写映画化はされていないが、何度かアニメーション化されてはいるんだがね、そうか、知らないか。いやいや、弱そうな名前なんてとんでもない、蜘蛛男だといって侮ってはいけないよ。パニッシャーだって元はスパイダーマンの敵役だったんだ、アメリカン・コミックスにはよくあるパターンだね。これはいかん、以前の検死官は君の事を随分手荒に扱ったようだ、内臓が人体的にありえない状態で収まっている。
 スパイダーマンは第六感で危険を感知し、10tもある物質を持ち上げ、常人の40倍もの身体的能力を保持し、重力を無視するように壁に張り付き、摩天楼たるニューヨークの街を蜘蛛の糸を駆使して縦横無尽に駆け巡る、赤いコスチュームを身に纏った正体不明のヒーローだ。想像してみたまえ、ウェブを駆使して超高層ビルの谷間を縫う姿、ネオンの洪水の隙間を飛び回る影、格好良いだろう。そんな驚異的な肉体とは裏腹に、彼の心はどこまでも等身大の人間だ。マスクの下には仕事や恋愛、人間関係で悩むごく普通の青年がいるんだよ、そこがまた良い。
 ピーター・ベンジャミン・パーカー、ごく有り触れた名前だろう。しかし私にとっては2つの意味で大切な名だ、1つはスパイダーマンの本名、もう1つは私の本名だからね。私は自分と同じ名前のヒーローのファンなんだ。ああ、これは酷いな。何故脾臓が前面に。君は本当に酷い腕をした検死官に当たったようだ。小腸の収め方もなっとらん。
 人体的にありえない位置に収まる内臓というのは君を不安にさせるね、楽しい話を続けよう。スパイダーマンには様々な呼び名や愛称があってね、ウェブスリンガー以外にもスパイディだとか、ウェブヘッド、それに、親愛なる隣人。最後の呼び名が私は好きなんだが、私の親愛なる隣人が大抵死体だからか生きた隣人達が気軽にこの名で呼ぶのは少々気後れするようだ。いかんなあ、なっとらん。安心してくれ、元に戻す時は私が責任を持って、正しい位置に内臓を収めて縫合をしてあげよう。
 まあ、そんな事だから私の事はウェブスリンガー、何なら親愛なる隣人と呼んでくれ。勿論どちらで呼んでも、はたまた呼ばなくても過不足なく仕事をするよ。臍くらいは曲げるかもしれんがね。王様も乞食も、死んでしまえば皆、君と同じ、そうだろう、ミスター・アノニム。
 おっと、お客さんだ。
「どうだ、ベニー」
 少しばかり来るのが早かったよ、少尉。たった今胸と腹を開いたばかりだから、あと2時間はかかる。その様子じゃどうせコーヒーしか飲んでいないんだろう、カフェイン摂取で胃を荒らすのも程々にして遅めのランチでも取ってきたらどうかね。酷い顔をしとるよ。
 判った判った、そんな目で睨むな。見ての通り、ミスター・アノニムことリチャード・ロウは死んでいる。それも、完全にだ。
 現段階で断定は出来んが、死因は後頭部の脳挫傷と見てほぼ間違いないだろう。死後半年以上が経過、うん、内臓や筋肉まで完全に達しているから恐らく埋葬されてすぐ屍蝋化が始まったんだろう。3年程度と見ていいかもしれん。付け加えると、屍蝋化に関しては明らかに人為的なものだ。内臓を含む全身の蝋化にバラ付きが全く見当たらない。これを手掛けた人間は3年間、少なくとも春から秋にかけては低温多湿状態を維持出来る施設か装置を所持している可能性がある、屍蝋化させるのに適した場所、かもしれんがね。
 施術者はこの手のプロか、最低でもハイアマチュアレベルだろうな、脂肪分や金属イオンと友好関係を築く事を得意とする輩だ、具体的に言うと彼等をパブに連れ込みエールを飲みながら品のないブリティッシュ・ジョークを交わす能力を持った人間だよ。元々防腐処理をされていたとはいえ、ここまで均一に屍蝋化を進行させるのは素人では不可能だ。
 ただし、その施術者のお陰で綺麗な指紋も取れた。そっちはラボに回しておいたから、そろそろチャールズ辺りが受け取っているかもしれないよ、と、噂をすればだ。
 チャールズ、警部とはいえ君もそろそろいい歳になる爺さんなんだ、階段を走るのは止めたまえ。私は友人である君をこのモルグで解剖したくない。少尉を探しに来たんだろう、内線という便利な機能が発明されいるんだ、是非活用願いたいね。
「適度な運動が白髪になっても健康に生き続けるコツさ、ウェブスリンガー。少尉、そこにいる彼の指紋と犯人の指紋とが一致した」
「だ、そうだが。どう思う、ベニー」
 幾ら昨日死んだかのように見える瑞々しい死体でも、彼は間違いなく3年以上前に死んでいるよ。死んだ人間は生き返らない。ならば彼以外の誰かが犯人だ。これは断言出来る事実だよ、なんなら私の積み重ねてきたキャリア全てを賭けよう。この背中を見てみろ、彼にはちゃんと死斑もある。
 なにか言いたいようだがな、チャールズ。爪や指の関節の間には、残念ながら何も出そうにない。腐敗処理された後で屍蝋化した遺体だから本当に綺麗なものだ。シリコーン樹脂の残骸でも挟まっていれば指紋や掌紋を複製した誰かがいる証明になるんだが、まあ、結論ありきで捜査するのは我々の理に反する行為だからな。犯人に繋がる物的証拠を発見するのが我々の仕事だ。推理は書物の探偵かテレビのコメンテーター達に任せよう。
「3年前の死体が犯人であるはずがない。そうだろう、モルグのウェブスリンガー」
 ああ、勿論だよ。殺害現場で採取された指紋は彼のもの、彼は3年以上前に死んでいる。現実的には考えられん事態だが、現時点で科学はその2点が両立している事を示している。何らかのエラーが発覚しそれが覆されるか、両立に納得出来るような証拠が発見されない限りは、それが事実だ。そうだろう、少尉。
 取り敢えず、さっき言ったようにランチを食べてから2時間後にもう一度来てくれ。それまでに全体の確認を軽く済ませておこう。じっくり確認するのはその後だな、新たな証拠が出て来る度に現場が混乱している、どうにも一筋縄では行かん事件のようだ。
「そうか。しかしそうなると、余計な事をしてしまったかな」
「何かあったのか、チャーリー」
「そもそも、そこにいる彼が本当にリチャード・ロウなのか私なりに疑問に思ってね、内部資料の閲覧を申請したんだよ。先程サリー州の州警察から許可が下りた、明日の朝一にでも届くだろうが、結果を知りたいとは思えなくなってきたな」
「生前のリチャード・ロウに関連した捜査資料か。一体何処にあったんだ」
 彼の捜査資料は裁判所が紛失したと聞いていたが。どういう事かね、チャールズ。
「行方知れずになっているのは、1987年7月26日に彼が殺された事件に関係する捜査資料や証拠品だ。リチャード・ロウはそれ以前にDNAと指紋を提出した事がある。私が閲覧申請したのは同年7月3日にハリー・ポッター、今はと名乗っている少年が保護された時の事件だよ。こっちの捜査資料は無傷だったから、向こうにいる親友に口を利いて頼んで貰ったよ」
「有り難い情報だが、疑問点が残る。指紋認証システム内にリチャード・ロウの指紋は存在しなかった。勿論DNA情報もだ。何故データベースへの登録がされていない」
「現場の馬鹿が勝手に判断したようだ。夫が妻に惨殺された事件の弾みで保護した経緯があるんだが、犯人も殺害方法も判り切って被疑者も死亡していたから形式上の捜査だけで関係者の情報を入力せずに切り上げたらしい」
 紙媒体でも情報が残っていたのが奇跡だが、いや、少尉、君の言いたい事は判るよ。それはあってはならん事だからな。
「チャーリー、私は2時間仮眠を取る。君も休憩を取れ。ベニー、私がもう一度来るまでにそいつをきっちり腑分けしろ」
「了解、少尉殿。では私も1時間程、席を外すとしよう」
「それとだ、罪もない民間人を殺しまくったこのクソ野郎を野放しにしたサリー州の腐れ魔羅共には私から話があると伝えておけ!」
「イエス・サー」
 ああ、少尉。頼むから脳の血管を破裂させないでくれよ、私は君の死体も見たくはない。チャールズ、君は彼を追わないのか。
「幸い、陸軍時代の片鱗を見せた怖い少尉殿から守らなければならないプロビー達は遅いランチで外出中だ。そして報告すべき書類は彼が持って行き、私は休憩を取るように気遣われたが、実は既にランチを食べた」
 少尉に見られていないという事は、どうせまた腹に溜まるだけの味気ないファーストフードなんだろう。今日は何だ。サンドイッチ? ハンバーガー? ベイクド・ポテト? それともテイクアウトボックスに入ったチャイニーズかベトナムフードかね。
「残念だがどれも不正解だ。正解はキャドバリーのデイリーミルク数本と、ウォーカーズのプローンカクテルを1袋」
 チャールズ、それは間食用の菓子類じゃないか、チョコレート・バーもクリスプスも小腹を満たすだけでランチ代わりに食べる物じゃないだろう。最大限譲歩しても朝食だ。健康に必要なのは運動だが、それ以前に食事管理だ。
 なあ、ミスター・アノニム。君は殺人鬼であると同時に救命士でもあっただろう。胃の内容物は以前の検死で採取されて空っぽだが、屍蝋化出来た体格や内臓を見てもきちんとした食生活を送っていたに違いない。だから君も、きっと私に賛成してくれる、そうだろう。
「多数決に死体の腕を換算してくれるなよ。判った判った、今夜は肉か魚か、兎に角もう少しまともな物を食べる事を約束しよう。ついでに君と少尉も誘うよ、場所はいつもの店で、これで納得してくれるだろう。それじゃあ私は休憩に入るよ。また夜に会おう、それまで頼んだぞ、ウェブスリンガー」
 判っているよ、全力を尽くそう。
 さて、また君と私の2人きりだ。さっきは何処まで話したかな、ミスター・アノニム。私の愛称の由来だったかな。
 丁度いい、ならば今来た2人の愛称も説明しよう。少尉もチャールズも、私よりはずっと単純な理由だが、本来愛称というのものは単純なものだからね。経歴とか、見た目とか、そういったものさ。
 先にモルグへ来た彼は分析チームの主任でね、分析官でもあり逮捕権を持つ捜査官でもある。周囲からはチーフだとかボスだとか色々と呼ばれているが、一番多い呼び方は少尉だ。10年くらい前に以前の主任が辞職してね、陸軍からこちらに来たんだよ、その時の階級が少尉だったという訳さ。因みに今の階級は警部補だが、彼をそう呼ぶ人間をこの施設内で見た事がない。私の事を頑なにウェブスリンガーと呼ばず、ミドルネームのベニーと呼ぶのも彼だけだ。
 チャールズは、まあ、あの髭を見れば一発で判るだろう。かの喜劇王と同じ形からそう呼ばれている。チャーリーやらチャップリンやらC.C.やら警部やら、こっちも中々統一性がないが、皆には一番舌で綴り易いチャーリーで呼ばれているかな。私自身はチャールズと呼んでいるがね。彼は別の州の爆発物処理班から転属して来た叩き上げだ。特殊技能に爆発物があってよく少尉と組んでいるから勘違いされる事が多いが、彼は捜査官であり分析官ではない。着痩せするタイプでね、インテリな容姿に見えるから一度ふざけて白衣を着せた事があるんだが、あれは驚く程似合っていなかったなあ。
 ふむ、これは、ああ、そうか。君の髪型が一部面白い事に気付いてね、少し不思議に思ったんだが、君が救った子供、君だったかな、彼は君の遺髪をメモリアルジュエリーにしていたんだったね。1房分切られて、切り口は綺麗に揃っている。
 となると、ミスター・アノニム。たった1房の髪で君がリチャード・ロウである証拠がまた1つ増えた訳だ。念の為、後でDNAのサンプルも取ろう。血管の中は防腐剤で満たされているだろうから皮膚か口内、いや、脊髄からが安全だな。それで指紋と一緒にデータベースへ載せる事にしよう。
 ああ、指紋とDNAといえば、少尉が陸軍時代の顔で物凄く怒っていたね。それは仕方がない、当事者の君なら判るだろう。1987年の7月3日以降にも毒殺事件の被害者は存在しているんだ。君の指紋さえ速やかに登録されていれば、その被害者は死なずに済んだ可能性が高いんだよ。2件目の時点で、容疑者の指紋は特定されていたからね。
 そう思うと、最初の事件を起こした犯人は小知恵が回るようだ。
 あれがオリジナルで、君は云わば模倣者だろう。最初の事件、1986年の12月14日、日曜日。君は宿直中でアリバイがあった、それと、1件目の事件のペットボトルには一切の証拠が残っていないね。ラベル、キャップ、本体、内容物、そのどこにも犯人に繋がる手掛かりはなかった。
 かなり早い段階から1件目とそれ以降の犯人は違うと皆が感じていたし、君の裁判でも最初の事件だけは違うと法も認めたね。だから実は、無差別連続毒殺事件はまだ終わっていないんだよ。犯人は互いに面識のない複数犯だ。引き金を引いた極めて悪質な誰かが、まだ何処かに存在しているのは良くない事実だ。
 君が殺された事件、あれも捜査後の展開が随分と悪質だがね。殺人事件の証拠資料が盗難被害に遭うなんてのは紛れもない醜聞だ、一晩の間に綺麗になくなったというのは全くもって理解し難い。現場には犯人のものだと思われる指紋や靴の跡が残っていたが、物証はそれだけだ。鍵穴は綺麗なまま、防犯カメラにも怪しい人間は誰も写っていないし守衛も見ていない、侵入した形跡を全く残していないにも関わらず、何故か現場の証拠はそのまま放置している。
 私の言いたい事は判るだろう、君の棺に同じ事が起こっているんだ。因みに、棺の指紋は証拠保管庫で採取された指紋と一致したよ。
 ミスター・アノニム、死体である君の周囲で何が起こっているのか、教えてくれないか。
 私は五感と知識を総動員して死者の声を聞く者だ、だから、知っているのなら是非語って欲しい。でないとあらぬ方向へ疑いの目が行ってしまう。
 判るかね、君がとても大切に思っていた少年の事だ。
 あの子も、あの子の保護者にも捜査の手が及んだよ。同行を求められる以前に潔白だと証明されたから本人達は知らんだろうがね。
 特に君はミスター・アノニム、君を慕っていると公言しているんだ。あらゆる想いを否定され、蔑みの目で見られようと、それでも君だけが自分を救ってくれたのだと訴え続けている。たとえそれが、君に殺された被害者遺族の感情を逆撫でようと、それでも決してあの子は意見を変えない。君はあの子にとって神にも等しいのだよ。
 勘違いしないでくれ、私は否定したい訳じゃない。遺体袋の中で聞いてしまったかもしれんが、捜査員の中にはあの子の信仰を理解し難いと思っている人間もいる。しかし、私はあの子の気持ちを肯定したい。
 偶にね、やって来るんだよ。今、君の眠っているそのベッドの上に、幾つにもならない子供が。私はこんなだからね、人種、性別、年齢、経歴で解剖差別はしないと掲げているが、それでも、小さな子供や幼児の死体は精神的に堪えるよ。だから君自身が人殺しの犯罪者であっても、君が子供を救った事実をなかった事にはしないし、救われた子供が君を慕う気持ちは肯定したい。
 君の罪は君だけのものだ、君に救われた人間に罪はない、そうだろう?
 少尉も私と同じ気持ちだ。ほら、彼は陸軍出身だろう。私は第三世界をメディアを通してしか知らないが、彼は実際にそこにいた。武器を携えた子供と対峙した事も、きっとあったのだろう。
 彼の転職の原因は心的外傷後ストレス障、PTSDだと思っただろう。まあ、それも否定出来ない事実だが、決定的要素は別にある。これを君に話すべきかどうかだが、いや大丈夫だろう。ミスター・アノニム、君の口は尋常ではない硬質さを持っているから他の誰かに聞かれる心配はない、医学的に見て君が黙秘する事は確実だろう。
 1981年、11月1日に起きた事件を覚えているかね。
 白昼の街中で大規模なガス爆発が起きて、子供を含む男女13人が死亡した事件だ。その中に、少尉にとって大切な人達がいたんだ。家族や恋人ではないが、それと同じくらいに大切な存在だったんだよ。
 亡くなったのは1組の母子だ。戦死した親友の妻と、その子供が爆発に巻き込まれて殺された。戦地から生きて帰って来た少尉は親友にその2人の事を託されていて、互いに支え合いながら生きていたんだ。2人は少尉にとっての神であり、彼等がいなければ社会復帰なんて出来なかったと感謝しているよ。今でも。
 その事件が何故少尉が主任となった事と繋がるのか不思議だろう。しかしね、一部の人間にとっては不思議でも何でもないのだよ。少尉や、チャールズや、私にとってはね。
 何故ここでチャールズと私が出て来るのか理解出来んだろうが、焦りは禁物だ。ゆっくりと1つずつ紐解いていこう。君の体を切り開くのには沢山の時間が必要だからね。
 10年前、少尉は酷く嘆いたよ。棺に向かって吠えるように泣いたそうだ。しかし、嘆きながらも彼は違和感に気付いてしまった。
 遺体には火傷の痕が全く見当たらなかったんだ。
 君には判るだろう、この違和感が。ミスター・アノニム、なにせ君は殺人鬼でありながら救命士だった男でもあるんだ。だが、念の為、答え合わせをしておこう。
 表向きの事故原因になったとされているガス爆発というものは、文字通りガスが爆発して起こる現象だ。爆発の際は炎と高温の蒸気が地を這うように周囲へ広がり、酷い場合は体表面積の9割以上がⅢ度熱傷になる。熱気を吸引した場合は呼吸器や粘膜の損傷で窒息する事も少なくない。軽い場合でも勿論、何処かしら火傷をしている。
 しかし、遺体にはそんな痕が全く存在していなかった。彼等の死因は主に裂傷で、酷い場合は指1本しか残らなかった、とされている。
 その瞬間、少尉の中の感情は、怒りが嘆きに勝ったんだ。怒りの感情を表情に出したまま胸倉を掴まれた時は流石に死を覚悟したがね。そう、私なんだよ。少尉が守る筈だった2人の母子を含む13人、全ての遺体を見て、死亡判定を下したのは。
 私だってその事には気付いたに決っている、ああ、気付いたとも。
 私は検死官として書き記し報告したよ、死因は裂傷、火傷は皆無、原因はガス爆発ではないと。しかし聞き入れて貰えなかった。当時の主任でも、局長でもない、更に上から圧力がかかって来た。そして、それに反発し追求しようとした当時の主任は首を切られた。いや、物理ではなく役職的な意味合いでだ。不当な人事に局長は今にも血を流さんばかりの表情で唇を噛み締め、多くの捜査員達が口を噤んだ。局長よりも上からの圧力というのは、それはもう組織ではなく国からの圧力なんだよ。
 そんな中で、主任の跡を継いだのが少尉だった、という訳だ。彼は陸軍時代とても優秀だったようでね、私もいい男がいるとうっかり局長に漏らしたりもしたが、そんな事をせずともすぐに採用が決まったよ。それからというもの、私達は時間を見付けては過去の科学的に不自然な事件を追っているんだが。
 チャールズは何処に出て来たか、だって。それはこれからだ、急かしてはいけないよ。
 私と少尉が仲良くなって、しかしそれでも彼が私の事をウェブスリンガーとは呼んでくれない日が続いた、そんなある日。白髪にちょび髭の男が転属して来た。うん、チャールズだね。彼もまた、11月1日の事件で傷付き、そして違和感に気付いた人間だった。
 チャールズはすぐ私達に接触して来たよ。まあ、我々はマスコミのように隠れて事件を嗅ぎ回っている訳ではないからね、ただ大っぴらに動いていないだけさ。知っている人は知っている、そんな存在だよ。だからチャールズも迷わず一直線に来た。
 彼は冤罪を受けた者の身内だったよ。
 甥っ子がね、事件の原因となったガス会社の整備を担当する関連会社に勤務していたが、責任を追求され首を吊って死んだそうだ。彼の遺書にはこうあったそうだ。私は悪くない、けれど、もう耐えられない。とね。
 チャールズは甥っ子の所為ではないと励まし続けたが、それも無駄だったらしい。私が紹介した事を覚えているかな、チャールズは爆発物処理班に所属していた叩き上げだと。私や少尉とは違う角度で、彼も違和感に気付いたんだ。チャールズが言うには、爆発の仕方がまずおかしいらしい。
 彼の言い分によると、あの爆発は地下のガス管ではなく地上で起こったものだそうだ。吹き飛んだ道路の舗装や破裂したガスや水道の管を見ればすぐに判るらしいが、私はそちらは専門じゃないから判らん。しかし、専門家であるチャールズが言うのならそうなのだろう。
 真っ当な捜査がされれば整備不良ではなく別の原因だと判るから安心しろと、甥っ子にはそう言ったが、結局犯人はガス整備会社となった時には絶望したそうだ。どういう事かと殴り込みをかけようかと思った矢先、我々の事を知ったらしい。それからはずっと、私達3人はこうして力を合わせ、あの事件の全容解明に力を注いでいる訳だ。
 ふむ、結論がズレたな。
 つまり少尉はそのような形でここに来たんだ。他にも幾つか、強引な形で収束を迎えさせられた犯罪が過去にあるが、さて、何から話そうか。
 ああ、その前に現在その事件がどこまで解明されているのか説明する方が先か。とはいっても、中々進展していないんだがね。なんせ書類上では既に終わった事件だ、再捜査には私的な時間を使うしかない。
 今、我々が注目しているのは被害者の1人とされている、ピーター・ペティグリューという名の青年だ。私と同じ名前だね、それにイニシャルも一緒だ。そういえば、君が君にプレゼントしなかった方のぬいぐるみも同じ名前だったかな。あれは人間ではなくうさぎらしいが、どちらにしても非常に伝統的な名前だ。
 何があったのかは、今から話そう。難しい事ではない、13種類のパズルのピースを全て混ぜ込んだ中から13枚の絵を完成させようとしたら、12枚の絵と13枚目の1ピースになったようなものだ。
 ミスター・ペティグリューの遺体は、矢張り火傷のない、綺麗な指の一欠片だけだった。彼に前科はなくてね、被害者の特定には時間がかかると思っていたが、その日の内にペティグリュー夫人、いや妻ではなく母親がそれは息子だと駆け込んで来たよ。
 結果的にそれは正解だったが、矢張り奇妙に思ったね。私は検死官だからね、死体以外の分析は本業ではないし物的証拠でもないが、うん。
 彼女は何故か、自分の息子が死亡している事を知っていたんだ。
 あの事件では随分怪我人も出て犠牲者の家族も大勢押しかけたらしいのだが、家族が既に死亡している事を初めから知っていたのはペティグリュー夫人だけだった。本当に、何処から情報を仕入れたんだろうね。亡くなった彼は彼で、死の間際に何か妙な事を叫んでいたと証言があるしね。
 不自然な事だから無論疑ったさ。特に前の主任がね。
 だからつまり、そういう事さ。
 私の領分でも不自然な点があってだね、残された彼の指が、おっと内線だ。
 パーカーだ。ああ、そうか。判った、受け入れ体制を整えておくよ。じゃあ。
 やあ、ミスター・アノニム。どうか悲しみたまえ。君に後輩が出来るよ、また女性の腐乱死体だ。爆発するポリバケツはどうやら1つではなかったようだね。まるで一個人で起こされるテロリズムだよ、どの事件の誰とは言わんがね。
 君が生前起こした事件、あれも正真正銘のテロリズムだろう。手段はともかく、そこには明確な目的があった。善良な人間の立場から言わせて貰うが、君のやった事に関しては肯定も賛美もせんよ、ただ今は事実を口にしているだけだ。
 だが、と言うべきか、だから、と言うべきか。それは判らん。ただ、理由もなく確信している事が私にはある。検死官としてではなく人間としてだ。君の死後に起こった今回の事件だが、たとえ霊魂が存在していようと、犯人は君ではないと思っているよ。
 未だ君を慕っている子供へ会いに行かず、自分を殺した女へ常軌を逸した方法で復讐をする事を選ぶ。君はそんな薄情な男ではない筈だ。
 そうだろう、ミスター・アノニム。