■ 若かりし頃のアークタルスさんのお話
■ ナイジェラスさんじゃない方のフィニアスさんの行方について
■ 俺、この戦争が始まったらマグル界に行くんだ。って内容
■ 1930年代の話なのでお爺ちゃんは登場しない
■ アークタルスさん視点
黒い狗
人間に換算すれば壮年と呼ぶ事が妥当な、私に仕えてから両手と片足の指程度の年数は経ているハウスエルフが来訪者を告げて来たのは、約束の時間を少し過ぎた頃だった。
会う旨を伝えるよう指示し、次いで、すぐに外に出る用事を言い付ける。身分が高くとも饗す準備は不要の相手と取引をするのだと理解出来るくらいには、このハウスエルフを教育して来た。
静まり返った屋敷の窓から外を見ても濃い霧が立ち籠めるばかりで、灰白色以外の景色も見えなければ僅かな音すら聞こえない。情報が錯綜し、ひたすらに慌ただしいマグルの動向を常に監視しているロンドンの本邸とは、雲泥の差だ。
本来ならば私もそちらにいるべき人間だが、今日、この時刻に限りそうではない。
ただ、本邸に置いて来た子供達は、気がかりだ。分家の独り身の女達は年齢を問わずルクレティアを妬み、隙あらばオリオンの妻の座に納まろうと躍起になっている。逆の現象が起こらないのは、気質と肉体の関係だろうか。ルクレティアは体こそ丈夫だが妻に似て気が弱く、オリオンは父に似て気は強いが常に病気がちだった。
最近は特に、ポルックスの長子が分を超えた態度で接している。名は確か、ヴァルブルガだったか。ヒステリー気味の、当主の妻となるべき資質を持ち合わせているとは思えない少女だ。頭の足りない従弟殿の、父娘にしてはあまりにも無茶な年齢を考慮すると、恐らくあの子供は私の子供と番わせる為に作られたのだろう。
生憎だが、私はブラック家同士の結婚に乗り気ではない。マグルのハプスブルク家のような例もある、ブラック家同士の近親婚は純血の魔法使いが互いにしか存在しなくなった最悪の場合の手段にしたい。
このような些細な事で頭を悩ませたくはないのに、胃も頭も酷く痛んだ。せめて今からの事だけでも手早く済ませたいものだと溜息を吐き、書斎を抜けて応接室へと近付く前に表情を何時ものそれに近付ける。完璧に演じる事も出来なくはないが、多少の違和感程度ならば寧ろ、残した方がいいだろう。
「ご無沙汰しております、フィニアス叔父様。遠路お越しいただきまして、ありがとうございます」
「やあ、アークタルス。久し振りと言う程ではないだろう、シグナスの誕生祝い振りだ」
応接室の中央に佇む男、フィニアス・ブラック、父の末の弟。
甥の私と一回りも離れていないこの叔父は、ブラック家の人間にしては珍しく人当たりや気立てが良い。それを歓迎するべきか、せざるべきかは、応対する人間の立場にも依るので一概にどうとは言えないが、当主たる父が黙認していたので皆それに倣っているのが現状である。個人的な視点で彼を語る事を許されるのであれば、幼い頃から頻繁に可愛がられていた身の為、好意はあった。
「色々と立て込んでいる時に悪いね」
「遠慮なさらないで下さい、叔父様の頼みならば多少の融通は利かせます」
「そう言って貰えるとこちらも気が楽だよ。仕事の方は、相変わらずあの厳しい兄上に死ぬ程扱かれてるのかな?」
「お陰様で、それを感じる直前までは用向きを命じていただけております。叔父様の方は」
ここで、態とらしく言葉を切る。間を置いて、拙い事になっているようだと声を潜めて口にした。
それらしく演出したにも関わらず、私ならば今の世界がどのように拙いのか理解していると思っていたと苦笑されるに留まる。彼は、あの父が最も目をかけた人間で、可愛がった末弟だ。私がどのような言葉を発した所で、こうなる事は判っていた筈だ。
「戦争がまた、始まる。ルール占領からのハイパーインフレーション、アメリカが起こした世界恐慌、様々な要素が混ざり合い、戦後補償をしていたドイツの限界が来た。所詮資本投下やドーズ案、ヤング案は焼け石に水だった訳だ。ドイツマグル界の、国家社会主義ドイツ労働者党が仕掛けて来る」
「そのようですね。外交関係は既に父が動いて、マグル界の戦況に関わらず魔法界は従来通りの方針を貫く方向で固まりそうですが……叔父様は、それが許せない」
「お前は私の理解者だね」
同じ人間としてマグルを見捨てる訳にはいかないだろうと同意を求めた叔父にソファを勧め、彼の為にあらかじめ父が用意したワインを開け、赤い液体が揺らめくグラスを掲げる。早速口を付けて、あまり美味しくないと素直な感想を述べる叔父に、私が管理している会社で作らせた物だと正直に告げれば、改善の余地ありだと更に返された。
「残念ながら、今は質よりも量を確保しなければならない時期なので」
「お前は国内担当か、まあ、外ならばあの兄上の方が顔が利くのは確かだからね。土地の確保や施設整備にかなりの私財を投げ打ったようだが、大丈夫か」
「親子4人が暮らしていける程度には」
「奥方が散財しなければ、だろう。不安定な情勢だというのに今はご友人達を引き連れて外遊中だとか、このマグルの家も彼女が強請ったと噂に聞いたが」
「人里離れた小さな屋敷程度なら、可愛い我儘ですよ。マグルの道具ばかりで不便ですが、彼女には本邸の空気が合わないようなので」
「あの家の。いや、あの兄上の持つ毒気は否定しないよ」
「そうしなければならない立場の人だからと、結婚以前は私が言うまでもなく口にして、理解を貰えていたのですが。希望を抱き過ぎたのでしょうね」
思わず出てしまった愚痴を拾われて、マクミラン家の人間は大なり小なりそういう所があると苦笑される。
ふわふわして何時だって浮ついて、現実で起こっている事象の理解が浅いのだと。大半の魔法使い達がそうではないのかとは思ったが、敢えて口には出さなかった。
渋いだけのワインとドライナッツを更に勧め、愚痴を含ませた前口上はそろそろ終わろうと視線だけで語り合う。飲んでもいないのに、瓶とグラスから漏れる香りだけで頭痛が酷くなって来た。
「それで、私は貴方の何をどのようにすれば宜しいのでしょうか」
「私がマグル界にいる間、管理を任せたい。グリンゴッツの私の金庫だ、書類は全て用意してあるから後はお前のサインだけでいい」
「魔法界から離れる気なら、危険ですよ。マグルの銀行に預けた方が利口に思えますが」
「魔法使いは記憶の改竄は出来ても記録の改竄は不得手だ、一度に巨額の資産を移動させるとマグルの政府に目を付けられる。それは避けたい」
少量ずつ、全ての資産を移し終えるまでの数年間は、私が名ばかりの管理をする。報酬は金庫に残る通貨以外の動産、マグルに流せないような曰く付きの宝石や貴金属、動く絵画や蠢く彫刻、壺や絵皿等の骨董品、それに彼がコレクションしていた銃。
思い出という要素を外せば、ほとんどが塵芥だ。
魔法界に売り捌いた所で幾らにもならないそれ、たとえば、父が結婚式で付けていたカフスボタンや、私達兄弟がまだ幼い頃に描かれた絵画、曾祖母が趣味で彫ったという5本足の熊にしか見えない猫の彫刻、そんな物を彼はとても大切に保管していた。彼だからこそ抱え込めたそれを、きっと私は持て余す。それでもと、この歳の近い叔父は言うのだ。
しかし、身内とはいえ単なる叔父と甥の関係でしかないのに、何故金庫の内容を事細かに知っているのかと問われるかもしれないが、それについてはすぐに知れる事になるだろう。
「横領を、してしまうかもしれませんよ」
「お前が欲に負けて? それとも兄上が権力に任せて? そんな事はしないよ、私は」
次の言葉は、放たれなかった。
代わりに、彼の口元からは先程のワインを吐き戻したような、赤い血が白いシャツを汚しながら流れ出している。私や父と同じ、銀灰色の瞳には驚愕の感情が浮かんでいた。
「ア、ク……タルス」
「愚かにも、何故と問わずにはいられませんか。フィニアス叔父様」
私に向けようとした杖を取ろうとしていた手が震え、冷や汗をかいている。咽喉から這い上がってきた血液に、その手も汚れた。持って後、十数秒の命だろう。
「貴方は、魔法界の膨大な資産をマグルへ流そうとした。フィニアス・ブラックという人材をマグルへ売った。ここまで貴方や私を育て上げた魔法界を裏切ろうとした。それを私が、魔法界を管理するブラック家の一員であり、現当主シリウス・ブラックの嫡男であるこの私が見逃すと、本気で思っていたのですか」
「戦争が、始まる……大勢の人間が死ぬんだ」
「それで?」
切って捨てた一言に応じるかのように、更に血が吐出される。充血した目が私を睨み、音にすらならない呪詛が魔法となり背後の壁を削った。
「魔法界の糧とならないマグルが幾ら死のうがどうでもいい。我々が守るべき存在はただ1つです。マグルのイギリス政府がイギリス人を保護するように、イギリス魔法界はイギリスの魔法使いを最優先に救助するのが当然の役目でしょう。自らの世界に属する者達を蔑ろにし、他の世界へ資産を分け与える行為は売国に他ならない」
「女性も、子供も、死ぬんだぞ」
「どうやら、魔女や子供の魔法使いが魔法界に存在する事をお忘れのようですね。我々が庇護するべき者は彼等だ。勝手に戦争を始めて、あらゆる物を食い潰しながら殺し合うマグルではない。これから始まるのは人間同士の戦争で、異種族間で行われる生存競争ではない。そのようなマグル同士で潰し合っている場に、博愛主義的な感情や倫理など無用だ」
「お前は、お前はずっと。ああ、ブラック家め、魔法界の狗め!」
私の長い言葉にそれだけ返して、叔父は凄まじい形相のまま事切れる。
生家への呪いの言葉が、結局は彼の最期の言葉となった。あまりに呆気なく、予想外の事など1つとして起こらなかった。
「片付けなければな」
杖の一振り汚れを拭い、燃やす事の出来る服や杖は暖炉で処分する。全裸に剥いた死体はしばらく庭に埋め、戦争が終結した後に骨の処分を考えよう。どうせ、死体などそこら中に溢れて来るのだ。処理は容易い。
身内に露見する事もないだろう。妻は服が汚れるからという理由でガーデニングや薬草学を嫌い、私が命令しない限りはハウスエルフも勝手に土を掘り返したりはしない。娘や息子もこの屋敷の庭に興味など欠片も持っていなかった。焼却処分出来ない時計やボタンは分解や粉砕をしてテムズ川にでも沈めればいい、あの川はゴミ溜めと変わりがない。
毒を盛っていたワインに中和剤を混ぜ込み、無毒になったそれをシンクに流そうとしたが思い留まり、代わりに新聞紙に染み込ませ、コルクと一緒に灰にした。ワインボトルは一緒に川行きでいいだろう。
死体と証拠を片付け、残された書類にサインを書き入れ一息吐くと、目を背けていた頭痛が再び訪れ急な疲れに襲われた。今頃になって手が震えている。父に知られれば未熟者と罵られるだろう、せめて、自らが手を下す機会をと言ったのではないのかと。
そうだ、これは別に、誰からも強制はされなかった。
叔父がグリンゴッツの書類を作成した情報が流れて来た時点で、彼がマグル界へ行こうとしている事は明らかになっていた。ならば強制的に財産の移動を停止させる命令を下せばそれで済む話なのだ。私は、父は、ブラック家は、それを可能とする一族なのだから。
資産凍結のみで止められなかったのは、私が臆病者だからだ。
マグル界へ出て行った叔父が、戦争終結と共に再びこちらに戻って来る可能性がある、その時、父に目を掛けられる程の優秀さを失わないままマグル界で思想を染められた彼が、何を引き連れて来るか判ったものではない。
「……いや、そうじゃないか」
今考えついた事も、半分以上は八つ当たりを隠す為の言い訳に過ぎない。
私は叔父が好きだった。けれど、魔法界はそれ以上に不可欠のものだ。
だから、魔法界を裏切ろうとした叔父が許せなかった、本当は、単純にただそれだけなのだ。理性ではなく私的な感情で、裁判もせずに極刑に処した。
私の勝手で弟を殺された父はどう思うのだろう。叔父を殺すと告げた際、父は滅多に見せない落胆の表情を見せながらも、仕方がないと了承した。父は冷徹な人だが、冷血漢ではない、弟を息子に殺されて何も感じない人ではない。
この後、本邸に戻り、叔父がマグル界へと去ってしまった事を報告しなければならないのに、気が重い。きっと父は内心を上手く隠し、そうかと一言だけ告げ、何の感情も浮かべないまま、既にいない弟の足取りを誰かに探らせるのだろう。
痛む頭に眉を顰めながらワインボトルに張り付いたラベルを剥がすと、何故か裏面にその父の筆跡で文章が綴られていた。
「一体何時の間に」
書いたのだろうとの言葉は続けられなかった。
ワインを作ったのは私だが、ボトルに細工をして毒を仕込んだのは父なのだ、ラベル裏に書き込む事くらい造作もない。
ブラック家の名が書かれた証拠を隠滅する為に、このラベルが剥がされる事も全て予想していたのだろう。恐らくだが、叔父の魂の為に、私が、死体の前でその言葉を口にする事すらも。
「”愛しいフィニアス。魂の自由を希求し、血の首輪を外すのならば、それもよかろう。君がフィニアス・ブラック個人の名の下に羊を攫う一匹の野犬へ変貌した時、私は狗を統べる頭首として、この愛おしさと共に君を葬ろう”」
一人の人間であった叔父に向けられ綴られていたのは、魔法界を支配するブラック家当主の意志であり、そして一人の兄の言葉だった。