曖昧トルマリン

graytourmaline

■ 薬を盛られたエイゼルの記憶と体が11歳児に退行

■ 続くけど終わらない

■ エイゼル視点

僕だけが忘れた未来

 ふわふわとした夢心地が長く続いていたような気がする。目が覚めても頭は覚めていなくて、自分が何処にいるのかすら考えるのが億劫だった。
 肺の中の空気をゆっくり吐き出して真新しい空気を吸い込むと、果実か花の蜜のような微かに甘い香りがした。少し嘘っぽい人工的な香りだけど、嫌いじゃない。
 体を十分に伸ばしても未だ余裕のある広いベッドで寝返りを打つ。大きくて柔らかい枕、継ぎ接ぎもシミの跡もない綺麗なシーツ、毛玉1つない太陽の暖かさを含んだ毛布、どれもこれも、孤児院では手に入らない物。だからきっと、これは夢の続きだ。
 そう、夢。夢なら納得出来る。窓の外もドアの向こうもとても静かで、誰も僕の邪魔をしない。泣くか笑うかしかしない赤ん坊の声も、下品で教養もない笑い声を上げる馬鹿共の声も、態々聞こえるように陰口を叩く大人達も、誰もいない、綺麗な世界。
 とても長い間この空間を堪能して、それからやっと頭が働き始める。どうにも可怪しい、これは夢じゃない。
 試しに手の甲へ爪を立ててみると痛みを感じた。それに耳を澄ますと部屋の時計の秒針の音に混じって何処からか話し声も聞こえる。誰かが料理をする音。扉の向こうからはとても良い匂いがした。僕の夢には匂いがない、今迄は無かった。
「……現実?」
 現実だとしたら、これはどういう事だろう。
 理屈は判らないけれど、不思議な事なら生まれてからずっと経験して来た。何も彼もではないけれど、ある程度の事は思い通りに出来た。
 もしもこれが現実だとしたら、そのある程度には含まれない。僕が出来たのは心に思うだけで動物を殺したり、同い年くらいの子供を恐怖に突き落としたりする事で、こんな暖かそうな世界は幾ら願っても手に入らなかった。
 いや、そもそも、これは本当に暖かいのか。
 あの孤児院の連中は僕を何処かの機関や病院に預かって欲しくて仕方がなさそうだった。きっと実験室のネズミよりはマシな境遇だろうけれど、此処がそれに似通った場所じゃないと言い切れるのか。
 ごくありふれた内鍵の付いた窓は部屋の中に普通にある。逃げるべきだろうか、けれど、此処が何処なのか判らない。窓の外に広がるのは典型的な田舎の風景である牧草地と山ばかりで、他には遠くの方に羊が見えるくらいだ。第一、逃げ出したとしてもそれでどうなる、帰る場所はあの孤児院しかない。考えただけで吐き気がして来た。
 いっそ、此処にいる大人を支配下に、駄目だ僕の力は大人に効き目が薄い。せめて身を守る物が欲しい、或いは、自分自身を人質に取って交渉出来る武器。この建物がそのような場所だと仮定した場合の取引材料が要る、向こうだって折角手に入れた実験動物に死なれては困るだろう。
 部屋を漁り、抽斗に入っていたソムリエナイフを手に入れる。内装を観察して成人した男の部屋だと当たりを付け、ならばワインくらい飲むだろうという連想は間違っていなかった。明らかに子供用の服もあったけれど、無視をする。
 着せられていた大人用のシャツの裾を縛り、動きやすいようにしてから右手にナイフを持つ。ゆっくりと扉を押し開けて、人の気配に注意を払いながら動こうとして、背後から掛けられた声に固まった。
「ああ、何。やっと起きたんだ? 早々の奇襲は賛成したい所だけど、流石に刃物を持ち出すのは脳筋爺が黙っていないよ。いや、よく考えると賛成するのも筋違いだよね。元々の原因はお前の方にあるんだから、その程度は甘んじて受けなよ」
 気配のない声に驚いて、慌てて振り返ってまた驚いた。しかも、二重の意味で。
 体の透けた人間が宙に浮いていて、それが僕と似た顔をしていた。とうとう僕の脳味噌はどうかなってしまったのだろうか。
「まあ、僕にはどうでもいい事だけどね。取り敢えずそれ、度を越してみっともない格好だから部屋に戻って用意してあったスポーツウエア着ておきなよ。のだから大きいかもしれないけど、フリーサイズだから大丈夫って言ってたよ。メルヴィッドが。ああ、それにしても腹立つ。今迄気にならなかったけど、あれの体格って同年代と比較すると大柄な部類なんだよね、本人の肉体じゃないと言えばそれに尽きるんだけどさ」
 一方的に捲し立てて、此処が何処だとか、自分が誰だとか、そんな紹介もなく透明な男は空気に溶けるようにして消えてしまう。
 何が何だか理解出来ない。呆気に取られながら一度部屋に戻ってみると、ハンガーに掛けられた子供用の服がすぐに目に付く場所にあった。ソムリエナイフを探す時からずっと存在していたけれど、無視していた子供用の服。
 目に優しくないピンク色の地に黒のユニオンジャックが印刷されている服は、実験動物に与えるにしては派手だ。これを着ているらしいという人間、あの幽霊の言葉を信じるならば同年代の子供の感性は人類のものじゃないらしい。
 大人物のシャツ1枚か、ピンクの服か、悩みに悩んだ末に着替えない事を選んだ。アレを着たら僕の中の何かが終わる、そう思ったからだ。
 再び部屋の外に出ても、さっきの男は現れなかった。別に不思議だとは思わない。いたとしても邪魔なだけだ、さっきの一方的な会話だけで、とてつもなく自分勝手な男だという事は判っていたから。
 小さなナイフの感触を右手で確かめながら料理の音を頼りに廊下を進み、階段を下れば、思ったよりもずっと簡単に生きた人間を見付ける事が出来た。広いキッチンに1人で鍋を掻き回している、僕と同い年くらいに見える子供。きっとこれがなんだろう。あの幽霊は大柄と言っていたけれど、背丈が高くてサングラスをかけているから柄が悪く見えるだけの、ひ弱そうな子供だ。
 柄の入った黒いシャツ、白くて丈の長いカーディガン、ワインレッドのボトム、光の反射で輝いて見えるブレスレットにネックレス、どれもそれなりに金が掛かっていそうで実験動物に与えられるようなものじゃない。人質にする価値はある。
「やあ」
「おはようご……随分扇情的な格好ですね」
「僕にあのふざけた服を着ろって?」
「……でも、ウエストが緩いでしょう、サスペンダーがないと落ちてしまいますよ」
「え?」
「はい?」
「ピンク色の服だったけど。ユニオンジャックの」
「ああ、ジョン・スミスから贈られたあの派手なスポーツウエア。メルヴィッドですね。普段使いしないのでクローゼットの奥にしまったのに態々出したんでしょうか、まったくあの人はもう、大人げないんですから」
 ナイフを背で隠して警戒されない為に笑顔を浮かべ、馴れ馴れしく話し掛けながら距離を縮める。見た目以上に頭の悪そうな子供だ、これなら行けるかもしれない。
「ところで、自己紹介が未だでしたよね」
「知ってるよ。君がだろう?」
「ええ、初めまして、です。貴方のお名前は?」
「トム・リドル。リドルでいいよ、トムって呼ばれるのは嫌いなんだ」
「判りました、リドル君。因みに、お幾つですか」
「11歳」
「11歳と、9ヶ月?」
「4ヶ月だけど、それが何? 意味判らない質問しないで欲しいな」
「ふふ、そうですね」
 鍋の火を止めたは首を傾げるようにして笑い、躾のなってない馬鹿犬のように近寄って来る。向こうから来てくれるのなら好都合だ。
 ナイフを握り締め、距離を計って、ここだという瞬間に突き出した。その手が、思い切り上へと弾かれる。目の前の子供が振り上げた足が僕からナイフを奪ったのだと理解出来たのは、キッチンの床に腰を打ち付けた痛みが治まった後だった。
 見上げると、腕を腰に当てて仁王立ちしたと天井に突き刺さっているナイフが確認出来る。しくじった、あれを抜き取って、もう一度手に入れる事は出来るだろうか。
「躊躇せず刃物を向ける度胸は合格点ですが、正面からでは奇襲にならないので、その辺りに注意が必要ですね。会話を始める前か、全て終わり相手が背中を見せた時でないと」
「……君は馬鹿か、態々忠告するなんて」
「それはもう、私は矯正のしようがない大馬鹿者ですよ、色々な方にそう言われますし、自分でも常々そう思います」
 ナイフを向けて来た相手に手を差し伸べて、更に立ち上がらせようとするのは、自己申告通りかなりの馬鹿だ。
 もう一度、今度は間違えない。そう心の奥底で誓った瞬間、周囲の空気が震えた。
「何……?」
 突然の風に眼球が乾いて、数度瞬いた後に窓を見るも開いていた形跡はない。代わりとは言えないけれど、ガラスに映った僕自身の格好が変化していた。肩幅や腕の長さが僅かに合わないモスグリーンのシャツ、裾が何度も折られた黒いジーンズ、ウエストが合わないそれを吊るす白いサスペンダー。
「矢っ張りサイズが合いませんか。でも先程よりは見れる格好になりましたし、これはこれで大変可愛らしいのでそのままで良いですよね」
 余っていた両腕の袖を手早く3度折り返しながら頷いたは、一人で勝手に結論付けて胸ポケットに何か捩じ込んで鍋の前に戻ってしまう。
 それがさっきまで天井に刺さっていたナイフだと判り、慌てて上を見ると傷1つない壁紙が部屋の隅までずっと広がっていた。
「僕と同じだ」
「どれがですか?」
「君も僕の仲間なんだろう。他の連中にはない特別な力を持ってる。一瞬で服を着替えさせたり、ナイフを抜いて天井を直したのはそれだろう。ああ、あんな救い難い連中の巣窟から連れ出してくれた事は感謝するよ、あの孤児院には心底嫌気が差してたんだ」
 精神病院でも研究所でもなかった。ここは僕の為の場所なんだ、特別な力を持つ人間が住んでいる特別な場所。
 この子供は僕の仲間だ。多分、部屋を出た時に会ったあのドッペルゲンガーのような男もそういうものだろう。こいつは話し方から推測すると少し頭が足りない感じがするけれど、それでも今迄のゴミみたいな奴等よりは何十倍もマシだ。
「そうですねえ、詳しい話は後回しにして、取り敢えずご飯を食べましょう。皆してお腹が空いたままでは楽しいお話も出来ませんから。ねえ、メルヴィッド」
 野菜の匂いがするスープを映していたサングラスがこちらを向いて、音もなく僕の背後に現れた男を見据える。
 視線を辿って振り返った見上げた男は赤く冷たい目をしていて、何故かこいつも僕によく似た姿をしていた。