君だけが忘れる未来
目を覚ましてからの彼の行動は精一杯の威嚇する子猫そのもので、小さなソムリエナイフ1本で己を守ろうとした姿は酷く哀れに思えた。向けられた刃先を回避する為に幼い手を蹴り上げてしまった後の、あの敵意に満ちた瞳が忘れられない。誰もを疑い、何も信用せず、その事を心の奥底にしまい仮面を被る事も出来ない不器用で、か弱い子供。そうする事でしか生きていけない環境下で育ったのだ、この子と彼等は。
目に見える形でこの感情を露わにしたら、きっと嫌悪されてしまうだろう。同情などという安っぽくて鼻に付く物は、ハリーの体で十分過ぎる程経験したつもりだ。あのような下らない物を大袈裟な身振りで与えて、相手が喜ぶと思い込む人間の気が知れない。
だから、出来る限り普段通りに。年寄りの戯言と片付けられるように。そう念頭に置いて接したつもりだ。どうしても嘘を吐けない性分なので、メルヴィッド辺りは勘付いているだろうが、見て見ぬふりをしてくれている。
こんな事にはならなかった筈なのに、何故あんな物を作ってしまったのだろうか。チョコチップだとか、ナッツだとか、ドライフルーツだとか、選択肢は沢山あったのに。
思わず出た溜息に、馬鹿じゃないのかと遠くから響いた叫び声が重なる。
トム・リドル少年を引っ張って行ったメルヴィッドが、こうなってしまった事件の大凡の顛末を説明したのだろう。確かに、今回のそれは馬鹿以外に表現のしようがない。
そもそもの発端は、エイゼルが作り置きのサブレーを全て食べ尽くした挙句、私への連絡を怠った事に始まる。この時点では、定期的に行われるメルヴィッドへの嫌がらせ程度の認識だったのだが、どうにも彼も私も認識が甘かったらしい。
夕食前に口寂しいからと言いながらサブレーが入っていた筈の場所を確認し、数秒固まってから鬼の形相を浮かべたメルヴィッドの姿は今でもしっかり脳に焼き付いている。炭酸飲料の入ったペットボトルを無表情で撹拌し、ガチガチに固まったそれを手にエイゼルを撲殺しに行こうとした子を止める為、慌ててメープルバターのホットケーキを作って全力でご機嫌を取ったのはつい24時間程前の事だ。
眉を吊り上げ、眉間に皺を寄せながらも小動物のようにホットケーキを頬に詰めるようにして食べるメルヴィッドは大変可愛らしかったが、私の小賢しいご機嫌取りは全くの無意味であったようで、その日の夕食後に作ったクッキーはこの子の手で薬漬けにされた。
まあ、盛られたのは命に関わるようなものではなく単なる縮み薬であったので私も看過したのだが、それが拙かったらしい。というよりも、薬を盛った対象がハーブやスパイスをふんだんに使ったクッキーだった事が拙かった。
ローズマリー、スペアミント、ディル、ピンクペッパー、シナモン、ジンジャー、一体何が原因だったのかは不明だが、今朝エイゼルがクッキーと共に口にした縮み薬は肉体と一緒に精神まで退行させてしまったらしい。完全に消化が済めば元に戻るとメルヴィッドからお墨付きを貰えなければ、今頃私が半狂乱になっていた所だ。それだけは、心底安堵した。
まあ、つまりはお菓子を巡る単なる兄弟喧嘩。時間を置いた今、思い返してみても、実に阿呆らしい理由である。こうして言葉にしてみると微笑ましく思えるが、よくよく考えてみるとちょっとシリアスな事を考えた時間が全て無駄に思えて来る程に、阿呆な理由だ。
もう一度溜息を吐いてから、エバミルクと砂糖を入れたカフェオレボウルに濃く煮出した熱い紅茶を注ぐ。ガラス製のコップに注いでタピオカを投入しても良かったが、まず間違い無くトム・リドル少年が蛙の卵と勘違いする為今回は見送る事にした。悪いのはエイゼルであって、エイゼルの過去であるあの子ではないのだ、そこまで苛めるのは幾ら何でも可哀想だろう。
いつも通りの昼食を作り、はて、もしかしてあの子に合わせてもう少し子供っぽい食事にした方が良かっただろうかと考え至ったが後の祭りであった。そもそも、私が昼食を作り始めた時点ではエイゼルの記憶が退行しているとは思わなかったのだから仕方がない、と心の中でのみ言い訳しておこう。
阿呆な原因に引き摺られ、輪をかけて阿呆な事を思案しながらも完成した昼食を引き連れてダイニングを訪れると、全身で自分が如何に不機嫌なのかを表現しようとしているトム・リドル少年と、子供の鳴き声をBGMにサブレーを摘んでいるメルヴィッドがいた。その姿は兄弟よりも寧ろ、休日の父子のようだ。
テーブルの上に昼食の用意をする私を無視して自分の内に溜まった不満を吐き散らしていたトム・リドル少年が不意に咳き込み、一体何事かと顔を上げてみればメルヴィッドが酷く意地の悪い顔で笑っている。どうやら抗議していた子の口に摘んでいたサブレーを投げ込んだらしい、可哀想に。
「メルヴィッド。悪いのはエイゼルなんですから、リドル君を苛めてはいけませんよ」
「鳥の雛みたいに大口開けていたこいつが悪い」
「貴方が口移しでサブレーを与えていたら一応は納得出来る説明になるんですがね」
焼き菓子が喉に直撃したのか、凄い勢いで咳き込んでいるトム・リドル少年の背中を擦りながら一応窘めてみるが、正直不機嫌極まりない子供に餌を与えてみたくなる気持ちは判らないでもない。私も幾度か、ご機嫌斜めなメルヴィッドの口にチョコレートバーを捩じ込んだ経験があるので。
差し出した水を引ったくり、部屋の隅まで後退して私達から距離を置いたトム・リドル少年は尻尾を後ろ脚の間に挟んで怯える子猫よろしく明確な威嚇を行う。テーブルの上のレードルやトング、カトラリーが魔法によって打ち鳴らされ、微笑ましいポルターガイスト現象が引き起こされていた。
何も知らない人間ならば恐怖の1つもしたであろうが、生憎私達はそういった意味合いでは同属である。メルヴィッドは面倒臭そうな表情を隠しもせず宙に浮いたレードルやトングを手に取ると、赤インゲン豆の入った具沢山のスープをよそい、スパニッシュオムレツと蕪のソテー、フルーツサラダにサンドイッチをそれぞれ人数分取り分けてから大きな一口で食べ始めた。相変わらず彼は美味しそうに食べてくれる。
否、メルヴィッドの場合はその外見も相俟って、レタスやトマト、スライスオニオンが零れそうな程詰め込んだ上に薄いハムをヒダ状に重ねたクロワッサンのサンドイッチをフォークとナイフでお上品に食べても美味しそうに思えるのだけれど。
「オムレツの中身はオリーブと、後はなんだ?」
「春キャベツとジャガイモです、塩気が足りないのならトマトソースと一緒にどうぞ。そちらの小鉢はスプリングオニオンとラディッシュの甘酢漬けですので、口直しに」
ハムのクロワッサンサンドを瞬殺したメルヴィッドはテーブルに手を伸ばし、ハムとトマトの代わりにスモークサーモンとクリームチーズ、ケッパーが乗った物を確保して頬張る。見ているこちらの食欲まで刺激されるような豪快な食べっぷりだが、私の場合は先にテーブルへ着かせなければならない子供がいるのでそうも言っていられない。
「リドル君、お腹空いたでしょう。一緒にご飯食べましょう」
「……太らせてから、今度は僕を食べる気なんだろ」
「メルヴィッド、貴方この子に一体何を吹き込んだんですか。幾ら化物と呼ばれて久しい私でも、そこまで人間辞めていませんよ」
「、知っているか。人間を辞めるには元々は人間でなければいけないという事で、お前には適応されない言葉だ。石のスープを振る舞う不死者が言っていい言葉ではないな」
「私だって貴方くらいの年齢の頃は殺せば死ぬような人間でしたよ。それに、ソパ・デ・ペドラを直訳するとそうなりますけれど、今日のスープは民話のそれではなくて、アレンテージョ地方の伝統料理で」
「死なないのか?」
ポルトガル料理のスープがこの場合どのような物か説明しようとする私の言葉を、怯えた表情から一転して歓喜の表情を浮かべたトム・リドル少年が捲し立てるように強く遮る。成程、彼等の不死への探求は既にこの頃から存在していたらしい。
「答えろ。お前は、不死の存在なのか?」
「そうですね。ただ、私の場合は少々複雑で……何と説明したものでしょうか」
「この化物は他人の体を乗っ取って生きている精神的な存在だ。本体が別次元に確保されているから、この世界では何があっても死なないし、死ねない」
「お前のようになるにはどうすればいい」
「残念ながら、私は同意もないまま勝手にそうされただけなので、詳しい理論や方法は一切知りません」
「役立たず」
「ふふ、そうですね。メルヴィッド、そんな風に眉を吊り上げても綺麗なだけですからね。貴方だってよくそう評するじゃありませんか、実際、私は役立たずでしょう」
「私やお前は構わないが、他人に評価されるのは心底腹が立つ」
「おやまあ、我儘さんですねえ。尤も、貴方のそういった所も微笑ましいのですが」
私が不死者だと知り怯えが無くなったトム・リドル少年の頭を撫でながら、ご飯を食べないかともう一度誘いかけてみると、今度はいいだろとばかりに王子様のように頷かれた。メルヴィッドは不愉快そうな顔をしたが、全くこの子も可愛らしい気分屋さんではないか。
席に着くなり小さな手でカフェオレボウルを持ち上げて恐る恐る口を付け、舌に触れた甘さからか、微かに笑う様をつぶさに観察しているとこちらまで幸せになってくる。テーブルに伸ばされた手と、遠慮がちに盛られた料理を見て、沢山あるから好きなだけ食べて欲しいと告げれば、酷く驚いた顔をされた。
背は高いが細身で、強く抱き締めたら折れてしまいそうな、とてもか弱い子供。成長するのに最低限の食事は与えられていたが、お腹一杯ご飯を食べる、なんて事は滅多になかったのだろう。この子は孤児院をある程度支配していたようだが、他人に配られた食事まで奪い餓死させるような自分勝手に過ぎる生き物ではないのだ。
「ああ、でも食べ過ぎないようにして下さいね。後でデザートも持って来ますから」
口端に付いたフルーツサラダのヨーグルトを拭ってやりながら微笑めば、子供扱いをするなと手を叩かれ不貞腐れる。口にヨーグルトを付けて気付かないでいるのなら十分子供だとマッシュルームとコンビーフのクロワッサンを食べていたメルヴィッドが混ぜっ返し、食卓のカトラリーが抗議の音を奏でた。
子供らしい子供と、大人げない大人を見比べながら、さて老人である私はどうするべきかと考え、取り敢えずお腹が満たされた後に手の平一杯のお菓子を2人のポケットに詰め込みたいな、と非常に老人らしい結論に辿り着く。
たとえ、元に戻ったエイゼルがポケットの中に違和感を覚えて、何故それが入っているのか覚えていなくても、そうせずにはいられない生き物なのだ、私という老人は。