曖昧トルマリン

graytourmaline

スフレリーヌのデュクセルソース添え

 皮膚が爛れるような熱を孕んでいるのに凍った血が体内を裂くほど底冷えする笑みを見上げながら絨毯に腰を落とし、仔犬か3歳児の仕草で首を傾げ膝の上に頭を付ける。前回は無理矢理顎を上げさせたので今回はこちらが屈んで視線を合わせるという、大した理由もないただの時間稼ぎだ。
 さて、ここからどうするか。
 アークタルス・ブラックは彼を頼むと言い出て行ったが正直な話、私には無理難題極まる注文だ。レギュラス・ブラックへの対応を間違え歪ませてしまったのは3月半ばの聖マンゴでの事、誰が見ても駄目な感じに煮えているこの子の脳味噌を治療する手段を持っていないからこそ4ヶ月以上も見て見ぬ振りを続けて来たのに今更妙案など浮かぶはずがない。
 まあ、新事実を発表したからこれ以上の重症化を防げ、という意味合いなのだろうが。それはそれで力強く無理だと宣言したいのだが、良心から自分自身を呪っているこの子を解呪出来る人間が私しかいないので投げ出せないのが現状であった。
 何を言っても失言に繋がりそうなので黙って灰色の瞳を観察していると、やがて脈打つ冷たい手が頬に触れ、指先がサングラスを僅かにずらしながら目元をなぞる。右の目尻に触れた指先、そして喉と唇が震えていた。
 駄目だ、下からでは。
 無言でレギュラス・ブラックの左手を取りながら腰を浮かせ、驚く少年の顔を見下ろしながら距離を詰めて向かい合わせで膝の上に乗る。幸いソファは余裕があるサイズの1人掛けで私は子供の肉体だった。若干はみ出ている気がしないでもないが、溢れなければ収まっていると同義と詰め放題感覚で考えておこう。
 繋いだ手はそのままに、余った手でレギュラス・ブラックの頭を抱き寄せて髪を撫でながら頬擦りする。手や喉や唇だけではない、真夏の昼間だというのにこの子の体は何処も彼処も震えていた。
 静まり返った部屋の中で、どれだけ時間を掛けてもいいから最初の1歩を自分から踏み出して貰う為に開きそうになる上下の唇を気力で貼り合わせ、後頭部や背中をゆっくりと擦りながら言葉を待つ。
 多分平常時とそう変わりないであろう心音を聞かせていると、ふいに柱時計がカチと音を出し次いで低く打ち付けるような平坦な音が時刻を告げた。それを契機としたであろう、血の気の引いた唇が囁くように私の名を呼ぶ。
、僕の懺悔を聞いて欲しい。もう全部、分かっている事だろうけど、聞いて欲しいんだ」
 掠れた声に仕草だけで頷き、両腕でレギュラス・ブラックの頭部を緩く抱き締めると胸の前で吐息が漏れた。
 ここでアークタルス・ブラックとお遊びをした時のように私は神父ではないなど口にするのは不正解だと分かっている。私は馬鹿で碌に空気も読めない老人だが、あらゆる空気が読めない程手の施しようがない馬鹿な老害ではないはずだ。
 未だに冷たい手が手首に触れたので逆らわず後頭部から腕を外し両肩に手を置くと薄い涙の膜の向こうで澱んだ罪悪感に塗れた灰色が真っ直ぐ私を見上げた。
「僕は当主だから、常にブラック家に護られているんだ。あの日もスティング・ワンに、ハウスエルフ達に護られていたんだ。あの存在を君に告げていれば、君は怪我する事なんてなかったかもしれないのに」
「レジー、私は」
「僕は、僕を許せない。たとえ君が責めていないとしても僕自身が許せない、今迄口を噤んでいた事も含めて、全てが許せないんだ」
 自己嫌悪を口にしながら、レギュラス・ブラックの目が私を見た。まだ世界の大半を割り切れていない、泣く寸前の、欲しい物を純粋に求める幼い少年の目だった。
「でも、君の傍にいたい、一番近くに。の隣に、他の誰かが並んで欲しくない。以前の僕のような人間が理解ある友人の顔をして、親しげな口調で君を死地に送り出すかもしれない。のような人間は貴重なんだ。君を守る為に、このまま君を、この部屋に閉じ込めてしまえたらいいのに」
「……それでレジーが充たされるのならば、道具としてそのように務めましょう」
「無理だ、充たされるどころか擦り減ってしまう。僕は自由な君が好きなんだ、でも、君を自由にすると君は傷付いていつか死んでしまう。今みたいに道具に徹して生き続けろと命令すればきっとはそうしてくれるんだろう、だからこそ嫌なんだ、本当は道具になんてなって欲しくない」
 愛する人が自由を謳歌したまま自分の傍で笑って欲しいという考えは、酷く傲慢だ。愛は見返りなく一方的に与えるものであり寄越せと声や態度に出すものではない。
 しかし私は、愛する弟が自発的に自分を求めて欲しいと兄の顔で酷く苦しむレギュラス・ブラックを見ても嫌悪を抱かなかった。ただ、可愛らしい、いじらしいと思うだけだ。思うだけで、彼の望む愛など決して渡せないのだが。
 それでも仕方がない。この子にとって年少の肉体を所持する私は、この世界で唯一誰からも文句を言われず掛け値なしに庇護出来る存在なのだ。そうする事で今はまだ庇護者の立場に置かれる場合が多い彼は自分の価値を見出している。自分は護られるだけの人間ではないと安心している。護られるよりも護る立場を強く望むこれはブラック家の性質なのだろう、或いは、培われた教育の賜かもしれないが。
 レギュラス・ブラックはいずれブラック家の歴代当主達と同じように魔法界の守護と繁栄に尽力しなければならない。けれど、方方に未熟な彼は玉座に着く事を周囲に納得させる力が不足している。中途半端に膨れ上がり何処にも注ぐ当てのないそれの、丁度良い受け皿が私なのだ。
 もっとも、この丁度良いとは手近にあるという意味だ。魔法界に注ぐにはまだ不十分な愛だとしても、注ぐ必要がないとは思えない。
 ああ、そうか。この方向ならば、上手く運べばこの子の歪みは直るだろうか。現状が既にマイナスなのだから、手を出してみる価値はある。更に悪くなったらアークタルス・ブラックに放り投げてメルヴィッドには土下座で謝罪しよう。
「僕は君に、幸せになって欲しい」
「私は幸せですよ、レジーが考えている幸せとは異なるだけで」
「分かってる。僕は、僕の考えた幸せをに押し付けて、受け取らせたいだけだ」
 愛なんてただのエゴイズムの発露だと呟いたレギュラス・ブラックの額にキスをして、それはそうだと同意した。君の愛は違うと言いたげな表情を見下ろしながら、唇が動く前に私は言葉を発する。
「だって、私の愛でレジーはこんなにも傷付いている。エイゼルも、メルヴィッドも、私の愛で傷付けていると、理解しているんです」
 私の愛は穢れと歪みだと呪詛のように囁き、続けた。
「私が発する愛は、相手の為を想う誠の愛でも、天から遍く降り注ぐような神の愛でもありません。ただ、そうしたいというだけの自分本位な行動の結果を愛と呼んでいるだけです。私は自分自身の愛で苦しみ、嘆き、悶え、傷付きたくないから全てを相手に押し付けているだけに過ぎない。今この瞬間も、平然と」
 皆が愛と呼んでいるものが実態は傍迷惑な行為に過ぎないのだと告げるとレギュラス・ブラックは何か言いたそうにしたが、反論よりも早く、私は誰にも真の敬意を払っていないからこのように振る舞えると口にして封じる。
「レジーは私に敬意を抱いてくれています。自分の愛で私が苦しまないよう気付かせ、変えようと足掻いてくれている」
「……でも、君は変わってくれない」
「余程の事情がない限り私は誰にも報いません。そうしたいからそうするだけの、不敬で愚蒙な頑固者ですので」
 最も永く続く愛は、報われぬ愛である。サマセット・モームの名言をここで引用したら更に拗れて面倒だが反応は面白そうだと心の中に浮かび上がった誰も幸せになれない提案を却下し、先程決めた落とし所へ持っていく為に微笑みかけた。
 視線の下では年若い少年が苦しんでいる。こんな時に笑顔を浮かべられる爺の為に。
「それでも僕はの愛に救われている。君は相手が誰であっても絶対に忖度しない。けれど、忖度しないまま僕の愛も受け取って欲しい」
 君は変わらない、僕は譲れない、どうすれば君と僕の愛が両立出来るのだろう。
 中々難易度の高い我儘だが、丁度良い具合に彼は欲していた台詞を口にした。私はこの子が見下す有象無象と同じく才能と権力に集り依怙贔屓も忖度もする人間なのでそこは強く否定したいのだが、今は間違っていた方向を正す方を優先しよう。
「両立は可能ですよ。と言うよりも、レジーは、アークタルス様は、そしてブラック家は既に、そして常にその行動を取っているじゃありませんか」
 今更何を言っているのだとソファから下りて立ち上がり、サングラス越しに表情を作り両手を取る。緩く握った彼の指先からは震えが消えかかっていた。
「環境を変え、魔法界そのものから苦痛の種を取り除けばいいんです。生きている限り終わりのない長い道のりになります、けれど、私とレジーのどちらかが折れるよりも手堅く、第三者の為にもなる最良の手段でしょう」
 私は、私が愛した存在さえ満ち足りていれば命を投げ出す事も体を張る事もない。何処かの知らない誰かの為にまで自己犠牲精神を発揮するような人間ではないのだ。
 魔法界の犯罪が過不足なく真っ当に裁かれ治安が良好ならば私の誓いなど適当に聞き流す軽口で済む。そうなる事でレギュラス・ブラックの愛をありのままに受け取れるかどうかは保証しないが、そこは敢えて触れずに子供の笑顔で誤魔化した。
 私は司法の面から働きかけ、レギュラス・ブラックはブラック家の仕事を成し遂げよう。口を開かないままそう誘い語りかけると、灰色の目が見開かれ、憑き物が落ちたような少年の顔が現れた。その表情が先程よりも凛々しく見えてしまうのは、きっとサングラスが曇っているだけで気の所為だろう。
「ああ、そうか。たったそれだけで良かったんだ」
 そうだ、きっとこれが正解だ。
 まだ十分ではないけれど、この子の傷口からは血が溢れたままだろうけれど、それでもレギュラス・ブラックは顔を上げた。私ではなく祖父の背中を見据え、再び追い始めた。
 4ヶ月も失ってしまったと考えるべきか、4ヶ月で立ち直れたと喜ぶべきか、どちらなのかは私には判断が付かない。それでももう、以降は隣室の彼等に任せてしまっても大丈夫だろう。私は駒の手綱を握るべきではない、ましてや、彼はメルヴィッドの駒だ。
 手を握ったまま後ろに一歩下がればレギュラス・ブラックは笑顔で立ち上がる。蔦のように絡み付いていた薄暗い感情を振り払った顔を見上げながら、巫山戯たような口調で割と本気の抗議を先に行っておこう。
「ですが、私を口実にして大衆の不利益になるような仕事したら、嫌ったり悲しんだり軽蔑したりしますからね」
「それは全部嫌だな。でも怒りはしないんだね」
「レジーは私が怒ったら喜ぶじゃないですか」
「ふふ、確かに。怒ったは可愛いから」
「そうですね。可愛く映るように怒り成分控えめの演技していますから」
 いつものように可愛くないと言い張ってもそこが可愛いと返されるので変化球を投げてみたが、レギュラス・ブラックの反応はさして変わらないどころか一拍後に満面の笑みになり持ち上げるように抱き締められた挙げ句、頬擦りとキスを追加された。余程嬉しい反応だったのか踵では済まず、爪先まで絨毯から離れてしまっている。胴というか肩と胸回りが少し苦しい。
 こういうもいいなあと別方向に割と駄目な感じに脳が煮えている台詞を吐いている当主様の腕の中で藻掻きながら脱出し、その反応は違うと身振り手振りを交えて文句を付けるが蕩けた笑顔は変わらない。多分この子は私が何をしても可愛いと言うのだろう、私もメルヴィッドやエイゼルやユーリアンが何をしても可愛いと思うように。
 つまり、この件に関しては彼に付ける薬もなければ修復も不可能という事だ。正直前から分かっていた、大変今更な事実確認である。
 しかし大目に見るべきだろう、家の仕事が立て込んでいて昨日までストレスに晒されていた身なのだ。愛玩動物の演技くらいしてあげても罰は当たらないのではなかろうか。きっとまた明日、否、もしかしたらパーティ終了直後から過労死寸前の仕事が待っているかもしれないのだから、英気を養う手伝いはするべきだろう。
 ズレてしまったサングラスを直し乱れた服装を整え、今度はしっかりと抱き合えるように両腕を広げると背景にハートマークが乱舞していそうな熱烈なハグが再開された。隣室の2人というか主にメルヴィッドには申し訳ないが、もう少しだけ待機して貰おう。
 肩口に顔を埋めたレギュラス・ブラックが小さく、しかしはっきりとした声で愛してると告げた言葉を無下に出来る程、私は薄情な人間ではないのだ。