エスカルゴの青トマトソース
名前がないのも不便なので便宜上は魔法計算装置と呼んでいる物だ、とまであっさり一言で纏められ、さてどう反応するべきかと戸惑った。
装置自体は途轍もない代物だが、所持に関しては薄っすら勘付くどころか、今までの事を考えると、その辺りはまあ当然だろうという所感ではある。
現在進行形の監視兼護衛から始まり、直前のパーセルマウスについての診断結果を遡り、メルヴィッドとエイゼルが分霊箱と露見した調査結果を経て、エイゼルの攻撃を凌いだサンダーボルトという仮想人格付きエージェント機能のような何かの根底を支えていた物の正体が、それなのだろう。
魔法省にしても、ホグワーツにしても、イギリスとアイルランドを網羅する大規模システムについては示唆どころか既知のものであった。
魔法計算装置の物理的な仕組みや設置場所を説明して貰えるのであればハッキングの糸口が掴めるかもしれないのでありがたいが、流石にそれはないだろう。この流れだと精々、魔法界内における情報技術史の講義が始まる程度、そう思った直後の事であった。
「ハウスエルフを基盤に使った分散処理有機コンピュータの事ですよね」
手元の紅茶に視線を落としたメルヴィッドが何でもない事のように口にして、アークタルス・ブラックが正解だとゆったり頷く。
唐突に、しかも身内から仕組みを開示され、思考が止まり、疑問が溢れる。
メルヴィッドがごく軽い調子で導き出したそれは、ユーリアンと私が気付けず、彼とエイゼルは気付けたものだ。
そこまではいい、というか、ここまでしか駄目だ。
分散処理有機コンピュータとはどういう事だ。しかも使用されている生物がハウスエルフと断言出来た根拠が全く判らない。何故魔法道具ではなく魔法生物だと確信出来たのだ。それらしい証拠は、一体何処にあった。
生体を用いたロボットはSF界隈では古典文学からアニメーションまでどの媒体でも珍しくもない設定だが、それだけに過ぎない。人間が、少なくとも非魔法界内の人間が現実世界での作成に成功したのはこの時代から30年も後、2020年代に入ってからだ。実用化に至るまでには更に年月が必要で、私の世界でも未だ民間には普及せず企業が利益を出すまでには成長していない。
ブラック家はハウスエルフを多数抱え込んでいる、ホグワーツはイギリス魔法界内での最大の雇用先だ。だが、イギリスの魔法省でそのような話は聞かない。アメリカ合衆国魔法議会ならば幾名かの雇用が確認出来ているが、そこから流れて来たとは思えない。
一体何時、誰が、どのようにして作り上げたのか。
アークタルス・ブラックの言葉から推測すると、三者の中で一番初めはホグワーツだ。そして、ホグワーツにハウスエルフを招き入れたのは1000年前、中心となって行動したのは創設者たるヘルガ・ハッフルパフであり、入学勧誘用の検知システムはかなり古くから確認されている。否、働ける環境を作ったからといって、彼女自身が仕組みを作ったと考えるのは尚早だろう。他の創設者、或いは、当時のブラック家の当主が裏で暗躍した可能性の方がまだ高い。
手札を持っているはずなのに全体像が掴めない。方向性が見出だせず思考が八方へ飛ぶ。点と点を結ぶ線を、私は一体何処で見逃した。
隣の赤い目が、紅く小さな湖面から私へと滑って来た。
向かいの灰色と、隣の灰色も。
「その様子だと、結局、気付けなかったみたいだね。ホグワーツや魔法省の力の源、どのようにシステムを維持しているのかまでは疑問を抱いたみたいだけど」
「そうなんだ。少し意外だな、はその手の直感は優れているのに」
「昨夜もデイヴが言っていたけれど、この子は観察眼が優れて情報共有意識があっても分析力が弱いんだ。魔法省の過去データを洗いWW2開戦後に演算能力が低下した事までは突き止めても、何故そうなったのかまでが結び付けられない。繋ぐための糸は、自分の口で、直接私に伝えたにも関わらずね」
自分の手元にあったどころではない。私の口頭経由で齎された情報だとメルヴィッドに指摘され、それでも結び付けられずにいると、右往左往しているは昨日の内に十分堪能したからと前置きのようにアークタルス・ブラックが呟いた。
「ハウスエルフに辿り着くキーワードは、勲章だよ」
「……1940年の勲一等マーリン勲章?」
「そう。あの日、私が話して上げた事を、もう一歩踏み込んで考えてご覧」
直後、全てが結び付き、ゆっくりと頭を抱えて、項垂れる。
昨日から私は、こんなのばかりだ。はやくおうちにかえりたいと駄々を捏ねる脳内の幼児を拳で沈め、長く、深い溜息を吐いてから思考の断片を整列させる。
今現在ブラック家の企業に所属するハウスエルフ達の前身は、大戦下を生き抜くために魔法省経由で確保したハウスエルフだ。
よく考えてみろ。
雇用先を探している者を優先的に確保したと当時の彼は言っていたが、そんなものが都合良く存在しているはずがないだろう。魔法省にハウスエルフの転職仲介を専門とする部署が存在しているのは間違いないが、それだけだ。ニュートン・スキャマンダーも一時期そこに配置されていたと記憶している、やることがないという文章と共に。
余程悪質な問題児でもない限り、ハウスエルフは基本、売り手市場なのだ。自分の屋敷を彼等に管理させているとそれとなく言えるのが魔法使いにとって一種のステータスであるため、フリーのハウスエルフはその瞬間から様々な魔法使いから声を掛けられる。そんな彼等を大量確保など尋常な手段では不可能だ、たとえ、魔法省であっても。
ならば何故アークタルス・ブラックは魔法省に掛け合ったのか。まさか、魔法省の職員達を各純血家系へ歩いて廻らせ、一家族ずつ辛抱強く説得しながら確保するつもりだった訳ではあるまい。
最初から、一定人数を一括で確保できる目処があったからこそ、魔法省に気前よく金貨をばら撒けたのだ。
魔法省は従来からのシステム維持のために、元々ハウスエルフを大量雇用していた。そして、アークタルス・ブラックに何割かを譲渡した事で大戦開戦後に出力不足に陥ったのだろう。引き抜きとシステムの能力低下のタイミングが完全に一致するので、状況証拠のみの憶測だが間違いない。
それ以外にだって、もっと早く気付けた要素はあった。
ごく単純な点だが、たとえば、ハウスエルフのhouseは、家屋、血統、学寮以外にも、商事会社、そして、議院の意味を持っている。
また、ハウスエルフ愛好家のレギュラス・ブラックが、屋敷内で晒し首にされている彼等を埋葬せずそのままにしている、あれ程情に流されるような子が、だ。
今、振り返ってみればおかしな点ばかりだ。
その共通点にすら考えが及ばなくてもハウスエルフの能力を高く評価しているのなら、少なくともホグワーツとブラック家のそれはハウスエルフ由来だと気付くべきだった。魔法使いが3桁存在しようともイギリスとアイルランドの領土全域に恒常魔法を張り巡らせるのは不可能だと断言するが、ハウスエルフならばどうだと問われれば、恐らく可能なのではと返す程に、彼等の能力は抜きん出ている。
セカンドバックアップとして並列化される老人達の電脳、人工知能のエネルギー源として栽培される人間達、人格移植OSで動く第7世代有機コンピュータ、サイバードームのスターバト・マーテル。日本で最後の、パーソナルコンピュータ。ぼくの、マシン。
数多とはとても言えないが、それでも脳の隅にあるフィクションの棚から引き出せば、完璧にではないものの所々が似た設定は確認出来たのに。
メルヴィッドの言う通り、手札は全て揃っていた。
私だけが、手元でもテーブルでもなく、ディーラーばかりを見ていたのだ。それでゲームに混ぜて貰えるはずがない。
「あと一歩だったね。次はもっと上手くやりなさい」
顔を上げると、テーブルの向こうでアークタルス・ブラックが笑っていた。苦笑が2割程含まれているが、嘲笑や失望の色はない。
「さて、ブラック家が所持している装置はスティング・ワンという名だ」
「STING-1、ですか。シギントのアナグラムですね」
「そうだね。用途も、大体はアナグラム前の通りだ。諜報活動以外にも、君達に渡した報告書の諸々、以前に話した通常業務等も受け持って貰っているが」
常に余裕がなく他の装置より様々な点で劣るのだとアークタルス・ブラックは言うが、この時代の、魔法界の民間機関が独自にスパコンを開発し所持している時点で既に色々おかしいので紅茶を飲んで反応を誤魔化した。
同時に、ここでアークタルス・ブラックの狙いが判明した。否、それ自体は既に昨日の時点で判明し、私も口頭で正答しているのだが、より正確な願いの詳細が判った。
彼は敵対勢力に対して一体何重の罠を仕掛ける気なのだろうか。一石二鳥どころの話ではなく、最早、一網打尽の方が近いかもしれない。
つくづく彼と敵対せずにいてよかったと胸を撫で下ろしていると、その孫が可愛らしい仕草で声を掛けてきた。
「頭の中のエンジンがかかっている最中だから、一応訊いてみようかな。は、誰がこの装置を作ったと考えてる?」
「エラドーラ・ブラック様です」
「うん、正解」
アークタルス・ブラックの大叔母であり、フィニアス・ナイジェラス・ブラックの3歳違いの妹にあたる魔女、エラドーラ・ブラック。
内に対しても外に対しても苛烈で、孤独な女傑であったと、アークタルス・ブラックからは聞いてる。病弱で幼くして夭折した長兄と、自尊心ばかり大きく無能な次兄、夢見がちな末妹に囲まれて育った以上、そう振る舞うしか許されない環境であった、と。
彼女の肖像画には一度もお目にかかる機会がなかった、恐らく、これからもないだろう。アークタルス・ブラックの父のシリウス・ブラックと邂逅した事が一度もないように、彼女もまた、そのような人物なのだ。
「その辺りは即答出来るんだね」
「ブラック家に飾られているハウスエルフの首については、アークタルス様から説明を受けましたから」
「……そう」
少しトーンが落ちた声で、レギュラス・ブラックが紅茶に手を伸ばす。濁った言葉の先にある、この子の言い分は判るつもりだ、けれどしかし、首を刎ねられたハウスエルフ達の気持ちに、私は同調したい。
自身の存在価値が果たせなくなったのなら、出来るだけ楽に、見苦しくならないよう殺して欲しいと望むのは、何もおかしい事ではないだろう。ハウスエルフにとっては魔法使いに仕える事が全てで、余程の変わり者でもない限り趣味の一つすら持たないのが普通だ。
というよりも、趣味も仕事も一緒なのだ。主人に仕えるのが嬉しくて堪らない、主人の役に立つ行為こそが自身の幸せだという価値観の中で、彼等は生きている。
それを間違っていると主張する自称人権派の魔法使い達は、イギリスでは多数に登りそうだ。魔法使い側からの虐待は許してはいけないが、双方が納得して交わした契約の上での働きでさえ否定する。ハウスエルフは人間とコミュニケーションが可能な魔法生物であり、倫理観や思考、社会形態や価値観が人間とは異なる事を受け入れない。
人間と同じ生活をする事が最上の幸せなのだという善意の地獄、多様性の素晴らしさを唱える口で単一性を強制する輩は多い。全く、うんざりする。
そういう連中はきっと、メルヴィッドやエイゼルの食事を率先して作り、あれこれと世話を焼きながら家事をする私を見ても、児童虐待だ何だと騒ぎ立てるのだろう。リチャードを慕う私に暴言を吐く連中と、同じ表情で。
淀み始めた空気を汲んだのか、メルヴィッドがアークタルス・ブラックに先を促した。
落とし所は既に全員が把握しているが、それでも、万が一何かが、特に私の認識が間違っていた時の為に声に出しての確認は必要だろう。
気持ちを切り替えるために視線を逸してみると、窓の外は相変わらず奥行きのない、のっぺりとした漆黒が覆っていた。