パプリカとオレンジの冷たいスープ
アークタルス・ブラックからの招集でオレンジ色の光の下に集められたのは、私とレギュラス・ブラック、そしてメルヴィッドの3名だけだった。クリーチャーはリビングを整え紅茶の準備を済ませると姿を消し、ルドルフ君は今回ばかりは駄目だとエイゼルの元へ追い返されてしまった。そう、平時ならば保護者として必ず呼ばれるはずの面子であるエイゼルがこの場にいない。
つまり、今から提示されるのは、そういう話題なのだろう。
気を引き締めて立ち向かわないと食われる危惧から全身が緊張し、今まで胃に入れた物が全て吐き戻されそうだった。空調は湿度や清涼感まで含めて完璧なのに、滲むように皮膚の上へと吹き出す粘ついた汗が止まらない。
「緊張しているね」
「お祖父様がエイゼルを呼ばなかったから不安なのかな」
「いや、レギュラス、その辺りは理解出来る子だよ。多分、心構えが出来ないまま追試に呼び出されたと思っているんだ」
1人掛けのソファに腰掛け、ブラック家御用達の茶葉から抽出された紅茶を手にした3人がそれぞれ私に対しての感想を口にしたので、メルヴィッドに正解だと告げる。声が呻くようになってしまったのは大目に見て欲しい、冗談ではなく物理的に現在進行系で胃が痛い。
「そうなの、? 君が勘違いしないように、内緒の話をしようって言ったのに」
「内緒話と書いて、追試験と読むかもしれないじゃないですか」
招待客達と一通り話し終えたこのタイミングで呼び出されたのだから、その可能性だって十分考えられる。事実、ガスパード・シングルトンやサングィニ辺りとの会話で、昨夜の経験を元にした小テストを受けさせられたばかりなのだ。
ルドルフ君も、スノーウィ君も、カーミット君も手元に呼び寄せられないから誤魔化しが効かない今、震える手を悟られない為に拳を握るが若い灰色の目がそれを捉えてしまう。そのまま、視線は非難の色を含みつつ同じ虹彩を持つ親族へと向けられた。
「お祖父様、昨日一晩でどれだけを虐めたんですか」
「怯えるも可愛らしいだろう」
「それについては同意しますけれど、虐めないでください」
「レギュラス、アークタルス様は一度もこの子を虐めてなどいないよ。八つ当たりはしていたけれどね」
「いい頃合いだね、無駄話はそろそろお終いにしよう」
まるで私のように話題を逸らす祖父に何事かを言いかけた孫をメルヴィッドがやんわりと静止する。アークタルス・ブラックを気遣って、ではなく、突き詰めると八つ当たりを放置して反応を楽しんでいた自分まで糾弾される羽目に陥る事態を面倒臭がってに違いない。
私としても、追試ではなく本当にただの内緒話ならば、心と体の準備は出来たので始めて貰いたい。便器か洗面器か流し台か暖炉へ駆け込み、顔面を突っ込む準備だが。
後ろ向きで情けない覚悟を完了させた私を見て勘違いしてくれたのか、不満そうな顔付きだったレギュラス・ブラックも了承して、痛ましげな表情と溜息と共に何処からかレポート用紙の束を取り出した。独りでに暖炉の火が点いたので、現状と併せて考えると読了後は灰になるまで焼却しなければならない資料か報告書なのだろう。
先に手渡され、素早く紙面へ目を通したメルヴィッドが顔を上げ、なんとも拾い難い複雑な感情を織り交ぜた目付きで紙の束を回して来た。書かれているのは昨日判明した私、というか、ハリーの肉体が所持していたパーセルマウスについての診断結果。
マリウス・ブラックは意気揚々と埒を明けてさせると宣言していたが、嘘偽りなく有言実行したらしい。勿論、どうにか出来るあてがあったからこその宣言だったのだろうけれど、普通はそのようなあてすらないだろう。
何が言いたいのかというと、ブラック家は恐ろしいという再確認だ。スクイブや老人というハンディキャップなど、家の力の前では消えてなくなる証拠が手の中にある。
「報告書に書いてある通り、がパーセルタングを聞き取れない理由は接触不良だ。肉体的要因はほぼ否定出来る。この11年間、君が過ごした環境による精神的、もしくは、彼等との契約により縛り付けられている魂的要因が大きい」
人間が扱う魔法は元から備わっている才能以外にも、現在置かれている環境や使用者の心理状態に大きく左右されるのは魔法界の常識だ。私の扱う家事系の呪文はどれだけ複雑で繊細でも展開されるのに、磔の呪文にはほとんど効果がないのも、それが理由である。
読み進めながらアークタルス・ブラックの説明を耳に入れていくと、現在の私は魔法が心に抑圧されていて、肉体との連絡部分を精神が錆び付かせている状態らしい。オブスキュリアルにまでは至らなかったものの、幼児期に高いストレスの中で育った魔法使いに見られる傾向に近似しているという。
普通は改善された環境に応じて徐々に戻ったり、長じてから本人の意思で制御出来るようになるが、パーセルタングに関してはその兆しが見当たらない。今の環境も高ストレスである事も理由の1つと考えられ、私はそこに例の私ではない私から受けた魂の制約があり回復を妨げているという可能性もあると結論付けられていた。
流石ブラック家だ、真正面からのアプローチに関わらずかなり良い線を行っていると思いながら次の紙面へ視線を落とすと、良い線どころか拙い線に突入している事が判明する。絶対安全な領域から上から目線で評価している場合ではない。こちらが油断している間に防衛ラインを突破されていた証拠が手元にある。
「パーセルタングのみに言及するのならば、実害が確認出来ないので無視してもいい。だがメルヴィッドの見通しが当たっているのは明らかに悪い兆候だ」
「私の魂の一部分がゴーストと似た傾向を示しているというは、喩え話ではなく、実際にそのように観測されたんですよね」
「そうだ。肉体に一切の干渉が確認出来ない故にオブスキュリアルとも異なる、前例がない不明の病気、いや、病気なのかすら判明していない状態だ。何故これで君が安定しているのかすら判らない」
そうだろうとも。私だってこのような特異体質の人間は、私以外に知らない。
仮に何処かに存在したとして、それを知っているのは意味不明な現状を作り出した、未来の異世界で寛いでいるあの馬鹿親父くらいだろう。今すぐ絶対殺すマンを発現させてけしかけたい、そんな事は出来ないし、それでどうにかなる訳もないのだが。
報告書には一切記載されていないものの、肉体とは異なる魂による憑依や乗っ取りの可能性も分析側から既に挙げられているに違いない。証拠らしい証拠もなく、あまりにも突飛な発想だから採用されなかっただけで、ブラック家は私の首を既に半分以上断ち切れる立場に居る。
しらばっくれるか、誤魔化すか、兎に角、何でもいいので平然とした演技に徹しよう。予定外の追試験に冷や汗をかきながら震えている場合ではない、話を繋げなければ。
「以前、レジーに否定されましたけれど、私の墓石に彫られていたように、既に死んでいるのでしょうか。ああ、大丈夫です、メルヴィッド。此処に存在出来ている時点で、生死にそれ程の拘りはありませんから。ただ、人間であるか否か程度の質問です」
悲痛な保護者の演技をしようとしたメルヴィッドを遮り、ただ純粋に、私はどのような生物と自認すればいいのかとアークタルス・ブラックに疑問を投げ掛ける。
あの日、エイゼルが初めて食卓へ着いた日のように、人間でないのなら別にそれで構いはしないという態度は正しく伝わっているようで、生物学的には間違いなく人間だと淡々とした口調で返された。
「先程言ったように、魔法使いという点で肉体に問題は見当たらないから、君は人間だ。魂が、部分的に生者として確認出来ない、辺りが表現として一番近い。接触不良と言ったのはそれだ、君自身か第三者が魂に手を加えた結果、肉体という器に合致しなくなり接続が途絶えている部分があるようだ」
「スリザーリンクの数字を弄られて、輪が途切れた感じですね」
「そうだな、その認識で大体合っている」
内面で猛威を奮っていた混乱が徐々に収まり、初めて紅茶に手を伸ばす。追試験どころか成績発表の場になっているが、ここまで来ると最早諦めが付いてしまうらしい。なんともぞんざいな脳味噌と度胸をしているではないか。
情報が開示される毎に落ち着きを取り戻していく私を見て、レギュラス・ブラックが半分信じられないような、もう半分は痛ましい存在を見るような目で私を見ている。こちらも一応、フォローしておこう。
「理由は判らずとも、ブラック家が安定していると断言したからには心配しません。私がこのまま私で居られるのならば、それ以外は些細な問題なんです」
「個人としてはそうだろうね。未知の魔法と状態を突き出された我々としては、全く些細な問題ではないのだけれど」
しかし、その諸外国を巻き込みそうな問題がイギリスに、ブラック家の手元に自ら進んで居場所を定めているだけ僥倖だろう。その考えを口調に乗せる前に、ゆっくりと紅茶を一口分飲み込んだ。
「私は此処に居るだけで力になれませんが、応援なら出来ます。頑張ってください、アークタルス様」
しかし、昨日の今日でそこまで私を調べ上げてしまうのは冗談や軽口ではなく、心底恐ろしい。何処かの施設に寄り事細かに診察を受けたた訳でもない、つまり、ブラック家は監視だけでそこまで判る何かを所持している事になる。聖マンゴ入院中に調査した可能性も考えられるが、大事なのは、何時という時間の話ではない。
それが多分、私とメルヴィッドだけがこの場に呼ばれた理由なのだろう。彼等はそれについてを教える気なのだ。
本題へのきっかけを開示し、さて次はどうするのかとブラック家の両者を伺うと、浮かない顔を隠していないメルヴィッドが話の終了に待ったをかける。
「今、安定している事は理解しました。けれど、もしもいつか、この子のそれが既知の状態になったとして、肝心の治療は」
パーセルタングが治癒出来ないから、ではなく、他の魔法に関連した能力にも見過ごせない不備が見つかるかもしれない、その場合の手段はあるのかと家族の顔で問うメルヴィッドに対し、アークタルス・ブラックは苦い表情で無理矢理笑みを浮かべるに留まった。
まあ、それは予想していた通りだ。私のこれを治療可能とする技術が既に開発されているのならば、魂と魔法と肉体の三者に干渉出来るという事になる。つまり、マリウス・ブラックのようなスクイブは病気として扱われ、治癒する見込みが立つ。しかし、彼は未だに彼のままだ。
となると、逆説的に実家の阿呆はスクイブを魔法使いにする技術を開発している事になるが、その辺は腐っても天才という訳か。そのまま脊髄まで腐り死ねばいいのに。
緩い殺意を外に漏らさないよう気を付けながら、吐き気の収まった胃に温かい紅茶を再度送り込み、メルヴィッドを見上げる。その先にあった、夕日のような瞳が切なげに歪められていた。
「ならば、これ以上の情報は必要ありません。今後も継続して調べるかについては、が同意するのならば構いません、けれど、安定している限り私への報告は不要です」
「宜しいのですか、メルヴィッド。此処に居る方ならば、私は誰に何をされても構いませんけれど、貴方は」
「ブラック家の技術でも治療不可能とされる症状をどれだけ知らされても、不安が増すだけで消えない。日常生活に支障が出ないのなら頭の隅にだけ置いておくよ」
明るいとは言えない室内で紅茶の湯気を眺め、一呼吸置いてからメルヴィッドは更に、とんでもない告白をしでかした。
「それに、今より悪化しても、私なら君を治療出来る」
その言葉に目を見張り驚いたのは私と、レギュラス・ブラックだった。
治療とは一体どういう事だろうか。張角の符水の情報は結局公開しないまま手紙そのものを打ち切った。というか、そもそもあれは肉体修復系の治癒符だ、魂や魔法への干渉は出来ない。
他に何かそれらしい技術でも存在していたかと記憶を掘り起こし考えてみるが、それが深まる前に不安が胸に広がって行く。今でも治療可能にも関わらず敢えてやらないとブラック家の前で宣言するのは誰から見ても悪手ではないか。レギュラス・ブラックが何か文句のようなものを言いたそうにしている、既に誤魔化す事も出来ず狼狽えながら観察している内に最大の敵、アークタルス・ブラックが刺すような視線を宿し口を開いた。
「エイゼルを止めているのは君か」
「ええ。だって、そうでしょう? この姿のままでは可哀想ですから」
しかし、予想とは大きく掛け離れた穏やか過ぎる遣り取りに、表情と態度に出して思い切り首を傾げる。何故ここでエイゼルの名前が出てくるのか理解出来ない。そしてメルヴィッドが止めている、この姿のままでは可哀想、とはどのような意味を指しているのだ。
レギュラス・ブラックは私と似た表情で内心を物語っているので除外。メルヴィッド、エイゼル、アークタルス・ブラックの3人だけが知り得ている物は一体何か、駄目だ、範囲が広大で絞り込めず、見当すら付けられない。
探りを入れる行為を早々に放棄した私に向かって、何かを諦めているような、そして何処か、後ろめたそうな表情を浮かべたメルヴィッドが、ほの昏い笑みを向ける。闇夜の中で、ぽつりと光る誘蛾燈を遠くから眺めた時の気分に似た笑い方だ。
演技であろうと、静かで好ましい笑みの浮かべ方だった。彼が無言でそう告げるのなら、私はきっと光に群がる羽虫の1匹なのだろう。貴方が望むのならば好きなようにと肩の力を抜き微笑み返すと、アークタルス・ブラックは知っているのかと尋ねて来た。無知な私の代わりにメルヴィッドがそれを受ける。
「何も知りません。その上で、は私に総てを委ねてくれるんです」
「……そうか。ああ、しかし、そうだろうとも」
「何を仰っているのか判りませんが、メルヴィッドの成す事ですから不安も心配もしていません。けれど訊いて誰も困らない事ならば疑問を投げ掛けたいです、今の言葉はつまり、何かとてつもない薬の開発に成功した、という事ですか?」
頭の悪い尋ね方だ。
とてつもない、辺りが特にふわっとしていると自分でも思う。
「発見した、の方が、まだ近いかな」
そしてメルヴィッドも私を真似てふわっとした返しをする。どちらにせよ、使ったらなくなる系の材料である事は確認出来た。要領を得ない口ぶりからすると、彼やブラック家でも補充が困難な物だ。
「技術ではなく物質なのですね。私に使うのは勿体ないので、必要になる日までストックしておいてください」
「誰に使うかを決めるのは私だよ」
「ならばどうぞ、ご自由に」
アークタルス・ブラックを巻き込んでいる以上、都合のいいハッタリ、ではないだろう。そして、時系列から考えて、メルヴィッドがそれを発見したのは私の目が潰れた後、ほんの数ヶ月前の事だ。
それまでに一体何があったのか、うん、お手上げだ。この数ヶ月の密度は洒落になっていない。可能性が溢れ過ぎて判らない。
判らないものに何時までも脳を占領されて動かせる程、私の頭の出来は宜しくない。ここでこの話は終わろうと雰囲気で告げようとしたが、アークタルス・ブラックが吐くと思われた台詞を、今になって呆然とした表情のレギュラス・ブラックが放った。
「メルヴッド、を痛ましいと思っているのに何故体を治療しないんだ。まさかとは思うけれど、君は、この子を引き取ってから今まで一度も薬を」
「最初はね、作ろうとしていたよ。この子の為だけに、特別な薬を。けれど、止めた」
ただ単に、動揺と周囲からの同情を誘う為だけに残していた虐待の傷跡に、今この瞬間、メルヴィッドは何らかの意味を持たせ、医療に携わる者として治療しなかった理由をこじつけたらしい。
反発しているのはレギュラス・ブラックだけだ。私自身も詳細は一切理解出来ていない、とはいえ、アークタルス・ブラックが遠巻きに孫を観察している時点で、メルヴィッドのそれは一定の説得力を帯びていると確信した。
「レギュラスなら既に知っていると思っていたんだけどな」
「知らないよ、そんな。嘘だ、なんで、だって君はを愛して」
「愛している、この世界の誰よりも。ただ、この子に対する可哀想の意味が、私と君とでは違う、それだけの事なんだ」
「違わない。違わないはずだったのに」
「これ以上の説明は、アークタルス様に任せるよ」
「そんな」
「レギュラス、止めなさい」
「けれど、お祖父様」
「説明出来ない理由が存在するのだ。頭を冷やし、察しなさい」
ゆったりとした口調で窘められ、自分の味方がこの場に居ない事を悟ったレギュラス・ブラックは口を噤み、傷付いた少年の顔をしてソファに座る。メルヴィッドとアークタルス・ブラックが組んでいる時点で現実から目を逸らし絶望する私とは違い、必死に噛み付いていくこの子は、本当に若く初々しい。
結局2人が何を隠しているのか判らないまま、しかし、それならばそれでいいと置いてけぼり食らってると、温かくさらりとした手の平で頬を撫でられた。見れば、メルヴィッドが私の隣に立っていた。
「メルヴィッド、どうかしましたか?」
「あと10年、いや、卒業直後で十分かもしれないかな。このままが、何事もなく、健やかに育ってくれれば」
どうにも、先程の話の続きらしい。件の材料は子供の服用が危険な薬になるのか、肉体の耐性に関しての問題でもあるのだろうか。しかし、その程度が理由ならば、この場でレギュラス・ブラックに話せるだろうから違うに決まっている。
まあ、どうでもいいと決めたのだ。判る日が来るまで放置しよう。
「何十年でも待てますよ、けれど、希少な材料ならば私ではなく」
「希少だからこそだ。私は以外の人間に使うつもりはない」
アークタルス・ブラック辺りに使って欲しいと告げようとした言葉を放つ前に静かだが強い口調で遮られ、そもそも彼は治っていると先読みの返事までされた。
少し、それ以上の言葉を続ける前に止まって欲しい。
今、メルヴィッドは何と言った。
「本当、なのですか?」
「フラメル夫妻からね。お礼にと、一口分だけ頂戴出来た」
ソファに座ったままの此処からでは傷の有無が判別出来ない。オレンジ色の明かりの下で袖を捲くったアークタルス・ブラックを見て弾かれたように立ち上がり、メルヴィッドの傍をすり抜け短い距離を駆け寄る。
皺だらけで、少し弛みつつも硬く水気のない、和紙のような皮膚に覆われた腕。けれど、呪いのように赤黒く残っていたはずのグロテスクで痛々しい痣だけは、最初から何もなかったかのように消えていた。
涙で視界が滲んだが、彼の腕は間違いなく、治っている。
「気付かなかったんだ。ああ、でもそうか。あの時みたいな袖の長さが合わない服を着る事もなかったから」
メルヴィッドが背中に向かって何か言っているようだが、今はどうでもいい。アークタルス・ブラックを抱き締めて生きている事を祝福する方が重要だ。
よかった。本当に、本当によかった。フラメル夫妻の恩恵が、彼に注がれて。私に与えられた物と同じ物質が、彼の金庫の総量を増やすだけに留まらなくて。
一口と言うが、彼の糧となったのは命の水だ。明日を生きる為の、砂漠や孤島で差し出された真水よりも貴重な一口だ。レギュラス・ブラックが使い物になるまでアークタルス・ブラックに死なれて貰っては困ると彼等も判断したとしたら、未だ半人前の現当主が舵取りを覚える前に、前当主が体の不調で死ぬ事はないと保証された。
目の前にあるのは、命の水を一口分だけ分け与えられた事実だけで、後半は、私の都合のいい妄想に過ぎない。それでも、その一口で彼は数年の間、確実に老いが連れて来る死神から遠ざけられた。これはきっと奇跡などではない。そこまで計算して、フラメル夫妻の人の良さに付け込み、恩恵と人情を合理と商取引の枠に埋め込んで、彼等は動いたのだろう。
けれど、それがいいのだ。
それだからこそ、私は彼の為に涙を流せる。
「疾風に勁草を知り、厳霜に貞木を識る、か」
「その言葉は、さっきロザリンドが」
「そちらは王覇伝、今のは宋書だ」
だから君は気付けない、と私だけに聞こえる声量で囁いたアークタルス・ブラックは、丁寧な手付きで濡れた頬を撫でた。
「苦難と逆境の中では笑みを湛え共に道を歩み、救済を知った時に初めて、膝をつき歓喜の涙を見せてくれるのだね。君という人間は」
年老いた指先に額を擦られ、顔を上げる。私の零す嗚咽を脆い砂糖菓子や綺麗な硝子細工のようにアークタルス・ブラックが称えるが、この涙はそんな儚く美しいものではない。埃を被った老人の、自身の利益がより安定した事を喜ぶ自己満足の涙だ。
そう弁明しようにも、余りにも深い、そして唐突な安堵に喉が引き攣り声にならない。袖で涙を拭おうとする前にサングラスが外され、強過ぎる光に目を眇めていると、柔らかくなるまで使い込まれたリネン生地が頬や目頭に優しく触れた。
安物のガーゼのハンカチで彼を慰めたのは、丁度季節が反転した冬の頃だっただろうか。鼻が真っ赤だと指先で僅かに触れたアークタルス・ブラックは、あの日と違い、酷く弾んだ声をしている。
「あの時と、逆ですね」
「そうかもしれないな。ならば、このハンカチはに持っていて欲しい」
差し出されたのは、先程まで私の涙を拭っていたリネンの白いハンカチ。アークタルス・ブラック個人の紋章が刺繍されているそれは大変高価で、そして、値段以上の価値を秘めている物だ。
普段ならば、また、物々交換や誕生日プレゼントだとしても受け取る事を頑なに拒否したであろうそれを、私は縦に一度頷くだけで無言のまま受け取り、両の手で強く握った。退けられていたサングラスもまた、戻ってくる。
「本当は、こんなささやかな小物の方が喜ばれるのは判っている。それでも、価値観の差が埋められなくても、私は君に、与えられる限りを与えたいのだ」
「小さな物すら、本当は要らないんです。ハンカチよりも、アークタルス様のお怪我が治っていた事が、それを知れた事が、今日一番の贈り物ですから」
「そうか……けれど、、それでも、私が与える全てを許して欲しい」
爺である私と同様に、アークタルス・ブラックも泣く子には弱いのか態度は愁傷だ。それでも我を通そうとする辺りがブラック家なので思わず笑ってしまい、穏やかな感情に満たされた胸の内を晒しながら仕方なく頷く。
私の仕草を見て、アークタルス・ブラックも微笑んだ。
「それはよかった。夕方になったら再度、アクセサリーボックスを開けてみてくれ」
「……一体何を仕掛けてくれたんですかアークタルス様は!?」
「アクセサリーボックスに収める物は決まっているよ、涙は止まってくれたようだね」
「メルヴッド、メルヴィッド! アークタルス様が私を虐めるんです!」
「ああ、そう、大変だね。換金してチーズグレーターでも買ったら?」
「判っていたけど、僕には泣き付いてくれないんだ。寂しいな」
お兄ちゃん振りたいレギュラス・ブラックは兎も角、メルヴィッドにまで拗ねる演技されて見放された私を見て、アークタルス・ブラックはソファに肘を付きながら喉で笑った。完全に寸劇を鑑賞する観客として楽しんでいる。
ピエロや役者というより、マリウス・ブラック曰く犬の表情をしたまま気配だけを取っ散らかせて狼狽えていると、何も解決しないままメルヴィッドがおいでと両腕を広げたので取り敢えずそちらに行って抱き締めて貰った。そしてそのまま、元々座っていたソファに戻される。何故、私以外の全員が話は終わったみたいな雰囲気を出しているのだろうか。
「さて、本題に入る前に、少し長話をしようか」
アークタルス・ブラックに場を取り仕切られ、反論も許されないまま真面目な話が始まってしまう。ブラック家から魔法省、そしてホグワーツに繋がる、あるシステムの話だと口火を切られて、それを妨害出来る程、私は馬鹿には徹しきれなかった。