フィンナン・ハディー
流石に私でもここま鈍臭くはないと呟きかけた胸の内で、つい半月程前に一切の前触れを尽く取り零しドイツ人少女の婿にされそうになった目を覆いたくなる愚鈍な馬鹿の名を声に出してみろと脳の冷静で客観的な部分が巨大な鏡を大地に突き立て、私の後頭部を掴み季節外れの鏡開きを遂行した。
完全に同類だ、サングィニの事をどうこう言えるような立場ではない。クリーチャーが私達を似ていると評したのは、何処までも正しい。
砕けたガラス片で自傷し血塗れとなった私の心など知った事ではないサングィニは淀みなく話し続け、他の兄弟姉妹達は年頃になると別の町の奉公人になると言い残し失踪したり、教会へ身を寄せ独身を貫きながら森の野生動物に殺されたと偽装したり、お使いの道中で野盗に襲われたように見せかけたりと、全員が両親から授けられた教育を遺憾なく発揮し独り身のまま様々な方法で別の土地へ散って行ったという。
「取り残された形となった私にも、幸運は残されていた。子を成す前に密通された際には、天が私に与えた最後の好機だと強く感じたものだ」
「だから浮気現場を押さえる為に梁に登ったんですか」
「名案であろう」
虚しくなるので同調と共感と評価はこの際全部避けるが、シンプルで非常に楽な作戦なのは確かだ。
扉から現場に突撃して妻か間男にナイフで刺して貰えるよう誘導するのは、念入りな下準備の他にも相手側の感情やタイミングも重要なので骨が折れる。足を滑らせた故の転落死ならば度胸以外に求められる物は何もなく、高所から落とされた魔法使い同様に自動防御が働くので酷い怪我をする事もない。
クリーチャーが物凄く頭の悪い生き物を観察する目で隣のサングィニを見上げている光景は、意識の外に放り出そう。
「そのようにして土葬されたまではいいのだが、折り悪く埋葬前後からバンディマンが異常増殖をしたらしく棺の蓋を開けてみれば衛生環境の悪化から疫病が発生していたのだ。しかも原因は私だと噂されているではないか」
家畜を殺すのは食料とする為なので、疾病の流行を望まないのは人間も吸血鬼も変わりはしない。しかし、もしも私が彼の立場であったのなら死に行く食材を見捨てさっさと土地を引き払うだろう。
「態々夜中に墓穴から出歩いてバンディマン退治をなさったのですか」
「数十年世話になった土地と人なのだ、難儀であったが見捨てる訳にもいくまい。姿を目撃され人外の生物だと知られてしまったのは、必要な犠牲というものだ」
「たとえ衛生概念が発達しておられない時代でしょうとも、バンディマンを増殖させるようなマグルの救助と離散など以ての外にございます。サングィニ様はいっそ出歩かず住民の息の根を止め全滅させた方がようございました」
「貴兄のマグル嫌いは変わらぬな。しかし、そう厳しく言ってくれるな、私に良く接してくれた人間達が大勢居たのだ」
家畜の防疫の観点からしてみれば正論で、それ故に特別手厳しいクリーチャーを見下ろしながらサングィニは笑い、巣食っていた粗方のバンディマンを退治し終えると新鮮な死体を変身術で自分の姿に変え大急ぎで逃げ出したと、まずは伝承の裏側を語り終えた。
全体を通して行き当たりばったりの行動にとてつもない親近感が湧くのは、きっと私だけなのだろう。先程から口出しをしているクリーチャーは勿論、レギュラス・ブラックも、ロザリンド・バングズも、ちょっと可哀想な子を見るような目で会場内最高齢のお年寄りを眺めていた。その中で、今度は唯一の女性が口を開く。
「それからは人間から離れ、森の中でアウトロー生活を?」
「貴姉の想像通りだ。近隣の土地にはニューバラから逃げた者達が移住していたので行き場がなく、恋愛感情はなかったとはいえ妻に不貞を働かれたので傷心を癒やしたかった事も重なった。各地を転々としながら10年、50年だっただろうか、100年かも知れない、正確には覚えていないが、森の中の長い孤独も悪くない生活だった」
「遠い町へ足を伸ばさず最低でも10年のアウトロー生活の中で不満もなかったのなら、悪くないどころか良好な生活だと思いますけれど。環境は魔法で整うとして食事はどうなさっていたんですか」
「あの時代は、人間の死が今よりも身近にあったのだよ。追い剥ぎに殺された旅人、返り討ちに遭った野盗、内部分裂した無法者達、口減らしと、日暮れまでに宿場へ辿り着けず野犬に襲われた商人や巡礼者の隊列」
指折り数えながらサングィニはなおも続け、それらが手に入らず保存食も尽きた時には付近の教会へ出向き墓を荒らし、最終手段として殺人に及ばざるを得ない状況もあったが、異種族の社会に紛れ込む上で最大限の配慮と譲歩を行い、命をいただく以上は髪も皮も残さず売り払い骨の髄から血の一滴まで決して無駄にはしなかったと力説する。
短くとも10年、長ければ100年もその生活を継続させたというのだから頭が下がる。これが私のように脆弱な精神構造をした頭の悪い老人だったらまず半月で根性が尽きる。目と鼻の先には瑞々しい野菜や甘い芳香を放つ果樹があるのに、熟し過ぎて落ちた果実や渋くて固い木の実だけを口にするフルータリアンに近しいものがある。訂正しよう、もしも私であったら、何らかの体調不良でもない限りそのような食生活では3日も持たない。精神や意志が折れるよりも先に、胃袋と舌が暴動を起こす。
餌の社会と文化を可能な限り尊重し、欲求を捩じ伏せる鋼鉄の意志を持つ美しい吸血鬼を畏敬の眼差しで見上げている私を抱き締めていた腕が緩んだ。
顔を向けるよう誘導しているのか白い指先が頬を擽るように撫でる。促されるまま首を動かし視線を移動させると、言葉にするには複雑な感情を溜め込んでいる様子のレギュラス・ブラックが眉を顰めつつ言い淀んでいた。更にそんな私達を見上げていたクリーチャーが口を開こうとすると、ロザリンド・バングズが君もダメージを受けるだろうから止めた方がいいと制止する。私の態度は何かが間違っていたのだろうか。
「食材は君と同じ人間だと理解しているのか」
「理解も納得もしていますよ、ローザ。被食者として一番欲しい捕食者の感情は何処の誰とも知れない唯一神への祈りではなく、被食者そのものに対する深い謝恩だと私は、考えていたのですが……その辺りが違っていたようですね」
姿形は同じにも関わらず自身とは完全に別種の信じ難い生物を見る6つの瞳を確認して、いただきますとごちそうさまの文化がないとここまで差が生じるのかと苦笑する。
人間から食材への感謝は、信頼や愛情と同様に一方的な自己満足に過ぎない。私の場合は感謝以前に、ただ今から料理を食べる、或いは終えたという自身や周囲に対する合図か、料理をしてくれた相手に対しての感謝か、もしくはこの100年の間に染み付いた日本人としての教養という名の単なる慣習だ。
無論、食材にされた相手に対して深い感謝を捧げる行為は否定しない。実家を訪問してくださった人外の方々が自身の肉や臓物などを切り取り、話の種として酒の肴にでもしてみないかと分け与えてくれる事もある。捕食者という名の施しを与えられた生物として、最大限の敬意と感謝を表すのは寧ろ当然の行いだろう。
とはいえ、実家の件は極稀な例に過ぎない。100年という長いとも短いとも断言し難い食生活の中で、肉の代表格である牛、豚、鶏や、害獣代表格の猪、鹿、狸から感謝に類似するものを得られた事など皆無だ。帝釈天やケツァルコアトル神を前にしたウサギのような行動を取られた事も、残念ながら今の所はない。鯨やイルカ相手でもそうだし、魚も、無脊椎動物も、植物も同様だった。今ならば話し合いの末に特別に蛇だけは同意を得られるかもしれない、それに庭小人と、ジャービーと、違う、思考が逸れた。今はそのような話をしているのではない。
兎に角、捕食者からの謝辞など、被食者からの許しを得られない限り自己正当化を核とした綺麗事の押し付けにしかならないだろう。しかし、人間が被食者の立場となれるならば話が違ってくる。前述した極稀な例の方々の行いを、通例にすればいいだけだ。
食物連鎖の更に上位存在、この場合は吸血鬼と意思疎通が可能ならば、彼等からの感謝を許容し、貴方の感謝を確かに受け取ったと言葉と態度で明確に示す事こそが、意思を持ち言語を操る存在が持つ特権となる。まあ、私を食べて、私を飲んでと意思表示出来る調理済み食品も存在するが、確認出来たのは御伽話の中だけなのでこれも例外だ。
疑問の色を混合しつつ興味深い食材を観察している7つ目と8つ目の瞳に対して軽く両腕を広げ微笑んでみると、背後から勢いよく腕を取られ、弾みでグラスの中身を全て引っ繰り返してしまった。乳白色のアルコールが服へと吸収されてしまったが、それはシミや香りが広がる前に魔法で解決したので別にいい。
「レジー、腕が痛いです」
「黙って」
「黙った所で私の意思は変化しませんよ」
「いいから、黙れ」
憤怒の形相で灰色の瞳を私に向けたレギュラス・ブラックに強く命令され仕方なしに口を閉じれば、更に強い力で抱き締められた。ハグとは表現出来ない骨が軋みそうな肉の拘束に呆れ周囲の反応を知る為に見渡せば、クリーチャーとロザリンド・バングズが今のはお前が悪いと無言で責めていた。何故だろう。食に対する価値観に相違が認められたが、別に私はこの思想を誰にも強要はしていないのに。
私の何が悪いのか判らないのでひとまず命令通りに大人しくして、誤魔化し半分の気持ちが一切籠もっていない謝罪は止めておこう。この雰囲気で無理解の謝罪を行えば火に油を注ぐ事になるくらいは予想出来るので。
「その、何だねレギュラス君。我々の社会にも法や倫理は無論、家族や友人、恋人、愛玩動物と呼ばれる概念も存在する。余程の異常主義者でもない限り君達を襲う必要がないので、そう睨め付けながら牽制をしないで欲しいのだが」
「……そうだね。サングィニ、済まない。君も、大半の吸血鬼達も悪くない、今のは僕が悪かった」
今のサングィニの言葉をレギュラス・ブラックが肯定したという事は、現代の吸血鬼達は人肉の培養か人間の畜産か人身売買でもしているのだろうか。合法的な血液の購入だけで解決する問題ならば提供されている以上私の身に危険はないと言うだろう、態々吸血鬼の社会形態を引き合いに出し、襲う必要という単語を使用する理由がない。
揚げ足取りのような疑問が真実だろうと異文化の一種として受け入れる構えなのだが、この場に居る全員、特にクリーチャーがこれ以上は深追いして欲しくないと全身全霊で語っているので静かにしよう。その間を利用して、レギュラス・ブラックはロザリンド・バングズに依頼者として注文を付けていた。
「ロザリンド、護衛担当者達にこの子から目を離して自由を与えないよう強い再警告と指導を、それとは」
一旦言葉を切り、短い沈黙を作り出した上で、嫌悪に似た非難の視線を強めながらブラック家の当主として厳しい口調で命令を下す。
「は、道具になる事を選んだのだから、二度と餌のように振る舞うな。君の生殺与奪の権を握っているのは僕とお祖父様だ、君自身じゃない。自覚出来ないのなら、ブラック家の駒から降りて貰う」
理性の中で下された内容は大層立派なものだった。言わなければならなかった内容に傷付き苦しんでいると手に取るように判る表情さえなければ、もっといい。
折角の決め台詞なのに勿体ないが、教育の種が結実し着実な進歩を遂げている意識に水を差すのは宜しくないだろう。
「間違った判断をして申し訳ありませんでした。レジーの言う通り、今は与えられた生を存分に謳歌します。ですから、私の命が入用になったら奪ってください」
「煩い。君にそんな日は来ない、絶対に来させるものか」
事態の制御を呪詛のように腹の底から誓うだけで、何が起こり誰を犠牲にしてでも私の命を守ると言い出さなくなったのは成長の証として前向きに受け取るべきだ。この方向のまま真っすぐ育ち、何時の日かこの子が事務的に私を殺せる日を夢見よう。惰眠を貪っている間の育成は、アークタルス・ブラックとメルヴィッドに丸投げだ。
いつものように役立たずの老害思考のまま脳内で頷いていると、肌寒くなって来たのかロザリンド・バングズが軽くくしゃみをして詫びる。
途端にサングィニ以外の男性陣が一斉に動き、ショールをどうぞ、温かい飲み物は如何でしょうか、周囲の温度を調節いたしましたので何時でも仰せ付けくださいと口にした。因みにレギュラス・ブラック、私、クリーチャーの順の台詞であり、彼女に受け取って貰えた気遣いは一歩先を行くクリーチャーのものだった。流石ハウスエルフである。
「ありがとう。全く、たかだか数度の気温差でくしゃみをする歳になってしまったな、現役の軍人だった頃はサングィニのようなサバイバル訓練も受けていたが」
ロザリンド・バングズの表情と選ばれた話題から、彼女の真意をようやく知った。あからさまに感じるのは、私でも気付けるよう子供向けに難易度を調整してくれたのだろう。
本来なら話題を正常な部分にまで戻すのではなく無害で当たり障りのない天気や噂話に逸らすのだろうなと考えつつサングィニを見ると、私と同じような表情をしていた。加えて、クリーチャーはそんな彼を訝しげな目で見上げていた。
今迄何度も同じような話題転換方法を目にしながら、その度に感心して、しばらくしたら根本から全てを忘れているのだろう。手に取る用に判る、私がそうなのだから。
「サングィニ様は無法者生活の後、十字軍にも参加しておられたとクリーチャーは記憶しておりますが」
「ああ、戦場跡に偶然出会い気付いたのだ。獲物を探すのではなく自ら死体の豊富な戦地へ赴けば今以上に食べ放題ではないかと。なので徴兵に紛れ込み、国外脱出をして様々な地域を渡り歩いた。十字軍へ参加していたのもその頃だ。この場合は、落ち穂拾いかロードキルイーターの比喩が的確だろうか」
「拾い食いが最も適切かと」
遠慮のないクリーチャーの物言いもサングィニは笑って流し、植物で食中りを起こす事はあっても肉で腹を痛めた事はこの800年間一度としてないと胸を張る。しかし、その胸もすぐに元の状態へ戻った。どうやら、現実は予想よりも厳しかったようだ。
「しかし、戦地ならまだしも行軍中は思っていた程豊かな食生活ではなかった。隠れて食するには人目も多く、不自由だ。両親が何故兵士や戦場を勧めなかったのか深く考えなかった私に落ち度がある」
「アウトロー生活の方が楽でしたか」
「今思えば、私の場合はそうだった、森の中の孤独も悪くない。しかし、悲しみに打ち勝つ術を持たぬ者や、他者と関わり合いと持たなければ生きていけない者には魔法の力を隠し行軍に紛れる方が向いているだろう」
隠すのではなく逆に魔法の力を全面に出し行軍に参加する、とは成人するまでの流れを聞く限り選択肢に挙がらない。
十字軍は魔女狩りが隆盛する前の時代だが、そういう事ではないのだ。街であろうと、軍であろうと、たった1人の特殊能力者に社会を依存させ全兵站を担わせる危険性をサングィニも教育されたのだろう。
勿論、君主政にしろ共和制にしろ民主政にしろ、その集団の権力者が誰が欠けても組織を維持出来る社会を整えればいいだけの話なのだが、規律が常識や文化として浸透するまでの間は集団側と魔法使い側双方の自制心が必要なので、言うは易しという言葉がこれ程当て嵌まる事例もない。中世よりもさらに前、人類の文明発生時にまで戻れば希望はあるかもしれないが、所詮はたらればの話だ。
「そうして国外を放浪していた時にトランシルバニアへ赴いたのですか?」
「いいや。私は発見された側だ、何度目かの十字軍参加時に私と同様の考えに至った吸血鬼と出会い、引き上げ時にトランシルバニアの集落へと案内をしてくれた。驚いた事に既に東欧の吸血鬼は吸血鬼だけの社会を形成しており、法も作られていた」
吸血鬼の設定が固まる以前だから15世紀と16世紀の間くらいだったと長寿生命体らしい大まかな時間の記憶を披露しつつ、サングィニは当時の記憶は楽しいものであったのか嬉々とした声色で続ける。
曰く、12世紀のイギリス出身で400年ほど独身を貫きながら各地を転々としていた珍しさから諸手を挙げて集落に受け入れて貰えたそうなのだが、それ以外に彼の中に蓄積された情報と、何よりも彼自身の人柄も大きな理由となっている気がする。アニック・カースルでの件はこの頃既に笑い飛ばせる程の昔話であるし、以降は派手な行動を起こしていない。集落に属してからは集落の法に従い、押し付けがましくなく、生真面目で吸血鬼に対しても人間に対しても誠実。問題らしい問題が見当たらない。
ただ1つ、疑問点を挙げるのならば、だ。
「私の知識の上では、トランシルバニアの集落は最近出来たのですが、それも吸血鬼側からの情報操作の一貫ですか」
「そうだな。元々トランシルバニアに拠点を築いた理由は、あの地域には吸血鬼伝承が存在しないから、だからだ。あの地域にはドイツ方面から渡って来た吸血鬼が入植し、遥か昔から隠れ住んでいた」
「という事は、今現在大半の吸血鬼達は火葬文化圏に集中していると考えた方が。しかし、インドにはヴェータラの存在が確認されていますし、土葬文化圏でもガーナのような死体が腐りやすい場所にアササボンサムが居て、逆にキリスト教系でも煉獄の存在を認めている地域には吸血鬼文化がなくなったと」
「ノーコメント、と言っておこう」
吸血鬼の生息地域を特定しようとする私に対し、サングィニはストレートに情報提供を拒んだ。魔法界から隠れている彼等にとっては絶対知られてはならない情報なのだから当然だろう、今のは私の配慮が欠けていた。
「そうですね、失礼致しました。では、サングィニ様は十字軍の引き上げ以降はずっとトランシルバニアに腰を落ち着けるようになったのですね」
「ああ、しかし、困った事態が起こってしまった」
「ポリドリ? レ・ファニュ? それともストーカーですか?」
ルスヴン卿、カーミラ、ドラキュラ伯爵を選択肢に並べるが、目の付け所は間違っていないものの、どれも不正解だと幼い子供を眺める目で苦笑される。
「より以前だ。17世紀末から18世紀にかけて西欧で吸血鬼を題材とした娯楽の大流行が起こった。当時のフィクションでも特に注目を浴びた書物が、カルメの『精霊現状、ならびにハンガリー、モラヴィアの吸血鬼ないし亡霊に関する論考』だ」
「ハンガリーとモラヴィアでは、他人事で済ます事は出来ませんね」
トランシルバニア内の集落にはもはや一刻の猶予も許されない、サングィニの話から当時存在していたと予測可能なハンガリー国内の集落の尻に火が付いてしまっている。
対岸どころか隣家の火事だ、何時家屋を失ってもおかしくない。
「大半の吸血鬼達がその結論に至った。魔法界もそちら側から学校へ入学する生徒が多いので、人の流入から始まる情報の汚染は時間の問題だろうと。人間が生んだ妄想は既に収拾が付かず我々の手に余る、ならば、広がった情報を逆手に取るのは必然だった。一部の吸血鬼を流行の設定通りに振る舞わせ積極的に誤った情報を拡散する手段が採用され、その当時から私はイギリスを担当している。しかし、昔から嘘は苦手なので」
若干申し訳なさそうにレギュラス・ブラックを見下ろすサングィニを見て、彼が何をやったのか大体の見当が付いた。
私が彼の立場ならばどうするか。決まっている、正面突破だ。
「彼はホグズミードで待ち伏せして、真正面からブラック家の当主に突撃して来たんだよ。今でも家の肖像画が語り草にしているくらいには愉快な話かな」
「幸い、当時の当主殿も話の判る方であり、二つ返事で協力を申し出てくれたのだ。流行の把握に困らなかったのは偏に彼のお陰だ、そして今も感謝をしている」
「居住域の隠蔽工作はブラック家としても推奨すべき活動だからね、率先して隠れてくれるなら情報操作の手伝いくらいはするよ。大抵は吸血鬼ブームの内容を知らせる程度だけど、居住地域に不穏な動きが認められた場合は一時的な避難場所の提供辺りもあるかな。吸血鬼は自立した種族だから手を出し過ぎると内政干渉になりかねないし」
私が先程指摘したライシアム劇場はその為に通った劇場の一つであり、だから観劇は必要に迫られたからであり趣味ではないのだと再度説明を受ける。
今でもそのイメージ戦略は続いており、お陰でサングィニの顔は平凡なイングランド人男性から異性を魅了する美丈夫に変形させられ、血に飢えて日光が苦手で鏡に映らず河川も渡れない等の設定が盛り沢山な状態で魔法使いのメディアに露出をするらしい。
「大変ではありませんか」
「中々に愉快だ。特に名前のアナグラムは私の伝承によく馴染む」
彼の名はsanguini、伝承での彼の綴りはsanguisuga、後者は言葉通りの吸血動物という意味合いしかなく完全なアナグラムでもないが、本名ではなくそちらが広まっているのならば利用しようとなったらしい。
元々居住地を転々とする彼のような吸血鬼にとって、親から受け継いだ顔や名前は大して重要な要素ではないのだろう。寧ろ、その2点に拘っていては人間社会の中に潜む為の難易度が急上昇しカーミラの物語化する。
「君が挙げたように、最近ではウイルスや疫病の擬人化説も流布されたようだから、その鍛錬も欠かしてはいない。黒い靄のような物体に安定して変身出来るようにもなった」
不定形生物への変身は骨が折れるので彼の努力を素直に称賛したい所だが、大変残念なお知らせがある。
ウイルス設定は、10年程後の21世紀に発売される日本産ゲームの多大な影響でゾンビの物になる。ウイルス性の怪物といえばゾンビになり、吸血鬼は、まあそんな説もあるよね程度に収まってしまう。しかし、噛まれたら感染という、努力や情報操作ではどうしようもない設定もソンビのお家芸となり、擬人化にしても例えばスラヴ人のペストは白衣の女や髪を振り乱した老婆の姿なので、実在する吸血鬼的にはそちらの方がいいのだろう。
とはいえ、次々に変化する設定から引き離されないよう努力するサングィニの表情は心底楽しそうで、生きがいを見出し活力溢れる老人そのものだ。彼が演じ、勘違いが加速すればする程、情報操作が成功した何よりの証拠となるのだから理解も納得も共感も出来る。
妄想の密度が増し充満すればする程、隠れている仲間の立場は安泰なのだから嬉しがるのは当たり前だ。魔法使いはその辺りが逆転している差別主義者が数え切れない程いるので思わず苦笑いすると、同じ事を考えていたと思われるロザリンド・バングズと目が合う。
そして頭上ではイギリスの魔法界の将来を担っている男の子から深い溜息が漏れ、原因を知る6つの瞳は各々の立場から3種類の感情を乗せて、今日の主役を抱えたまま項垂れる年若いご当主様を静かに眺めるのだった。