曖昧トルマリン

graytourmaline

甘酒カシス

”ねえ、メアリー。
君は今、幸せかい?”
 ベッドの上に行儀悪く寝転び、満足げな表情をしているルドルフ君を半ば抱えるようにしながら昼間に見た風景や触れ合った動物達について書き綴っている途中、滲むように浮かび上がった言葉に筆が止まる。
 現在幸福であるか、とは随分漠然とした問いだ。ひとつ屋根の下で愛しい子達に囲まれているという点では幸福であるし、愛する人々を殺され喪った過去の傷跡が今も癒せないままこの世界に居るという点では常に不幸である。
 どのような返事を書くべきかと暫し悩んでいると、耳を伏せたルドルフ君が今にも消え入りそうな侘しい鳴き声を上げ、私は幸せではないのかと穢れのない茶色の瞳で自身の感情を懸命に訴えかけて来た。
 その解釈が正解であるかも、彼が人語を理解しているかどうかも判らないが、そんな事は重要ではない。少なくとも、今現在の私は幸福の状態にある。
”幸せですよ。”
 万年筆から手を放し、白黒の毛皮を腕全体で撫でながら返事を待っていると、概ね予想通りの短い言葉が書き加えられた。
”そう、幸せなんだ。いい事なんだろうね。
でもさ、君が考える幸せって、一体なんだい?”
 内容としては見込み通りなのだが、厭世的で挑発的な言葉に、また何時もの発作が発症したのかと憂慮する。
 生粋の電波か、卒業出来ない中二病か、次世紀にかけて流行した多重人格者設定でない限り、彼がこうなる原因は間違いなく日記、更に突き詰めると日記を作り出したエイゼルだ。年若い天才を相手に、推定老人であるG.G.が太刀打ち出来る代物とは思えない。受取人である私と送り主であるエイゼルからして、記憶改竄や感情操作系の魔法ではない事だけは確かなのだが。
 けれど、判らないなら判らないで、きっと大丈夫だろう。
 エイゼルは既に私のような爺のやらかしを冷笑混じりの復旧完了後に暴露してくれるような頼もしい子なのだ、おまけにこの交換日記に関してはメルヴィッドの許可も下りているのだから、例えG.G.が正体不明の魔法で死んだとしても足は付かない。
 今は、それよりも彼への返信の方が大切だ。気持ちを切り替えて筆を執ろう。
”私にとって、幸福とは、欲求が満たされている状態をいいます。”
”それは、とても不幸な価値判断だ。
満たされなければ、君は永遠に不幸なんだね。
いいさ、それならば、それで、
でも、欲望は限度なくふくれ上がり、やがて君を飲みこむだろう。
メアリー、君が満たされる事はない。
永遠にね。”
”求めなければ満たされ易く、求めれば求める程に渇く、全て承知の上で、それでもです。私は、貴方が思っているよりもずっと、即物的な人間ですよ。”
 随分大袈裟な話だが、要は個人の欲求を前提にしているから幸せは十把一絡げには出来ない、私の幸福は変動が激しくその場の状況によりけりという事だ。
 無性にピザが食べたい時に冷凍ピザを解凍すれば一時的に幸せになれるし、メルヴィッドやエイゼルからこれで我慢しろとハンバーガーを投げて寄越されればピザなどどうでもよくなる位に幸福になれる。親しくもない人間からピザを奢られても不審感が積もるだけで欲求は満たされないし、パスタで満腹になり幸福の追求を失せさせるという手もある。ピザを復讐や忘却術という単語に変えても、許容範囲が変わるだけで根本的には変化しない。
 もっと楽に幸せを掴める方法もあるにはある、自己を捨てて全身を宗教にどっぷり浸からせれば、とても簡単に幸せになれるし、世界も平和になる。
 この世に価値観がひとつなら、キャンベルのチキン・ヌードルしか食べ物がなくても、誰も文句は言わないよ。そいつが良いか悪いかは別にしても、とりあえず世界は平和だ、と告げたケビン・ミトニック並の腕前と自負するウィザード級のハッカーの言葉に同意しよう。特定の宗教の帰依して一切の思考を放棄し、ただ神の言葉のみに従い生きるのは幸せな事この上ない。思い付きで行動し欲塗れの人生を肯定している私は、自身の内面まで他人に侵食される生活など死んでも御免だが。
 欲望の上限も下限も変更も瞬時に自分自身で決められる辺りが、私には丁度いいのだ。幸福は何処かに転がっている状態を探査して見付け出す訳でも、他人から誠心誠意込めて施して貰うものでもない。月並みの言葉かもしれないが、自分が幸福だと思えば幸福に成り得るという事だ。
 そのような考えをつらつらと書き連ねて、そういえばG.G.は神が嫌いだと言っていた事を思い出した。そして、私の意見にも賛同していない。
 では、彼にとっての幸福とは一体なんだろうか。
”G.G.貴方にとって、幸せとは何ですか。”
 私の感性からすれば彼の最大の幸福こと欲求は、健康的な肉体を得て自由になる、辺りになるのだろうか。しかし、彼は私ではない。
 同様の質問をして来たので既に返答など決まっていると思い、どのような言葉が浮かび上がるのだろうと緩く構えていたのだが、何故か会話は私の文字を最後に止まってしまった。
 自分の内面を話したくない、訳ではないだろう。初対面の時には、彼は自身の置かれた状況を開示したのだ。となると、今は話したくない気分なのだろうか。それはよくある事だ。かと言って自然に提供出来る次の話題もないので、この辺で打ち切ってしまおうか。そろそろ日付も変わるので、時間としては適当だろう。
 眠気からなのか取り留めのない思考の後で結論を出し、寄り添うルドルフ君の暖かさに目を細めながら万年筆を取ると、それを合図にしたかのようにG.G.が言葉を書き込んだ。
”ぼくは、幸せを求めない。
ああ、そうだ。本当は、いけない。
友達なんか、自由なんか、いらない、そう思わないと。
ぼくは、世界にとって危険なんだ。
1人でここに居るのは、そのせいで、
危険だから、だれとも会ってはいけないんだ。
だれとも会わないように、大人達が、見張っている?
本当に見張られているのかも、もう、判らない。
ぼくは、ここに居るんだ、
見張りなんて、必要かい?
だれも、ぼくに会いに来てくれないのに?
必要とされているのは、もっと、別の事だよね。
ねえ、そうだろう?
ここはぼくの城のはずなのに、
ちがう、城であるはずがないんだ、
ぼくは鉄格子に囲まれた、しゅうじんだ。
世界に、災いをもたらすから、そうなった。
ぼくは、たとえ、ぼくが不幸になったとしても、
世界を幸せにしたかったのに。
ぼくは、もう幸せを求めない。
なのに、なぜ、ぼくはまだ、生きているのだろう。”
「何時にも増して酷い発作ですね」
 ダメ。ゼッタイ。と啓発されている粉でも摂取したのだろうか。
 世界にとって危険な人物と妄言を語るG.G.に対し、思わず溢れてしまった感想を取り消す気力も湧かず、以降も続く文字を眺めていると次第に瞼が下りて来た。金属製のペン先が紙を引っ掻く音が心身を夢の世界へと誘うけれど、ここで寝落ちする訳にはいかない。
 仕方がないので調剤店の事務作業をしながら暇を潰す。隣のルドルフ君は何時の間にか大の字で腹出しという野性味の欠片も感じさせない格好で寝入っており、遊び相手の為だけに起こすのは忍びなかった。それにしても、この子はよく食べ、よく眠り、よく遊ぶ。無邪気で素直な姿を眺めていると、それだけで幸せな気分に浸る事が出来た。
 見開きのページがインクの線で一杯になった頃を見計らい、一度作業を切り上げて紙面に視線を下ろす。そこには、気になる告白が書かれていた。
”ぼくは、多くの家族を殺した。
親友も、殺そうとして、しまった。
メアリー、ぼくの友、
それでも、どうか、友達と呼ぶ事を許して。”
「殺人者同士も引かれ合うんですかね。いえ、引き合わせたのはエイゼルですけれど」
 多くの家族を指す意味が少々曖昧だが、まあ、まず飼い犬や飼い猫だけを指しているとは思えない。養護施設の老人かと勝手に想定していたが、精神病院か刑務所に収監されている受刑者なのだろうか。尤も、発作中に書かれたこの設定が全て真実なら、との大変厳しい前提条件が付くが。
”勿論、私達は友人です。G.G.が人殺しでも、それは変わりません。
まだ出会って、1週間しか経っていない貴方との友情が失われてしまいそうで今まで黙っていましたが、私の命の恩人も、殺人犯でした。
けれど私は今も、唯一救ってくれた彼を、英雄だと思っています。”
”過去形、なんだね。”
”彼は、もうこの世界には居ません。殺されてしまいましたから。私刑で。”
”それは”
”G.G.貴方には、生きていて欲しいと願っています。
この世界に対して嘆き、生きる意味も幸福も見出だせなくても、こうして意思を伝え合えている私は、幸せです。
とてつもない、酷いエゴだとしても、私は貴方と気持ちのやり取りをしているだけで、毎晩幸福になれるんです。私自身が、そう決断してしまったんです。”
”メアリー、それは、
それは、君の人生の幸福に、
ぼくが必要だと、そう思っていいの?”
”はい、私にはG.G.が必要です。生きている貴方が、必要です。”
”罪をつぐなえとも?”
”私は、司祭でも、弁護士でも、カウンセラーでもないので、そのような事は求めていません。”
 普段の生活では余程承認欲求が満たされていないからなのか、彼は私から出た事実ではあるが安易な言葉を受けて喜んでいるような印象を受ける。施設、病院、刑務所と単語が脳裏に浮かび、もしかして:虐待と関連用語を連れて来た。この1週間、彼と会話した限りその可能性は低いと経験則で却下する。
「あと、可能性としては、どうしようもない嘘付きが挙げられますか」
 しかし、彼は一応、エイゼルが偶然を装って引き合わせた人物である。あの日の夜、メルヴィッドが見せたレイブンクローへの反応を思い出す限り、彼等は虚言癖持ちを重宝している様子はない。
 矢張り、G.G.は意図的に頭をおかしくされているだけだろう。発作さえ収まれば、彼は私なんかよりもずっとまともだ。
”メアリー、聞いて。”
”はい。”
”さっきまで、ぼくはおかしかった。
いつもの、あの、発作を起こしていた。
でも、人を殺したのは、本当なんだ。
ぼくは、人殺しだ。”
”第一級謀殺でも、過失致死でも、人数が片手で足りても、星の数程でも、忘却術の使用という点だけを除けば、私は貴方を肯定します。”
”じょうだん? ああ、ちがうね、
君は本気だ。
メアリー。それだけは、認められないんだね?”
”はい、認められません。私の英雄が殺された遠因で、私を救うはずだったある女性が職を失い衰弱死した原因魔法なので。もしかして、迷惑な考えでしたか。”
”いいや。”
 魔法使いにしては珍しい即答に、少し彼を見直した。ブラック家のように整合性を意識しているのか、それとも非魔法界には縁がないから使う機会がないからなのか、どちらにしても、好感が持てる。
 たとえ露見しても記憶を消せばいいと、私よりも遥かに危機管理意識が甘いと豪語する人間も少なくはない。しかし、G.G.は彼等と違うのだ。
”ねえ、メアリー。”
”はい。”
”Happy birthday, Mary!
May your birthday and every day be filled with love, peace and joy.”
 小さく美しい文字で書かれた言葉を脳が認識し、サングラスで時計を確認すると午前0時から数秒が経過している。
”ありがとうございます、G.G.
まさか、真っ先にメッセージをくれるのが貴方だなんて。”
”ぼくは、プレゼントをおくれないから。
それに、君の本当の名前は、全然ちがうものだろうけれど、
でも、ぼくにとっては、君はメアリーだ。”
”はい。”
”いい返事。
今夜は、長話に、付き合わせたね。
でも、どうしても、1番最初になりたかったんだ。
眠って起きたら、パーティの用意だろう?
どれだけたくさん人を集めても、ぼくはそこに居られないんだ。
だから、せめて、こうしたかった。
今日はもうここまでだね、
残りは、また明日。
おやすみ、メアリー。”
”おやすみなさい、G.G.”
 ペン先に付着したインクを拭い、てっきりブラック家の誰かから最初に貰う物だとばかり思っていたメッセージを読み返す。
「愛は十分、喜びは半分、平和に関しては期待するな、ですかね」
 そもそも今後ホグワーツ内で率先して平和を乱すのが私自身なので、救いようがない。認定魔法使いなどという有り難さの欠片もない面倒な肩書を国家から賜ったので、ギモーヴさん並に不動の姿勢を貫いた所で平和など刹那で崩壊する。
 ブーイングの嵐に遭うであろうホグワーツ生活の未来予想図を描きながら、ルドルフ君の隣にカーミット君を、私の枕元にはスノーウィ君と交換日記を配置し、さて眠ろうかとベッドに深く潜り込み、体を起こした。
 眠気は全く感じないのだが、なんとなく気分で大欠伸を零し、ひとつ伸びをする。
『さて、空き時間も出来た事ですし、いい加減雑務を始めましょうか』
 お誕生日じゃない日の歌を口ずさみながらデータベースを展開すると、聞こえないはずのルドルフ君が寝言で合いの手を入れて来たので思わず破顔した。
 今の私は、間違いなく幸福だ。