小松菜の塩辛炒め
メルヴィッドの姿くらましで郊外のコテージに戻った途端に、本戦を終えた安堵からか心身が鉛のように重くなり、このまま倒れて朝まで惰眠を貪りたい欲求に駆られた。しかし、コテージ内部は監視をされている可能性が高いので、そのようなだらしのない姿を公然と見せる訳にもいかない。
昼の間にたっぷりと睡眠を取ったルドルフ君の笑顔と跳ねるような足取りをお供に明日のパーティの最終確認を行い、こびり付いた疲労と倦怠感、体の内外から漂っていたアルコールや香辛料の匂いをシャワーと魔法薬で丹念に消し終えた頃には、日常の感覚を取り戻したのか心も体も幾分か軽くなった。
日課となっているG.G.との交換日記に少しだけ手を付けたら明日に備えて就寝しよう。そう心に決めて階段を登り、プライバシー保護という名目を掲げたメルヴィッドとエイゼルの探査阻害魔法で守られた寝室のドアを開けた瞬間に漂って来た、甘く発酵した果実の香りに脳が揺さぶられた。
見れば、私のベッドを挟んでメルヴィッドとエイゼルが無色透明な液体が入った小さなワイングラスを手に、酒を酌み交わしている。
あれだけ飲んだ後に未だ呑める肝臓は驚嘆に値するだろう、特にエイゼルは。
「やっと戻って来たか」
「も付き合いなよ」
「お茶ならば」
寝酒と呼ぶには些か強烈に過ぎる芳香を立ち昇らせるアルコールを拒否してもいいのならと告げれば、明日も予定を控えている子供の体にそこまで無茶はさせられない事くらいは判っているとマグカップがヘッドボードに置かれた。ベルガモットとバニラの優しく甘い香りがするロンドン・フォグ、これを私の為に態々作って待ってくれていたらしい。
ベッドの側に横たわるルドルフ君にカーミット君を渡し、スノーウィ君の隣に置かれていた寝る前の一杯を両手に持って、まずは本日発覚した大量の失態について謝罪をする。
「武家の家系ではありませんが、腹を十字に裂けと仰るのなら二つ返事で従う所存です」
「他人の肉体で蛮族の奇習を披露しようとするな。不手際はあったが致命的なものではないだろう、お前が馬鹿な人間であると知っていながら動かしているんだ、紙一重だろうと回避出来ていれば上等だ」
「特に、ハッフルパフのカップ辺りは気付いていたけど面白さ優先で放置していたからね。でも、折角ハウスエルフの盗み聞きをメルヴィッドが遠回しに指摘したのに、数ヶ月単位で気付いていなかったのには笑えたよ」
「指差して笑って下さってもいいんですよ、エイゼル」
「好きな物は最後に食べる派なんだ」
そうですか、と流そうとして、彼の言葉の違和感に項垂れた。美しい彼の、グラスの中身を呷る姿が楽しげな事だけが救いである。
「未だ、気付いていない事があるんですね」
一体、私は何に気付いていないのか。自分自身に問いかけてみるが、それですぐに答えが返って来るような脳味噌ならば馬鹿で低能などうしようもない爺だと自称しない。
唯でさえ地の上を這うような墜落寸前の自己の能力評価が今月に入ってから地殻にめり込み、そろそろマントルに突入しそうである。物理的な穴になったら是非埋まりたいが、その前に彼等から受け取った恩を返すべきだろう。死に逃げはいただけない。
「逃げに走るな。お前の場合は気付いていない訳ではなく、考えが至らないんだ。暗記が幾ら得意でも状況に応じた情報を引き出し、結び付ける能力を養わなければ意味がない」
「メルヴィッド、ヒントに繋がりそうな事は言わないで欲しいな。は読みが絶望的だけど、妙に勘が鋭くなる時があるから」
「ええ。もう、私は何に気付いていないんですか。ベラトリックス・レストレンジに関しての流れを把握した、あの辺りですか?」
「本当に、ごく偶にだけどね」
エイゼルが褒めてくれた勘は即行ボイコットに突入したようで、後日アズカバンにて行われる予定の芝居に関しては即座に否定される。舵を切る方向を思い切り誤ったらしい。
黒い瞳が大変残念な生き物を見る目を向けて来たので、一応頑張ってはみるが多分気付けないので時期が来たら大笑いして欲しいと態度を示しつつ、ミルクティーを飲んだ。頭脳労働の為に協力関係を結んでいるのではないが少しは鍛えろとメルヴィッドが正論でフォローをしてくれたが、貶されているのだとエイゼルから突っ込みが入る。
「貶すのが普通だと思いますよ。あのような場で重要な会話をする度に、卑下する私を誰かが励ます形式が出来上がっていますから」
「お前は、自覚しながら矯正していなかったのか。その件に関しては次からは止めろ、1度や2度なら気にならないが、いい加減うんざりして来ていたんだ」
「メルヴィッドはつい今し方もして下さいましたね。けれどそう言われて、判りました次から卑下を禁止します、と簡単に止められるのならばとっくの昔にそうしていますよ」
私の対人能力の低さを知らないはずがないメルヴィッドが中々無茶な要求して来たので反論をすると、この際自分はいいからアークタルス・ブラックに気を付けろ、あれはお前の駒だから管理をしろ呆れられた。
「不必要な謙遜に苛立ったアークタルス・ブラックに見放された場合、損害を補填出来るのならば、好きにしろと言ってやろう」
「無理に決まっているので今度から気を付けます」
私がアークタルス・ブラックに勝っている点など年齢位しかないので素直に謝罪を行う。それを、エイゼルが拾い上げた。
「まあ、でも結構まずい事を無意識に上手く誤魔化す能力があるみたいだから、そんなに落ち込む必要はないよ」
「エイゼル、私はこの流れにいい加減うんざりしていると言ったばかりなんだが、お前の溶けた脳味噌は何時から英語の聞き取りが不能になったんだ?」
「ヒアリング能力は問題ないよ、それよりも、溶解しているのは君の頭蓋骨の中じゃないかな。私よりも経年劣化している脳細胞がこれ以上使い物にならなくなる前に刺激を与えてあげたのに、感謝してくれないなんてね」
「そうか、では礼としてお前の脳にも刺激を与えてやろう。物理的な痛みを感じるまで取り替え呪文で金属片を埋め込んでやる、お前の事だから脳が全て屑鉄製になっても問題なく肉体は動いていそうだが、それに関しては目を瞑ってやろう」
「その取り替えた私の脳の一片の方がメルヴィッドの脳味噌の総量より重そうだよね。気になるからちょっと頭蓋を割って量ってみてもいいかな?」
「では先にお前の脳天を割り肉片にする為の丈夫な鉄パイプが必要だな。メイスをブラック家へくれてやったのは残念だ。いや、は丁度いい杖を持っていたか。そこで黙って観戦していないで貸せ、私が直々に活躍の機会を与えてやろう」
「魔法使いの癖に杖を鈍器を選ぶなんて愉快な思考をしてるよね。君の頭の中にはと同じように蜘蛛の巣が張っている気がするから確かめてみようか」
エイゼルの敵対宣言以降は応酬が格段に減り、2人がこのようにじゃれ合うのは久し振りなので、要らぬ口を挟まないよう静かに鑑賞しながらマグカップの4分の1程を時間をかけてゆっくりと飲み干す。
心理的余裕の効果はすぐに表れ、精神が落ち着き、大きな枕に背中を預けつつ飲ん兵衛な子猫達の会話に耳を傾けながらミルクティーと共に思考を揺らして、さて私は一体何を上手く誤魔化したのかと数時間前の会話を辿り直した。
温かい飲み物と可愛らしいBGMは心に大きな余裕を齎す、程なくして、気が付いた。
遺体に対する執着の流れに組み込んでが私の魂に干渉しているよう印象付け矛盾を解消した、これだろう。
違和感をなくす為だけにおざなりな事を言ったが、そこそこ使い勝手がいい設定だ。これで交流が苦手な私は言いたくない内容を誤魔化す事も出来るようになる、尤も、私が警戒される事でメルヴィッドの負担が増えるので、そこは大変申し訳ないが。
彼が昼間に演じた、弱った保護者の原因はエイゼルの暴走だけではなく、私も含まれていたのだろう。よくよく考えてみると、クリケット場での記憶の提出拒否以外にも、ホテルでの亡命未遂騒ぎの時に恐慌状態に陥った件も普段の私からすればありえない反応だ。
あの場面ですべきだった正しい思考と選択は、治外法権が効かない場所である事から亡命が本命でないと即座に看破し、且つ、普段通りの態度で首を傾げ、メルヴィッドとエイゼルは一緒なのか、ブラック家とも付き合いは継続出来るのか、そう少年の顔で真摯で無邪気に訊ねる演技だったのだ。
この2点さえ確約出来ていれば私は何も困りはしない、そんな価値観でのんびりと暮らしていたにも関わらず、あの狼狽はどう考えても駄目だろう。あの場で表に出してしまった一連の言動は、全て間違っていたと今なら言える。
記憶の提出は拒否。亡命は受け入れられず混乱。レギュラス・ブラックに対して約1年、アークタルス・ブラックに対しては凡そ半年の間に晒した性質とは、余りにも、それこそ別人かと疑いたくなる程に私らしくないこの矛盾した対応を無効にしたのが、魂への干渉という土壇場の大嘘だった。
本来ならばこの手の解消は状況を的確に把握した状態で意図的に行わなければならないのだが、本当に、私は気付けない男で呆れてしまう。
後出しが増加すると疑われる可能性が高まるので、矢張り、メルヴィッドが指摘したように情報を整理して関連付ける能力を伸ばす訓練をしなければ、この先ふとした言動が原因で容易く潰されてしまう。
今、ブラック家の正面に立って生きていられるのは、先払いした恩義の貯蓄残高が十分あるからに過ぎないのだ。レギュラス・ブラックの受けた軽蔑や、アークタルス・ブラックの虐待、そして三本の箒で起きた事件のように、増やす機会など早々訪れない為、減らさない努力をしなければならない。
ただ、具体的には何をどうすればいいのだろうか。
「メルヴィッドが余計な事を言うからが色々と考え始めたじゃないか」
「だからどうした。どうせ言った所で具体策など思い付けない馬鹿な男だ、明日には忘れて1ヶ月後には同じようなミスを繰り返すに決まっている」
「メルヴィッドはエスパーですか」
「がどんな人間か一応は理解しているつもりだけど、せめて後半だけでも否定してくれないかな」
寝酒にも関わらず杯を重ねていたエイゼルが真っ当な突っ込みを行い、メルヴィッドに向かって瓶を軽く放り投げる。目の前を横切ったキリル文字からウォッカかと思ったが綴りが異なっていた。
話を逸らす為に訊ねると、シュリヴォヴィツァだと返って来た。聞き覚えがある。
「スリヴォヴィツァ、いえ、スリヴォヴァでしたか。ユダヤ教の、確か、飲酒を禁止された日にも飲んでいいプラム・ブランデーですよね」
「それが正解なのかは知らないが、相変わらず妙な事に詳しいな」
「一口飲んでみる?」
逸らされても構わない話だと判断されたのか、小さなチューリップのようなグラスをエイゼルが差し出して来たので少し躊躇した後で受け取る。ラベルを確認すると50度超えの蒸留酒だが、ご相伴に預かれる次の機会が何時になるのか判らないので、興味が出たのだ。
「これは、グラッパともまた違いますね」
香りは果実のそれが相当強いが、味や感覚はブランデーよりもウォッカに近い。強いアルコールが喉に刺さり、胃に落ちてすぐ全身を燃やすような酒である。
正直な感想を述べていいのなら、美味しいが、寝酒に飲むようなものではない。
グラスを返却して再度ロンドン・フォグを味わっていると、エイゼルが逸らされついでに話題の転換を切り出した。
「さっき、レストレンジを騙す時に何か思い出したみたいだけど?」
「ああ……あれ、ですか」
「その顔はセビーチェに関しての事件じゃないみたいだね」
「触れない方が平和な話題ですよ。もしくは、シュリヴォヴィツァを2人で飲み干してから聞いた方がいい内容です。一番お薦めしたいのは、なかった事にする、ですが」
「そう言われて私が諦めると思う?」
思わない、が、他にどのような言葉を並べればいいのかも判らない。
知らなくとも今後の生活には不必要な未来の知識だと言ってみるが、エイゼルは余計に興味があると言い、メルヴィッドも私とリドルの関係以上のものがそうあってたまるかと皮肉げな笑みを浮かべた。
そう言われてみれば、確かにそうである。私との関係と比較した場合、ベラトリックス・レストレンジとの関係の方が遥かに健全だ。ロドルファス・レストレンジが不倫に関してどう思っているのかだけは問題だが、それはこの子達とは関係ない。
ならば、酒の所為にして言ってしまおう。第一、彼等が情報開示を望んだのだ。
「リドルとベラトリックス・レストレンジの間に女の子が生まれているんですよね。名前はデルフィーナだったような、いえ、デルフィーニでした」
「思った以上にどうでもいい情報だな」
「関連度は高いけど、単純にそれだけだね。興味本位で訊くけど、は彼女や娘の事をどう思ってるの?」
「どうと言われましても、特に何も。他人ですから」
「判っていたけどさ、本当に嫉妬とは縁がないね」
嫉妬。一体何に嫉妬すればいいのだろうか。
リドルがベラトリックス・レストレンジを愛したかったのならば、愛せばいい。子孫を残したかったのなら、残せばいい。これは2人の問題であって、私には関係がない。
逆に、リドルと私についての関係性も、ベラトリックス・レストレンジには関係がない。これら全てに関係しているのは、リドル1人だけである。
「ドライだな。君にとって、愛と信頼は同じ属性の物だからなんだろうけど」
「私以外の誰だってそうでしょう。私の意志は私自身が決めます、エイゼルやメルヴィッドの意志が貴方達自身で決めるように」
愛せだの、信頼しろだの言うのは極少数の人間であり、私は多数に属す側である。エイゼルこそ何を言っているのだと思うが、相手からの愛や信頼を欲しがる傲慢な人間は多い、寧ろそちらが大多数だと説明される。
本当に、そうなのだろうか。この5年の間に、私の周囲でその手のものを強制したのは態と大袈裟に振る舞っていた思考の変化を行っていない頃のエイゼルを除けば、聖マンゴでのジョン・スミスくらいなのだが。
「お前はある意味、ハーレム向きの性質だな」
「そうですか? 他者を侍らせるような優れた能力は持っていませんよ」
「何故自分をそちらに振り分けた、侍る方に決っているだろう」
「侍る方、ですか。まあ、他のハーレム要員と積極的に交流しろと言われない限りは、特に苦痛ではありませんが」
「一緒に暮らしている身だけど、を侍らせるような生活はしたくないなあ。それと、君みたいなのがハーレム内部に居ると拗れそうだよね」
「ハーレムが拗れる原因は愛ではなく損得感情からですよ。今以上に贅沢な生活をしたい、相手の愛を自分の物にしたい、自分の子供を王にしたい、そんな感情を抜きにして自身の愛に基づいた方々で後宮を構成すれば平和になります。まあ、権力者の伴侶がそんなものばかりでは即没落しますし、愛しか存在しない世界なんて気持ち悪いだけですけれど」
大半の人間は愛のみで生きている訳でもないし、損得勘定だけで生きている訳でもない。少なくとも、私や私の周囲の人間は長年培ってきた意思やその時の気分、環境によって配合を変えながら生きている。
利害関係を築こうとしているのにも関わらず、いやこれは純粋な愛なのだと自身の欲を頑なに否定する理知振った嘘付きの阿呆が度々出現するから、面倒な事態になるだけで。
下手に繕うから滑稽に映るのであって、感情論ならば感情論であると認めてしまえばいいのだ。無理が通れば道理は引っ込むが、だから何だと言うのだ。
「復讐なんて感情論の最たるものだからね、君らしい意見だよ」
笑いながらグラスを空にしたエイゼルに向かってシュリヴォヴィツァの瓶が飛ぶが、流石にその中身が注がれる事はなかった。メルヴィッドも最後の一口を飲み込み、今日という日の終わりを告げる。
「明日は朝一でダイアゴン横丁に行ってくる」
「アイスクリームを取りに、ですね。お願いします」
まだ熱いロンドン・フォグを少しずつ飲みながら笑うと、そんなにアイスクリームが楽しみなのかと嘲笑された。職人がプライドを持って作る物が手元に届くのは嬉しいものなのだが、メルヴィッドはそうではないらしい。
その割には、新作のアイスクリームが出ると欠かさず食べているので、多分私を意味もなく嘲笑したいだけなのだろう。
「それと、パーティがどれだけ早く終わっても調剤店は開かないから覚えておけ」
「昼前でも、ですか?」
「レギュラスから聞いたが、明日はロングボトムが学用品を買いに横丁を練り歩くらしい。そんなものに巻き込まれてたまるか」
「ああ、それならば仕方がありません」
ネビル・ロングボトムは兎も角、彼の父方の祖母であるオーガスタ・ロングボトムの姿は間近で見てみたいものだが、別に大名行列中である必要はない。気長に待てば次の機会くらい見付かるだろう。
この世界に来たばかりの頃に一度だけ彼女を遠目で見たが、気が強く頑固そうな雰囲気の老婆だった。あの時に、ハリーと異なる状況から彼女の武勇伝を推測出来ていればもっと丹念に観察したのだが、5年前も今も、私がその手の分析力に欠ける爺である現実は微塵も変わりがない。
ほんの少し頭を働かせれば判る事だ。私の世界でのハリー・ポッターの立ち位置が全てネビル・ロングボトムに取って代わっていたのならば、ハロウィンの夜に両親がヴォルデモートの手で殺され、あの子自身は母であるアリス・ロングボトムから受けた血の絆、愛の護りによって難を逃れたと簡単に想像出来るだろう。
そのアリス・ロングボトムの守護魔法がリリー・ポッターと同様ならば、内容はヴォルデモートに対する直接接触禁制魔法である。
ここまでは、当時の私でも容易く推測出来た。
思考停止して想像力を放棄したのは、ここから先である。
この魔法とは別に、私の世界のダンブルドアは古の保護魔法をかけた。それが、1年に1度の顔合わせだけでもいいので、対象が血縁者の庇護下にあると認識されている限り、ヴォルデモートに対する強力な守護魔法が発動するという厄介な代物である。あの魔法は、特に同じ屋根の下で過ごしている場合はリドルですら迂闊に手を出せないと言わしめた程の、とてつもない威力を発揮していた。
私の世界ではこの庇護者の役を、保護魔法を遺したリリー・ポッターの実姉であるペチュニア・ダーズリーが請け負っていた。しかし、こちらの世界では保護魔法を遺した人物の夫の、更に母であるオーガスタ・ロングボトムが請け負っている。
つまり、母子間の愛情を理由もなく盲信しているあのダンブルドアが、母方の血縁者との縁組を諦め、折れたのだ。
元より赤の他人であるダンブルドアにはネビル・ロングボトムの処遇について決定権などないのだが、それでも、同じように決定権のないハリーをあのような目に遭わせても多くの人間は糾弾も非難もしない、今世紀最強とされる魔法使いである。そんな男に、生き残った男の子は何が何でも母方で庇護を受けなければならないと脅迫されようとも断固拒否をしたオーガスタ・ロングボトムは、尊敬に値する。
これは推測に過ぎないが、彼女が孫を手放し母方の人間に預けるのではなく頑なに庇護している理由は、それが亡き息子夫婦との約束だったからだと考えている。
生前、ロングボトム夫妻は共に闇祓いであった。何時命を落とすかも判らない時代、前線に投入される危険な職種に就いていたのならば、当然、万が一の事があった場合を想定して我が子の処遇を綿密に計画していたはずである。でなければ、人間の親として失格だ。
彼等は自分達が先立った場合に備え、あらかじめオーガスタ・ロングボトムに息子の事を頼んだのだろう。そして、辛うじて生き残った孫を託されたオーガスタ・ロングボトムは2人の遺志を守ったのだ。
だから彼女は、オーガスタ・ロングボトムは、手放しで称賛すべき人物だ。
少なくとも、何の計画性もないまま対ヴォルデモートの私設部隊に入団した挙げ句に廃人化して、感情に突き動かされるまま1歳児を他人に任せて放置するような責任感皆無の後見人を選出するポッター夫妻とは雲泥の差、否、比較対象に挙げる事すら烏滸がましい。
また、私の世界で生き残った男の子であるハリーの周囲、当時の私を含めた碌でもない大人達との天地程もある差を、今更ながらに見せ付けられた。
直接接触禁制魔法である血の絆はハリーとリリー・ポッターの間でのみ意味を持ち機能するのだから、古の保護魔法に必要な庇護者ならば赤の他人である自分でも良いではないかとダンブルドアに正論で立ち向かう常識的な大人は、本来ならば真っ先に名乗り出なければならないシリウス・ブラックを含めて誰一人として存在しなかったのだ。何故、対象がダーズリー家でなければならないのかと納得の行く解答が得られるまで食い下がるような魔法使いも、存在しなかったのだ。
ダンブルドアの言う事だからと反論すらせず短絡的に肯定した頭蓋の中身が海水で満ちていた馬鹿共に比べ、オーガスタ・ロングボトムの頼もしさには目が眩んでしまう。
だから一度、私は密かにこの目で彼女を見てみたい欲求を持っている。出来る事ならば、未だ残っているハリーの左目で。
「さて、では毎晩恒例の交換日記を書きましょうか」
「私は寝るから君のベッドの周囲にノックスかけてね」
「余り夜更かしをするなよ」
「はい。判りました」
話を切り上げ、オーガスタ・ロングボトムに関しての感情を表に出さないまま杖を振り、手元に光を、周囲に闇を呼び寄せると、ベッドのスプリングが軽く軋んだ。
「全く、仕方のない子ですね」
ルドルフ君がベッドに乗り上げ、膝の上に顎を乗せて来たので苦笑しながらも腕の中に迎える。遊ぶ事は出来ないが、構って貰えるだけでも嬉しいのか、纏まっている事で1本に見える太い尾が元気よく左右に振れていた。
因みに、ベッドやソファならば犬を乗り上げさせても問題ないとコテージの所有者である女性から許可は貰っている。流石にテーブルやマントルピースはマナーとして乗せるべきではないし、そもそもルドルフ君はそんな場所にまで登ろうとする悪戯っ子ではない。
むやみに吠える子ではないが飼い主である私が無遠慮に話しかけてしまうだろうから今の内に消音魔法も唱え、両側で眠ろうとしている2人に出来るだけ配慮する。
「今日は色々な事がありましたからね、沢山書きましょうか」
無論、書くべきではない箇所は削ってではあるが、それでも十分過ぎる程だろう。
宙に固定した紅い布張りの本を開き、白い羽ペンにインクを含ませて記憶を辿りながら今日目にした様々な物を緩やかに文字を綴る。程なくして書き込まれ始める返信に、私は夜の挨拶を口の中で転がした。