ホタテのガーリックレアステーキ
受け取った情報に対し脳の処理能力と肉体が付いて行かないのは私だけではなかったようで、引き攣った呼吸を繰り返し今にも笑い死にしそうなマリウス・ブラックの背中を呆然としながらも撫でていると、彼の向かいに座っていたメルヴィッドがポケットから取り出した薬包紙を差し出した。
右目の分析結果は、フリーズドライ化した魔法薬ではなく漢方薬の抑肝散であるとしており、果たして彼にこれを飲ませた所で効果はあるのだろうかと僅かに考え込む。抑肝散は精神機能の昂ぶりを抑える効果もある薬なので処方としては正しいのだが、食前か食間に服薬するもので、しかも遅効性の漢方薬のはずなのだが。
何時ものように下らない思考が横に逸れた事で脳に必要なスペースが生まれたのか、これ幸いと感覚が戻って来る。なんとも雑な作りの脳味噌だと半ば呆れつつ、まだまだしっかりと筋肉の付いた背中から手を離して視線と姿勢を食卓の正面に正した。
「その、ただの早とちりだけのようですし、以前、私もアークタルス様に対して嫌いだと嘘を吐いた事もあったでしょう」
「お前、俺が居ない間にそんな面白いオママゴトやってたのかよ。誰かその時の写真かビデオ持ってないか、大笑いしたい時に使うから」
「キャップは静かにして下さい」
メルヴィッドに薬包紙を突っ返していたマリウス・ブラックに黙れと告げ、わざとらしい咳払いで言葉を続ける。
「ですので、私も怒っていません。次からは、自分勝手に宿題だと決め付けずに、勉強会だと思って質問をするようにします」
「そうだね、それが正しい。演習は教育が必要段階まで到達した後に発生するものだ、残念だがは未だ条件を満たしていない。今後はそれを自覚して私やファブスター大佐に意見を求めるように意識をしなさい」
「大いに訊き、大いに知れ。懐かしいな。俺がガキの頃、伯父上とお前に言われた文句そのものだ。それにしても、何で従兄殿はワンコの大伯父様を演習の教官役にカウントしてくれないのかね」
「昼間の乗馬の件から見ても、貴方は不適格でしょう」
「そう言えば、説教は私が中断させたんだっけ。メルヴィッド、混ざっていいよね」
保護者と兄の顔をしたメルヴィッドとエイゼルは視線も合わせていないのに自然な動作でマリウス・ブラックを両脇を確保し、部屋の隅まで引き摺って行ってしまった。確保された当人はというと文句は垂れているが暴れる様子がないので恐らく無言魔法を使っているのだろう、もしくは、表面上は戯けているが実は内心反省しているか、である。
魔法にしても、マリウス・ブラックの本心にしても、解析する気が起きないので黙って見送っていると、そんな事よりも食べなさいと左の肩を叩かれながら優しく声を掛けられた。勝手に宿題だと決め付け馬鹿面を下げて悩んでいた時間も遂に終わり、提案に従っておもむろに手を伸ばしたセビーチェがやけに美味しく感じた。
体が酸味を欲するという事は、精神疲労よりも肉体疲労の方が強いのだろうか。ブラック家で生まれ育った人間の味覚は確かなので元々美味しいだけなのかもしれないが。
先程は全く味がしなかったホットジンジャーも、大体の事を終えた今飲んでみると敢えて残している生姜の辛味が舌に心地いい。ほっと一息吐くと、大事ではないと後へと回していた事柄が脳の底から浮上して来た。
「あの、それで……レジーは」
「襲撃した全員が居るべき場所に居る、先に言ったようにレギュラスには怪我一つなかったよ。そうだね、では教育が生きているのか簡単な確認問題に移ろう。こうして結果を述べたのだから、怪我がなかった理由はもう判るね?」
「ええと、内通者はおらず、襲撃グループはごく単純で最重要の情報力で負けていた」
裏金についてを間違えたので、今度はそうならないよう与えられていた情報を整理する。緊張感が抜けた脳と弛緩した胃袋にスモークサーモンの味を詰め込みながら言葉にしていると、アークタルス・ブラックが好好爺然とした表情で頷いていた。
「過激派と、ドール卿の息子との接触にブラック家は関与していない。ただし、作戦内容や行動日程を余す事なく把握していたから、万全の対策を取り無傷ながらも被害者となる事が出来た。それと、これもドール卿との取り引きに使った」
「宜しい。また全てブラック家が手引きしていたと言い出したら流石に叱っていたが、問題ないようだね。補足すると、襲撃犯を撃退したのはブラック家傘下の警備会社だ」
「頂戴したリストの中に警備会社は、いえ、もしかしなくてもPSCですか」
プライベート・セキュリティ・カンパニーといえば聞こえはいいが、要はPMCと同じで名称だけが違う民間軍事会社、早い話が近代化した傭兵集団である。
ブラック家が保有するそれの活動拠点は主に海外なのだが、当然、国内の要人警護や警備指導なども業務に含まれているらしい。恐らく、石の確保やフラメル夫妻の移動と護衛も彼等の仕事だったのだろう。
彼等が優秀な人材であるのは間違いない。僅かでも問題が起こっていれば、アルマン・メルフワが指摘していたように今頃得意面を下げたフランス魔法省が先鋒となって国際世論を煽り批判を展開している事だろう。それが未だないという事は、文句の付けようがないくらい完璧な状態で、夫妻はイギリス国内を去ったと考えていい。
そのような実力を持ち、規模にしても国内最大、欧州内でも有数の魔法戦士数を保有する訓練と統率済みの会社が相手では、寄り合い所帯の過激派など分が悪い所が一方的に狩られるだけだ。
襲撃側に立ってみて出来の悪い脳内でシミュレーションを重ねても、惨敗する結果しか出て来ない。意志を持つ爆弾こと自爆テロだって、事前に計画を把握されてしまったら効果がなくなってしまう。
「ホグワーツに入学してからの君の護衛も頼むつもりだったが、その顔は不満だったかな」
「いいえ、真逆です。襲撃側に立って考えてみたのですが、情報戦と物量で負けている時点で詰んでいるので、武力以外の方法でないと効果がないなと」
「成程。だそうだよ、ファブスター大佐」
何故ここでファブスター校長が出て来るのだろうか、と顔に出す前に脳が結論を出した。だって彼は、海兵隊出身の将校なのだ。
「校長先生と、掛け持ちですか?」
民間軍事会社と二足の草鞋は流石にタフ過ぎないかと呆然としつつも、納得してしまうのが海兵隊員の恐さでもある。
冷戦集結直前という今の時代では然程活躍していないが、様変わりした10年後の世界での活躍を知っている身からすると、伊達や酔狂でPer Mare Per Terramと掲げている訳ではないと知っていた。
「私の本業は薔薇の育成家だよ。指揮官を育成する将校卒が少ないからと頼み込まれてね、参与として少しだけ関わっているんだ。校長は、利害の一致からだが」
「ちょっと、何処に食らい付くべきなのか考えさせて下さい」
ここで更に草鞋の数を増やされても狼狽するしかなくなるではないか。軍人臭を纏いながらも穏やかそうな見た目に反し、私よりも濃い人生を送っていそうだ。
「ああ、ゆっくり考えるといい。毒餌ではないから何処でも構わないよ」
何杯目になるのかも判らないグラスを傾けたファブスター校長は、青い瞳を何処でもない場所に向け、ほんの一瞬だけ氷のような剣呑さを含ませた。
アルコールで隠し切れない、過去に見た汚物を唾棄する人間の目だ。既にその鋭さを失った視線が、私に向けられる。
「確かに、鼻と勘はいいようだね。軍用犬のような子だ」
「それも毒餌でないのなら、噛み付いてみても?」
「どうだろう」
自分は判断を下すべき立場ではないと、向けられていた視線がアークタルス・ブラックに注がれ、灰色の瞳はゴミの処分でも思い出したようなものに変わり、関係があるだけでさして重要な話ではないから構わないが面白い話でもないと許可を出す。
どうやら紛れもなくゴミの話のようだ。
「ホテルで鞄を漁った捜査員達を覚えているかな」
「はい、勿論」
「彼等の正体はソ連のスパイでね」
「大体の流れは読めました。亡命先はパレスチナですか」
「話が早くて助かるよ」
元々ソ連から派遣されていたスパイ2名が、祖国の危うさをようやく実感し、亡命の手土産として潜伏国イギリスの情報を色々と漁っていた所をブラック家が補足、事故に見せかけて暗殺という流れだろう。
会談場所がロンドンで、人種も典型的なロシア人から外れていた所為で可能性を全く考慮していなかった。東欧も、中央アジアも、今の時代はソ連の支配下に入っている。たとえロシア人だとしてもあのような顔立ちは珍しくない。海とロシアを挟んで、日本はフィンランドやノルウェーと隣り合っているとも表現出来る、地球上の居住地域の8分の1を占める超巨大国家だというのに。
第一、魔法界の保護と繁栄を旨とするブラック家が、あのようなおイタ程度でそう安々と自国民を殺して回るはずがないではないか。あの会談が全て仕組まれていた事だとすれば、彼等の死だって何らかの意味を持っているに決まっている。
自然死ではなく事故死として処分されるようシナリオを作ったのなら、恐らく彼等にはイギリス人の妻子が居るのだろう。勤務中の死亡事故ならば遺族年金が出て残された母子は問題なく生活を続けられる、イギリス魔法界にそのようなシステムがあるのかは判らないが、ブラック家が決行したという事はきっと存在するのだろう。最悪、なければ彼等が生活の保証をすればいいだけの話であり、ブラック家ならば絵空事ではなく出来る。
恐ろしい事に、サイン1つで遠縁の子供に土地付きの屋敷を気前良く与えるような価値観を持っているのだ。ブラック家という一族は。
となると、アルマン・メルフワはどうだろうか。レギュラス・ブラックの反応を見る限り彼との出会いは偶然か、監視人が敢えて追い払う必要はないと判断したように思えるが。少なくとも、イギリスに居る事そのものは確実に仕組まれたものと見ていい。
「他にも訊きたい事があると、そんな顔をしているね」
「はい、実は」
「少し待ってくれ。レギュラスが来るようだ」
乾いた手が私達の会話を制止し壁の向こうを指すと、まるで虹のように音もなくゆっくりとレギュラス・ブラックの形が浮かび上がり、瞬きをする内に実態のある物へと変化した。
何処かからのパーティ帰りなのか、普段から整っている衣服が今日はより一層磨き上げられている。表情は笑顔に類するものであるが、隠し切れない疲労が滲んでいた。
そういえば、今日はネビル・ロングボトムの誕生日であったような気がする。全く、古い家柄同士の付き合いというのは大変面倒だ。特に、相手側と対して良好な仲を築く気がない場合は。
「レジー、こんばんは」
「こんばんは。ああ、だ……久し振りに会えた」
今日の会食の主役は私という事なので一応先陣を切って立ち上がり挨拶をすると、当たり前のように力強いハグをされながら弱々しい返事を貰った。他の大人達への挨拶の時も離そうとしないのだから、蓄積している疲れは相当のようである。
このまま膝の上に乗せられるのかと危惧するような妙な勢いがあったが、流石にそれは私の想像力が見当違いの方向を見ていたようだ。落ち付いた、余り甘くない香水の香りを嗅ぎながら見上げた先には、仔犬を前にした飼い主のような笑顔があり、隣に座ってもいいかと尋ねられた。
既に3名が部屋の隅に移動している大変ざっくばらんな会食だが、態々尋ねて来るレギュラス・ブラックは本当に律儀でいい子である。
本来の席の主であるマリウス・ブラックに声を掛けると好きにしろとの言葉が返って来たので遠慮なく勧めよう。因みに、説教は既に終わったようなのだが他に共通する話題があったらしく、何処からか出現させたスツールに座り額を寄せ合うようにして話し込んでいた。エイゼルとマリウス・ブラックは兎も角、面子の中にメルヴィッドが居るから、真面目な話なのだろう。
食事は済ませて来たというレギュラス・ブラックは私が始めに飲んだ物と同じスコティッシュエールだけを頼み、皿の上に放置されている冷菜を見付けて僅かに眉を顰めた。
「きちんと食べてる? は話に夢中になると食べなくなるけど」
「先程まで、少し長話を」
「ホテルの事?」
「はい、それで今からまた少し。アルマンおじ様の事で」
「……今、何て言ったの。アルマンが? おじ様?」
「折角数少ない愛好家同士なのだから、メルフワ様だと他人行儀過ぎると」
「彼と意気投合する必要はないから他人行儀くらいが丁度いいよ。文通もしなくていいからね、特に魔法生物、ホークランプ関連で」
「でも、おじ様のお手紙は魔法生物についてが一番面白いですよ。そうだ、誕生日プレゼントにホークランプの写真集を贈ってくださると先日の手紙に」
「は何で嬉しそうなの!?」
その内、僕の方がホークランプより可愛いのにと真顔で世迷い言を並べそうなので、疲れた子供の頭を撫でていると、周囲の人間の大半が彼に対して同情じみた視線を彼に送っていた。こんな子供を友人として好きになってしまい可哀想にと思っているのだろう。
唯一、仔犬同士のじゃれ合いを見つめる目をしたアークタルス・ブラックが、それで、と続きを促す。
「ああ、はい。アルマンおじ様がこちらに赴任されたのも、ブラック家の思惑ですか。イギリスのユニコーンを保護する為に、その血が、例のあの人に利用されない為に」
「正解だ。よく気付けたね、我が家の書斎を出入りして知識を吸収し、メルヴィッドとミスター・ベルビィに鍛えられているだけの事はある」
「本当に、そう思います」
連盟は極一部の大国の更に上層部の利益の為にしか動かない、酒に混ざって出されたアルマン・メルフワの愚痴も勿論大きなヒントであったが、今は触れないでおくべきだろう。
「おじ様自身は、気付いておられるのですか」
「いいや。彼はその立場に居ない、数ある分家の末子だからね。我々の関与そのものには薄々勘付いているかもしれないが、気付いた所で何も変わりはしない。ユニコーンの血の保護が如何に重要課題なのかはも理解しているだろう、彼も同様の判断を下す」
「確かに、仰る通りです。ああ、そうだ。それでは、ブラック家が国連に影響を与えているのは、公然の秘密ですか」
「そうだよ、他の国々にも似たような立場の家系が存在する。そうではなかった時代もあるが、今現在の国連は寡占状態で動いている」
素直に告白されたそれを、腐っていると表現するべきではないだろう。大馬鹿野郎の私であっても、流石に独裁政治や寡占政治と専制政治との違いくらいは理解している。
少なくとも、私の時代の国連は無能ではなかった。何もしない事で損失を免れており、イギリスを犠牲にする事で他の国々の秩序を保っていた。
更に当時のイギリス魔法界の大臣は民衆に選ばれた者達なので、当然責任は投票した、或いは投票すらしなかった民衆である魔法使いや魔女の側にある。民主政とはそのようなものだ、国連に良心というものが存在していたとしても、欠片も傷むはずがない。
「批判をしないんだね」
「私は民主主義教の信者ではありませんから。ブラック家の存在を容認して、共感を示し、こうして共に食卓を囲むくらいには、寡占や独裁の政治を歓迎しています」
自分達の生活がより良く向上するのなら、支配者は国民自身でも独裁者個人でも誰だって構わない。たとえどれだけ大馬鹿者がトップに君臨しようとも、絶対に国民が主権を持たなければ許せない民主主義者ではないのだ。
民主主義者にどれだけ罵られようとも、私は二度と貧しい思いも、ひもじい思いもしたくはない。ハリーの体で経験した飢餓と苦痛は、復讐という目標と、メルヴィッドという優しい協力者の存在があったからこそ耐えられただけである。
「はプラトンの『国家』を読んだ事は?」
「いいえ、ファブスター大佐。残念ながら哲学は苦手なので」
「苦手なのにそれなのか。レギュラスはどうかな」
「民主政は衆愚政治に陥る可能性がある、との批判ですか。確か、後世の『法律』で寡頭制的な要素による政治を理想とした」
私に頭を撫でられながら真面目な返答をする構図がなんとも言えない笑いを誘う。けれど今は、そのような空気ではない。
ひとまず撫でていた手を離し、もう大丈夫かと笑いかけてみたのだが、この話はこれで終わりだと笑顔で返された。
「でも、マリウス叔父様のご厚意を無下にするのは失礼だからね。撫でるのは止めて、ご飯を食べよう」
セビーチェも、サンドイッチも、サラダも乗ったままの皿を指され、それもそうだと頷いて、今度こそ完食しようとフォークを握る。
訊きたい事は全て訊き、言いたい事は全て言った、はずだ。これ以上、私の方から何か仕掛ける必要もないだろう。あるとすれば彼等の方からだろうが、世間話以上の話題はないようだった。
私とレギュラス・ブラックに気を遣って、ではなく、メルヴィッド達に呼ばれて、アークタルス・ブラックとファブスター校長が席を外す。何か大事な話をしているようだが、後で訊けば教えてくれると言っていたので、先に食べ物を味わいながらも片付けよう。ずっと喋り続けていた所為もあり、最早食卓には私に取り分けられた分しか残されていなかった。
時折髪や頬に触れながら構っていたレギュラス・ブラックも呼ばれ、広い食卓に取り残されそうになると、今度はエイゼルが戻って来た。気を遣わせてしまったようだ。
「私は独りのご飯でも平気ですよ?」
「傍から見ている私の心が平気じゃないからね? それに、大体の役割は決まったから」
「今、訊いた方がいいお話ですか」
「いや急ぎじゃないよ。穏やかな話題でもないけど、知りたいのなら話してあげる。それでもいい?」
既に話題を聞き終わった様子のレギュラス・ブラックの表情を確認し、大人しく頷く。渋い表情をしているが、そこに驚きはない。
レギュラス・ブラックがその程度の反応しかしない話題、という事だ。
「出来るだけ面白く言うと、アズカバンに収監されているベラトリックス・レストレンジのアホを全員で騙くらかさないかって話だね」
「ああ、成程。いい考えだと思います、私は犬の演技でもすれば宜しいのですか」
「本当に君は、偶にとんでもない速度で理解と潔さを発揮するよね。大人が困るからちょっとは躊躇しようね、レギュラスみたいに。メルヴィッド、はOKだってさ」
「マジかよ少しは躊躇おうぜ坊や!」
「デイヴ、それもう私が言った台詞ですから」
大袈裟に驚くマリウス・ブラックと、少なからず驚いているレギュラス・ブラック、アークタルス・ブラックは全く動じておらず、ファブスター校長からは同情じみた視線を頂戴する事となった。
サンドイッチの最期の一口を頬張りつつ、大人ではあるが私よりも年若い子供達の会話を拾い上げてみるが、特に予想に反した内容ではなかった。
要は、刑務所から受刑者を脱獄させない為にはどうするべきか、という問題提起であり、その答えは、本人達にその気をなくさせる、である。
ヴォルデモートが敗走中である今、タイミングとしては全く問題ない。外見や遺伝子は彼と全く同一のメルヴィッド、またはエイゼルが居る。非常に都合がいい事この上ない。
死喰い人の纏め役に近しい存在であるベラトリックス・レストレンジと接触して機を待てと騙し、アズカバン内の死喰い人から脱獄という選択肢を潰す。その上で、ヴォルデモートを騙る偽者や、新たに従えた部下を名乗る存在が現れるかもしれないから気を付けろと加えればいい。ついでに、ブラック家と私はこちら側だから塀の中で増やした信者が刑期を終えて出ても手を出さないよう躾けておけと言っておけば、まず大丈夫だろう。
かなり雑な作戦のように思えるが、ベラトリックス・レストレンジは狂信者だ。魔法を扱う力は大変強いので注意が必要だが、基本的に考えなく勝手に暴れるだけで兵としては並、戦術や戦略を立て指示を出す将の器でもない。
私が言うのも何であるが、リドルがそうしろと言えば何も考えずそうしてしまう、イエスマンならぬイエスウーマンである。騙りが成功する勝率は高い。
「あ」
「どうしたの?」
「……明日のパーティの料理に、セビーチェが入っていた事を、思い出しました」
「ごめんね。そういうどうでもいい事を、今、言わないで欲しかったな」
上手く誤魔化せたかどうか判らないが、多分大丈夫だろう。手足が震え歯の根が合わない程にまずい何かをやらかした訳ではないのだ。
ただ、私は説明していない。
何を。リドルとベラトリックス・レストレンジの間に子供が居る事を、だ。
私とリドルの間に肉体関係があり色々と致した事も自分は別人だからと受け入れてくれた彼等だから、いきなり殺される事はないと思うが、タイミングを見誤ると見えない位置に半分くらいなら問題ないだろうと大雑把な判断で傷付けられる可能性がある。
まあ、どうにかなるだろう。多分。
1時間後に治っても痛いものは痛いのだが、目の焦点が合わなくなり発狂寸前まで追い詰められるような事はない。その辺りの技術に関しては、自信を持って断言出来る。
皿の上の料理を綺麗に平らげ、グラスを満たしていた液体も全て飲み干して息を吐くと、それを合図にしたようにファブスター校長がそろそろお開きにしようかと解散を促した。アズカバンの話はこの短時間で纏まったようだ。
「まだ飲めるだろ。付き合えよ、ミスター・チャーミング」
「物によります」
「そうだな、じゃあデュカスタンのファザース・ボトルでどうだ」
「では、私は失礼します。君達も気を付けて帰りなさい、くれぐれも魔法省の世話になるような事故など起こさないようにね。明日のパーティも楽しみにしているよ」
マリウス・ブラックが何を言ったのか判ったのはファブスター校長以外にはエイゼルだけだったようで、眼鏡の奥に隠された目が笑い、飲ませる気なんて欠片もないじゃないかと可笑しそうに呟いた。
「どんなお酒なんですか?」
「アルマニャックだけど、飲んだ事はないかな。あれを態々買って飲もうと思うくらい前後不覚になったのは、君が大怪我した時くらいだよ」
「スピリタスのような感じですか」
「方向性が違うなあ」
度数ではないのなら、味だろうか。しかし、ブランデーにそこまで強烈な個性があるとは到底思えない。
酔いを全く感じさせない足取りで、何処にあるのかも判らない出口からファブスター校長が部屋を出た後、アークタルス・ブラックは年齢を理由に、レギュラス・ブラックはまだ仕事が残っているという恐怖の単語を並べて誘いを断り、それぞれ私にハグをして来た。年若い方は、兎に角入念に抱き締めたが、それが悪い事だとは思わない。
「私は何の役にも立ちませんが、必要なら何時でも呼び付けて下さいね。絶対に、血を吐いて倒れるまでお仕事をしないで下さいね」
「大丈夫だよ、その辺りはクリーチャーも厳しいから。今日は少し、会議をするだけ」
「国際会議ですか」
「そう、東南アジアの国とね。本当は向こうが合わせるべきなんだけど、僕の方が昼間空きがなくて。うん、そんな顔しないで。9月から授業で時間が潰れるだろう、だから、今の内に僕にしか片付けられない仕事をしているんだ」
あと1ヶ月乗り切れば少しはゆっくり出来るし、忙しさにも慣れておく必要があると言っているが、この子といいファブスター校長といい、ブラック家傘下に所属するには常人では持ち得ない程のタフネスが要求されるのだろうか。別に所属する気もないし、体力の自信はあるが、脳が悲鳴を上げて煙を吐きそうな業務体系に尻込みしてしまう。
「レジー、明日のパーティは」
「出るよ。それを楽しみに今月は仕事を片付けて来たんだ、お願いだから来なくていいなんで言わないで。目の前が真っ暗になって倒れる自信がある」
真剣な声色など聞かなくても、それが冗談ではない事には気付いた。お待ちしていますと凡庸だが心だけは込めた言葉を告げると、か弱い声で、うん、と一言だけ返された。
弱々しい声とは反対に、お気に入りのテディベアを相手にするかの如く強い力で抱き締められる。それが私の体に負担となる事は判っているのか名残惜しそうに離してから、今度はメルヴィッドとハグをするレギュラス・ブラックの背中を眺めていると、固く乾いた指先に頬を撫でられた。
「1つだけ、訊いてもいいかな」
「はい、勿論。幾つでも」
メルヴィッドはレギュラス・ブラックと、エイゼルはマリウス・ブラックと話しているこの状態での質問に何となく嫌な予感を覚えながらも、表面上は笑顔を浮かべる。鏡がないので正確な事はいえないが、若干、引き攣っているかもしれない。
「君は、魂に干渉されている事を自覚している、そうだね?」
「はい、仰る通りです」
「それを自覚しても尚、彼等の記憶を私達に渡す事は……いや、ありがとう。その表情だけで判ったよ」
アークタルス・ブラックの指摘に血の気が引き、次いで、まだ誤魔化せる道に気付いたのだが、青褪めた顔を元に戻せない。
今度は、鏡がなくとも正確に判る。
演技ではなく震える唇をなんとか開閉させ、縺れた舌で言葉を探った。
「ご、ごめんなさい。申し訳ありません、それは、出来ません。判っているのに、私が間違えているのは判っているのに、正しい事が出来ないんです」
「いいんだよ、。君はそのような契約をしたんだ。彼等にとっては、君の魂だけは何があっても縛り付けなければならない存在なのだろう」
もう一度ハグをされ、背中を撫でられるが、震えは止まらない。
偶然が重なり合ってアークタルス・ブラックが勘違いしてくれたのは助かったが、一気に駆け抜けた緊張から急激に安心してしまった所為で体が付いていかないのだ。
「彼等が、何故私達ブラック家ではなく、魂を縛り付けた君の元に人を集めるように動いたのか、判るよ」
メルヴィッドは自分の過去を探すという無駄な迷走を止め前を向いた、メルヴィッドよりも後に作られたエイゼルはその欠点がなく迷いなど最初からなかった、そしてレギュラス・ブラックはあるべき道を進み始め、自身が生き延びた。
アークタルス・ブラックが、ブラック家の頭脳とも呼ぶべき彼が、私なんかに騙されている事に心拍数が跳ね上がる。・が私である以上危険は去っていない、けれど、最早戯言を並べて誤魔化し押し切る必要がなくなった。
「君は、人を変える」
私ではない私は、私を魂の根底から干渉し、操作している。
ブラック家は、間違った判断を下したのだ。