曖昧トルマリン

graytourmaline

車海老のヴァプール

 深く息を吐いてから肺の空気と気持ちを入れ替え、テーブルの上で指を組む。いつもと比較すると若干強張っているが震えや手汗は見当たらない、心が凪いでいるとはいえないが緊張もしていないようだ。
 もっと焦燥感に駆られているかと思ったが、私の神経は存外太く作られているらしい。
「ブラック家の目的は、最初に述べた通りです。ですが、それを達成するにはフラメル夫妻の同意がなければ成り立たなくなる」
 身体の保護だけならば最悪の場合は強硬手段として拉致監禁してしまえばいいが、彼等に所有権がある賢者の石も同時に保護となると口説き落とす必要が出て来る。
 最も効果的な材料はヴォルデモート復活と内戦勃発の情報だろう。ブラック家がどの程度信頼を得ているのかは判らないが、フラメル夫妻は両世界でこの手の難から700年程逃れている故に、それが嘘か真実かを見極める目を持ち合わせているはずだ。
 フラメル夫妻はその長寿さ故に同じ土地で何十年にも渡る居留が難しい。時代時代で平和で豊かな土地を探しては移住しており、デヴォンに来る以前、先の大戦時には戦場とは無縁だったカナダへ、ヴォルデモート全盛期には手が届き難いニュージランドへ避難していたというのも割と有名な噂である。
「情報を与えて移住の手引きをしたという予想は正解だ。場所までは教えられないがね」
「それは当然かと……ファブスター大佐はご存知なんですね」
 彼はホテル内で自己申告したように魔法使いではない。開心術系統の呪文に対しての抵抗力が全くないにも関わらず知っているという事は、目に見えない護衛を背後に控えさせリアルタイムで対策しているのだろう。
 私達がブラック家に所属する不可視の存在に常時監視されているのだから、彼が同じように護衛されていても何ら不思議はない。そして恐らく、現在のフラメル夫妻も同様の状態だと考えられるが、この辺りは敢えて口に出す必要はないので続きに入ろう。
「ダンブルドアも例のあの人の復活を危惧しているので志は同じですが、共闘の選択をしなかったのは賢者の石絡みだと考えられます」
「具体的には?」
「こんな石があるから争いが起こるのだと、人間の欲望を石の所為にして破壊を試みた、辺りでしょうか」
 私の世界では賢者の石は破壊されているのでとは言葉に出来ないので、想像の範囲ですがと付け加えるとマリウス・ブラックが背凭れに体重を預けながら軽く口笛を吹く。どうやらこちらの世界でもそうらしい。
 しかし、ファブスター校長は残念ながら一部だけ不正解だと言い、溶けた茶水晶のような液体を味わうように一口飲んだ。
「石の破壊は正しい。けれど、共闘を選択肢に挙げなかった理由は、彼が石のみを保護対象にしていたからだ」
「過大評価でしたか。人命は兎も角、能力を軽視する方とは知りませんでした」
 人命軽視は今更過ぎるが、賢者の石のノウハウを持っている人物を保護しないのは流石に悪手だろう。フラメル夫妻が援助不要という姿勢を明らかにしていたのならばブラック家側の申し出はただのお節介だが、移住の介助を行い夫妻が受け入れたのだから差し出がましい行為ではない。
 対等な友人であり錬金術の共同研究者にまで騎士団のワンマン運営精神で接する辺りは、非常にダンブルドアらしいとは思えるが。
「そこで思考停止して掘り下げないのが、たる所以だよね」
「エイゼル?」
 彼の言葉通りダンブルドア非難で思考停止していたので顔を上げると、エイゼルは爽やかな笑みを浮かべて、爽やかさの欠片も感じられない高アルコールの蒸留酒が入ったグラスを淡いオレンジ色の光に翳した。
「例のあの人の復活を阻止したいだけならダンブルドア側の言い分の方が確実で楽だ。夫妻の身の安全は兎も角、石は今後の労力の点から見ても損益が釣り合わない。破壊された場合に生じるブラック家側の不都合、または、保護された場合に生じる利益は?」
「それは」
 確かに、彼の指摘は正しい。そこまで考えが至らなかった。
 実はブラック家はフラメル夫妻から命の水を提供されている、訳がない。そうだとすればアークタルス・ブラックの肌に残る傷跡は綺麗に治療されていなければ可怪しいだろう。
 黄金を作り出しブラック家の資金源となっている可能性も低い。フロント企業に似た動きをする会社も幾つか傘下には存在しているが、いずれも貴金属とは縁が薄い職種であった。鉱業系にしても、現在ブラック家が扱っている資源は卑金属であり、賢者の石から創り出せるといわれている金銀には小指の先も触れていない。
 では、視野を広げてイギリス魔法界の損益と考えるべきだろうか。
 しかし、この時代でなくとも魔法界はレアメタルを使用する産業が未発達なので、血眼になって確保しなければならない物でもない。
 メルヴィッドやダモクレス・ベルビィの能力が一目置かれている以上、命の水が一般に流通しているとは考えられない。魔法省が徴収している税金の歳入に関しても金塊複数個分が急速に膨れ上がる等の不審な点はなかった気がする。歳出はお察しの通りだが。
 となると、残ったものは何だ。
「ハッフルパフのカップのように、発信魔法を仕込んだ偽物と本物とをすり替えれば、潜伏先を特定出来るかもしれない?」
「今日一番の大ハズレだよ、全く理由になっていない。偽物との交換なら本物は破壊したって構わないよね」
「そうですね、では……判りません」
「勘が鈍いなあ」
「エイゼル、の勘は鋭い方だ、読みが甘いだけで」
「刳り方がストレート過ぎるぜ、お兄ちゃん。それ全くフォローになってねえからな? せめてすり替えは正解だと言ってやれ」
「求められていた解答には掠ってもいません。第一、この子は上辺だけの無意味な称賛は嫌いますから。そうだろう、?」
「嫌うと言いますか、惨めになるだけなので喜べません。私は子供ですが、事実を指摘されてヒステリーを起こす程、幼稚ではないつもりです」
 爺である私はかなり年季の入ったどうしようもない馬鹿だが、納得出来るだけの理由もなく、下らない馴れ合いの関係継続の為だけに与えられる空虚なリップサービスを額面通りに受け取り、本気で喜びを顕にする程愚かではないつもりだ。
 続けて、彼等の言葉は間違っており私は勘は鈍いし読みも甘いと反論したくなったが、メルヴィッドから得た言葉を正確に紐解くと問題を解く鍵は手元に揃えているにも関わらず一切気付いていないという普段通りの状態が知れたので黙る事にする。
 アークタルス・ブラックやファブスター校長の前で卑下が過ぎると印象が悪くなる、それは避けたい事態だ。
 話題の終了と転換を示す為に、そもそも君の場合はヒステリー以前に余程の事がない限り声を荒げて怒らないよねとエイゼルが笑い、次いで眼鏡越しにアークタルス・ブラックを見てから両手を合わせ、足を組み替える。
「私の口から、これ以上の暴露は控えるべきかな」
「そうして貰おう」
 冷たい物言いをされてもエイゼルは笑い続け、では続きをとエスコートをしつつ小首を傾げた。こんな場面でなければ見惚れたい所だが、今はその時ではないのが残念である。
「フラメル夫妻の了承を得た後は移住先の決定ですが、ブラック家の実力から推量すると、この辺りに問題は生じなかっただろうと結論付けました。寧ろ、問題になるのは移送のタイミングです」
 避難場所の決定には然程危険は伴わない。先に資料さえ整えてあれば現地に赴かずとも密室でも十分な判断が下せる。勿論、当該地での念入りな準備は必要となるが、予測不能な事態が起こったとしても対象が深刻な状況に陥った訳でもないので最悪の事態は避けられたとも判断出来る。何が起ころうとも、この段階では延期が可能であり、精々別の場所を用意すればいいだけの話だ。
 大抵の場合、危険はその場所へ対象物を運ぶ際に起きる。無論、ブラック家の事なので自身の傘下の魔法使いや口の固い警備会社等を雇うだろうが、それでは不十分だ。
 フラメル夫妻の脳に詰まった技術や賢者の石を手にしたい者はヴォルデモートを除いたとしても夥しい数に上る。僅かでも情報が漏れれば処理し切れない事態に陥り、しかも、今回はダンブルドアも目的を知っている。あの、情報管理や人員配置の面では能力的な意味合いで一切信用出来ない男が、差し出口を挟む可能性が高いのだ。
 統制が取られていなくとも、物量はそれだけで強大な力だ。差を埋められないのならば、別の方向からアプローチが必要となって来る。
「それが、君が言ったように囮に繋がるという事だね」
「はい、その通りです」
 本命にしろ代替えにしろ、ダンブルドアは10歳児が持つには明らかに過剰と思える私の能力を欲している。それが、法の後ろ盾を得て正規に国外へ流出しようとしていたのだ。
 ダンブルドアにとって最優先で保護しなければならない存在はヴォルデモートを滅ぼす可能性を秘めた道具であり、彼の肉体を復活させ長久の命を与える物質ではない。
 ブラック家と同じ物を求めてはいるが、優先順位が違う故に、この作戦は成り立った。
 ブラック家は、未発見に終わったロウェナ・レイブンクローの髪飾りは破壊されただろうという酷く楽観的な見通しを立てたが、それは本心でないか、無力化出来る案が存在する事の裏返しだろう。不死は決して最強ではない、場合によっては大きな弱点となった。
 それを知る者の手によって、死なない事は、死ねない事へと容易く変化する。
「メルヴィッドは甘いと言ったが大筋はきちんと読めているね。では、そうだな、どのようにしてドイツ魔法省とドール卿を動かしたのかを尋ねようか」
 最も面倒で、何度も頭を抱え、結局纏まらず投げ出した部分に直球で触れられ目を逸らそうとするが、ファブスター校長が最初に言った事を思い出して何とか持ちこたえる。
 耳が寝てるぞ迷子の仔犬ちゃんと右隣から不誠実な干渉が入ったが相手をする余裕はないので黙殺した。斜向いからも頬を突いてあげようかと魅力的なお誘いがあったが、彼に構って貰うのは次の機会に回そう。
 仔犬から人間のものへと表情を整え、辛口のノンアルコールワインで口と頭の中をリセットをしてから、ピースが足らず未完成となったジグソーパズルをテーブルに並べた。
「事の発端は、5月初旬にチリで起こったグーテリの大量死です」
 7月22日の件に関してはそれで正解だとアークタルス・ブラックも認めている。真実は秘されているが事実として正しいのならば今回の場合に於いては大きな障害にはならない。
 1つや2つピースが欠けた所でパズルの全体像の予測が可能だ。ただ、そのようにして誤魔化しを重ねた事で、半分以上が欠けた状態という惨憺たる結果に陥っているのだが。
「この時点では死亡原因は不明でした。ただ、チリ魔法省は敵性魔法使いによる攻撃の可能性ありと判断したのか、非常事態宣言を出しています」
「反応としては過剰で大袈裟、または、コレラが原因だと気付く魔法使いが存在しなかった事に疑問を抱かなかったかな?」
「抱かない事もなかった、程度です。マグル界でコレラが拡大していたのは主にペルーであり、チリの場合は最初の感染者が報告されたのが4月18日に1名、翌週25日に15名です。4月の時点で死者は存在していません」
 チリ国内で確認された初の死者は翌月の5月2日に1名のみ。感染者は以前として増加しているが、発生源であるペルーの死者1200名以上、感染者およそ17万名と比較すると微々たるものである。ごく一部の町を除き国境付近が砂と岩場で構成された不毛の地という地理的な要因も相まって、鉱山という隔離された場所で起こったグーテリの死がコレラであると結び付けるのは困難であった。
 全滅に近い大量死なので、死亡当時の状況報告も上がっていただろうが、例え正確に伝達されていたとしても矢張り簡単にそれであると名指せる状況ではないだろう。
「ファブスター大佐にこのような基本まで申し上げてよいのか判りませんが、鉱夫系に属するヒトたる存在は、人間と比較するとアルコール代謝機能が高く、総じて酒豪です」
 ギアナのゴブリン達がラム酒でアルマン・メルフワを潰したように、彼等は鯨飲を体現したような存在だった。
 鉱夫系のヒトたる存在の胃は成分的にも人間と大きく変わらない胃酸を出し、アルコールによって分泌が促される性質も同じである。コレラ菌は酸性環境により死滅するので、酒に強いグーテリがコレラに罹り亡くなる事はあっても全滅寸前の大量死になるとは思えない。
 何よりも、彼等は鉱夫であるが故に自分達で坑道内の排水を行わなければならず、結果、長い歴史の中で液体操作系の魔法も逐次発展させて行った。魔法使いと同等かそれ以上に綺麗な飲み水を生み出す技術も、当然持ち合わせている。例え未開の地に投げ入れられたとしても、汚染された物を口に運ぶ確率は低い。
 その他、WHOによる非魔法界の推計でも、コレラは治療をしなければ致命率は50%を超えるが、治療が早ければ1%以下にまで下がるとされていた。世界中での年間感染者は300万から500万人に対し、死亡は10万から20万人とされている。
 コレラは未知の病原菌でもなければ現代では治療困難な感染症でもない、感染したのも抵抗力の弱い子供や老人ではなく、その辺の成人男性程度ならば片手で捩じ伏せる屈強な鉱夫だ。それにも関わらず、致命率の数字が明らかに可怪しい。
 だからこそ、ドイツ国内で陰謀論が吹き荒れた。地に足が着いた考え方をする魔法使いの何割かが、これは怪しいと感じ取ったのだ。
「何割か、なんだね」
「現状、コレラに効果がある魔法薬は開発されていないので、初動を誤り、経口補水液や抗生物質を手に入れる為のマグル側とのコネクションが確保されていない場合は有り得る事態とも考えられます。資源開発企業の役員であったドール卿の御子息様もブラック家の呪いだと名指しで非難していたようですから」
 とはいえ、実の父であるドール伯爵にすら期待されていない男の脳味噌がこれらを経由してそこにまで至ったとは到底思えないが。
「けれど、お陰で疑問が1つ解消されました」
「欧米を始め、世界中に数多く存在する競合企業の中で、何故ブラック家だけが名指しされたか、かな」
「仰る通りです。恐らくその理由が、先程アークタルス様が僅かに示してくださった真実なのでしょう?」
 与えられた最新の情報を練り込みながらもう一度思考するが、真実は未だ影の輪郭程度しか見る事が出来ない。しかし、それで十分だ。
「詳細を知りたいという欲求は?」
「欲だけならば」
「情報漏洩を警戒する類いなのは聞いた通りだね。では、君は一体誰を警戒しているのかは答えられるかい?」
「ブラック家に加わっていない全ての存在です」
 そこまで言い、今これを言うべきか数秒沈黙に陥ると、特に気を付けなければならない相手を考えているのかと質問をされた。
 話が逸れるので誤魔化してもよかったが、促されたので言ってしまおう。どうせ、彼等にとっては今更過ぎる事だ。
「特に、です。きっと彼等は、売り渡された私の魂を通して、この世界を見ている」
 ハッフルパフのカップに関する報告書の中ではリータ・スキーターが言及されていたが、だからといって達が怪しくないとは言えない。ブラック家側に付くと宣言した7月13日以降から手紙が途絶えたので、彼等が何らかの手段を以て私を監視しているのは明白だと説明したが、当然、この場に居る誰もが驚かなかった。
 この程度は皆、予想していたのだろう。予想済みならば、当たり前のように対策も存在するに違いない。
 私自身にとっては盛大なマッチポンプでしかないが、ブラック家に対するそれはレギュラス・ブラックの蘇生から続いている行為なので今更だ。
 更に、今後ボロを出しても怪訝に思われないよう、それらしい言い訳も追加しよう。
「それに私にも、メルヴィッドやエイゼルのように、思考や価値観を汚染されている傾向が見られます」
「料理や食事関係を言っているのかな? イギリスにだって美食家は相当数居るよ」
 判っていて敢えて外していると思われるエイゼルの言葉を否定しながら、私はフローリアン・フォーテスキューとは似ても似つかないと胸元に手を当てる。衣服の下には、普段から必ず身に着けている物が何時もと同じように存在していた。
「私は亡くなった方の肉体に強く執着しています。ホルマリン漬けにされたあの子の遺体、埋葬された彼の遺体や、遺骨、遺髪。死者の体にこれ程依存するイギリス人を、私は私以外に知りません」
「お前さんの言う通り、異常なくらい遺体に固執する民族を問われたら、まず挙げられるのは日本人だな。ニューデリー墜落事故の時もそうだったし、未だに戦地で死んだ兵隊の遺骨を収集しに海外に足を伸ばす遺族も居るらしいな。というか、そんなマニアックな知識を何処で仕入れたんだ。いや、言いたくないなら別に言わなくていいからな?」
「傷付くような体験はしていませんよ、キャップ。リックの遺体を火葬する時に、火葬場の方が話している声が偶然聞こえただけです」
 月命日なんて決めて態々墓にまで足を伸ばすなんて病気じみている、死者の魂の安寧を神に祈るだけならば教会へ行けばいい、生命を拡大解釈して死体にまで感情移入するのは野蛮で劣った環境で育ったからに違いない、殺人鬼を未だに英雄扱いしている人間の気が知れない、との会話内容まで続けるとメルヴィッド辺りが空気を読んで今からでも殺して行こうかと言い出しかねないので打ち切る。
「散骨すら許されなかった訳じゃないのか」
「埋葬の時には揉めましたが、散骨は許されない以前にその気もなかったので」
 精々、無関係な抗議団体の所為で数時間を無駄にした程度だ。殺人犯である彼の受け入れ先を探すのに費やした何日もの時間を考えれば、ひと時にも満たない。
「彼の遺灰を手元に置き、こうして遺髪を身に着けているのは、そうしたいとごく自然に欲求を覚えたからです。生まれ育った環境は濃薄に違いはあるものの常にアブラハムの宗教が信仰されていたにも関わらず、私は特定の宗教を信仰せず、肉体は霊魂の鋳型であり単なる器に過ぎない物質だと考える事が出来ません。以前寄稿したように、自己認識の要素を作り出す為に必要な鋳型、だとは思っていますが」
「考え方としてはアブラハム以外の宗教でも特殊だ、ヒンズー教的でも仏教的でもねえな。かと言って精霊信仰とも違う、祖先主導型か。肉体が滅んでも魂魄は此世に在るとする儒教か、儀式で神格化された故人が現世に留まって家や子孫を守る神道に近いっちゃ近い。東アジア以外で遺体を気にかける文化だとパプアニューギニア辺りの土着宗教だが、人種が異なるからなあ。は名前や外見からすると日本人の可能性が高いんだろ、アークタルス……おい若造3人、何だその間抜け面は」
「ええと、では代表して私が。キャップは見かけによらず幅の広い知識を有している方だと知り、大変感心しておりました」
「見かけによらずは余計だ、小憎たらしい犬っころ」
 やや皮肉を含んだ笑顔のままマリウス・ブラックは流れるような動作でスコッチ・ミストを注文し、クラッシュドアイスが詰まった薄い蜂蜜色のグラスをまるで女性に差し出すような仕草で私の前に置いた。
 怒ってはいないようだが反省を促されているので、これはもう、引っ繰り返る覚悟で飲み干すしかないだろう。
「大伯父さんはな、生まれてこの方ブラック家の一員で、将校と国防省に勤めた経験もあるいい年の爺さんで、なのに今も現役で頑張らなきゃならない勤め人なんだ。前情報皆無だろうとクラウト野郎がマンスフェルト出身だって事もちょっと聞きゃ推測出来る、諸外国の葬儀や宗教事情把握も当然必要なんだ。判るな? ちんちくりんのパップ」
 アルコール臭のする左手で両頬を挟まれるが、いい加減話題を元に戻せとアークタルス・ブラックから警告が入り、注意を受けた従弟は大袈裟に口端を片方だけ吊り上げ、私の背後にある何かに気付きすぐに下げた。義眼を向けて見れば、ファブスター校長が細かい氷だけが入った空のグラスを軽く振っている。
 突っ込むべきか迷ったので、心の中でのみ言葉にしておこう。ウイスキーはこんな短時間で空にするような酒ではない。血中アルコール濃度が心配だが、彼も、そして正面で同じような飲み方をしているエイゼルもいい大人なのだから表情以上の気遣いは無用だろう。
「スポンジ大佐、そういうのはお前の愛するシュガーちゃんにやってやれよ」
「彼女に1杯奢る不貞な男性が現れたら、その時に考慮します。では、話を戻しますので以降は冗長な遣り取りは程々に控えてください」
「今も十分控えてるぞ」
「その手を離してからアークタルスの目を見て、今の言葉を口にしてください」
「今も十分控えてるぞ?」
 私の頬を解放してからファブスター校長の辛辣な言葉通りに行動したマリウス・ブラックの態度と、話の脱線が長過ぎたとの理由により、アークタルス・ブラックの眉間には深い皺が刻まれていた。露骨なご機嫌取りをしようものなら倍の顰蹙を買いそうな表情である。
 どうするべきか、気を散らすか、話題を逸らすか。その考えが余す事なく顔に出ていたのか、ファブスター校長は気にする必要はないとバッサリ切り捨てた。アークタルス・ブラックの機嫌が輪をかけて悪くなっているが、私以外の同席者は見世物として楽しんでいるようにしか思えない。
 自由人エイゼルと遊び人マリウス・ブラックは勘定に入れないにしても、メルヴィッドとファブスター校長は、顔に出ていないだけで実は酔っているのではないかと疑念を抱くのに十分な対応である。
 酔いを醒ますには足りないが、ないよりマシだと手元のワインボトルを薦めてみるが断られ、逆にそれを注がれてしまった。顔の右半分が謎の威圧感を感知するが、もうアークタルス・ブラックの顔は見たくない。彼の機嫌は、絶対に、愛玩動物の手腕で解消出来るレベルを突破している。
 ならば、出来る事は1つだけだ。
 早急に必要な情報を吐き出し、この会食をお開きにする。この唯一を実行する為に、私は注がれたワインを飲み干した。