ナスとドライトマトのカレー風味
ただ、基本的に長閑やかといわれる日本在来馬の中にも闘争心が強く血気盛んな子や、繊細で気は小さいが妙に頑固な子が居たので、これはあくまでも目安である。
紅白に分かれ談笑しながら打毬に興じていたはずが、最終的に馬は力強く嘶き人や神様が怒号を発する陣営無視の騎馬戦に変わり果てた事件は、我が家の場合、結構な発生率を誇っていた。
何が言いたいのかというと、人間と同様、馬にも例外は付き物、という事だ。
「楽しそうだなあ」
「楽しいんでしょうねえ」
クライズデールは人間に対して大変フレンドリーだと聞いた覚えがあるが、この子には更に少々落ち着きがない特性が加わる子らしい。人に制御されていない巨体が繰り出すギャロップは近くで見ると圧巻の一言に尽きる。
脚先の毛から大量の水滴を撒き散らしながら土砂降りの中を大喜びで爆走する1トン超えの馬はしばらく放置しても大丈夫そうだ。精神的な昂ぶりを抑え切れず此処まで連れて来た乗客達を置いて消える可能性もあるが、他に移動手段がない訳ではないので神経を尖らせて見張る必要はないと判断し、アウトドア用のアルミ水筒の蓋を外す。
どこにでも売っているインスタントコーヒーに練乳を組み合わせた飲み物は少し温くなっていたが、今の気温には丁度良いだろう。馬上で掻き混ぜられていたので、混合具合でいえば最適のはずだ。
「キャップ、コーヒーは如何ですか」
「気持ちだけ貰っておくよ、ありがとな」
魔法薬でアルコールを強制分解した食事の後にデザートまできっちり食べて、胃の中が落ち着かない内から乗馬を行い、未消化の食材達が胃袋の中がシェイクされた所で休憩と称してベトナムコーヒーを完飲出来る程の若さはないのだと言われ、道理だと軽く頷く。普段は規格外な内臓を持つメルヴィッドやエイゼルばかり相手にしていたので常人、しかも老人の許容量と適正頻度を忘れていた。
年相応の量しか食べられない上に、育ち盛りの少年らしく燃費が悪いハリーの体を癒やす為に甘いコーヒーを口にすると、湯気が穏やかに昇り優しい香りが周囲に広がる。
昼食の後、マリウス・ブラックと2人乗りで牧場を散策を始めてからしばらくもしない内に雲行きが怪しくなり、予想通り雨が振り始めたのがほんの5分程前。別荘に引き返すよりも安全な場所で動かずにいた方が適切だろうとどちらともなく判断し、石垣に腰掛けて拡張した泡頭呪文で雨を凌いでいるのが現在の状況である。
私の頭部を起点に膨張した半径2mの巨大な泡の内部と外部の環境差が気に入ったのか、魔法の液体で作られた薄い膜から頻繁に出入りしては興奮した様子で駆け回るクライズデールは、見ている分には可愛らしい。一度目を閉じて効果音だけを聞くと、雨音が掻き消せない程に、全てがとてつもなく野太いが。
けれども、大きければ大きいなりの可愛らしさがある。普通の馬よりも頭が大きなクライズデールは、当然鼻や唇も大きい。そして、馬の鼻先や唇はごく一部の例外を除いて求肥のような柔らかさをしており、この子はその例外に当て嵌まらない。
となれば、やる事など1つだろう。
「はいはい、構って差し上げますからシャツを甘噛みするのは止めましょうね」
放置された事を察知したのか、子供のような態度で寄って来たクライズデールは私のシャツを舐め、器用に引っ張り、時折齧り始めた。水筒を脇に退け柔らかい鼻を両手で揉みしだくと、生暖かい息が水滴と涎で濡れた皮膚やシャツを冷やす。
蛙と犬は然程気張らなくても飼う事が出来るが、流石に馬となるともう1段上の覚悟と準備が必要となるので簡単には行かない。幸い元の世界で飼育経験があり、現在の住まいならストレスなく放牧出来る牧草地はあり、土地柄獣医も近場に居て、諸費用程度なら賄えるのだが、信頼出来る装蹄師を探すのが大変なので諦めよう。
第一、私はエイゼルとユーリアンを引き連れて長期休暇後からホグワーツへ行くので、全ての面倒をメルヴィッド1人に押し付ける事になってしまう。これはメルヴィッドにとっても、馬にとっても、酷く無責任で迷惑な話だろう。
こうして他人が飼う馬や、動物園の触れ合いスペースで、何も難しい事を考えないまま顔を撫で、甘えるように甲高く嘶く様子やフレーメン反応を楽しみながら可愛い可愛いと口にしていた方が皆の為であった。
「単に人懐こい動物が寄る体質かと思ったが、そうじゃないな」
「キャップ?」
「乗馬させて判った。犬にしても馬にしても、人にしてもだ、お前は相手の嫌がる事をしないよう本能的に体に染み付いているから好かれるんだ」
特に乗馬は相当鞍数をこなした経験者並に筋が良かったと褒められたので、よく判らないがそういうものなのかと表情を作り誤魔化す。相手が嫌がる事は割と積極的に行っているので異論を唱えたい所だが、そこを否定すると面倒臭そうなので首を傾げながら頷いておく。乗馬経験に関しても、実家で散々乗り回していましたとは告げられない。
「フィリッパは典型的なブラッドハウンドの性格で大抵誰にでも合わせられるが、ブルズアイの馬にも好かれたんだろう? あれは名馬だが、現役中に戦死した軍馬だからなあ」
臆病ではないが血の気が多いし気位も高いと説明されサマセット・ハウスで出会ったあの幽霊馬を思い出してみるが、微塵もそのような様子は感じられなかった。否、サングラスに興味津々だったので、臆病ではなかったか。
存分に構われて満足したクライズデールが再び豪雨の中に戻る背中、というよりも筋肉に覆われた見事な尻を見送り、コーヒーを再び手にしながら肩を竦めた。
「人を不快にさせない性質、ですか。そのような指摘を受けたのは初めてです」
濃厚で甘い液体を舌や鼻で楽しみながら、けれど、ブラック家とは相性がよかったが彼等は違うかもしれない、と続ける。
「メルヴィッドと、エイゼルか」
「1年前から薄々、そうではないかと思っていましたが」
「予想済みって事か。まあ、そうだよな。さっきの会話でも、お前達は誰もショックを受けていなかったから」
「皆が皆、他人の前では口にしないようにしていた事を引き摺り出されただけなので」
破天荒なくらいに都合が良過ぎたのだと苦笑して、他人を納得させる為に前々から考えていた言い訳を頭の抽斗から取り出し、言葉として組み立てて行った。
心情の吐露をするには丁度良いタイミングと環境だろう。
「メルヴィッドと出会った時は、ほんの小さな疑問でした。幾らあの人達からの紹介だったとはいえ、日常生活の営みに関しては問題ない記憶喪失なんて、余りにも都合が良過ぎて三文小説やC級映画にすら採用されない話だと」
こんな夢のような現実を偶然に見付け出すのは不可能だ、ならば人の手が作り出したに決まっている。本で忘却術や記憶改竄の魔法を知り、メルヴィッドの脳は私ではない方の私である達の手で修正されたのだろうと予想する事は容易だった。
そして、メルヴィッドのような相手に困らない魅力溢れるな人間が、私のような人間と上手く暮らして行ける理由も、恐らくこの手の魔法が原因だろうとも当然考えた、とあらかじめ用意しておいた嘘を落ち着いた声色で吐く。
「メルヴィッドとエイゼルは反社会的な人格が本来の姿で、今は私に好意を抱くよう精神操作されているだけでしょう。エイゼルは特にそれが顕著で、自覚しています」
「その辺は全部気付いたんだな」
「優れた頭脳と強大な力と美しい容姿を持つ複数の若い記憶喪失者、10代の同性に向けるには過剰な好意、敵対者を作りたがる好戦的なエイゼルの性格に反するような一目惚れ。それに、察知させるように付けたとしか思えない名前のアナグラム。ヒントが多過ぎます」
メルヴィッドが I am Lord Voldemort、エイゼルは Salazar Slytherin のアナグラムなのは今更で、その命名センスの惨状は輪をかけて今更の事であった。これにメルヴィッドとエイゼルの両名が気付かないまま過ごしていると口に出す方が余程ありえない事態であると、マリウス・ブラックに対して強調しておく。
おまけにレギュラス・ブラックから達がヴォルデモートを倒す為の駒として集結させている可能性を示唆されたのだから、これはもう事細かに詰めておくべきだ。
もしも何も起きずにこの生活が続くのならば、それで構わない。しかし、起きない事を前提に対策を練らず意味もなく過ごす日々を事は怠惰の極みであり、不幸に見舞われても同情の余地はないと言い切る。
「平時の情報交換に腹を割った話し合いか。他人から見れば無味乾燥でミイラ化したくなる程退屈極まるが、最も重要な心掛けと案件。脚本家泣かせな連中だなあ」
「フィクションの世界で擦れ違いから悲劇を目の当たりにするのは好きですが、自分達の身に降りかかるとなれば誰だって話は別です。互いの関係が良好で、同じ屋根の下に居住して話し合う機会に恵まれているのならば、可能な限り活用するべきでしょう」
万が一精神操作魔法が解除された場合には、私は何処に避難するべきか、誰を頼るべきなのか、そこまで自分自身で決めて行動出来るよう指示されていると口にすれば、常識的な保護者と被保護者の関係を築いているんだなと感慨深く頷かれた。
多分、彼の脳裏に浮かんでいるのは姪の息子であり、先見性が皆無で幼稚な元後見人であるシリウス・ブラックだろう。
「誰を頼り何処に行くのかは、聞かない方がいいな。少なくともブラック家じゃない」
メルヴィッドとの距離が近過ぎて動きが制限される可能性が高く避難にならないと言い、それでも一応、記憶を取り戻し、反社会的行為に走る気配を感じ取った場合はブラック家の力で即座に拘束するようメルヴィッドから頼まれていると暴露された。
因みにエイゼルからは何の打診もないらしいが、こちらは当然だろう。彼は、自分と私以外の全てを疑っている、特にブラック家は信用ならないと宣言しているのだから。
「エイゼルはエイゼルで対策をしていると思いますよ、そういう人ですから」
「その辺りは心配していないんだがな。手加減と配慮がなさそうな所が問題だと、従兄殿が心配していたんだよ」
「とは申されましても。情報漏洩しては意味がなくなってしまうので」
「いやまあ、それで良いぞ。情報共有と情報漏洩の違いを理解して、実行に移しているかカマかけただけだからな」
「キャップの企ては心臓に優しいですね」
「俺はアークタルスとは違う、同じになるつもりもない」
私がメルヴィッドやエイゼルを目標としない理由と同じだと言われ納得していると、空気を読んだクライズデールが足元の状態など一切気にせず再度戻って来て甘え始めたので、今度は首筋を撫でてご機嫌を取る。前半身が濡れ鼠で雨宿りの意味が最早ない状態だが、つぶらな瞳を眺めているとどうでもよくなった。
雨に濡れているからなのか、頻繁に手入れするような子ではないからなのか、毛並みと筋肉の付きはそこそこで、触り心地という点では鼻に軍配が上がる。しかし、もっと掻いてと強請る仕草をされるので、あの柔らかさを堪能するのはまたの機会にしよう。
「所で、だ。単刀直入に聞くが、は忘却術をどう思う」
「嫌いですね」
「即答か」
「叶う事ならば、記憶を操作する魔法は全てこの世から抹消したいと思っています。キャップも、その辺りはご存知でしょう?」
「まあな」
一番初めのきっかけを隠したまま、罪悪感の欠片もなくリチャードの命と記憶を奪い、罪もない監査官の人生を破滅させた術だと口にする。
メルヴィッドやエイゼルならばこの言葉だけで十分だが、その間に変化したマリウス・ブラックの表情を見て、更に続けた方が懸命だろうと内心で溜息を吐いた。
「理解はしています。忘却術は、技術や道具に類する物だという事は」
私のこれは、銃、刃物、車、これらの凶器によって親しい者の命を奪われた人間が、加害者や加害者を生み出した環境ではなく、道具そのものに怒り、恨んでいる構図と一緒だ。
日本語に適当な諺もある。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、そういう事だ。
その術があったからこそメルヴィッドやエイゼルと共に暮らす今が実現出来たとしても、それでも駄目なのだ、と。もしも記憶を取り戻す方法が見付かれば、例え彼等が反社会主義に染まったテロリストになろうとも、私は躊躇せずそれを使用すると。
「根底はシンプルな、憎悪による復讐です。私のこれは理屈に合わない感情によるもので、正しさなどなく、求めてもいない。私は既に結論を決めています。だから、どれだけ説得と懐柔を繰り返し前提条件を変更しても、あらゆる可能性を提示して破滅する未来を予言されても、何の意味も持ちません」
「ああ、じゃあ、交渉も無理だな」
「キャップは……忘却術を必要としている方なんですね」
「そうだ。俺達には、どうしても必要だ」
聞いてくれるかと問われたので、世間話としてならばと笑う。正面の濃い茶色の瞳に映るサングラス姿の少年は、どちらかといえば嗤っていた。
お陰で馬が怯えて逃げてしまったが、仕方がない。私の所為だ。手持ち無沙汰となり、温かい水筒を濡れた両手で持った。
顎を上げるようにして上を向けば、南の空が明るい事に気付いた。風は穏やかに変わり、雨脚も大分弱まっている。そのまま視線を向けたマリウス・ブラックの話に付き合っていれば、雨も止むだろう。
「目の前で戦友が、死んだ」
その事実は、俺の中に今もある。これは決して忘れてはならない記憶だ。
おもむろに切り出した初老の男性は見惚れる程に整った顔を軽く歪めただけで、人命を奪う重さを知らない男の顔をしていた。人を殺した経験を持つ、兵隊の顔ではない。
「銃弾で顔の下半分を吹き飛ばされた奴も居た、爆風で手足が千切れ飛んだ奴もだ。懐いてくれていた奴の脳味噌が雨みたいに降って、目玉が地面を転がった。使えない少尉だった俺の頭を抑え込んで、体の半分が吹き飛ばされた軍曹の姿を忘れたくはない」
私には判らない感情だと思ったが、流石に口に出すのは躊躇われた。代わりに、コーヒーを少しだけ口にして時間を稼ぐ。
「同い年ぐらいの敵兵も殺した。もっと若い奴もいた。綺麗な奥さんと、生まれたばかりの子供を抱えた写真を持っていた奴、母親か恋人の名を呼びながら死んだ奴も居た。主人の敵討ちに来た軍用犬も殺した」
過去を思い出しているのか、口調はゆっくりとしていて言い淀んでいる。
顎を引いて石垣に座り直し、体ごとマリウス・ブラックに向けて顔色や手の震えを観察するが僅かな変化くらいしか見当たらない。
だからつまり、そういう事だ。
「今の、この世界の為だ。こうして景色を眺めながら、お前とコーヒーを飲む為だ」
「はい」
初めて相槌を打ち、先を促す。
彼の言いたい事はほぼ全て理解したが、最後まで聞くべきだろう。私は1世紀を生きる老人で、少しばかり頭が可怪しい殺人鬼だが、戦争経験者ではない。
私は正義の為に人を殺した事などない。
何時だって自分の意志のみで人を殺して来た。とても単純な公式で動いている故に、彼のように悩む必要などなかったし、これからもない。
「だが、同時に、全ての記憶が頭の中一杯に押し寄せて来る。五体満足で生き残ったからこそ今の仕事でもこの世界を守り続ける事が出来る、あの殺戮は正しいものだったと言い聞かせ続けても、それでも、ふとした瞬間に罪悪感で自殺しそうになった」
戦争が終わった後、彼は魔法界に戻らず、しばらくは国防省に勤務していたと続ける。退役軍人、特に士官学校卒の何割かは、今でもそちらに引き抜かれるのだと笑った。
「昼間は良かったよ。チャラチャラした俺は柄にもなく仕事にさえ没頭すれば、他には何も考えずに済んだ。でもな、夜は、ベッドの中でずっと啜り泣きが止まらなかった。眠るのも現実と夢の区別が付かなくなるのも、怖くて堪らなかった。俺は魔法使いじゃないから過去の記憶からは逃げられない、どうしようもなくて、眠りたくないと泣いていたんだ。部下達から大尉とまで呼ばれた、いい年をした大人が」
「逃げられないけれど、忘れたくはない記憶は……陳腐な言葉ですが、辛いですね」
「陳腐なんかじゃないさ。本当に、辛いんだ。うん、だから、記憶は今もある。ただ、それがまるで、そうだな、フィクションのように感じる。自分が主人公の、とても良く出来た映画のような、そんな感覚」
あの日、クリケットに参加していた連中は、皆そうだ。皆、家族の誰かが魔法使いだからこそ復帰出来た退役軍人達だ。
そう告げたマリウス・ブラックの言葉に僅かに驚き、納得する。
「戦争で精神を病んで、戦地から帰っても平和に馴染めない。突発的に暴力を振るったり、アルコールやドラッグに手を出したり、言語障害、摂食障害、色々なものを患ってた」
「PTSDですか」
「今は病名が付いているから、周囲から理解も、いや、ないな」
「真に国民に周知徹底され、国から必要十分な援助があれば、キャップは忘却術を必要としなくなりますからね」
「だな。だが、そんな日は来ない。なあ、マウンドの俺に対して大声でスラングを吐きやがった馬鹿野郎共が居るだろう。あいつ等は家族にすら口を利けなくなっていたり、言葉の大半が理解出来ないでいたり、喜怒哀楽の感情を全部戦場に置いて来てしまったような奴等なんだ。それがどうだ、今じゃ巫山戯んじゃねえ死ねよササナックと抜かしやがる」
スクイブの開業医とその手の事に理解ある魔法使いを組ませて、記憶に麻酔をかけて治療したんだと、灰色の目が視線よりもずっと遠くを見た。
冷戦は終わったが、今も世界中で戦争や紛争、内乱が起きているとマリウス・ブラックは世界の現状を簡単に纏めた。魔法界の存在を知らない奴も治療して社会復帰させてやりたいが、情報が漏れる危険があるので最初から魔法界を知っている人間しか未だ救えないと寂しい声がした。
「忘却術で傷付く人間が居る事は否定しない。今の魔法界や教育機関の怠慢と腐敗振りを見れば、傷付く人間の方が多いってのも判る。が腹に据えかねてるのも理解出来るさ、忘却術を考えなしに使う奴は例外なく馬鹿で下衆だ。だが、忘れないで欲しい。忘却術で救われた人間が居る事も。それが治療として一定の効果がある事を証明した人間が、ここに居る事を」
「……成程、とても正しいお話でした」
「納得してくれたか」
「ええ。納得した上での、不動の決断です。私にとっては、交渉の余地すらありません」
前提条件が変わっても何の意味もないと先に言ったように、泥と銃弾と硝煙による血塗れの綺麗事で納得させた所で、私は忘却術の存在を決して許さない。
当然、そんな事はマリウス・ブラックも最初から予想と理解をしていて、それでも言いたかったのだろう。だからこそ彼は怒る事も呆れる事もなく、ただ美しく口端を吊り上げて、お涙頂戴の最たる話で手の平を返さないからこそ、例えブラック家の障害になろうとも偏屈な従兄殿が寵愛するのだと私の態度を肯首していた。
「ひとまず、頑固な私が将来のブラック家の方々に言える事は」
「おう」
「私は永遠に間違いを犯し続けます。だから、お手数ですが大衆を動かして、潰してください。幸いな事に、英国魔法界では民主主義が適応される事例もあるようなので」
「おいおい、過激で更にドMとか聞いてないぞ。エイゼルの影響か? お前も相当手の施しようがない性格してるじゃねえか」
互いに譲歩出来ないならば、残る手段は戦争しかない。損益や勝敗でどうにかなる意志ならば、とっくに結論を変えている。
言葉のみで私の意地と復讐心が消え失せるのならば、私は今、この世界に居ない。
遠くに出来た天使の梯子を眺めながらもう一口コーヒーを飲み、魔法で作っていた膜を消す。雨が止み、落ち着きのなかったクライズデールも少々警戒しながら戻って来た。
水筒の蓋を閉め、そろそろ戻っても大丈夫だろうかと言葉にしようとした私の右目に、緑色の文字の羅列が表示される。
”雨も止んだから、そろそろ帰って来て欲しいな”
”判りました”
”私達は裏の川に居るから直接おいで、ウィレフェストが居たから留めておいてあげるよ。好みの、馬より興味深い生き物だから”
”野生のウィレフェストですか? どのような経緯を辿れば、そんな面白い事態になるんですか。是非と言いたい所ですが、私が手綱を握っている訳ではないので直接向かうには何と説明すればいいのか”
”言い訳の必要はないと思うけど。この通信も窃視されているだろうから”
折角秘密の会話をする為に作った機能も、有効活用しない内に丸裸にされていると伝えられ、ならば仕方がないと早々に諦める。
もしかしたら一番最初に外で行った通信も見られていたのではと今更ながらに気付くが、知られて困るような会話ではないので多分大丈夫だろう。ただ、少しだけ喧嘩っ早くて物騒な内容だっただけである。ルビウス・ハグリッドと正面から殴り合った後なので、然程違和感を持たれないといいなと、希望的観測を述べておこう。
会話やバイタルサインまで確認されているのだから、幾ら対策を施した魔法でも限界があったのだ。今度は舌打ちにしか聞こえない某宇宙刑事達の高速言語を現実に落とし込んでみようか、無論考えてみただけで、無理な事は判るのだが。
「キャップ、そろそろ戻っても?」
「ん。そうだな」
私達の通信内容を把握しているようにも、していないようにも受け取れる返事をしたマリウス・ブラックが水筒をしまいながらクライズデールを呼び寄せ、私は乗り心地を確保する為に杖を振り多量の水分を含んだ毛を乾かし、馬に跨る。
「よし、帰りはギャロップで行くか」
「お任せします」
”エイゼル、全速力で丘を下るので思ったよりも早く帰れます。ウィレフェストを確保しておいてください”
”逃がさないからゆっくり下っておいで。1トン超える裸馬で濡れた牧草地の下り坂をギャロップなんて馬鹿の極みだからね?”
「キャップ。保護者のエイゼルから低速で安全運転するようにとの連絡が入りました」
「こういうのは馬に任せるのが一番安全なんだよって事で行くぞ野郎共!」
「はい、お願いいたします」
人語を解している訳ではなく、マリウス・ブラックのテンションの高さに呼応したのだろう。元気よく嘶いた馬1頭と、背に跨る合計年齢150歳以上の馬鹿野郎2匹は、雨上がりの丘を襲歩で駆け下り始めた。
取り敢えず、BGMは江戸幕府第8代将軍評判記のオープニングでいいだろうと、元気に爆走する馬の背中に乗った私は、脳内でテーマ曲を流し始めたのだった。