すもも餡の水饅頭
割れない呪文をかけた大きなゴム風船が鼻先で宙に突き上げられ、ゆっくりと落ち、また勢いよく空を舞う。ルドルフ君とバスカヴィル君による風船ラリーはかれこれ5分程続いていた。偶に夢中になり過ぎて湖に突撃しているが、それも含めて当犬達は非常に楽しそうである。
窓の外からダイニングへ視線を戻すと、生き生きとしたご機嫌な毛玉とは正反対の真面目な表情を浮かべたユーリアンが宙で胡座をかき、紙束とデータベースの画面に囲まれたまま文字の羅列に目を走らせていた。
「爺にしては頑張ったじゃないか」
「頑張った結果、何も判らなかったという事だけが判ったような感じですけれど」
エイゼルからユーリアンへ出された宿題である、7月13日に行われた盗聴の調査に関する資料として公開したデータは、集めるだけ集めたが結局何にも繋がらない事だけが判った。よく考えなくても当たり前だが、ド素人の私が数日掻き集めた程度で盗聴元が判明するような組織形態をブラック家が容認するはずがない。
北米での銅鉱石採掘にノッカーやスクイブを雇用しているとレギュラス・ブラックが口にしていたので、他にどのような存在が就労しているのか知りたいとアークタルス・ブラックに手紙でお強請りした結果、探し物への手掛かりは呆気なく手に入った。ダイアゴン横丁の本屋やブラック家の書斎でブラック家の歴史を記した分厚い本や過去の新聞記事を片っ端から引っ繰り返し調査していた自分が馬鹿みたいだと思ったが、実際私は馬鹿なので自身の評価は全く間違っていない。
ただ、グレムリンを雇用している会社はいずれも、ごく普通のサラリーマンや技術職としか言いようがない職業で働く者が籍を置いているだけだった。こちらは紙の上だけではなく全てこの目で見て来たので間違いない。
「雇用されているグレムリン達が暮らしている個人宅や社員寮までは場所を特定出来ましたが全員結果は白、人間と何ら変わりのない生活を営む方々ばかりでした」
「逆に訊きたいんだけど、それはどうやって見付けたんだよ。爺って何百って数の姿現しを個別追跡出来る程有能じゃないよね、特に移動系魔法は種族毎に方式も違うし」
「ええ、勿論私は無能ですからそのような素晴らしい発想を現実に落とし込めません。各事務所に住所録がありましたから、それを盗み見て片っ端から現地調査しただけです」
「……お前さ、本当に冴えない作業が得意だよね」
「それ位しか価値がありませんから。私は元々システムを介さない総当り攻撃の為に居るんです、体質的にもソーシャル・エンジニアリング向きですし」
家事全般の引き受けはおまけで、本来はこのような地道な作業者として使うのが正しいのだと改めて説明すると、でも微妙に使えない物ばかりだと濁した感想を述べられる。
「先程も言ったように何も判らなかったと自覚していますから、頭から尻まで欠片も使えないと正直に述べてくださっていいんですよ?」
自分で集めたこの件の資料を改めて眺めても、監視場所等の肝心な部分は全く判っていないので情報の一切が使い物にならない。エイゼルが指摘した通り物的な証拠はなく本当は最初の地点から既に空振りで、盗聴を行ったのはグレムリンではない可能性だってある。
ユーリアンの方も特に進展らしい進展がないと言って宙に漂っていた画面を消し、ならば更に別の方法を模索すればいいだけだと結論付けた。
具体的にどのような捜査にシフトするのかは言及しなかったが、こんな爺がしたり顔で指摘しなくても次の計画は既に立てているのだろう。
「で、これはエイゼルに報告したんだよね」
「エイゼルと、メルヴィッドの2人には。ただ、ちょっとした問題が」
「気に入らない事があったんだ」
「気に入らない訳ではないんですけれど、結局何も判らなかったのに努力したご褒美だと言われて、エイゼルからペンダント用の新しいチェーンをいただいてしまって」
「僕の脳神経を引き千切るような気持ちの悪い惚気を聞かせるな。あの馬鹿には好きに貢がせておけばいいじゃないか。どうせまた単なる口実だよ、あの不気味なヴォーパルバニーみたいに、変な魔法がかかっているに決まってる」
私も最初はそれを疑い確認したのだが、そのような形跡は全くなかったのだ。しかし、私よりもエイゼルに近しい存在であるユーリアンがそう断言するのならば、私が気付けない程の高度な魔法という事なのだろうか。首に掛かった真新しいチェーンは、両目で確認しても特に魔法的な痕跡は見当たらない。
エイゼルの手で調整された右の義眼は様子見を始めて数日が経過したが、問題を見付ける方が難しい位に仕上がっている。各種の機能衝突の除去は勿論、使い勝手や処理速度も格段に上がっていて驚いた。
余りに素晴らしい機能の裏にエイゼルにとって都合の良い魔法も仕込まれているかもしれないが、メルヴィッドの迷惑にさえならなければ何をされても構わない。全く逆の、私の為にはなるが、エイゼルが不利益を被るような機能は、流石にないと思いたい。
「それで、こっちの雑に扱われてる資料は?」
「調査の結果、22日の件とは直接関係なさそうだと判断した情報の山です」
幾つかの資料の中からユーリアンが適当に呼び寄せ、説明しろと視線で命令する。彼が手にしていた内の一番上にあったのは、ドール伯爵の隠し子についての物だった。
「爺、これが関係ないとは思えないんだけど」
「申し訳ありません、訂正します。分析に回してレポートに纏められる程の情報を手に入れられなかったので放置した残骸の山です」
「最初からそう言いなよ」
結論から言えば、難病に罹った彼の息子は見付けられなかった。私の情報網には限界があり、しかもその限界の壁はかなり近くに存在する。
彼の祖国であるドイツと、外交官という身分から派遣先の国まで含めた魔法界で発売された週刊誌のバックナンバーを購入したのだが、出版社が保管している在庫の関係から追跡出来たのは今年の春までで、はっきり言ってなんの役にも立たなかった。それ以前の週刊誌も手に入れられる分は購入したが、矢張り空振りに終わっている。
これがイギリス国内ならばホグワーツの図書室が管理する書庫にでも出向いて色々と漁れるのだが、国外はどうしようもない。一応、主要な国々の新聞は保管されているので理事であるジョン・スミスが気を利かせ複製を郵送してくれたので他の件に関する有益な情報は沢山手に入ったが、ドール伯爵の不倫や隠し子に関する情報は一切載っていなかった。
正攻法を無視してもいいのならグレムリンを調査した時のようにドイツ魔法界の銀行にでも侵入して金の流れを追えば然程苦労もせず見付け出せそうなのだが、報告対象はブラック家なのでこの手は使いたくない。
今回の場合は・という実在する少年の立場で調べなければならないので、下手な形で知識を得てしまうとボロを出してしまう可能性がある。
唯一、真っ当な手段で手に入れそこそこ使える情報といえば、ドール伯爵には書類上もう2人、男女の実子が居るというもの位だったが、これは今回の件とは関係がない。
「なんで言い切れるんだ?」
「情報提供者のジョン・スミス曰く、イギリスでも聖28一族に含まれない自称純血一族の大多数が行っている事だから、だそうです」
以前の調査で判明したように、ジョン・スミスには甥が2人居る。いずれも実兄の子であり、長男はザカリアス・スミスという名前の男の子で今年ホグワーツに入学する。そして次男は名前すらなく、魔法界の戸籍上にしか存在が確認出来ない。
「判らないな。そんな書類を用意して、一体何の特になるんだ?」
「純血同士の結婚が出来ますね、書類上では」
純血の魔法使いや魔女が混血や穢れた血と恋愛結婚したい場合、世間体を気にする親や一族のお偉方が高値でその戸籍を買い取るらしい。
日本でいう所の武家に養子入りする為に商人が辿る図と似ているが、イギリス魔法界の場合は養子入りではなく元の戸籍を抹消すれば最初から純血として存在していた事になるので、子孫が家系図を遡っても純血として通るのだとか。
途端に苦虫を噛み潰したような表情になるユーリアンに苦笑を返し、聖28一族に挙げられる嫡流は百年単位で間違いなく純血だからと慰めようとして止める。忘れがちだが、この子は既に滅びたとされるゴーント家、そしてサラザール・スリザリンの末裔なのだ。例え、半純血であろうとも。
卑しい血筋を誤魔化す戸籍ロンダリング方法を説明されて渋面を浮かべているユーリアンに言葉での追い打ちはかけたくない。知っていて損はないが、どうせ役に立たない内容なのだ、話を切り上げよう。
「どの道、此処からは辿れそうもないので潔く諦めました。ついでに、その下にある資料の説明もしましょうか」
「ブラック家が所有する企業の、これまでの動向?」
こんな物を調べる意味が何処にあるのだと問われ、ただ気になったから調べただけの深い意味はないと返す。
「レギュラス・ブラックの言葉が引っ掛かったので、少し探ってみただけですよ」
魔法界にブラック家の当主が帰還して他の純血一族は好き勝手振る舞えなくなり不満を抱えている、レギュラス・ブラックは何度かそのような事を口にした。だが、同じ口で、傘下の経営者達はアークタルス・ブラックやシリウス・ブラックにノウハウを叩き込まれた優秀な存在だとも言っていた。
あの日、当主なんて居なくても、イギリスそのものは何十年も危なげなくやって来れたとアルマン・メルフワに語った言葉に疑問を覚え調べた結果が、その紙に記されている。
「想像していたよりも勝手に振る舞えていなかった、って何だよ」
「レギュラス・ブラックの言葉を聞いた時、てっきり政経界の内部深くにまで入り込んで根を張っていると思っていたんですが、思った程ではなかったなと」
「お前というか、ハリー・ポッターは遺産を詐取されてただろう」
「ですから、所詮その程度の上辺だけですよ。ハリーも含め個人で被害に遭っている方々は居ますが、国家レベルの危機ではありません」
魔法省内部に賄賂を渡して自身に有利な法整備を行い、市場への介入を図り、国防や外交問題に口出しを行おうと試みた純血一族は見当たらず、少しばかり私腹を肥やしたのもルシウス・マルフォイやカシオペア・ブラックのようなごく一部で、大半は好き勝手出来る資金も権力も持ち合わせてはいなかった。
幅広い人脈を持っている純血一族は多いが、金の切れ目が縁の切れ目とはよく言ったもので、過激派組織に資金提供をしたものの回収出来ずに凋落した家の方が多く、権力を維持出来ている者は想定よりもかなり少ない。
また、金を持ち合わせていたとしても、純血主義を掲げる過激派組織の崩壊後というタイミングなので、生き残った純血一族が魔法界を牛耳るのにも限度があり、現在も多少は緊張は緩んでいるものの、そのような反純血主義的な空気は続いている。
経済に関しては、ブラック家傘下の企業を始めとする実利主義者達が無能な怠け者の前魔法大臣の代わりに動いたようだが、こちらも諸外国と苛烈極まりない戦闘があったとは言い難い。
ヴォルデモートが完全に消滅したと信じ切れなかったのは何も思慮の浅い騎士団や信心深い闇の陣営ばかりではない、国外の資本家達も無能なイギリス魔法省の動きを見てテロ再燃の懸念から二の足を踏み、その間に対策を講じたというのが大筋だった。
「尤も、アークタルス・ブラックはヴァルブルガ・ブラックに対して女王気取りと吐き捨てていたので、私の判断基準が相当甘いだけでしょうね。無能力者が責任ある地位に一秒いるごとに、一人の国民が死ぬに等しい、との言葉が現実では正しいので」
「単なる情報収集力不足で、実際は裏で巨大な経済戦争が起こっていたのにお前が全く把握出来ていない無能って可能性もあるんじゃない?」
「勿論、十分に有り得ます」
ユーリアンの判断と言葉もまた正しい。
所詮は素人が掻き集めた情報から1週間で組み立てた物なのだ、一部はそうであったが全体は違っていたり、見えない場所では凄絶な駆け引きが行われていたかもしれない。
とはいえ、これらは全て、私にとっては価値の低い情報に過ぎない。本来の目的である血筋に関しての話題も逸れたので、これで良かったという事にしておこう。
軽く息を吐き、気が緩んだタイミングを見計らってか、背後からルドルフ君の鳴き声が聞こえ振り返ると、全身水浸しのまま楽しくて仕方がないといった様子の白黒の毛玉と、青い炎に包まれた黒い大型犬が揃って窓枠の向こうで飛び跳ねていた。
大きな犬が交互にジャンプして自己アピールする様子はかなり可愛らしい光景なのでずっと見ていたくなったが、流石に可哀想なので窓の外に足場を作ってやり、どうかしたのかと声を掛ける。
私の力不足で風船が割れてしまったのかと思ったが、バスカヴィル君が咥えている金と銀のツートンカラーの1ポンド硬貨と、幼児がナポリタンを食べ終えた後のようなルドルフ君の真っ赤な口周りを確認してこの子達が何を言いたいのかがはっきりと判った。
「私にくれるんですか?」
バスカヴィル君の口元に手を伸ばすと咥えていた硬貨を離し、代わりに良い事をしたから褒めて欲しいと全身でアピールを開始した。その要望に応え窓枠越しに2頭を存分に褒めると、視界に入った3本の尻尾が水滴を撒き散らしながら激しく左右に振れ始める。
手の中の硬貨は湖の側で発見した、のではなく、湖畔で発見したニフラーを狩ったのだろう。野生のニフラーが溜め込んでいるのは瓶の王冠やビー玉、ボルトやナット、ボタンやイヤリングや指輪が主な物だが、時折このようにコインを持っている子も居た。
ルドルフ君はクラップの血が入っているからか貨幣とは何かと理解しているらしい、バスカヴィル君は何とも言えないが、魔法で作られた存在なので、もしかしたら彼も理解しているのかもしれない。
沢山褒めて貰い満足したのか、2頭は私の手から離れ足場を駆け下り、風船遊びを再開する。最初の数回は僕達上手に出来てるから見ていてとでも言うように一突きする度に私に視線を送っていたが、すぐに風船を追いかける事に好奇心が全振りされた。
芝生の上を駆け回る大型犬をしばらく眺め、ふと、どうでもいい間違いに気付く。
ニッケルと真鍮で出来た1ポンド硬貨が発行されるのは2010年代なので、この時代に存在するはずがない。手の中にある硬貨を確認すると、女王の横顔や3国の国花ではなく10という数字と松明を掲げる天使の姿が輝いていた。
観光客が落としたのか、フランス帰りのイギリス人が落としたのか、隣国発行の10フラン硬貨が辿った細かい道筋は判らないが、初めてバスカヴィル君がくれたプレゼントだ。この硬貨はギモーヴさんの餌にせず大切にしまっておこう。第一、ギモーヴさんの主食は金貨であり真鍮ではない。
「金貨といえば、今年に入ってからフランス魔法界の造幣局の動きが妙なんですよね。3月に今年度の貨幣製造計画が改定されていて、先週また改定があったんです」
「別に2度や3度の改定なんて珍しくないだろ」
「改定内容が少しばかり奇妙なんです。金貨と銀貨は私の世界の計画と比較すると大規模増産しているのに、銅貨の発行枚数は然程変わらない。更に、他国ではこのような動きが見られません。その上、この事態をジョン・スミスが気に掛けていてます」
「元々この世界とお前の世界は色々な事が微妙に違うだろう。しかも世界の混沌化を厭わない狂人が計画性もなく引っ掻き回しているから、未来の情報が役に立たなくなるのは予想出来た事だと思うけど?」
「ユーリアンの仰る通り、この世界に来て5年も経過しているので理屈は判りますが、銅貨を増産しない点が気になります。非魔法界のように経済評論家か金融関係の研究員が納得出来る説明をしてくれれば胸騒ぎも収まるのですが」
「変な所で心配性を発揮するのは止めなよ、狂人のお前と1代で成り上がった変態だけが憂慮しているなら、放置しても問題ない。経済的危機に直面するような事態なら、お前が調べたブラック家傘下の実利主義者達が黙っていないだろうし、ご当主様達から直々に警告があると思うよ」
「私達をドイツに逃がそうとした理由付け、には動機が弱いですよね」
ブラフにしては出来が悪いと同意するユーリアンへ、アークタルス・ブラックに提出する為の報告書も見せようかと提案するが、不必要な混乱が生じる要因になりかねないので正誤が判明した後にしろと返された。
確かにこの子の言う通りだ。未来の知識とエイゼルにある程度の情報を貰ったとはいえ、それは完全なものではない。この時代、この場所で知り得た情報を羅列するだけで良いのなら話は別だが、今回必要になるのは分析で、しかも飛躍が激しい。
それよりも知りたい事があると口にするユーリアンに付き合った方が、今は賢明だろう。そもそも、私の勘は年相応に鈍いもので、更に追加すれば、例え何が起ころうともフランスが発行した貨幣が巡り巡ってイギリス経済に打撃を与えなければそれでいいのだ。
例え打撃を与えたとしても、それが現在ではなく10年も後の事になれば、最早何も関係のない話になる。その時期にはきっと、全てを終えた私は20世紀のイギリスの住人を辞めているだろうから。