曖昧トルマリン

graytourmaline

青唐辛子の素焼き

 本と告げられ、現代に存在するハードカバーやペーパーバックが一瞬だけ脳裏に浮かんだが、幾ら何でもそれは違うと即座にイメージを却下し、当時に存在した、且つ、現状に最も相応しい解答を急いで探し出す。
「トレジャー・バインディングでしょうか?」
「遅い。それに目が泳ぎ過ぎだ」
「頭の回転速度は上げられませんが、サングラス越しでも指摘されるのは挙動不審に過ぎますね。次からは気を付けます」
 対応する日本語がないので説明しづらいが、直訳通りの代物、宝飾装幀だ。皮や木材や布張りの装丁の上に、貴金属や宝石を飾り付けた大変仰々しい本の事である。
 大抵は福音書の装丁として作られる物で、バイエルン州立図書館に所蔵されている金の彫刻にサファイアとエメラルドと真珠が散りばめられたサンエメランのアウレウス写本辺りが有名な、あれである。
 相当高価というか一国の国王や世界的大富豪ですらそう容易に作れない物なのだが、サラザール・スリザリンならば持っていても不思議ではない、のだろうか。
 私は彼の来歴を全く知らないし、名前からもイベリア半島付近出身の人間であるとの推測以外は出来ないので、どれ程の資産を所持していたのかは一切判らない。元のデザインがどのような物なのかも知らないが、それでも、子孫達の手によってロケットにされた過程の想像は付く。
「こんな事を一々口にするのも何ですが、売り払われた他の装丁部分は既に形を変えているので探し当てられないでしょう。ただ、肝心の中身の方は? きちんと処理された羊皮紙ならば、1000年なんて僅かな年月は軽く耐えられますが」
「散逸して手掛かりなしだ。誰かが纏まった数を所持しているらしいと聞いた事があるが、少なくともオリオンとアブラクサスはスリザリンの本があるという不確かな情報と、私にとっては無価値な噂しか知らなかったな」
「アークタルス・ブラックに劣るとはいえ、腐っても栄えある純血一族の当主となる男達が知らないとなると、追跡は相当困難ですね。貴方にとって無価値であるという意味を教えていただいても宜しいですか」
「実際に見た者は居ないから噂程度のものだが、秘密の部屋と、部屋の怪物についてが書かれているそうだ。そんな事を今更知ってどうなるんだ? 情報の価値が低い事と手に入る確率が低い以上、本そのものは潔く諦めた。ボージン・アンド・バークスの帳簿でヘプジバ・スミスがロケットを所持している事が判ったから、というのもあるがな」
 秘密の部屋は既に自力で発見し、ロケットの来歴は帳簿に記載されていたから、後は営業を任されるように振る舞えば楽だったとメルヴィッドが当時の事を述懐する。
 店主の1人であるカラクタカス・バークがスリザリンのロケットを買い取った金額は10ガリオンだったらしいが、そこは当然だろう。
 ロケットの見た目は前述の通り中世初期の面影を全く残しておらず、私のような無知の爺でも近代に作られた物だとひと目で判る代物だ。18世紀のスペインの物だと説明された方がまだ説得力があり、10ガリオンは非常に妥当な額である。
 スリザリンのシンボルがあり、元々ちょっとした魔法を跳ね返すだけの機能は備えていたらしいが、それ即ちスリザリンのロケットだと思考が直結するようなら、手痛い失敗をする前に古物商の免許を返上し店を畳んだ方がいい。
 客であるメローピー・ゴーントの言葉を鵜呑みにした訳ではないだろうが、利益が出るように一応の来歴は調べたのだろう。カラクタカス・バークがどのようなルートや方法を使ったのかまでは判らないが、それを得意げにベラベラと喋る間抜けだったら、矢張り暖簾は下ろすべきだ。
 メルヴィッドもそれとなく聞き出そうとしたらしいが、どのようなコネクションを使い調べたのかまでは一切話そうとしなかったという。少しおだてられて気を良くした人間のように振る舞いながらも、真偽を見極める手段は絶対に明かそうとしない人間だったからこそ、ノクターン横丁でやって行けたのだと。尤も、客に対してその手の話をしないのは、詳細な鑑定方法を話しても相手を退屈させるだけだからという意味合いもあるらしい。
 自身の偉大さや素晴らしさを語る裏で、血が滲む程の努力をしたり地を這いずり回って泥臭い事をしている様子を絶対に語りたがらないのは、スリザリンの気質なのだろう。どれ程の苦労があったのかは、価値の判る人間だけが気付ければそれでいいらしい。
「意地っ張りさんですねえ」
「頬が緩んでいるぞ」
「悪い意味で言ってはいませんから。好きですよ、傲岸不遜に振る舞う裏で凄絶な研鑽を積んでいる方は。私には存在しない気質ですから、尊敬出来ます」
 まるでメルヴィッドのような、とまでは言わなかったが、多分考えている事は読まれているのだろう。アークタルス・ブラックにしても、レギュラス・ブラックにしてもそうだ。彼等は自分の苦労をあれこれ語りたがらない、私が強請った場合は別だが。
「他人の苦労話を聞きたがるなんて、お前は相変わらず物好きだな」
「自分自身の為ですよ。もしも私にも可能な方法だったら実践したいので」
「それで、身に付いたら能書きを垂れるんだろう。お前は努力や苦労を隠さないからな」
「この程度は簡単にこなせるのだなと勘違いされるのは困りますから。身の丈以上の仕事が回されたら確実に潰れます」
 私は馬鹿なので鋏と同じように上手く使ってくれと改めて願い出ると、当然だとばかりに鼻で笑われた。残り少ないエールをメルヴィッドと相酌して注ぎ切り、意味もなくもう一度乾杯する。
 話の流れを戻す為、そして先程言ったように自分自身の為と好奇心から、メルヴィッド達はどのようにロケットを鑑定したのかと尋ねると、まあ話してやってもいいだろうと言いたげな素振りで当時の事を語ってくれた。メルヴィッドもブラック家同様、私を甘やかしてくれるが、口に出して指摘するのは止めておく。
 トム・リドル少年はモーフィン・ゴーントから指輪を強殺する前に記憶を抜いてロケットの形状を知り、メルヴィッドはエイゼルを生み出す前に真の遺品であるコイン状の部分で放射性炭素年代測定を行い、間違いなく1000年以上前に作られた物だと確認したらしい。
「炭素、ですか」
 測定に必要となる試料の量から考えると、メルヴィッドが修得しているのはAMS法に違いない。そのような技術を持ち合わせながらグルコン酸カルシウムの合成が出来ないというのも変な話である。恐らくホテルでの台詞は嘘で、敢えて見殺しにしたのだろう。
 全く、何と頼もしい事だろうか。思わず笑みを溢しそうになった表情筋を引き締め、今は関係のない事だと思考を元の場所に戻す。
「コイン部分は彫金のように見えましたが、私の目が節穴なだけで金張りでしたか。技術自体は紀元前から存在しますが、当時ど田舎のイギリスとなると」
「いや、彫金で合っている。調べたのはコイン部分の裏だ。運が良い事に、装丁から剥がしたのではなく切り取っていたようだ、膠と皮が残っていたからな」
「ああ、成程。分解しなくてもその手の事が判る魔法は凄く便利ですね。しかし、透視や科学技術を杖の一振りで苦もなく使うメルヴィッドはもう凄いとか凄くないとか表現出来る次元を越えていますね」
「大袈裟だな。工程は複雑だが、やろうと思えば誰でも出来る技術に過ぎない。お前も精密性に関しては高い力を持っているから後で教えてやる」
「本当ですか。ありがとうございます」
「そして私に楽をさせろ」
「ええ、それはもう当然です」
 正に現代の魔法である。本当に彼は、お伽噺に出てくるような超越者としての魔法使いなのだなという言葉しか出て来ない。
 温いエールを半分程度飲み、渋くなって来たハーブティーで胃の中のアルコールを薄めながら溜息を吐いている間に、ボージン・アンド・バークスの店主が今は1人しか居ないのは自分の所為ではないとメルヴィッドがどうでもよさそうな表情で付け加える。ロケットを端金で買い取った事に逆上して殺したと思われたくないからだろう。
 大丈夫だ、判っていたと頷けば、どうだかとでも言うように皮肉げに笑われた。この子のこういう所は、相変わらず可愛らしい。
「ロケットはどうでもいいが、髪飾りの事は誰にも言うな。判っているとは思うがな」
「ええ、勿論です。貴方以外の誰に喋りません、勿論、独り言も含めて」
 メルヴィッド本体の情報は欠片も流すなという約束なのだが、いつも通り扱いが軽い。信頼してくれているのかもしれないが、敢えて訊く程、私も馬鹿ではない。
 レイブンクローが如何に馬鹿であるのかを語り、私の馬鹿さ加減を再確認し終えた。話の種も尽きたのでそろそろ退室しようかと腰を浮かすが、そこに制止の声がかかる。
「今迄の会話で引っ掛かった点がある」
「はい」
は、もしかして……いや、確実に、ホグワーツの図書室には、大量に古英語や中英語の蔵書があると思っているな?」
「ないんですか!? 中世創立の学校なのに!」
「座れ、お前がどれだけ知識不足なのか教えてやる」
 浮かびっ放しだった全ての映像を消したメルヴィッドは、エールで喉を落ち着かせてから咳払いをし、私の世界で何があったのかもう一度思い出せとゆっくり告げた。
 何があった、とは具体性に欠けた質問だが、一つ一つ思い出して行くと、成程、そう尋ねたくなる気持ちがよく判った。そして、私は馬鹿だ。
「ホグワーツ城は何度も、火災で消失している、ですね」
「正解だが、遅過ぎる。それに地上部分は全焼や崩落を度々起こしているが、地下は無傷で済んでいる場所もあるという言葉も抜けている。スラムでゴミを漁る野良犬でも、もう少し早く正答を出すぞ」
「ええ、全くです。最終決戦時に景気良く炎上していた事実は、すっかり頭から抜け落ちてなくなっていました。お手数おかけしました」
 今思えば、あの時も貴重な蔵書や魔法道具が炭や灰や塵になったのだろう。
 ダモクレス・ベルビィがキチガイと言い、メルヴィッドの学生時代から教鞭をとっているという件の飼育学の教授、名前はシルバヌス・ケトルバーンと言うそうだが、彼が巨大化させたアッシュワインダーを劇に使用して大広間が全焼し、寮や図書室まで延焼した事があるらしいので、私が思っているよりもずっと、貴重な本は少ないような気がしてきた。
 防火対策を立てていないのかと言いたくなったが、そこはあのホグワーツである。何故そのような期待をするのかと内なる自分が逆に問い掛けて来た位に信用がない。
 ホグワーツの図書室は、蔵書数ならイギリス魔法界一かもしれないが、古書の質と量は災害や戦争に万全の態勢で挑んだブラック家の書斎や書庫の方が確実に上だ。
 図書室には古英語や中英語の本や辞典も、多分、あるにはあるのだろう。しかしそれは現代の魔法使いが書いたもので、需要もないだろうから数は少ないのではないだろうか。此処から此処までの棚全てが当時から存在する貴重な本ばかりで白手袋は必需品、という状態を想像していただけに、メルヴィッドの言葉には驚きを隠せなかった。
「城の外観を見た時に妙だと思わなかったのか。マグルの城や教会の外壁は建てられた年代によって材質や工法に明確な違いが出るが、ホグワーツ城は工法が統一されて、同一の石材が使用されていただろう」
「割と最近に再建したんだなあ、としか」
「再建自体は否定しないが、何故お前の頭は妙な所で平和ボケを起こすんだ」
 肩を落とすメルヴィッドの言う通り、城や教会の建築年代は判りやすい。使われた石材の産出地や採掘方法を始め、この時代はこのような建築方式を採用していた、と多くの学者達が調べ、本にしているからだ。
 少し、データベースを漁りながら当時のおさらいをしてみよう。
 10世紀のイギリスの建築に使用されていたのはホグワーツ城の外壁に使用されているような切り出された石ではなく、ラブルと呼ばれる砕けた石だった。それを砂を混ぜた石灰や泥のモルタルで固定させ、家屋の壁や塀にしていたらしい。
 この時代のスコットランドというかイギリスには、採石場から石を取り出したり、壁を築く為に形を整えたりする石工はおらず、ついでに言えば、上等な煉瓦を作る技術もなかった。ノルマン・コンクエスト以降も、しばらくはローマ時代の廃墟から煉瓦を回収していたというので技術力は相当低いと考えていい。
 石を泥で固定しただけの、現代人の感覚からすると城とも呼べない建築物だが、castleの本来の意味は要塞や防壁で囲われた土地であり、定義は居住と防御の目的を有して防備の施された住居なので、今日と同じく岸壁の上に建てられていたのならば例えどのような小屋であっても城と呼んで差し支えないだろう。
 その後、11世紀の半ばにアングロ・サクソン人やデーン人よりも優れた建築技術を持ったノルマン人が大陸からやってきて、この土地に相応しい城を作るようになって行った。
 最初、ノルマン人は木造の城を建てていたのだが、イギリスには大陸のような大規模な森がないので資材の面から早々に方法を変えざるをえなかった。
 幸いというか、当然というか、彼等の中には石工も煉瓦職人も居たので石造りの城が建築され始めた、これが11世紀中葉から12世紀で、しかも当時は塔や天守は方形である。円形になるのは13世紀以降で、この時期に壁塔や幕壁も誕生している。
 因みに家具の配置に不便だからという理由で14世紀末には方形に戻っていた。ホグワーツは相変わらず不合理のようだ。
 ホグワーツ城の塔上部にあるネズミ返しのような胸壁はイングランドで13世紀、スコットランドでは15世紀の導入と書かれている。同心円型城郭から中庭型城郭への城自体も変化を遂げ、全体的に城という形が落ち着いたのもこの頃のようだが、内装を見る限り、それ以降もホグワーツ城は何度も改修しているようだ。しかし、面倒臭いのでゴシック、ルネサンス、バロック、ゴシック・リヴァイヴァル建築の辺りは全部省こう。
「そこを省くのか」
「もう外観だけで十分かなと思いまして。それとも、国際魔法使い機密保持法が施行された1692年まで続けますか?」
「いや、必要ない」
 17世紀末まで魔法界と非魔法界の境界は曖昧で、両者はほぼ共通の文明を歩んでいたので建築技術の発展自体は説明を続けられる。
 境界が混ざり合っていた以上、技術もまた混ざり合う。近世非魔法界の宝飾品や建築物は粗雑だが魔法界の物は精巧だった、という現象はありえない。魔法界の中で育まれた独自言語や文化を持っていないにも関わらず、そうであって欲しいと考える魔法使い至上主義者は案外多いようだが。
 兎に角、以上の事からホグワーツ魔法魔術学校は由緒ある教育機関だが、ホグワーツ城という建築物は何度も焼失して改築と増築と再建を繰り返されており、その所為で古い言語の書物は軒並みこの世から失われている。現代英語に翻訳された出版物ばかりが棚を占めているというのが現状のようだ。
 だからといって、レイブンクロー生が英語史を欠片も知らない知識不足の馬鹿である事には変わりないし、私が関連付けが出来ない多方面型馬鹿である事にも変わりはないのだが。
「あ」
「何だ」
 今の、火災と多方面型馬鹿で思い出し、繋がった。
 そういえば、必要の部屋も丸ごと焼き払われていたはずだ。
「いえ、本当に私は馬鹿だなあ、と」
 この世界に来た当時、必要の部屋は創設者の残したものだとばかり思っていたが、よく考えるとこれも変な話である。あの部屋を含む全ての機能は過去に何度も燃え尽きているのだから、創設者が残した物であるはずがない。
 そのような事を口にして、私の脳味噌が如何に残念かを語り終えると、黙って聞いてくれていたメルヴィッドがおもむろに口を開いた。
「確証はないが、その辺りは創立時からある機能だ。ホグワーツ城というのはあくまで物理的な端末に過ぎない、運用システムは別の場所に設置されている。が理解しやすい概念だと、クラウドだな」
「何故そう思うのかと、尋ねても宜しいですか」
「レイブンクローの石像だ。あれは岩石学上の大理石で作られている」
「ああ、成程。色付きの大理石ではないんでしょうね。緑や、灰色の」
「アイルランドの宝石、ゴールウェイのコネマラ大理石と、スコットランドのレドモア大理石か。仮にそれだったら私も気付かなかっただろうな。石像の色は純白と呼べる程の白だ、だから気付いた」
「レイブンクロー生の中のイギリスは、純白の結晶質石灰岩が産出する島なんですね。何処の次元の異世界ですか」
 イギリスやアイルランド国内で白い大理石を採掘するのは、日本列島でエメラルドの原石を採掘するようなものだ。石材としての大理石ならライムストーンと呼ばれる熱変性していないただの石灰岩が豊富に採れるのに、虚栄心からなのか中途半端な本物志向の所為で訳が判らなくなっている。
 そのお陰でメルヴィッドが気付けたのだから今回はいい方向に働いたのたが、これまでが余りに酷過ぎたので結果が良くても頭痛がして来た。
 使用された本物の大理石の産出国は調べたくもないが、レイブンクロー寮には地中海方面から輸入された大理石で彫られた創設者の像がある。これは事実だ。そしてその石像の機能は先程言及した通りである。此処で、今迄と全く同じ疑問が生じる。
 時代が、合わない。
 中世イギリスの田舎っぷりは先程から散々口にしたが、スコットランドのハイランドともなれば、更に輪をかけた辺境の地である。貴金属や宝石なら兎も角、当時のギリシャやイタリアから彫像出来る大きさの大理石を輸入する力があるとは到底思えない。
「恐らく、別の石材で彫られた像は当時から存在したか、髪飾りの盗難以降に作ったのだろう。娘の窃盗に気付いたあの女は、ホグワーツに元からあるシステムを転用して失せ物を見付け、他の誰かの手に渡っていないかを監視し、常に場所を捕捉出来るようにした」
「けれど、態々物理的な端末を作る理由が……いえ、作らなければならなかったのですね。転用したならば捕捉魔法は恒常発動型になりますから。手元に置く訳には行かなかった」
「そうだ。やがて当人達は死亡し、石像も何らかの要因で破壊された。想像するだけなら、判り易く火災で良いだろう」
「焼け落ちた城の復旧後、寮愛と創設者愛溢れる大変優秀なレイブンクロー生達が次代の石像を作り、生き残っていたシステムが自動で端末化した。以降は繰り返し、ですか」
「私の予想の範囲だが、必要の部屋や、一定の行動をしなければ開こうとしない迷惑な扉もその部類だろう。昔は部屋ではなく小屋か塔だった可能性もあるが、どうでもいいな」
「いえ、大変納得出来るお話でした」
 そのシステムが何処にあるのかという点が気になったが、それは自分で考えろ宿題だと言われたので頑張ろう。頭の作りが残念な人間を見るような視線が赤い目から向けられているので、多分また私は大事な何かを見落としているのだろう。
 宿題は後で片付けるとして早々に話題を戻し、データベースにあるホグワーツ城内の外観や内装を一通り眺めながら、残りのエールを飲み干すまでの肴にしよう。
「廊下というプライバシーを尊重する素晴らしい発明が成されたのは18世紀以降なので、ホグワーツ城の歴史は200年程度でしょうかね」
「水洗トイレを忘れているぞ」
「あの発明は16世紀でしょう? ジョン・ハリントンでしたっけ」
「お前は中途半端な知識をどうにかしろ、間違ってはいないが不正解だ。ハリントンが開発した水洗トイレは文字通り水が流れるだけの尿槽との直結型で、サイフォン式水槽になったのは19世紀後半、開発者はトーマス・クラッパーだ。ホグワーツ城は開発されたばかりの技術を見切り発車で採用し、配管工事で全面改築している」
「そうだったんですか、勉強になりました。となると、ホグワーツの歴史は1000年ですが、城の歴史は桁が一つ少ないですね」
 城が新しいからといって教育機関としての歴史に傷が付く訳でもないのだから、変に近世風や近代風に建てなくても良かったのではないかと思ったが、イギリス人的な変な拘りがあるのだろう。ホグワーツよりも歴史が古いブラック家は、住む場所がどうであれ血の古さに変わりはないという合理的判断から早々にそんな物を捨てて利便性を優先しているが。
 尤も、私はただの部外者なのでそうしたいのならば好きにすればいい程度の認識である。ホグワーツ城はホグワーツと同じ位に古い建築物だと臆面もなく口にするような人間が存在するならば、それはそれで結構である。関わりを持つべきではない私未満の馬鹿を判別する指標は多い方がいい。
「そう言えば、秘密の部屋の入り口が移動した原因も配管工事でしたね」
「向こうの世界の私が、それを教えるとは思わなかったな。幾らホグワーツ内のトイレを水洗化するとはいえ、女子トイレに入り口を移すとはな」
「女子トイレ、ですか?」
「……場所までは知らなかったのか」
「はい、その。そうです」
「忘れろ。そして、二度と、口に、出すな」
「ええと、それで私は何の話をしていたんでしたっけ?」
「廊下の歴史についてだが、もうエールも飲み干したなら失せろ」
「そうですね。ではメルヴィッド、おやすみなさい」
 まさかの自爆に私もメルヴィッドも狼狽を隠し切れず合意の元で時間を逆転させ、一刻も早くこの空気を意味消失させる為に胡散臭い別れの挨拶を済ませる。
 足早に出た廊下には、私が居なくなった事に気付いて部屋の前まで付いて来ていたと思われるルドルフ君がちょっと拗ねたような表情で床に伏せていた。大変可愛いが、それでも一瞬でとっ散らかった内心は未だに足の踏み場もないままである。
 白と黒の顔やお腹を撫でながら謝罪をしつつ心の中に平静を呼び戻していると、ふと、この子の瞳孔が広がっているように見えたので慌てて目を覗き込んだ。
「見間違いですかね」
 犬は飼い主に似ると言うが、病気や外傷までお揃いになる必要は何処にもない。折角エイゼルがIMHAを治療してくれたのだから、この子にはこのまま健康で居て欲しい。
 いつも通りの綺麗な茶色の瞳は健康そのものだったが、残念ながら視線に含まれる感情は不機嫌である。一緒に居たかったのに、何で部屋に入れてくれなかったんだと力強く訴えていた。昼間はこんな事はなかったのだが、虫の居所が悪いのだろう。
「ごめんなさい、メルヴィッドとちょっとした内緒話をしていたんです」
 それにルドルフ君はメルヴィッドの部屋も立ち入り禁止なのだ、と告げる前に、成犬間近の大きな子犬はしっかりと私に抱き付いて、離れ離れは嫌だと全身で訴えて来た。
 主寝室を出る時にはベッドの足元で眠っていたので起こさず来てしまったが、この肉体が夜に部屋を空ける事は滅多にない為、寂しく不安な思いをさせてしまったらしい。
 部屋に帰ったらG.G.との交換日記を書こうと思ったのだが、その前に少しだけ、この子の相手をしよう。そう思いながら、白と黒の毛玉を抱き締めた。