曖昧トルマリン

graytourmaline

鰯とシラスの親子丼

 グラスの代わりに杖を手に取り、部屋の中央に全裸の女性の映像を出現させてから軽い足取りで近付いて行く。酒の入った男が2人に、映像ではあるが全裸の女が1人。しかし、全く疚しい空気にならないのは、全裸の具合が少々過ぎていて毛と皮膚と筋肉と血管まで綺麗に剥けているからだろう。
 骨と内臓だけの標本を見るメルヴィッドの目は始め冷めていたが、私が何を説明したいのか理解したようで、エールを飲みながら軽く頷いていた。既に説明が不要な状況となっているのだが、いいから続けろと言われたので仕方がないが続けよう。
「さて、馬鹿な爺の下らないお話を始める前に確認したいのですが、グレイ・レディの傷跡は何処にありましたか? 胸元と定義される範囲は、頸部の基部から腹部の頂部までの部分を言うのですが」
「胸骨の真上、第3肋骨の辺りだな。防御創はなかった」
「素晴らしい記憶力による即答でしたね、ありがとうございます。メルヴィッド、もうこのお話は止めましょうか」
「からかって遊んでやるから続けろ」
「仕方ありませんね、そういう事なら続けます」
 傷が1箇所のみで防御創なしという事は一撃で仕留められたのだろうが、胸骨の真上にナイフを刺しただけですんなりあの世へ直行してくれるのは、嬰児か骨粗鬆症を患った非常に高齢の老人位だ。
 ペチュニア・ダーズリーが手斧で夫の粗挽きミンチ肉を作り、私がエメリーン・バンスの頭蓋破壊に電動工具を使用し、ピーター・ペティグリューの死に疑念を抱いているアークタルス・ブラックが言葉にしたように、人間の体は案外固い。特に、力の入った状態の筋肉と骨は、感情に任せてナイフで突いた位では貫通しない。
 喉のような柔らかい部分ならまだしも、重要な臓器が集中している事から骨による守りが固い胸部である。刃に致死性の猛毒が塗られていない限り、その程度の傷で若い女性があっさり死ぬとは到底考えられない。
 使用された凶器にしても妙な点があった。魔法使いとはいえ、何時終わるかも判らない長旅にナイフは必需品で頻繁に使う機会がある、これはいい。しかし、ブラッディ・バロンがその必需品に日常的に毒を塗っているとは考え難い、また、激昂して襲いかかったのなら改めて毒を塗る時間など当然ないだろう。そもそも、薬ならば兎も角、人間を一撃で仕留められるような毒を持って旅に出るだろうか。
 他の可能性として考えられるのは、今の考えとは真逆で、肉も骨も容易に断つ魔法のナイフを使用して傷が心臓まで達していた場合だ。魔法使いはこの手の物の作成に不得手なのだが、ゴブリンの手で打たれた物であれば特に細かなメンテナンスをしなくても半永久的に使う事が出来る。
 私が愛用している洋包丁もゴブリン製なので品質は保証出来る、研いだばかりの和包丁とほぼ同じ切れ味を誇りながらメンテナンスが必要ないという優れものだ。和包丁の購入が困難で砥石が容易に手に入らないイギリスでは非常に重宝しているのだが、話を戻そう。
 事件が起こった時代は中世なので技術面が若干不安だが、グリフィンドールの剣を作った最高峰の技術者が居たので多分クリア出来るはずである。
 さて、此処までは騙し騙しで来れるのだが、この後に大きな問題が出て来る。
 グレイ・レディの胸元は黒い傷跡を除けば文字通り白く透き通った肌をしており銀色の部分はなかった、つまり、出血した形跡が全くない。これはメルヴィッド自身が目撃した事なので間違いない。
 サマセット・ハウスで出会った頭を矢に貫かれたままのゴーストが存在するように、彼女の胸にナイフが刺さったままであれば、それで説明が付く。出血はナイフが抜かれた際に起こるものだからだ。しかし、出血もナイフも存在しないのならば、血液がほぼ循環していない状態で刺されたとしか考えられない。
 グレイ・レディは暴力を振るわれたと言ったらしいが、顔も胸元も腕も、露出した部分は全て防御創がなく綺麗だったという。服の下、例えば腹部を重点的に殴られた後で、とも考えられない。激昂した人間が、態々服で隠れる所ばかりを選んで攻撃を加えるのは余りにも不自然だ。頬や頭は一度ならず二度三度、殴られていなければおかしい。
 擦過傷もない事から攻撃系の呪文でふっ飛ばされた等で地面に勢い良く倒れ込んだ線は消える。神経を害する強力な麻痺系呪文を使った後にナイフで刺されたとも考えられない。
 そもそもブラッディ・バロンは、旅に出る前に、何処で凶器のナイフを手に入れたのだろうか。勿論、普通に購入した事も十分考えられるが、例えば、旅のお守りとして窮地に立たされた時に使いなさいと捜索依頼人である女性から渡された、なんて事も有り得る。
「脳筋の称号を再びくれてやる、酷い妄想だ。例えそうだとしても、ブラッディ・バロンが逆上せず娘を連れて帰って来たらどうするつもりだったんだ」
「大変幸運な事です、病身に鞭打って自分の手で殺せば宜しいかと。間に合わず死んだとしても罠ならあらかじめ仕掛けられますし」
「では、あの女に説得され依頼を諦めて帰って来た場合はどうだ?」
「そこなんですよねえ。可能性は低いですが、他にも、グレイ・レディが心変わりして手に手を取り合って愛の逃避行って線も考えられますから。所詮は老人の戯言ですよ」
 大袈裟に肩を竦めて元の位置に座り、でも、と続けた。
「私は彼女の話が真実である、という前提で進めていますから。全てが上手に沿うよう作り話をしただけです。以前翻訳した娯楽本のエピグラムにも書いてあったでしょう。人は必ず嘘をつく。犬も嘘をつく。自分も自分に嘘をつく。って」
「物理法則だけが嘘をつけない。心がないからだ。か」
「ええ、その通りです。ついでに、馬鹿も嘘を吐けません、脳味噌がないので」
「態々自己申告しなくてもの脳味噌の煮え具合は十分知っている」
 証言を一切排し、物的な証拠のみを抽出した場合、何も彼もが闇の中だ。私が馬鹿だからではなく、捜査を行うには余りにも証拠が足りない。
 グレイ・レディはクロークの下に刺し傷が1箇所あるのみで、それ以外には何の手掛かりもない。普通ならば衣服も物証に入るのだが、残念ながらゴーストは別だ。彼等の服は全くあてにならない。
 日本の幽霊を見てみれば判る、死んだ後に着せられた死に装束を律儀に着込み、うらめしや、と出て来る者すら存在する。勿論、私の祖父母や母様も、幽霊なのか神様なのか妖怪なのか判らない方々も、気分やTPOに合わせて衣装を変えている。
 今でこそ笑い話だが、昔、実家の敷地内で肝試しを行った時はそれはもう凄惨を極めたものだ。二つ返事で幽霊役を買って出てくれた本物の幽霊達が、本番当日、揃いも揃って当世具足を着込み、太刀を構え、轟々と燃える鬼火を背負い、恨めしさなんて欠片もない猿叫を発しながら藪の中から突撃して来たのだから。
 あれは別の意味で肝が試された。
 まあ、茶目っ気が過ぎる実家の話はまた今度の機会にしよう。つまり、このような事からゴーストの服は物証として扱えないと言いたかっただけだ。
「頭がおかしいお前の実家の話はこの先も永遠に触れないでおくとして、証拠として扱えるのは胸部の刺し傷だけという事か」
「そうなりますね。けれど、迷宮入りした所で誰も困らないので別にいいのではないでしょうか。大動脈を掻っ捌くとか、口内経由で延髄破壊とか、柄を胸に当てて固定し刃を地面と水平に構えたナイフごと勢いを付けて体当たりを行い肋骨の間をすり抜けて心の臓を一突きの強襲暗殺型ヤクザ方式、なんて具体的な偶然が起きるよりずっとマシです。中世なんてどの臓器が何の役割をしているのかすら判明していないのに、そんな死に方をしていたら一体何時の時代の人間だと勘繰りたくなりますよ」
 この傷がまだ胸骨の上でなく肋骨の間であれば、大量に出血しないまま即死したと告白されても納得出来た。上手く肺が傷付ければ血胸になり、窒息ショックからごく短時間で心停止に陥る。いや、駄目だ。この場合は大量の喀血が伴うので、顔の下半分は血と痰に塗れていないとおかしい。
 ゴーストは衣服を変える事が出来るが、死に際に皮膚に付着した物、特に液体を拭う事が何故か出来ない。雨の日に殺された被害者や、水死した人間の幽霊が常に濡れているのもこれに当たる。
 矢張り、グレイ・レディの話の虚偽部分を明らかにするか、着衣を全部剥いて傷口や他に外傷がないかを精査するしか真実には辿り着けないだろう。
 しかし、別に辿り着く必要もない。
 私に真実を追求する義務はないし、メルヴィッドは髪飾りの隠し場所さえ真実ならば残りの全てが虚偽でも一切問題にならないからだ。
 剥き過ぎた全裸女性を消している最中、グレイ・レディの死因は潜伏期間を経て現れる破傷風か、刃に塗られた致死性の毒か、でなければ魔法だろうとメルヴィッドが呟いた。
「どれでもお好きな物を選んで下さい。しかし、惚れた貴方に嘘を吐くという事は、口に出したら嫌われるような疚しい事があると邪推出来ますね」
「では、お前のその疚しい事を劇場型脳味噌経由で想造してみろ」
「全米が泣けるような愉快なお話を捻り出す思考は持ち合わせていませんよ?」
 アルコールに浸り始めた私の脳味噌で面白い話が作れるかはさておき、普通に考えれば、グレイ・レディとブラッディ・バロンの立場が逆だった、辺りが一番妥当だろう。
 別に、最初から全部ではない。グレイ・レディが髪飾りを盗み、ドゥラスに逃亡して、ブラッディ・バロンに発見された所までは証言通りで、その後が逆転した方がまだ状況と合うな、と思っただけだ。
 惚れた女の母親に頼まれたとはいえ自分の意志で遥か東の地にまでやって来た束縛とは無縁の男に、盗みを働き逃亡せざるを得なくなった女が嫉妬。感情的になり男を滅多刺しにして殺すもゴーストとなってしまい、何処まで逃げても自分に憑いて来る。男から逃れようとナイフで自殺を図るが知識が足りず失敗し止血、今度は魔法での自殺を図るが死に対する恐怖から女もゴーストになってしまった。
 または、ナイフに毒を塗ったが激痛に耐えられなかったか、狂言自殺をしようとして破傷風になって本当に死んでしまいゴースト化してしまった。
 どの死因にしろ女を哀れんだ男は口を噤み自戒の意味を込めて全身を鎖で縛り、精神的に老婆になった女は未だに悲劇のヒロインを気取って生きた若い男の同情を引こうと作り話をでっち上げる。
 筋は通るが、退屈なシナリオだ。口に出して言葉にすると、より面白みのない話に聞こえた。特に老婆の件が完全な事実なだけに痛いし酷い。
 ただ、日本の神様ならば若い子に惚れるなんてよくある事だと納得出来るので、苦し紛れの擁護すらしようと思わないのは、この12時間で培われたレイブンクロー出身者に対する偏見と差別が原因である。
「もう少し捻りが欲しいですよね。物理的な」
「何をどう捻るつもりだ」
「膵臓をこう、きゅっと」
「捻るな」
 胃の前で軽く両手を捻ってみるが、私のジョークは面白くないと真顔で一蹴される。
 笑いのツボが違うと冗談を言うのも難しい。ほろ酔い未満の気分でこれなのだから、シラフでも酔っ払っていても、メルヴィッドが腹を抱え爆笑出来るような冗談は一生掛かっても言えないだろう。
 紫色の液体を静かに飲み干したメルヴィッドは、ハーブティーはもういらないと残りを私に託し、再びエールで胃を満たしながら緩い笑みを浮かべた。
の妄言は聞くに堪えないが、確かに、子殺しの可能性はあるな」
 心の底から娘を想い行いを許すつもりなら、全てを許す自由に生きろとブラッディ・バロンにメッセージや手紙を託して帰郷は娘の自由意志に任せるだろう。
 どのような暮らしぶりをしているのか知りたいだけ、ならまだしも、一目会いたいから連れて帰って来いというのは余りにも自己中心的な考えで信用ならない、メルヴィッドはそう言って、更に続けた。
「何よりも、ロウェナ・レイブンクローが髪飾りを初めて冠ったシーンが他とは違っていたからな、口封じか、二度とこの島の土地を踏まないような仕掛けもしたくなるだろう」
「仕掛けですか」
「私が見た面白い記憶の話をしてやろうか、あの女は娘と同じ罪を犯した」
「ええ、何ですかそれ。先代から正式に譲り受けた訳ではないんですか」
 ローマ帝国の情報を何代か前の持ち主が宣教師から聞き、それがグレイ・レディの逃亡先を決定付けたと言っていた、その後の妙な沈黙の理由はこれなのか。てっきり、私がどの程度イタリア語を理解しているのか適当な知識を思い出していただけかと思った。
 手癖の悪い輩ばかりの寮とはダモクレス・ベルビィからも散々説明されたが、まさか創設者の性質がそのまま受け継がれていたとは。
 何というかもう、筋金入りなのだなと呆れるしかない。
「あのダイアデムは元々、島ケルトのとある氏族内で受け継がれて来たものだ。代々のアーキ・ドルイドが所有権を有していたティアラだが、次代への譲渡の際には必ず相応の祭事が行われていた」
「ロウェナ・レイブンクローには、その祭事の記憶がなかった訳ですね。あと、レイブンクロー寮が何でああなのか深く理解出来ました」
 ケルトやブリトン人に対する感情の変化は、丁度イギリスに対するそれに似ている。最初は好奇心を刺激され、大変魅力的に映るのだが、彼等の文化や歴史や価値観を調べ、知れば知る程嫌いになる。
 宣教師という事は、元の持ち主やロウェナ・レイブンクローはアイルランド系だろうか。否、それを根拠に断言するのは間違いだ。20世紀現在にカトリックが目立っているのがアイルランドというだけで、中世やそれ以前の時代はイギリスという島全体に様々な宣教師が居たはずで、いや、もういい。
 私はハッフルパフに行く、レイブンクローには行かない。だからこれ以上深く知りたくない、多分知ってしまったら今以上に嫌いになる事は目に見えている。
 嫌いになるのは別に構わないが、今日はもう疲れたので明日以降にしたい。
 しかし、メルヴィッドはまだ続けたいようで、更に何処かで読んだ言葉を口にした。
「ケルトの民俗的特徴は、『生命』『光明』『情緒』への熱望にあり、『拡充的』『冒険的』『陽気』である。『平衡』や『適度』や『忍耐』の感覚を持たず、『着実』『健全』『理性』を備えていない。成功者は乾杯され、落伍者は追出される」
「……マシュー・アーノルド」
「イエス。でもノー、後者はアイルランドの諺」
「赤いハンチング帽と左利き用のキャッチャーミット、どちらが入り用ですか。美少年という最難関は縮み薬でクリアして下さい」
「外部記憶装置なしにはさっぱり付いて行けない会話だな、とでも言うかと思ったが」
「奇跡的に知っていた上に覚えていましたが、これ以上は付いて行けません。というか、このアニメに出て来る課長こそ、知識ではなく英知を持つ人じゃないですか」
「個性や人格、資産や名声は所有するものだが、英知にそれを求めてはいけない」
「初めて聞いた言葉ではない筈なんですが、思い出せません。後で出典元を探して来ますから、ケルトも含めてこれ以上は勘弁して下さい」
「しかし英知の起源を偽る者は、それらを所有するに値しない、程度は返すと思ったが、仕方がないな。大目に見てやる」
 私の脳味噌が煮える前に引いてくれたメルヴィッドに感謝し、馬鹿げた考えや引用元を捜索する際に片っ端から引き摺り出して散らかった知識を片付ける。思考が落ち着いた所で、話を真面目な方向に戻しておこう。
「一応、これだけは尋ねておきます。ロウェナ・レイブンクローは窃盗犯ではなく、偶然髪飾りを拾っただけ、という可能性は?」
「ない。初期の持ち主に予言者が居て、以降の冠った者に対して警告を残している」
「1000年以上前のゲール語を理解出来たと会話の間にさらっと挟まないで下さい。手放しで称賛するタイミングが掴めません、取り敢えず抱き締めていいですか」
「止めろ。第一、お前にだって出来た事だろう、何故私にそう言えるんだ」
「母国語なら翻訳も通訳も出来ますが、私は当時から存在している方々から相応の指導を頂戴出来たからですよ? 古ノルド語なら兎も角、ゲール語なら全部独学なんでしょう、環境から気概まで、あらゆる面で違いますよ」
 溢れんばかりの才能と、想像を絶する努力、知識に対する執念に似た飢餓感、余りに高い矜持。それらが揃い、且つ、今も成長し続けている。
 理解していた事だが、それでも改めて言いたい。
「貴方が天才でなければ何だというのですか」
「鬼才か異才とでもしておけ。続けるぞ、予言の大まかな意味はこうだ。青い鷲がミソサザイを殺し陽の光を手に飛び立つ。ついでに、息を切らした青いローブの女が薄暗い森の中で髪飾りを冠った記憶も確認済みだ」
「当然ながら、それ以降はロウェナ・レイブンクローの記憶が続いて、次に髪飾りを冠った女性はグレイ・レディなんですよね。この場合の記憶って物証扱いになるんでしょうか、どの道、黒としか言えませんが」
 メルヴィッドの天才ぶりを褒めたいのだが、今はそんな事をしたくないと全身で物語っていたので、それはまた今度にしよう。そして当然、エイゼルとユーリアンも皆褒めなければならない。
「未だ阿呆な事を考えている顔だな。そんな余裕があるなら予言を解釈してみせろ」
「解釈が必要な物に予言としての価値はない、はエイゼルの言葉でしたか。まあ、後でならどのような曲解も詭弁も成り立ちますよね」
 青はドルイドよりも下の階級のバードが着る服の色か、レイブンクローの寮色だろうか、彼等には刺青を入れる文化があったので単純に身内を意味しているのかもしれない。
 鷲には様々な意味はあるが、ここでは単純にレイブンクローの寮のシンボルで、ミソサザイはドルイドの聖鳥で最高位であるアーキ・ドルイドの隠喩、陽の光は上昇する太陽と放射状の広がる光を象ったアーキ・ドルイドのティアラだろう。
「ドルイドに関しても一応の知識はあるようだな。ティル・ナ・ノグを知っていたから、無知ではないと思っていたが」
「非常に懐かしい単語ですね」
 メルヴィッドと出会った時に出た単語を思い出し、苦笑して腰を上げようとすると、何を帰ろうとしているのだとお叱りを受けた。
 元々はダモクレス・ベルビィ経由で知り得た髪飾りのあれこれをどう捌こうかと相談しに寄っただけなので用は既に済んだのだが、未だ何かあっただろうか。
「散々レイブンクローの低能さを詰ったんだ。次は馬鹿の最低ラインを行き来しているお前の番だろう」
「それもそうですね」
 馬鹿の定義が元に戻り、私が如何に馬鹿者であるのか指摘してくれるというのなら喜んで拝聴しよう。そうする事で、メルヴィッドの馬鹿に関するラインがより明瞭で強固になるのは良い事だ。
「今の髪飾りは私だけの形だと言ったな」
「言いましたね」
 それで、他に疑問はないのかと問われ、薄っぺらい知識しかない私はないと答えたのだ。私が見落とし、話が中断するからと横に置かれたのは一体なんだったのだろうか。
 今度はメルヴィッドが杖を手に取り、宙に何かを表示する。金や銀の台座に宝飾品がこれでもかと飾られたアクセサリーばかりで、中には見覚えのある有名な装飾品も存在する。
 黒く丸い石が嵌め込まれた円盤型のブローチや、細長い台座に赤い石が惜しげもなく飾られている留針の付いたブローチはV&A美術館で見た。他にも、ロンバルディアの鉄王冠やタラ・ブローチなら知ってる。
 と、そこで気が付いた。ついでに、メルヴィッドが私の何を馬鹿にしたいのかも悟った。
「あの髪飾り、どう考えても中世に作られていませんね」
「底知れない馬鹿共の所為で見事に思惑が外れたがな。しかしは、意外と宝飾品の知識は少ないんだな。石の産出地は知っていたのに」
「土地の性質は農業や漁業、畜産業と深く関連していますから、料理に使う材料の産地を知ろうとするとおまけで付いて来ます。一応宝飾関係の教育も受けましたが、真珠、珊瑚、翡翠、瑪瑙、水晶辺りの目利き程度なので、こちらでは役に立ちませんね」
 そもそも日本は、ヨーロッパのように加工した石で人間を着飾る文化が根付いていない。古代には存在したが、すぐに廃れてしまった。中世初期は布を組み合わせた色彩や香りが重要視され、武家の世になってからは武具が芸術性を大爆発させ、江戸時代には根付や櫛や簪などはあったが、ヨーロッパのそれとは方向性が全く異なっている。
 映像の中でも一際目立つ、日本人のセンスでは絶対に表現出来ない王冠は、神聖ローマ皇帝の王冠だそうだ。ドン引きする程派手である。
「ロンバルディアの鉄王冠は知っているのか」
「聖遺物に興味はありませんが、白鯨は読んだ事があってその縁で調べた事があります。タラ・ブローチも知っていたので、ちゃんと知識を利用すべきでしたね。これだから、私は馬鹿なんです」
 宙に浮く装飾品の映像には幾つかの共通点が見られる。
 中世前期か、それより前に作られており、必ず何処かしらに宝石が嵌っている。そして、その宝石の形こそが何よりも重要だった。
 これらの宝石は、全て面が存在しない。どの宝石も石の形を大袈裟には変えずそのまま研磨されたかのように、柔らかく丸みを帯び、輝いている。
「現代英語も、ブリリアントカットの宝石も、10世紀に存在している訳がないですよね」
「ラウンド、オーバル、マーキス、全て20世紀以降に誕生したカッティング方法だ。台座に隠れてしまうパビリオン側が浅いだろう。これも近代以降の特徴だ」
「その知識もホグワーツで?」
は十分馬鹿だから演技をする必要はないんだが?」
「失礼しました。ボージン・アンド・バークスで習った事ですか」
「そうだ。店で客の相手をするだけでは獲物は手に入らない、誰が何を持っていて真偽はどうなのか自分だけで判断出来る力が必要だった。お前がメアリー・ガードナーを見付けたように、私も散々泥臭い事をやって来た」
 創設者の遺品を自力で探す以上、宝飾品や骨董品の知識はどれだけ持っていても多過ぎるという事はない。頭の中に入れた情報は一切の重さもなく、腐らず、持ち運びも楽だとメルヴィッドが笑う。だから、私もそうなれと無茶な要求をする笑みだった。
 知識を腐らせてばかりいる私にそれは無理なので、不出来な人間なりに、今習ったばかりの事を参考に更なる飛躍をさせてみよう。
「となると、エイゼルの本体であるロケットのオリジナル部分は、コイン状に囲まれた蛇の部分だけで、S字に嵌め込まれた宝石すらも後世の人間が加えた物だったんですね。小さな石ですが、あれにもブリリアントカットが使われていましたから」
「ロケット全体が遺品でない事は気付いていたのか」
「メルヴィッド、私の頭の中はこの世の名医ですら手の施しようがない程に萎び腐っています。ロケットに書かれた文字はユルバン・グランディエの残した契約書に似ているから略綴りで鏡文字のラテン語かもしれないという非常に残念な想像力しか持ち合わせていない愚か者です。けれど、ホロスコープの歴史なら一般的な魔法使いと同じ位には知っていますし、本体をプレートで覆う技術が中世初期から存在したと無邪気に信じ込める程純真でもありません。蝶番も当時の技術からするとオーバーテクノロジーで、あんな繊細な物が1000年持ち堪えるとは思えません」
 諸説はあるが、感受点、つまり惑星記号が15世紀頃に登場し、16世紀から17世紀にかけては錬金術でも使用された程度の知識は脳内にある。ロケットに書かれていたのは改造されたものだが、それでも500年もの誤差が生まれるはずがない。
 不備は多いものの、一応はそれぞれの時代に発達した言語も大まかには把握している。寧ろ、古英語から現代英語までの流れを知っているのに、こちらに関しては全く知らないと決め付けられているとは思わなかった。その他のオーバーテクノロジーも同様だ。
 今迄、あれが贋物であると決して口にしなかったのは、メルヴィッドの鑑定眼を信頼していたからである。実際に、宝石のカッティングを知らない私の鑑定眼には色々な問題があった訳だが。
 判っている、見極めが出来ていないと思われても仕方がない。悪いのはメルヴィッドではなく私だ。普段から頭の悪い発言を控え、様々な知識を仕入れて彼等の役に立てるよう使っていたならば、こんな評価はされない。
「……ああ、そうか。色々と足りないと思ったが、はロケットを開く事が出来なかったな、忘れていた」
「そうなんですか?」
「開けようとすら思わなかったのか」
「メルヴィッドから渡された贋物が開かなかったので、本物の確認は別にいいかなと」
「お前らしいリスク管理の甘さだな。あれはパーセルタングでないと開けられないが、特別に見せてやろう」
 宙を漂っていたブローチや王冠を消し、ロケットの内部を映像で見せてくれたメルヴィッドの親切さに感謝しようとして、思わず目を瞠る。
 一体、これは何だ。
「メルヴィッド、私の見間違いでしょうか。ロケットの内部に絹が貼られていて、写真を保護する為のガラスまで嵌め込まれているように見えるのですが」
 これの、何処が、10世紀の物なのか。
「私以外に平然と力強く無知を晒さないよう、一応言っておく。アルフレッド・ジュエルと呼ばれている装飾品が9世紀後半に作られた事実を覚えておけ」
 知識不足からの恥晒しを案じた心優しいメルヴィッドが涙型の金細工の映像をこちらに寄越してくれたので確認すると、そこには確かに板状に研磨された分厚い水晶で覆われた七宝焼が存在していた。データベースを確認すると、そちらにもきちんと記載されている。非魔法界で発掘された物だ。
 まさか、アルフレッド大王の時代にこのような装飾品が存在しているとは思わなかった。覆っている物体は不純物のない天然物の水晶を研磨した加工品だが、イギリス国内で見付かる歪みのない板状のガラスが嵌め込まれている装飾品は、総じて近世以降に作られた物と断言するのは間違いであると今初めて知る事が出来た。
 しかも、装飾に使用されている言語は古英語である。この頃の宝飾品は国を問わず必ずラテン語を使っていたというのは誤った先入観であったらしい。これは二重に恥ずかしい。
「他にも研磨された水晶が嵌められていたとされる宝飾品は数多くある。完全に形を留めているこれは例外中の例外だ、知っていて損はない」
「ですね。無知を晒して申し訳ありませんでした」
「今回は謝罪の必要はないだろう。ロケットに使用されているのは水晶ではなく、産業革命以降に作られたマグル製の大量生産品だ。知識は不足していたが、指摘に間違いはないし目利きも正しい。絹と写真も含めてな」
 絹の製法がヨーロッパに入ったのは古代中期だが、実際に生産が着手されたのはそれから何百年も後の話で、中世初期は全面的に中国からの輸入に頼っている。当然、そのような品は栄華を極めた国の、更に上流階級の人間しか手に出来なかった。ノルマン・コンクエスト以前の田舎国家の辺境で絹織物が手に入るはずもなく、また、仮に手に入ったとしても動物繊維の短所である変色や虫食い等の劣化が見られないのもおかしい。
 写真に関しては、最早語る必要すらない。
 中世らしさが見当たらない近代化したロケット内部の映像を消したメルヴィッドは、馬鹿とはいえこの程度の知識はないと話にならないと満足そうに頷き、更に追加の映像を出して装飾品の知識まで披露してくれた。
「向かって右の司教と女王とラテン語が刻印された金のロケットは、アルフレッド・ジュエルと同じように水晶で蓋がされていたらしい。左の金とエナメルで出来たロケットはオーガスタス・ウォラストン・フランクスが発見した名もない品だ。見ての通り、古代末期から中世初期に作られたロケットの技術はこの程度だ」
 現代の技術に全く引けを取らない、とは言えないロケットの隣にスリザリンのロケットの映像を更に並べ比較すると違いがよく判る。
 前者は輪郭が柔らかく少々不格好で人の手によって作られた一点物であるとすぐに判断出来るが、後者は文字や宝石の配置が計算された企業の製品じみて見えた。
 贋物と思われないよう意識し過ぎたからなのか、こうしてメルヴィッドに改めて言われてみると文字やカッティング以前に、中世初期の装飾品らしさがない。
 尤も、らしさや説得力などなくて当然なのだが。
が指摘した通り、ロケット本体は後世の物で、蓋の部分にある円に囲まれた蛇だけがサラザール・スリザリンの時代から受け継がれて来た物だ。それ以外は全て子孫が売り払い、継ぎ足して来たガラクタに過ぎない」
「継ぎ足すは判りますが、売り払う、ですか?」
 元々は金のコインか、一回り小さなペンダントだとばかり思い込んでいた私に、そうではないとメルヴィッドが創設者の子孫の顔で断言し、続けた。
「サラザール・スリザリンの遺品は、ロケットではなく、本だ」