曖昧トルマリン

graytourmaline

南瓜と雁擬きの田舎煮

 久し振りに訪れたメルヴィッドの部屋の窓から見えた景色は色彩以外、昼間と然程代わり映えしなかった。霧と雲は夜になっても相変わらず居座り続けているようで、肌寒い真夏の闇夜を不気味に演出している。
 霧の中にぼんやりと浮かぶバスカヴィル君の炎を見つけたが、その色もすぐに、魔法で呼び寄せられた闇によって遮られた。他に幾重もの窃視や防音対策をしている気配が読み取れたが、それは正しい。下らない内容かもしれないが、これから話す事を他の誰かに聞かれるのは宜しくない、この家を監視しているだろうブラック家は勿論、例え、エイゼルやユーリアンであってもだ。
 夜食は食べ終えたのだが手持ち無沙汰になるので、大きなガラスのティーポットに淹れたマロウティーを持ち込み、陰鬱なブルーに湯の色が染まるまでは例のダモクレス・ベルビィとの会話を報告する。秒針が進むにつれて徐々に部屋の空気が重くなっているのは、きっと気の所為ではないだろう。
 流石に自宅で交わされた会話を盗聴する程暇ではないらしく、この件は初耳らしい。全てを話し終える頃には、メルヴィッドの顔が能面のような無表情になっていた。
 正直、同情を禁じ得ない。
「これ、どうします?」
「どうしようもないだろう。馬鹿に付ける薬がこの世に存在するならば話は別だが、現状のまま勘違いさせておくしか方法がない」
 ベッドに腰掛けて項垂れ、特大の溜息を吐く可哀想なメルヴィッドに抽出の終わった青いハーブティーを差し出すと、何の躊躇いなくレモンシロップをカップに入れて、ピンク色に変化した湯に黙って口を付けた。私も同じように自分のカップにシロップを注ぎ、甘く温かい液体で荒んだ胃を慰める。
 再度、不景気極まりない溜息を吐いているメルヴィッドを見て、ああ、普段は私が原因でこんな表情をさせているのかと大変申し訳なくなり、今更ながら深く反省する。
 馬鹿という生き物は、本当に馬鹿なのだ。
「お前を下回る馬鹿と無能が、この世には居るんだな」
「ダモクレス・ベルビィのような能力全振りの特化型も居るので全ての馬鹿が無能とは言えませんが、想定していたよりも大量に存在するようですね」
「パブリック・スクールかグラマー・スクールへ入学出来るような穢れた血は、誰一人としてレイブンクローに行かなかったのか」
「かもしれません。行ったとしても、寮愛がないと暴行を受けたか、知識のない馬鹿に正論をからかわれ口を噤んだ、という可能性も考えられますが」
「石が流れて木の葉が沈む、か。あの寮ならありえる話だ」
 成績の為に他人を蹴落とす事に容赦がないのではなく、自分の主張や気分を相手に押し付け認めさせる為ならば正誤は一切関係なく、物事を誇張し、道理を曲げ、嘘を吐き、自己矛盾すらも厭わない奴は確かに居たとメルヴィッドは言う。
 なんというか、密入国して不法滞在している国で権利を主張する自称移民の犯罪者に似た気持ち悪さがある。規模は大きく違うが、根底の精神構造は多分同じだろう。
「それにしても、どこまで頭が悪いんだ。ホグワーツでは魔法史が入学直後からの必修科目で、古代ルーン語と称した古西ノルド語の選択授業も用意されているはずなんだが」
「それらの授業は昼寝の時間だと思っているのでしょう。こちらに来た時に魔法史の授業風景を見学しましたが仮眠室のようでしたよ。ちゃんとした知識が備わらないまま、英語は長い歴史の中で独立し続けた特別な言語だと脳内で捏造した歴史を信じているのでは? 何故そのような妄想に至るのかは謎ですけれど」
「明確な実績がない故に、虚言も妄言も構う事なく何としてでも自分達こそが最も優れた寮生だと主張したいのだろう。自分達が属する存在は全て特別だと思っていても驚かなくなりそうだ。、お前は予定通りハッフルパフに行けるよう全力を尽くせ。私からもブラック家経由で働きかけるが、最終決定権は組分け帽子にある。なんとしても説得しろ」
「はい、そのつもりです。一応、ジョン・スミスにもお手紙を出したので、ブラック家と魔法省が動くならば理事も何人か動くと思います。あとは私の口が頼りですが」
「不安になるから一番頼りになりそうもないものを最後に持ってくるな。しかし、ここまで碌でもない寮とはな」
「魔法はそこそこ扱えるのでしょう? だからきっと、昔の貴方の目には真っ当な賢い寮に映ったんですよ。エイゼルの言った通り、授業で習う魔法のお勉強が出来るだけの」
「教科書を読み杖を振っただけで自分達はどの寮よりも賢しいと自称する連中か。知之為知之、不知為不知。自分が無知と知らない奴は手に負えないな」
「ええ、本当に」
 ホグワーツの創設は、10世紀末の西暦993年である。
 知恵遅れの馬鹿でもなければ、Wit beyond measure is man's greatest treasure. という英文が、古英語全盛期に当たる10世紀の文章であるなんて発想には絶対に至らない。
 isやmanのように、古英語から綴りが変化しないまま現代まで存在している単語も一応ある。しかし、脚韻を踏む為に入れられたと思われるmeasureとtreasureは双方共にフランス経由でイギリスへ輸入されたノルマン・コンクエスト以降の単語で、語源となる古英語は存在しない。何気なく混ざっているアポストロフィに至っては15世紀末にフランスで発明されたものであり、イギリスに導入されたのは16世紀以降、普遍的な扱いとして受け入れられたのは19世紀半ばである。
 と言うか、古英語と現代英語は文法からして大きく異なる。古英語、そしてホグワーツで習う古ノルド語の文法は、その歴史から見ても判るように現代ドイツ語の方が近い。
 髪飾りの英文は、単語と文法から推測すると現代か、どれだけ甘く見積もっても近世に刻まれたとしか考えられない。
 中世生まれの創設者が、こんな言葉を残せるはずがない。寧ろ、知識階級を気取るならば何故ラテン語で残さなかったと使用言語そのものから既に批判対象にしてもいい位だ。
 ロウェナ・レイブンクローが1000年後の言語を予測し髪飾りに刻み込んだ線は、当然無理がある。そのような超人的な能力を秘めた魔女ならば、何故起こり得る未来の対策を立てなかったとごく普通の疑問が浮かぶ。
 髪飾りが実の娘に盗まれ、時を越えて若きヴォルデモートの手に落ち分霊箱ホークラックスとなり、現在はこうしてメルヴィッドという一個人として存在している時点で、彼女の能力はその程度という証明になっている。
 過去や未来の寮生の言動を含め、至る所でレイブンクローの創設者らしさが表れているので納得は出来るのだが、それだけだ。目に余る現状が、未来の言語を予測出来るような頭脳の所有を否定している。
 娘も娘で、美しい異性の甘言に騙されて隠し場所を喋るような色々と軽い女なので言語の進化を予測出来る優秀な頭脳を持っていたとは考えられない。第一、そのような頭脳があるのならば、親の私物など盗まないだろう。
 となれば、残りはとても簡単な消去法である。
 この言葉を髪飾りに刻んだのは、現代英語が確立して久しい20世紀生まれの人間であるトム・リドル青年しかありえない。
 本物を目にした事がある私とは違い、手掛かりが寮にある石像だけなので、文章を残した人間がトム・リドル青年である事を掴めないのは、凡人ならば仕方がない。
 しかしせめて、明智軍記で創作された明智光秀の「敵は本能寺にあり」と同程度の、後世の人間が作り出した文章であると判断する力は、ごく一般的な知恵を持った人間として最低限必要だろう。
 矢張り、レイブンクロー生はどうしようもない馬鹿だ。ダモクレス・ベルビィのような専門知識以外は壊滅的だと自覚している人間も居るので全てとは言わないが、話を聞く限り彼は寮生の中でもかなり特殊な部類なので参考にならない。
 大多数が私以下という、想像を絶するレベルの馬鹿と無知を掛け合わせた自称天才達が存在しているという現実に頭が痛くなった。
「ああでも、私も大層馬鹿なので、判らない箇所が沢山あります。メルヴィッドのお手を煩わせる事になりますが」
「今すぐ言え。少なくとも脳味噌の所在が確認出来る程度には頭の弱い言葉を聞かないと、私の中にある馬鹿の定義が崩壊する」
「ありがとうございます」
 取り敢えず私が知りたいのは、言葉の意味である。
 これがトム・リドルの言葉である事はメルヴィッドも否定しなかったのだが、そうすると新たな、否、私が薄汚れた髪飾りを磨いていた時からずっと引き摺りつつ、口に出す程ではないと無視した挙句、今迄忘れていた疑問が蘇る。
「貴方がこのような人類賛歌と受け取れる文章を残す意味が判らなくて。アナグラムではないようなので、何らかの単語が皮肉に取れる隠語、なんですよね?」
「そこまで判っているのに調べなかったのか。相変わらず使えない男だ、馬鹿で低能で無知としか思えないな」
「そうですね。私は馬鹿で低能で無知で真空脳の役に立たない爺ですから、メルヴィッドの評価はとても正確だと思います」
 陰りを見せていた顔に僅かだが笑顔が戻り、いつもの美しい表情に近付いた。矢張りこの子達は憂いを帯びた顔で肩を落とし悩んでいる姿よりも、自信に満ち溢れ傲岸不遜に笑っている姿の方が魅力的である。
「馬鹿なはウィリアム・シェイクスピアも知らないようだな」
「観劇の経験はありません。喜劇を何冊か読んだ程度ですので、メルヴィッドの言う通り全く知らないと言える知識量ですね」
「デカメロンはどうだ」
「ジョヴァンニ・ボッカッチョの? 原書は全くですが、英訳本なら読んだ事があります。ポルノ表現が多いですけれど、朝に会った方が夕には亡くなる暗い時代に書かれた物語だと思うと、そのような開放的な表現も含めて好きになりますよね」
「そうか。では、シェイクスピアの喜劇、ヴェローナの二紳士は?」
「初耳です、そんな戯曲を書いていた事すら知りません」
「当然、そうだろうな」
 知っていたら答えに辿り付いたはずだとメルヴィッドは言い、軽く杖を振って分厚いアンティークの本を手元に出現させる。
 あの美しい装丁には見覚えがあった。この屋敷を掃除した時に見た、シェイクスピア全集だっただろうか。否、この流れなら確実にその本であろう。
 流石というか何というか、シェイクスピアのような有名な作品ならば余す事なく頭の中に入っているらしい。メルヴィッドは私を待たせる事なく目的のページを見付け、その部分に目を通すように言って来た。
「冒頭から女性の長所が乳搾りであるとはまた、あからさまなポルノ・ジョークと言うか、精液をミルクのような白い液体にしたがる男の発想は近代の頃から変わらないと言うべきなのか……ああ成程、この台詞ですか。"'Item: She hath more hair than wit'-"」
「次の "the hair that covers the wit is more than the wit" も含めておけ」
 Wit beyond measure is man's greatest treasure. の後半部分に当たる人類の至宝は特に変わらない。意味が変わるのは前半の、ダモクレス・ベルビィが私の解釈は気障ったらしいと評した部分である。
 機知や知恵と捉えていたwitが、性的な隠語だったのだ。
 直訳すると、測定を超えた精液、または外陰部は人類の至宝である、となる。
 もう少し噛み砕いて判り易くするのならば、お盛んな種馬や肥大化した生殖器。敢えて下品に解釈をするのなら、ヤリチンとヤリマン。それこそが人間の持つ最も偉大な宝であるとメルヴィッドというか、若き日のトム・リドル青年は残したのだ。
 どう捉えても黒い方の皮肉である。黒ではなくショッキングピンクかもしれないが、この際、黒もピンクも同じ色だ。笑えるかどうかは個人の感性によるが、私はユーモアを解さない日本人なので残念ながら面白いとは思えなかった。
 先程の脚本を性的な意味を含めずに訳すならば、その一、知恵よりも髪の毛が多い、になり、メルヴィッドが口にした台詞も、知恵、つまり頭蓋を覆っている髪は頭蓋よりも多い、となる。
 しかし、性的な意味を含めて訳すと、その一、生殖器より陰毛が多く、となり、まあ、後は態々訳すまでもない。
 シェイクスピアの戯曲は近代英語で書かれているので所々翻訳で躓き、こんな事を一々考えないと理解出来ないから、私の頭はブリティッシュ・ジョークで笑えないのだ。別に現代英語でも一緒の反応をするだろうが、今はどうでもいい。
 メルヴィッドが、国も時代も違えど同じようなポルノ・ジョークが頻出するデカメロンを知っているのかと訊ねた理由はこれか。
 確かに、シェイクスピアが活躍した時代にはwitとwhiteの発音は酷似していて、白≒精液の連想ゲームは当時から存在していたとか、外陰部の湾曲表現や言葉遊びにも使われていたらしい、などと口に出して説明はしたくはないだろう。メルヴィッドは下ネタを言って喜ぶような子ではない。
 しかしまさか直球で豪速球の性的隠語だとは思わなかった。witがポルノ・ジョークに使用されているのは一応知っていたが、メルヴィッドが残すならばもっと知的な意味を秘めていると思い込んでいたので正解が遠退いていた。
「よく判りました。ついでにもう1つ、別の疑問も解消しました」
「何だ?」
「寮の石像と髪飾り本体が何らかの魔法で結ばれていて、本体に手を加えた場合は石像の髪飾りも変化する事を知っていたのか、という事です」
 メルヴィッドが何処かに隠している髪飾り本体と、レイブンクロー寮の大理石像。両者には共に、同じ現代英語が刻まれている。
 当時苦学生だったメルヴィッドに大理石像を購入する金銭的余力などあるはずがなく、また、出身寮でもない場所への寄付も考えられない。石像を作り、設置したのは明らかに第三者なのだが、問題になるのは前後関係である。
 ここで大理石像とは何だと返されたらこの話題を打ち切り、今から石像に関する情報を全力で漁りに行かなければならなくなるが、幸い、石像はメルヴィッドの時代から存在していたようだった。
「知っているに決まっているだろう。でなければ、恋愛脳を拗らせた性的欲求不満のゴーストに向けて下劣な言葉を送ってやった意味がなくなる。態々アルバニアにまで行って見付けたんだ、少し位は浮かれてもいいとは思わないか?」
「アルバニアですか? 結構、遠いですね」
 札幌-那覇間の直線距離と大体同じだが、更に足を伸ばせば西アジアのトルコなので、そう思うとヨーロッパは然程広くないとも思える。ドイツと日本の面積に大きな開きがないので文字の上では広く感じてしまうが、よくよく考えてみると日本は想像しているよりもずっと縦長なのだ。
 とはいえ、東西の幅が150kmに対して、南北の長さが4000kmという世界に誇る縦長共和国のチリ程ではないが。あの国は北欧の北に位置するバレンツ海からヨーロッパを串刺しにして地中海まで貫通する長さがあるので別格だ。
「当時の貴方がどのような手段で移動したのかは判りませんが、確かにこの距離は浮かれて髪飾りにメッセージを刻んでも仕方がありませんね」
 しかし何よりも、石像の髪飾りの変化にダンブルドアが気付かなかったのは幸いである。気付いた所で既に手遅れなのだが、ヒントに繋がるような行動は正直危険だった。
 更に付け加えるならば、筆跡も微妙に危険である。彫った物と書いた物で違いは出るし、本人も意識して癖を消そうと試みているようだが、私はメルヴィッドの文字を見慣れているので小細工程度では彼のものであると判ってしまう。
 例えば、寮の石像の英文が現代英語である事に疑問を抱き、勘が働いたか暇潰しか美しい書体に興味を持ったかで図書室へ赴き、過去の貸し出し履歴を漁ってトム・リドルの筆跡だと調べ上げるような、奇特で優秀で情熱の使い道を誤ったレイブンクロー生らしからぬレイブンクロー生が、もしかしたら1人くらい居るかもしれない。
 そして、その1人が誰かに自分の発見を話し、少しずつ話が広がり、遂には誰もが知る噂話になってしまうかもしれない。
 とは言うものの、所詮は、たらればの話である。
 今も誰かが気付いている様子はなく、私の時代でも誰も気付かなかったので、髪飾り本体に迫る危険度は低く見積もっても大丈夫だろう。
 妙に勘の良いダンブルドアが気付かないのは、当時は校長ではなく単なる教職員だった事も関係しているかもしれないが、まあ、50年も前に起こってしまった事なのだ。危ない橋を渡り切ったのなら、今更声に出してあれこれ言う必要はない。
 やってしまったものは仕方がない、私自身も目を瞑って貰っているやらかしは多々あるのだ。それに、今から石像に手を加えに行く方がダンブルドアやアークタルス・ブラック辺りに勘付かれそうで、逆に危険度が上がる。
「懐かしい話だ、アルバニアには徒歩で行ったな」
「え?」
 思考を自分の内側に飛ばしていた所為でメルヴィッドが何を言っているのか判らなかったが、言葉の意味を理解しても矢張り状況が判らなかった。
 この子は今、何と言ったのだろうか。
「冗談だ、こんな判り易い嘘を真に受けるな馬鹿が。姿くらましと箒と、マグルの交通機関を使い分けて行った以外に考えられるか?」
「ああ、そうですね。よく考えてみなくても、メルヴィッドが私のような残念な発想に至った挙句に実行に移す訳がありませんでした」
「それ以前に、お前はイギリスが島国で、私はナザレのイエスのようなストリートパフォーマーではなく魔法使いである事を思い出せ」
 暴力教会を隠れ蓑にするラングレーの修道女曰く、ガリラヤの湖上を歩く希代のトリックスターも、メルヴィッドにとっては唯の大道芸人と変わりないらしい。
 思考がだだ漏れなのか、キューバ産のバカルディ・ゴールドでも取って来るかと尋ねられたが、多分正しい漢字は盗って来るかだろう。確実にエイゼルの私物だ。
「ラム酒は得意ではないので遠慮させていただきます」
「菓子になら躊躇なく使う癖に、寝言だけは立派だな。まあいい、それよりも向こうの世界の私からは、遺品探しの過程を聞かなかったようだが」
「そうですね」
 話す必要がなかったのか、話したくなかったのかは判らないが、分霊箱ホークラックスの器探しの旅はかなり多くの行程を端折った説明をされたので知識がないと答えれば、メルヴィッドが悪い笑みを浮かべ、いい機会だから過去の苦労話を聞けと杖を振った。
 予想していた事ではあるが、今夜の話は長くなりそうだった。