曖昧トルマリン

graytourmaline

牛ヒレ肉のロースト

「アークタルス・ブラック及び、リヒャルト・ドール。ご同行願おう」
 更に重なる破裂音の後、先達と同じく場を弁えないローブを纏った、法執行部隊の捜査員らしき男が2名、姿を現す。
 ステレオタイプの人種が揃っていた部屋の中に於いて新たに現れた彼等は異色で、顔立ちは明らかに東欧系と中央アジア系だ。しかし2人の間で僅かに交された言葉は訛りのない、お手本のように流暢な英語だったので、イギリスというよりもロンドンではさして珍しくもない移民の2世や3世なのだろう。
 秘密情報部的な立ち位置の闇祓いが来なかったのは幸いだ。派遣されて来た捜査員は挙動に妙な焦りが見えて如何にも使えなさそうな立ち振舞いをしているので、揃った面子の割には舐められてるとも言えるが。
 魔法大臣直々のお出ましなので、或いは、表向きの手柄は警察系の彼等に渡し、背後で準備を着々と行っているのか。否、間違いなく行っている。
 様々な難点を抱え込んではいるものの、一応、闇祓いは実利主義者で構成された組織だ。
 信義よりも効果を重んじなければ成り立たない職業である為、彼等は組織として名を表に出す事はあっても、そこに所属する個人は露出させない。どうしても必要な場合に部長や局長級の魔法使いが顔と名前を出す程度だ。
 21世紀から深刻な人手不足に陥り、新聞広告や求人誌で人員を募集するようになったSISこと秘密情報部、判り易い通り名でいえばMI6なら兎も角、現在に至るまで闇祓いにプロパガンダは必要ない。そもそも、政府が公的に存在を認めたMI6も流石に現役調査員の個人情報は公開していない。イアン・フレミングも、サマセット・モームも、H・G・ウェルズも所属を公表したのは引退後だ。
 それと同様に、現場の人間は個人情報を吹聴し弱点を晒すと任務に支障が出るので、闇祓いである事を徹底的に伏せている魔法使いが大多数だ。大多数と述べたように、勿論、例外も存在する。エリートとはいえ頭数は多い、任務遂行能力や自己防衛意識、他者への配慮や職業倫理面に首を傾げざるをえない人間が紛れ込んでしまうのは仕方がない。非魔法界ならば早急に相応の処分を下される案件だが、ここは魔法界だ。
 ただし、そのような闇祓いは必ず個人名や二つ名が世に知れ渡っているので、自分自身の身を守る為に早期に発見し距離を置くのは容易だ。
 任務の名の下に隠し切れない数の同族を殺した英雄、個人の痕跡すら揉み消せない知能と実務能力足らずの底辺、双方を併発した人殺しのクズ。彼等は大抵この3点、正確には2点に当て嵌まる。どれもこれも漏れなく恨みを買うラインナップで知人にすらなりたくない、実利主義に反する思考も意味不明だ。
 何よりも名誉を重んじる騎士や軍人ならば理解出来る。交渉の際に手札として箔付きを利用し報酬を得る傭兵でも納得出来る。けれども、イギリス魔法界の秘密情報部に当たる闇祓いが個人名を知らしめる故に得る利益とは一体何なのだろうか、何を目的としてそのような行為に及んでいたのだろうか。
 マッドアイの二つ名を轟かせ、目印になるだろう身体の傷を治療せず、あまりにも明瞭に過ぎる特徴の拡散を放置していたアラスター・ムーディという魔法使いが思い起こされる。
 彼は未だ現役だが数年後には引退し、出所した犯罪者や彼等の支持者の報復に過剰警戒して怯えながら、故郷であるグラスゴーの片隅で過ごすようになる。付けられた箔や売れた名を利用し危機意識向上の為に堂々と講演でもしているのならまだ判るが、今更平穏な余生を求めても滑稽なだけだろうに。アルコールに手を出し不安を誤魔化そうとする辺りは、紛れもなくグラスゴー住人のステレオタイプなのだが。
 しかし、これ以上は今は関係ない話だ。何を考えて二つ名の流布を放置したのか、説明出来るのは本人だけなのだ。そして私は、その当人達と接触する気は今の所、毛頭ない。
 それよりも、逸れた思考を戻そう。
「ご同行願おうとの言葉が聞こえなかったのかね」
 効果よりも信義を重んじている捜査員を従え、邪魔者を押し退けつつ最前線に立ち、威厳を込めて言い放ったバーテミウス・クラウチ・シニアの言葉はしかし、私の心にすら衝撃を与えるようなものではなかった。
 アークタルス・ブラックは罪状が不明瞭だと突っ撥ね、ドール伯爵は外交特権である身体の不可侵から明確に拒否をする。当然と言えば、当然の反応だ。
 両手は円卓の上、杖はまだ持つべきではない。国家権力に突入された状況で銃や刃物に手を伸ばす事と同じ意味になる。私は現状から沈黙を選択する程度には馬鹿だが、相手に都合の良い口実を何もかもくれてやる程の大馬鹿者ではない。
 今回、外見上は最も年少である私自身が何かを発言しなければならない可能性は少ないだろう。アークタルス・ブラックの足を引っ張りかねないので、何時の間にか開催されていたゲームの手札が開示される様子をただ見守る方が良い。
 さて、此処までは定石だ。爺には堪える急展開だが面子と状況から予想程度は出来る。そして、バーテミウス・クラウチ・シニアとアークタルス・ブラック、ドール伯爵の間で、棋譜並べはまだ続くようだ。
「ミスター・ブラック。認定魔法使いの引き抜き幇助は、魔法界の利害に関係する魔法使いの権利等に関する特別措置法に抵触する」
「法案は審議中であり、施行日すら決定されていなかったと記憶しているが」
「魔法大臣の特命により可決された。施行日は1991年7月22日、本日午前0時だ。そして、こちらが3名、ルード=ラトロム氏、ニッシュ氏、氏の各認定証となる」
「ミスター・クラウチ、貴国で施行される魔法使い保護法は将来効だ。彼等は既に亡命の宣誓書にサインをして受諾されている。拠って、彼等はドイツのものだ」
「何時、宣誓のサインを行いましたか」
「答える義務はない。詳細が必要ならば正規の場で、書面での提出を願おう。確認が出来次第、後日複製を送付する」
「では、そちらの鞄の中を見せていただきたい」
「DIPLOMATと刻印されている通り、機密書類だ。特権免除により拒否する」
 流れとしては、ドール伯爵側が優勢である。
 優勢であると私のドイツ行きが決定するので微塵も宜しくはないのだが、そちらの方面ではなく、寧ろ逆方面で脳の中枢がこれから起こる事を全力で警戒している。
 多分、以降の選択肢を間違えると死ぬ。原作版かアニメ版か映画版なのかは判らないが、全身義体化した女性に窓の外から低速軟弾頭系の炸薬弾を撃ち込まれて血肉を撒き散らしながら死ぬ。あらそう、なら死になさいと死刑宣告された直後に、アークタルス・ブラックかドール伯爵のどちらかが死ぬ。
 メルヴィッドとエイゼルならば理解してくれるだろうが、今の段階で目配せを捕捉されると矢張り死ぬ。私だけが死ぬのならば別に良いと思ったが、よく考えると駄目だ。肉体が死んだ瞬間、レギュラス・ブラックに私の正体がバレて4年がかりで積み上げて来た計画が根本から瓦解する。
 ゴーストが囁くどころか、あらん限りの力を振り絞って喚いているのだが、どうしようも出来ない。パラシュートが開かない状態でスカイダイビングをしている気分だ。地面に激突するまで、あと何秒残されているのだろう。
「ならば、国際条約に基づき、容疑者としてニッシュ氏及び氏、彼の保護者としてルード=ラトロム氏の身柄引き渡しを求める」
「犯罪人引渡し条約? 彼等に一体何の罪状があるというのだ」
「本年3月にホグズミード村で起きた傷害事件の容疑者として」
 今、その手札を、ダンブルドアの居る此処で晒すのか。
 意外としか言い様がないが、取り敢えず、個人的には多数の理由からバーテミウス・クラウチ・シニアを心底褒め称え、全力で応援したい。何らかの手段で私の脳波は読まれているだろうが、裁判関係の事を考えていたと今の内に適当な言い訳を考えておこう。
「事件の概要は知っている、彼等は明確な被害者だ」
「それは貴殿でなく本国の司法が判断する事だ。正当防衛か、過剰防衛かの判決が下っていない以上、被害者でも加害者でもなく、容疑者でしかない」
「ならば令状を見せたまえ」
「現在、私の代理が大至急関係各所に要請を出し、必要書類にサインをさせている」
「つまり、この場には出国禁止命令の令状すらないという事だ。外交担当のトップがこれでは話しにならない。招かれざる客はホテルの迷惑とならぬよう、早急にお帰り願おう」
 流れが変わって来た。未だドール伯爵側が優勢だが、奥の手がある。是非、このまま権力と暴力を存分に振るって押し切って欲しい。
 これなら正当な理由でイギリスに留まれるし、今迄の発言から家名を重んじていると思われるドール伯爵も犯罪の容疑者となるような子供を娘の婿になどしたくない気持ちに駆られる可能性が高い。おまけに、公的機関から逃げ続けている半巨人を表舞台に引っ張り出し、その行為を白日の下に晒せる上に、裁判では私達がほぼ勝てる。あれが過剰防衛だとしても情状酌量の余地は十二分にある、重く見積もっても宣告猶予付きの判決が下ると見ていい。司法の場が買収されなければ、の話だが。
 その辺りは、努力次第で何とでもなるだろう。エメリーン・バンスの時とは違い、今の私には多少のコネクションがある。裁判に向けて手さえ抜かなければ、いきなりアズカバンに入れられるなどという事態にはならないだろう。
 バーテミウス・クラウチ・シニアは父親としては欠陥品、裁判官や官僚としては無能のようだが、ブラック家の前当主とドイツの爵位持ちに楯突ける矜持と気概だけは買いである。私は今、この瞬間だけ彼の味方で居たい。
「まあ、その、なんだ。そう敵対せずに、もう少し穏やかに行こうじゃないか」
 普段はにこやかに腹の探り合いをしている外交担当者同士が室温を下げ続ける中で、この室内で最も社会的地位を持ちながら限りなく存在感の薄い男が、2人の間に割って入った。
「ドール外交官、いえ、伯爵とお呼びした方がいいのかな?」
「どちらでも。ファッジ魔法大臣」
「では、ドール外交官。貴方が認めているように、彼等の能力は非常に、そう、信じ難い程に高い。私も以前から彼等を高く評価していましてね、独学で守護霊を出せる若年の魔法使い達が居ると知った時には、比喩ではなく椅子から転げ落ちたものだ」
「発言は手短に。何を仰りたいのか判りかねます」
「うむ、それでだね。まあ、彼等の能力が他国に渡るのは、例のあの人との戦争から復興中のイギリスとしても非常に困るのだよ。なので、その」
 一度、コーネリウス・ファッジの視線がダンブルドアの方へ向く。
 入れ知恵をしたのはこの男であるという素直な告白に、ミネルバ・マクゴナガルが不満そうな顔をした。最終判断を下したのはそちらなのだから今更こちらに責任を擦り付けるな、と考えているのだろう。
 正論だが知った事か、不愉快だから死ね。
「もしも彼等の能力が国外へ流出する危険があると判断した場合は、特別措置として拘束や監禁、最悪……殺害も視野に入れていいと命令を出しているので」
「貴国には人権が存在しないのか。彼等がドイツ人であるか否かは関係ない。大臣、今の発言は本国を通じて国際魔法使い連盟に正式に報告するので、そのつもりで。これは明確な人権侵害であり、国家による個人への脅迫だ」
「い、いや。ですから、殺害は最終手段であって滅多な事では」
 怯えるな。吃るな。もっと胸を張って、堂々と言い切れ。
 やれるものならやってみろと言い返せ、連盟で上級魔法使いの肩書を持つダンブルドアが味方に居るのだからその程度の手回しが済んでいないと思うかと盛大にはったりと誇張を効かせた反論をしろ。下手な形で譲歩をされると私がこの場で死ぬ。
 入院中にアークタルス・ブラックから聞いた、ダンブルドアと魔法省のきな臭い癒着という点から考えて脅迫自体は演技ではなく事実なのだろうが、宣告者が小心者過ぎて話にならない。悪い意味で常人に過ぎないコーネリウス・ファッジの挙動に、この部屋に居る人間の半数以上が苛立ち、選手交代を心の中で強く望んでいる。
 その空気を読んだのか、元々その為に同行していたのか、詐欺師のような胡散臭い笑みを浮かべたダンブルドアがバーテミウス・クラウチ・シニアを抑えながら前に出て、コーネリウス・ファッジを庇いつつ、唐突に別の話題を口にした。
「所でドール卿、風の便りでは貴方のご子息が難病を罹っていると聞きましてな」
「……この国では随分妙な風が吹いているらしい。私の一人息子の唯一の取り柄は、体が丈夫である事だ」
「そうか。儂の手でドラゴンの血液を利用した特別な魔法薬を作ったのだが、いや、老人の勘違いであれば必要ないかの」
 世の人間は、これを買収と呼ぶ。半分程度この世のでもなければ人間でもない私も、これは買収だと断じる。
 返答に要するまでの奇妙な沈黙からして、ダンブルドアのこの買収は何らかの効力があると見ていい。よく観察してみるとドール伯爵の手の付近にある銀食器が白く曇っている、汗をかいているのだろう。震えは見当たらず顔も紅潮させない辺りが腐っても外交官だが、瞬きの回数が増え、水の入ったグラスに手を伸ばしたので緊張していると予測が出来た。
 ダンブルドアの情報とドール伯爵の情報が噛み合わないので詳細は不明だが、雰囲気から見て彼の投了は近い。残る問題はアークタルス・ブラックなのだが、こちらは行動する様子が見られない。態度も仕草も十分な余裕があるので、更に奥の手があるのだろうか。彼の場合、十分有り得るから恐ろしい。
 そして、ダンブルドアは私のドイツ行きを阻止する為にあらゆる手段を使って頑張って欲しいと思うが、同時に、今すぐ全身の穴という穴から血と膿と汚物が吹き出す奇病を患わせたいとも思う。
 尤も、100歳もとうに超えた老人がそんな病気を罹ったらすぐに死んでしまうだろうから作らないし、私の能力が不足しているので作れないが。自分にとって都合の良い妄想はまた今度、心と時間に余裕がある日にでも行おう。
「判った……真実を話そう。彼等の宣誓は、つい先程行われた」
 早い。思ったよりも呆気無く折れた。
 どうやら、ドール伯爵にはダンブルドアの助力を得てまで助けたい誰かが居るらしい。個人的にお礼参りがしたいので、後で誰なのか調べよう。
 アークタルス・ブラックはこれでどう動くのかと視線を送ったが、未だ大きな動きは見られない。他人に接する時に見せる厳しい表情のまま息を吐いて、僅かに肩を竦めただけだった。視線の先には、DIPLOMATと刻印された鞄。
「伯爵が注意しないので私から忠告させて貰うが、紳士諸君、他国の機密書類を扱いたいのならば、正式な認可を受けた後にしたまえ」
 ドール伯爵の発言の裏取りをする為に、機密書類の入った鞄を手元に呼び寄せ、何故か物理的に腕を守る防護呪文を唱えた捜査員達へ、言葉がかけられる。
 穏やかだが、鉛のように重い。歳を重ねた者の、そして権力者としての威圧感が込められた深い声色に本能が危険信号を灯し、卓上に揃えられていた両肘が反射的に引かれた。
 過剰な私の反応を見て、それをブラフと受け取ったのであろう。せせら笑うような表情を浮かべ年若い方が鞄の中に手を入れた瞬間に彼の右手首から先が消失した、という惨事は幸いというか、残念ながら起きなかった。
「なんだこれ、水?」
「おい、迂闊に触るな。毒の可能性もある」
「スカーピンの暴露呪文で水としか出なかったよ」
「ならいいが。ああ、羊皮紙を結晶化させるつもりだったのか。白い粉が付いてる」
 但し、想像を上回る惨事が起きた。
 彼等の言葉が耳に入った瞬間、メルヴィッドとエイゼルが同時に杖を抜きながら椅子から立ち上がり、六方に物理的に壁を作り出して2人を隔離、私は宙に出現した壁に視界を阻まれる前にサングラスに自動展開させているスカーピンの暴露呪文から水の正体を把握する。情報の古さは死に直結する事がよく判る物質が検出された。
 念の為、腕を伸ばしてレギュラス・ブラックとドール伯爵を壁の傍から引き離して濡れたハンカチで口と鼻を塞いで安全を確保し、魔法での換気を随時行いながら叫ぶ。
「道を開けろ! 救急車を呼ぶ!」
「な、何を急に」
、何が見えた!?」
「HF濃度55%!」
「だから、君達は一体何を」
 異星人相手に母語を話している気分になるが、本当にそれどころではない。威嚇してでも救急車を呼ばないと、想像を絶する苦痛の中で彼等が死ぬ。
 どの位の苦痛か? パラコートと方向性が異なるだけだ。一気に頭蓋骨を潰して脳味噌をぶち撒けて貰った方がまだマシだと思える苦痛に襲われる。
「HFってフッ化水素、ああ、水溶液だからフッ化水素酸だよね。こっちで出来るのは物理的な隔離とアグアメンティとスコージファイでの洗浄までだけど、メルヴィッド、もしかしてグルコン酸カルシウムの合成、魔法で出来たりする?」
「無茶を言うな。だからが……そこで入り口を塞いでいる馬鹿共! 道を開けろと言ったのが聞こえなかったのか!」
「そろそろ1年経つらしいけど、を育てただけあって状況が逼迫すると君も口汚くなるよね。私も大概だけど。あ、まずい」
 壁越しに治療を行っていたらしいが、その甲斐なく壁に吸音されなかった男の太い絶叫が重なり、すぐに静まる。気絶させた訳ではなくシレンシオを唱えたのだろう、シャワーに似た流水音も聞こえなくなった。
 事態は一刻を争う。兎に角今は部屋の外に出てホテルの従業員を捕まえなくてはならないのに、それなのに、この底無しの大馬鹿者共は。
「いや、待ってくれ、今マグルを呼ぶのは宜しくない。手が空いている者に、彼等を聖マンゴへ送らせよう。壁を消して、運んでくれ」
 ああ、死んだな。比喩ではなく、彼等はこの瞬間に間違いなく死が確定した。
 コーネリウス・ファッジが言葉を発した直後、私達の監視兼、大臣の護衛に当っていたらしい闇祓いが数人姿を現し、魔法で作られた壁の一面を消して、ずぶ濡れのまま泡を吹く2人を連れて姿をくらました。
 行き先は、グルコン酸カルシウムのゲル製剤など絶対に置いていないであろう聖マンゴ。可哀想に、あの子達は苦しみながら死ぬのだ。彼等に直接触れた闇祓い達も、同じ道を辿る可能性がある。
 しかし、もうどうでもいい。後の祭りなのだ。
 魔法は便利だが、万能ではない。毒性の強い除草剤の中和は出来ないし、フッ素イオンがカルシウムやマグネシウムと結合するのを阻止する事も出来ない。
 彼等は片腕を肘まで濡らしていた、羊皮紙から垂れた水滴も衣服に付着しているだろう。メルヴィッドとエイゼルが対処したが、果たして流水による洗浄だけでどれ程の効果が見込めるのだろうか。フッ化水素は透過性が極めて強い。カルシウムを求め服も皮膚も筋肉も貫通して骨に到達する為、早急に該当部位を切断でもしない限り、低カルシウム血症や高カリウム血症からの心室細動を起こして死ぬ未来しか見えない。
 ただの水だと思った物質に触れただけで、自身の心拍が無作為に跳ね上がったり、停止したりする恐怖は如何程だろうか。因みにパラコート同様、こちらも意識は明瞭なままだ。ただ、代謝性アシドーシスが重症化した場合は血圧低下や昏睡状態に陥る事もあるので、楽に死ぬという点でのみ見た場合、併発した方がまだ救いはあるだろう。
 本当の救いは生き残り、健全な体を取り戻す事かもしれないが、後者は無理だろう。非魔法界式の治療法を知っている人間がその場に居て運良く生き残った所で、慢性腎不全となりやがて死ぬ。義眼は存在するのに、臓器移植も人工透析の技術も持たない中途半端な魔法界で、彼等は苦しみながら死ぬしかない。
 ダーズリー家を鏖殺する際に候補に挙げたが、パラコートと違い薬品の入手が出来ずに断念した知識がこうして数年越しに役立つとは思わなかった。現状を冷静に分析すると、全く役に立っていないが。
、こっちにおいで。怖くなった顔を治してあげる」
 今の私は、それ程怖い顔をしているのだろうか。エイゼルに呼ばれ重たい足取りで歩いて行くと、久し振りに両頬を摘まれ、左右に引っ張られた。
「エイゼル、何をしているんだ」
「普段はこうすると大体治るんだけど、状況が状況だから無理みたいだね。ああ、そうだ。一応言っておくけど、メルヴィッドの顔をこうする趣味はないから」
「頭の悪い発言は控えろ、と言うか、もう黙れ。人が死ぬかもしれないのに」
「私達は力が及ぶ限り助けようとしたじゃないか。私達だけが、咄嗟に動いて助けようとしたんだ。それを静観や邪魔をして殺したのが頭の悪い彼等だ」
 だから私達は何も悪くない、そう言った後で摘んだ頬を離しながら、君は何も悪くないと告げて来た。
 エイゼルの言葉通り、確かに、私は悪くない。悪いのはアークタルス・ブラックの忠告を無視して、ドール伯爵の了承すら取らず他国の機密書類に手を出そうとした馬鹿と、その馬鹿の治療を放棄した馬鹿だ。
 後者の馬鹿の向こう、一切の狂いがない水平の白壁が直角に組み合わされた、無機質な箱の内部に残されていた鞄のかぶせが自動で下ろされ、濡れていた表面が乾いて行く。乾燥させた訳ではなく、水滴が内部に吸収されたようだ。メルヴィッドが杖を振り、内部が濡れた壁を取り払えば鞄は絨毯の上に音もなく落ち、何も変わらない平穏が戻って来た。
「まさか、鞄にこんな仕掛けが」
「伯爵。貴殿が想像している以上にドイツ魔法界は堅牢ですよ。我が国は、噛み付く程度の鞄しか持っていないのだから」
 防衛意識の底が知れると自嘲にも似たアークタルス・ブラックの言葉に、納得する。
 だから、彼等のあの防護呪文だった訳か。
 闇祓いならば兎も角、一介の捜査員が此処までピンポイントな防御を張る事が可能だろうかと不思議には感じたが、魔法省の情報漏洩振りは矢張り相当酷いらしい。
 今ここで、アークタルス・ブラックもドイツ人に対して情報漏洩を仕出かしたが、早ければ既に、遅くとも今日には全く違う仕様の鞄に変更されているだろう。彼は、その程度ならば一通の手紙で対処出来る男だ。
 レギュラス・ブラックとドール伯爵から濡れたハンカチを回収しながら納得していると、捜査員が負傷してからこちら、事の成り行きを静観していた馬鹿ことバーテミウス・クラウチ・シニアが大袈裟な咳払いをして再度、先程と同じ言葉を口にした。
「アークタルス・ブラック及び、リヒャルト・グラーフ・フォン・ドール。ご同行願おう」
「数分前に令状はないと白状してこれですか。流石、状況証拠だけで容疑者を悉く有罪にして上層部の不興を買い左遷させられた元裁判官だけはありますね、先程の捜査員が書き損じた羊皮紙のように簡単に死んでしまうのも納得だ」
「クラウチと言えば長年優れた人材を法曹界に輩出して来た純血名家と伺いましたが、貴方は噂通りの御仁のようだ。それで本家の当主とは全く笑えない。11歳の子供でも知っているin dubio pro reoというラテン語の成句はご存知ですか?」
 沈黙に飽きたのだろうか、先程とは比べ物にならないくらい、というよりは、普段通り饒舌になったメルヴィッドとエイゼルの若く素直な感想にバーテミウス・クラウチ・シニアの眉が跳ね上がる。
 痛くない腹を探られるではなく、痛い腹に踵をブチ込まれる所業ではあるが、この程度で感情が顔に出る男がイギリス魔法省の外務トップという事実に頭痛を覚える。
 現実を見据え地に足の着けた人材を夢想家を拗らせたヴォルデモートが殺して回ったツケなのだろうが、政治に疎い私にすら駄目な官僚だと思われるような魔法使いしかイギリスには残っていないのだろうか。
「ミスター・クラウチ。彼等の言う通り、令状が存在しない以上は強制的な捜査が出来ん」
 その中で、性根は最悪だが腕は立つダンブルドアがさり気なく前に出て、椅子に座り直したドール伯爵に焦点を合わせた。
「しかし、ドール卿が自発的に協力するとなれば、話は違ってくる」
「……薬は」
「間違いなく届けよう」
 普通、買収というのはもっと人目のない場所でやるべきものだと思っていたのだが、魔法界ではこれがスタンダードなのだろうか。
 ダンブルドアが出て来た事でメルヴィッドの背に庇われながら、あちら側に最も縁のあるアークタルス・ブラックを観察するが、外向きの厳格な表情をしているだけだった。隣に座り直したレギュラス・ブラックに関しては、大いに不満そうだったが。
 ドール伯爵の名の下に許可が与えられ、先程捜査員を地獄へ緊急搬送した闇祓いとは別の者達が姿を現し、構えた杖から彼等なりに考えられる限りの魔法を展開して身の安全を確保する。怯え過ぎだろうとは思ったものの、あの苦しみ具合を見ていたのなら仕方がないとも思えてしまった。大の大人が泣き叫び泡を吹いて昏倒する痛みは、以外に多い。
 シャボン玉のような膜に覆われ宙に浮いた鞄のかぶせが上がり、口が開く。同時に、今度は真っ赤な炎が膜の中で暴れ回り、燃えた羊皮紙と思われる炭がスノードームの雪のように球の中をちらちらと舞った。鞄そのものも燃えているらしく、炎の間から時折覗く黒い物体はアメーバのようにゆっくりと輪郭を変形させている。
 承認を得たのに何故、と表情で語るドール伯爵やバーテミウス・クラウチ・シニア、闇祓い達を嘲笑うかのように、破裂と呼ぶには弱い音を響かせて、一通の手紙がテーブルの上に出現した。宛名は、ドール伯爵。
「……特権免除が、放棄された」
「どういう事だ」
「私こそ尋ねたい、ミスター・クラウチ。貴国がペルソナ・ノン・グラータを発動し、本国が外交官任務終了を宣告した。判るか、貴殿達が打診したのは本国への召還ではなく外交官任務の終了だ。最早私は外交官ではなく、ドイツの一魔法使いに過ぎない」
「何をした、アークタルス・ブラック!」
 私は無能ですと怒号を発しながら杖を取ろうとしたバーテミウス・クラウチ・シニアは危険だと本能が訴え、こちらもあらかじめ手繰り寄せていた鞄から杖を抜き盾の呪文を唱える。
 私とほぼ同時にメルヴィッドとレギュラス・ブラックも杖を掲げ攻撃呪文を何時でも放てるよう調整し、エイゼルは一拍遅れてからこちらに攻撃しようとしていた闇祓い達に照準を合わせた。
「皆、杖を下ろしなさい。争いは何も生まん」
 ダンブルドアが戯言を口にしているが、当然誰一人言う事を聞くはずがない。
 更にもう二重、妨害呪文を張り拒絶の意思を明確にすると、今度はアークタルス・ブラックが口を開いた。
「何もしていない。ペルソナ・ノン・グラータの発動には国際魔法法務局局長と国際魔法協力部部長、両名の許可が必要なのは当然君も知っている所だろう」
「局長からの打診は再三あったが、私は一度として許可を出した覚えはない!」
「それを魔法省の職員でもない私に喚いて、一体どうしたいのだね。メルヴィッドの言葉を肯定するような言動を続けたいというのなら、止めはしないがね」
 書類を全て燃やし終わった事で自然鎮火した鞄を見上げたアークタルス・ブラックは隠す事なく溜息を吐いて闇祓い達を一瞥し、普通は酸素の供給を止めるなりして消火に努めるものだがと呟く。魔法界の人材枯渇も来る所まで来たなと表情が語っていた。
「何にせよ、関係書類は全て焼失し、ドール卿は外交官ではなくなった。最早、貴殿が此処に居る理由はないだろう。年若いこの子達に杖を構えたままで居させるのは不憫でならないのだ、用が済んだのなら山積している仕事の処理に戻りたまえ」
「ああ、そうさせて貰おう」
 アークタルス・ブラックの言い分に、バーテミウス・クラウチ・シニアは怒りの滲んだ声で応え、暗い瞳で彼、そして私を一瞥した後で姿をくらませた。
 最も早く杖を取った私を睨んだのかと考えたが、そうではない。私の手によってバーテミウス・クラウチ・ジュニアの強姦事件が今更掘り返され、しかも冤罪ではないかとメディアに取り上げられている事が許せないのだ。知った事か、その件に関しては死ね。
 魔法界も一事不再理に則った運用を行っているので、判決が確定した事件を再度裁判する事は出来ない。ただ、バーテミウス・クラウチ・ジュニアはポッター夫妻への磔の呪いに関する罪には問われたが、リリー・ポッターへの強姦に関しては親告罪なので当時の裁判で言及されていないのだ。だからこそ、ジョン・スミスは私に接触して来た。
 魔法省の不誠実さも、時にはこちらの利になるという事だろう。
「さて、ドール卿。ここからは、イギリス人による、イギリス魔法界の法案に関しての話になるのだが。私達が場所を移した方がいいかな」
「必要はない。部屋はこのまま借りて、私が席を外す。丁度私も、本国に連絡を取りたいと思っていた所だ。デザートとワインは持ち帰れるよう執事に言っておこう」
 次いで、アークタルス・ブラックがこの場には相応しいが居ては欲しくない人物の排除にかかる。とは言っても、二つ返事で受け入れて貰えたが。
 握り潰した羊皮紙を微かに震わせながらドール伯爵は足早に部屋の出口へ向かい、扉を閉める直前にダンブルドアへ強い視線を送る。
 その様子を目にして良い顔をする人間は、円卓の向こうに居る、恥知らず共だけだった。