曖昧トルマリン

graytourmaline

シーフードのラビオリ

 私は、どうすべきなのだろうか。
 イギリスからドイツまで、距離的な意味合いでは近い。ドール伯爵の領地が何処なのかは知らないが、仮にロンドンとベルリンの首都同士を結んだとしても日本の都市に換算すれば精々東京から福岡までの距離だ。だが、ドーバー海峡とフランス、ベルギー、オランダという国境、或いは北海という海原を隔てた状態で一体何が出来るのだろう。
 この場では首を縦に振る人形になり、ドイツでドール伯爵を殺害しイギリスに帰国。無謀無策に過ぎて、すぐに無理だと却下した。時間が足りないし、確実にブラック家の監視が付く。私は、1ヶ月半後には正当な理由でホグワーツに居なければならないのだ。
 この場でメルヴィッドとエイゼル以外を殺す、のも駄目だろう。ブラック家という巨大な力を持つ駒を捨てるには、少なくともメルヴィッドの同意が必要だ。だが、例え暗号であろうとこの場で不自然な会話を持ち出せば、警戒される。その上で彼等を害する能力を持ち合わせているかと言えば否だ。第一、場所が悪過ぎる。これがまだカンブリアの屋敷内であれば良かったのだが、非魔法界の高級ホテルでの殺人隠蔽工作など言葉だけで頭痛がした。
 素直に嫌だと言い続ける。そんな子供じみた行為をアークタルス・ブラックが予想していないと思うか、既に逃げ道は塞がれているに決まっていた。駄々を捏ねた所で社会的にも、物理的にも後退を許されている筈がない。
 私に許されている道など、自死しかないではないか。
 それ以外に策など浮かばない。色々と便利な体ではあったが、このような不便が付き纏う位ならば、さっさと処分した方が幾らかマシだ。
 問題になるのは、何時死ぬかというタイミング程度に過ぎない。この場か、行方不明者となり誰の目にも留まらない場所でひっそりと行うか、自室で首を吊るか、ドイツの地に辿り着いた時にするのか、あちらで生活基盤が整ってから行うべきか。
 自殺の前に最低限、遺書も必要だ。グリンゴッツに溜め込んである財産と屋敷、資産分与だけでも正式な書面として残しておかないとロンダリングは済んだとしてメルヴィッドやエイゼルへ分け与える前に総取りされる。
 最も死を利用出来るのは何時か、死ぬ前にやるべき事は何か、それしか考えられない。
「申し訳ない、言葉足らずだった。勿論、君の兄上達もドイツへ亡命する。準備は全て、完璧に整っているので心配はない」
 亡命。先進国内で、一国民として普通に生きていればまず縁のない言葉だろう。
 何故そのような事をしなければならないのか理解出来ないが、メルヴィッドとエイゼルも反抗せずに待機姿勢を取っている、ドール伯爵の言葉から推察した状況に少しだけ冷静さを取り戻し、自殺するのは後でも出来ると優先順位を繰り下げた。先方も私が落ち着いたのを感じ取ったのか椅子を勧め、飴色の円卓に羊皮紙を広げ始める。
 アークタルス・ブラックの右隣に私、更にその隣にレギュラス・ブラックが座ると席は全て埋まった。10人程度が掛けられるテーブルなので狭苦しさは感じないが、未だに紹介されない最後の1人が気に掛かり僅かに息が詰まる。
 青い瞳に白髪交じりの栗色の髪、イギリス人と思われる正統派の美丈夫。年齢は男盛りを終えた容姿と雰囲気からして、50代半ばから後半。椅子に座る姿勢と後方に撫で付けられた髪型から軍人で、日焼けの仕方から退役者であるとまでは予想出来たが、マリウス・ブラック辺りの知り合いだろうか。軍人臭が強過ぎて、とても魔法使いには見えない。
 彼の紹介もあるのかと考えたが、どうやら誰もその必要性を感じていないらしく、兎に角書類が先だと場の空気が告げていた。
「時間が限られているので、先にサインを」
 ドール伯爵の言葉を鵜呑みにしていいものかと考えるが、少しだけ視線を左にずらしメルヴィッドへ無言の確認を行うと頷かれたので、多分大丈夫だろう。更にその隣のエイゼルは不満顔だが、杖を手にしたり声を荒げない所を見ると絶対に認められない事態という訳でもないらしい。
 一切の思考を放棄し、メルヴィッドとエイゼルの反応を見て判断するのは下策なのだが、そもそも私の脳が上策を捻り出す事など出来る筈がないので下策でも策としておこう。
 視線を下ろし後学の為にどのような書類があるのかを確認すると、爺になるまで生きて来た人生の中で、一度もお目に掛からなかった文字が目に入った。
「婚姻……?」
 レギュラス・ブラックを挟んで右に座るドール伯爵に、何かの間違いじゃないかと視線を送るが、厳粛な顔で頷かれ私の娘だと返事される。そのような意味で視線を送った訳ではないのだが、追加で投下された爆弾の威力が高過ぎて思考が止まる。
 つまり、養子は養子でも婿養子という訳だ。
 年齢的な面を考慮すると婚姻ではなく婚約の段階だとか、言語の壁が厚く意思の疎通が困難なのでドイツ語に切り替えようだとか、そんな細かい事はこの際全部燃やして灰にする。事が済んだ暁には早々に帰宅し、遺書を認めよう。
「今年で16になる。聡明で気高く、妻譲りの美貌はマグルのヒルデガルト・クネフに勝るとも劣らない。私の自慢の娘だ」
 そうして差し出されたセピア色の写真には、父親同様に全体的に北方系の血が強く出つつも、母親の容姿の優れた点を受け継いだらしい美しい少女が写っていた。
 次元越しに目と目が合うと、害獣が粗相をしている瞬間を目撃してしまったかのような冷たい視線を私に向け、すぐにフレームの外へ顔を逸される。生憎、私は少女から蔑まれて興奮を覚える性癖を持ち合わせていないので、是非とも私以外の男の妻となって欲しい。
 色素の薄い髪と瞳に切れ長の目、荒れた様子のない白い肌と薄い唇。お伽噺から抜け出して来たお姫様のような少女ならば、王子様の名乗りを上げる異性が後を絶たないだろう。常識の枠を超えた美しい同性の世話を毎日好き勝手に焼いている私が態々婿に入る必要があるのだろうか。
 貴方の娘にはもっと相応しい男性が居ると言えればいいのだが、私以外の全員がサインを求めている圧力に耐えられそうにない。一体何の為に設置されているのか判らないが、壁に掛かった鏡が視界に入る所為で余計に見られている気がする。
 この書類にサインをしたら財産分与がどうなるのか気になるが、この期に及んでも正面の座る子達からは指示をされないので腹を括ろうではないか。
 記憶頼りになるが、ドイツの遺言はイギリス程絶対的ではなかった筈なので不安はある、けれど、日本のそれよりは故人の遺志を尊重してくれるし、いざとなれば生前贈与してしまえばいい。書類を確認した所、私から支払わなければならないのはこの身だけなのだから文句は言わせない。
 覚悟を決めて全ての書類にサインを行い、ドール伯爵の鞄に全ての羊皮紙が消えた瞬間、一気に室内の空気が緩む。私が意思を固めた時にではなく、何故書き終わった今なのだろうかと不思議に思うが、多分これから話してくれるのだろう。
 ドール伯爵が慣れた様子で金色の小さなベルを鳴らせば、先程の執事がホテルのスタッフやソムリエを連れて颯爽と現れ、乾杯用のグラスに発泡性の白ワインを注いで行く。ソムリエまで引き連れているのにワインの説明がないので、恐らくアークタルス・ブラックかドール伯爵が作ったものだと事前に告げてあるのだろう。
 論ずる必要性すらないが、このようなホテルに勤める彼等の知識は間違いなく一流だ。しかし、魔法界で作られるワインの知識はない。あってはならないのだ。もしもその知識が欠片でも存在すると判明した場合、魔法省は一体何をやっているのだとなる。
 自分の土地で、自分の為だけに作らせているものでね、とでも言ってボトルを委ねれば彼等が詮索する事も口外する事もなくなるだろうから口止めも楽だ。この辺りのモラルに完全な信頼を置けるからこその、高級ホテルなのだ。
 手書きのメニューに書かれたオードブルは、ババリアブルーとプラムのカプレーゼ風、そしてペコロスのエトゥフェ。因みに後者を格調高いフランス語から庶民的な日本語に変換すると、小玉葱の蒸し煮である。この2品が、小奇麗に纏められてやって来た。
 勿論、言語が変わろうと美味しそうな見た目は変わりないし、味も先程のティールームと変わりない。客層によってシェフや調理法を変える主義ではない事は理解しているつもりなので、味覚がホテルの味と合わないのだろう。
 ドイツ人とイギリス人とは言っても、外交官で領地持ちのお貴族様と、格式高いお貴族様と、ひと目でそれと判る退役軍人と、日本人の手で胃袋を飼い慣らされた庶民、そして料理に関しては素人なりに矜持を持つ日本人の組み合わせである。手は止まってこそいないが、食事で盛り上がる事もない。
「私の友人がドイツ国内で87年に作ったゼクトなので、賞味して頂きたい」
 食事はおまけでワインが本題であるとドール伯爵が話の矛先を僅かにずらし、メルヴィッドが知識を携えて真っ先にそこへ乗る。この辺りの反応は流石だ。
「87年というと、不安定な天候続きで欧州のワインはどれも壊滅的だと言われている年ですが……信じられないくらい美味しいですね」
 僅かに琥珀色がかった発泡性の白ワインは、確かにメルヴィッドの言葉通り美味しい。ワインの当たり年や外れ年に関しては欠片も興味がないので知識もないのだが、味の良し悪し程度ならば私でも判る。このワインが外れ年の物とは到底考えられない。ただ、農作物の出来が良くなかった年だった事だけは覚えているので、外れ年なのは間違いないだろう。
 味に関しては私よりもエイゼル、アークタルス・ブラック、レギュラス・ブラックが黙ってグラスを傾けているのが何よりの証拠だ。エイゼルは素直に嫌味を述べるし、ブラック家は皿の上に残された料理のように、口に合わないと判った時点で手を付けなくなる。
「酷い年だった、我が領地の葡萄もまともに収穫出来なかった年だ。多くの友人達も同様であったが、その中で、このゼクトだけが生き残り、成熟し、今現在このようにヴィンテージワインとして評価されている。何故だか判るかな。これは、地下に隔離され、完全に管理された中で育ったワインなのだ」
 日照時間、湿度、気温、風速に風向き、その他諸々。私が発酵食品を作る際に行っているそれを、見渡す限りの葡萄畑単位でやりきったのが、ドール伯爵の友人なのだという。
 魔法で完全に管理された葡萄で作るワインなどと、長年その魔法使いは蔑まれたらしい。ドール伯爵もその1人だったと告白された。
「当時の私が革新的な意識の持ち主であれば、彼の方法を認める事が出来た。しかし、私は自然を甘く見ていた、領地から莫大な損失が出て始めて、魔法で管理を行う友の方法も一理あると学んだ」
 ほう、と息を吐き、感心しましたと、表情で演じる。
 その程度の事は既にシリウス・ブラックが、更にそれ以前の歴代当主達が、小規模ながら世界大戦開戦以前から行っていた。
 現在のように地下の巨大施設として運用開始したのは管理能力が軒並み優れているハウスエルフを大量確保出来たアークタルス・ブラックの代からだが、理由は天候のような呑気なものではなく軍事的で殺伐としたものであったと記憶している。
 施設の見学時に説明された内容では自給率にも触れられたが、寧ろ人工衛星を回避する為であった事に時間が割かれた。開戦当時はまだ構想段階の存在だったが、当然それを見越した上での拡張と移転である。
 魔法で何処まで太刀打ち出来るのか判らない以上、用心し過ぎるという事は絶対にない。全く、頼もしい限りの考え方である。アークタルス・ブラックのこの思想は、何があってもレギュラス・ブラックへ引き継がなければならないと改めて決心させられる。
 技術流出を一切させなかった歴代当主達の口の堅さと情報統制能力に驚嘆する。農業的な意味合いでイギリスはハンデを負っているので当然と言えば当然なのだが、それが経営者から末端までの全てに行き届いている所が凄まじい。
「ただし、安定した環境を維持する為には膨大な量の優秀な魔法使いの存在が欠かせず、現在は未だ試験段階なのだ。だが、近い未来に必ず少数の魔法使いで広大な土地を管理出来るようになる。私と父上が設立した応用呪文学研究機構でも研究しているので、是非一度、足を運んでいただきたい。ミスター・ガードナーとミスター・ニッシュならば、特別研究員の椅子をすぐに用意しよう」
「ありがとうございます、ドール卿」
「私はお気持ちだけで。忙しそうな職業に就いて、と共に過ごす時間を失いたくないので。この子も一緒に研究員になってくれれば話は別ですが」
「成程、伺った通りの方々のようだ。ではミスター・ニッシュは諦めよう、この子には娘と共に、我がドール伯爵領家が代々育てて来た資源開発企業を継いで貰わなければならないのだ。この子の才能も聞き及んでいる、一法律家、一研究員では到底役不足だ」
 メルヴィッドを研究職へ誘っておいて、舌の根も乾かぬうちにこれである。
 もしかしてだが、ドール伯爵の頭は私と同レベル程度に悪いのだろうか。人と人との交流方法を悉く間違えるこんな爺と同じでは外交官の資質が問われるような気がするが、近々死ぬ私には関係ない事であるので無駄な思考は排除して行こう。
 エイゼルと、意外にも件の退役軍人の男性が軽く飲み干したのでゼクトが注がれたグラスは瞬く間に空となった。確かにこのワインは甘さと辛さと深みのバランスが素晴らしいと絶賛出来る、ラベルを見せて貰ったので、後で購入可能か検討しよう。エイゼルが好きな味ならば、メルヴィッドも好きな味であるのは確かなのだし。
 部屋に居る全員がこれ以上オードブルに手を付けない事を確認したドール伯爵が再びベルを鳴らすと、新たなワインと料理が恭しく運ばれて来る。主役がワインなので、メイン料理とは言うものの見た目は軽いオードブルと変わらない。サーモン・フィッシュケーキと書かれていたが、要は鮭のコロッケである。
 スイートに宿泊する客からの要望とはいえ、此処まで徹底して主賓を引き立ててくれるのは流石だと心の中で頷きながら水で一度口の中を落ち着かせ、酒杯を重ねる。
 辛口の白ワインで、若く素直な味だ。使っている葡萄も一種類なのだろうか、真っすぐな美味しさが、どことなくチリ産のワインに近い。
 深く複雑なヴィンテージ好きには物足りないかもしれないが、私はこのくらい若い方が癖が少なく好きである。成熟したものは、合う場合は先程のゼクトのようにこれが好きだと断言出来る程に合うのだが、合わなかった場合がとても酷い。そして大抵の洋酒が合わないので挑戦する気になれず、故に、私はこちらの飲み物の知識がまるでないのだ。
「私の領地で作られた89年のものだ。君は若いワインが好みのようだな」
 何時も通り思考が顔に出ていたようで、ドール伯爵が私を見ながら言う。尤も、本当にそうなので素直に頷くと、ワインも人も一緒だと頷かれた。
「環境が整う事で良い葡萄が出来る、良い葡萄から良いワインが作られる。それはドイツでも、イギリスでも変わらない。魔法使いも同様に、まずは環境を整えなければならない。環境が腐れば、人も葡萄も腐ってしまう」
 それが本題かと背筋を伸ばし次の言葉を待つと、続きはアークタルス・ブラックから放たれた。既にカトラリーはテーブルに戻っている。
「魔法使い保護法という法案が国内で密かに通りそうな気配があってね。正式名称は魔法界の利害に関係する魔法使いの権利等に関する特別措置法と言うのだが、判ってくれるね?」
「はい、その正式名称だけで大体把握出来ました」
 つまり、イギリス魔法界に寄与する可能性が高い魔法使いの権利を制限します、という法案である。寧ろ今迄存在しなかった方が不思議であるが、外交的配慮という奴だろうか。実際、この国は世界でも名高なフランス人錬金術師であるニコラス・フラメル夫妻を引き抜いているようなものなので、そんな法案が既に存在していたら小競り合いをしていたに違いない。まあ、法案が可決されればその瞬間から杖が抜かれる事になるのだが。
 しかし、普通そのような法案で指名される人物は人一倍出来が良い故に、国から何らかの援助を受けているのが通例である。振り返って、私がこの世界に来てからの事を思い出してみたが、何を寝ぼけているのかと役人の頭をかち割りたくなるような環境だった。
 記憶喪失を通しているメルヴィッドやエイゼルにしても同じだ、私達はブラック家から恩恵を受けた事はあるが、魔法省という政府からは何も受け取っていない。
 無能であるとは知っていたが、本当にイギリスの魔法省は無能だ。
 私の知らない間に限りなく面倒臭くて可能な限り関わり合いたくない衝突が起きていた事は理解出来た。今すぐ家に帰って死にたいが、そうも行かない。
「けれど、通るのですか?」
「通すのだよ、その法案がどれだけ道理から外れようともね。悲しい事に、この国の大衆は常に愚かだ、高名な人間が行う事は全て正しいと信じ、端から思考を放棄する。この法案を起草したのは現大臣のコーネリウス・ファッジだが、裏で糸を引いているのは」
 言いかけて、アークタルス・ブラックの舌が止まる。
 部屋の入口側で紙製の風船が破裂するような音が複数響き、恐らくこのホテル史上、最も場を弁えない客達が文字通り姿を現した。
 鮮やかな赤いシャツとペイズリー柄のグレースーツを着たアルバス・ダンブルドアを先頭に、ローブ姿のままのミネルバ・マクゴナガルにコーネリウス・ファッジが左右の後方に控えている。最後尾のバーテミウス・クラウチ・シニアだけがホテル側が求める節度的に全く問題のない格好をしているので、寧ろ彼等の中で浮いていた。
 招かれざる客の先陣を切っている長い髭の老人を灰色の目で捉えながら、彼だよとアークタルス・ブラックは続きを告げた。その声には、一切の温度が感じられなかった。