曖昧トルマリン

graytourmaline

カニとパプリカのホットサンド

 熱っぽい雰囲気を纏ったエイゼルに背後から抱き締められ、正面からは灰色の視線から放たれる威圧感に晒されて、さてどうしようかと次の一言を考える。
 アークタルス・ブラックとの交渉が面倒だからと適当に済ませようとすれば、近日とまでは行かないが近年中にエイゼルが死ぬし私も死ぬ。
 私もエイゼルも、今この場に存在している肉体を破壊されたところで真の意味で死ぬ事はないが、それでも器を失えば行動制限が課せられる事くらい想像に難くない。待つ事に慣れている私のような爺ならば兎も角、羽目を外し自由を謳歌したい若者のエイゼルにその処遇は可哀想だ。何より、私がブラック家から敵視されれば保護者役であるメルヴィッドにとんでもない枷が嵌められる事になるのが全く頂けない。
 こんな頭を使う面倒極まりない交渉などしたくないからメルヴィッドに協力体制を持ち掛けたのだが、諦めるしかない。仕方がないだろう。メルヴィッドはこの場に居ないし、アークタルス・ブラックは私の駒なのだから。
 さて、ではそろそろ思考を切り替え沈黙を破ろう。余り長い間口を噤んでいると、それだけで与える印象が悪くなる。
「私はエイゼルが思っている程、純粋な人間ではありませんよ」
「君はまたそうやって」
 避けたいものを悉く避けようとすると、残された道は僅かしかない。第一声はいつも通りの謙遜から始める事にした。この反応が正しいのかは判らないが、打ち合わせが一切不可能な環境に置かれた以上やり切るしかない。
 私の言葉に対し、こちらもいつも通りの反応をしてくれたエイゼルが呆れた声と共に頬へと手を伸ばして来た。いつもなら好きなようにさせるのだが、今日は置かれている状況が異なるので片手を上げてスキンシップを制する。
 同時に不自然に思われない程度の力加減で拘束からも抜け出そうと試みたが、こちらは失敗に終わった。アークタルス・ブラックと会話をするのに敵対宣言をしたエイゼルに抱えられた状態というのは良い印象を与えないのだが、腰をしっかりと抑え込まれているので軽く抜け出す事が出来ない。諦めよう。
「初めて、拒絶したね」
「勝手な事ばかり言うからですよ」
 呵呵と笑いながら手を押し返すと腰に強い力が加わり、自分勝手はお互い様だろうと耳元で責められた。微かに震えている体と苦しくて仕方がないという声色、背を預けている今の状態では見えないが、恐らく表情すらも辛苦を押し殺しきれない青年のそれなのだろう。出会った当初から感じていた事だが、本当にこの子は演技が上手い。
 私にもこの演技力があれば、とは思う。しかし、その場に準じた演技をするには空気を正確に読み取らなければならないので、どの道、演技力だけがあっても共感能力がなければ意味はないだろうと馬鹿な考えを打ち消す。
 アークタルス・ブラックには努力する方向で検討すると誤魔化したが、無理なものは無理である。人間、ましてや年老いた爺であるのならば諦める方が肝心なのだ。
「そうですね、私は自分の事しか考えられない、どうしようもない利己主義者です。先程エイゼルは言いましたよね、アークタルス様になら使い捨てにされても構わないと思っているのだろうと、ええ、思っています。けれど、それを受け入れているのは私の利益に繋がるからであり、盲目的な崇拝や献身からではありません」
「君の言う利益って何なのかな」
「態々確認するんですか? 知っているでしょう、魔法界の法的な変革ですよ」
 全くの嘘ではない。
 魔法界司法の腐った性根を叩き直そうと考えているのは、既にアークタルス・ブラックにも告げた無難な建前でもあった。本音はダンブルドアへの復讐なのだが、例え拷問の末に血肉を撒き散らす方向で口を裂かれても、この場では絶対に言えない真実である。
「酷い子だね」
「酷いですか?」
「そこで止められたら酷い以外に言いようがなくなる。自分でなければ魔法界の司法は変えられないって尊大な口を利いてよ、にはもっと傲慢でいて欲しいのに」
「幾ら私が馬鹿者でも、そこまで出過ぎた台詞は言えませんよ。私でなくとも魔法界の司法は変えられます、けれど、それには魔法界自体が平和で安定していなければならない、その為の人柱になるのなら喜んで名乗り出ましょう」
「本当に、酷い子だ。でも、だったら私にも考えがある。魔法界が君を使い捨てたら、二度と関わる事がないよう海の向こうで監禁するよ万が一命を落としたら、ビーチー・ヘッドからダイブして再会の扉を開いてやる」
 犯罪者予告及び後追い自殺宣言する程に弟が好きな兄、というものは世間一般に存在し得るのだろうか。少なくとも私の周囲には存在しなかったが、エイゼルは程度を遥かに超越した美形なので普通という枠組からも多少ならば超越して大丈夫なのだろう。
 エイゼルが周囲からどのように捉えられるか心配するのは止めよう。彼も計算高い子なのだから、きっと大丈夫だ。自分自身にそう言い聞かせないと、やっていられない。
「先程の呪いといい、兄弟愛にしては度の過ぎた告白ですね。しかし残念ながら、前者は兎も角、後者は無理でしょう」
「私の愛を受け入れられないって事? それとも怖気付くだろうって見縊ってる?」
「どちらでもありません。ただ、無理なんですよ」
「断言出来る理由があるんだ、教えて欲しいな」
「ええ、勿論」
 腰に両腕を回されたまま正面のアークタルス・ブラックを見据えるが、特に取り乱した様子も見受けられないのでこのまま話を進めるべきだと判断を下した。第一、変に混ぜっ返したところで誰の何の利益にもならない話題である。
「その前に、アークタルス様。ちょっとした、世間話をしましょうか」
 彼との交渉は、しない。
 先程も想像したように、与えられるであろう条件をクリア出来る気がしないのだ。何故こんな簡単な事を嫌がるのかと突っ込まれたら全てが終わる。それに比べて世間話ならばローリスク・ノーリターンで済ませる事が出来る。私が選別した情報だけを一方的に与える宣言だが、エイゼルのような完全拒否の選択が私には出来ないのでこれしかない。交渉と脅迫、それを経た服従または離別、絶対に避けたい事はごまんとある。
 まだ冷たい炭酸飲料を両手で包み、エイゼルとは別方向で交渉拒否を伝えると、目を伏せられ、あからさまに悲しそうな表情をされた。思わず乾いた頬に手を添えてそんな可愛らしい顔をしないで欲しいと沢山甘やかしたくなったが、エイゼルの腕がそれを許さない。
 仕方なく、気が抜け始めた炭酸を一口分咽喉へ通してから、時間をかけて表情を曇らせ、何度かゆっくりと瞬きをしてから躊躇いがちに口を開く。
「ここは、魔法で守られているんですよね」
?」
「私と、アークタルス様と、エイゼルしか、居ないんですよね」
「そうだよ。だから、安心していい」
「……誰にも、言えなかった事があったんです」
 メルヴィッドにも、エイゼルにも、レジーにも。表向き、あの日会話した内容を知っている人間の名前を上げれば、当事者の1人である背後の青年が次の台詞を催促するように腕の力を少しだけ強めた。
 監視させている癖に大嘘を吐くアークタルス・ブラックから手元の飲料へと視線を落とし、顔を上げる。私は今、気丈に振る舞う子供の演技が出来ているのだろうか。
 疑問と不安を抑え込み、声を固くして続ける。
「私が彼女に、に出会った時、どんな状況だったのか、きっとアークタルス様はご存知ですよね」
「ああ、知っている……すまない、勝手に調べて」
「そんな顔しないで下さい。いいんです、あれを最初から説明するのは私にとっても、多分アークタルス様にとっても、辛いので」
 ゆっくりと長く息を吐いて、吸い込む。
 そういえば、これを知っているのは当時居合わせた私とメルヴィッドだけで、エイゼルやユーリアンにも言っていなかったなと思い出した。ならば、監視下であってもごく自然なリアクションをしてくれるだろう。
「私は、契約をしました。彼女と最悪の口約束をしたんです」
 これで後戻りは出来なくなった。言葉は戻って来ないし、時間は戻せない。記憶の保持は私にとっての絶対条件なのだから進むしかない。
 上手く行ったらお慰みと気軽に構える事が出来ればよかったのだが、流石に今回ばかりはそうも言っていられない。命綱をせずに高層ビル間を綱渡りしている気分になる。この緊張に比べたら今迄のものは安全が保証されているバンジージャンプレベルだ。
 今度は3度深呼吸をして、一呼吸毎に腕に力を込めた。力加減を誤ったらしく、手の中の青とオレンジのパッケージが押し潰される。
「出会ったのは、夏季休暇に入ったばかりの真夜中でした。何の前触れもなく現れた彼女に魂と血肉を売る覚悟はあるかと問われ、私は承諾しました」
「……悪魔の常套句のように聞こえるね」
「今思うと、そうですね。そして、私も契約者の常套句を返したんです」
 あいつらころして。いたくして、いっぱい。
 あの時、ハリーに言わせた言葉に穏やかさを持たせて口にする。
「願いがどう叶えられたのかは、私よりも当時のマスコミの方が詳しいかと思います」
 思っていたよりも緊張感のない空気の中で息を吐き、薬っぽい炭酸で舌を湿らせた。誰も次の言葉を発しないのならば、私が続けてしまってもいいだろう。
「5歳か、6歳頃の話です。その頃から、私はずっと汚れていました」
「契約内容は兎も角、そっちは別にいいじゃないか。君が置かれていた環境を考えれば、普通の願いだよ」
「それは違いますよ、エイゼル。普通の願いならば、助けを求めるべきでした。お願いだから助けて、ここから逃げたい、連れ出してと」
 因みにその選択肢はあらかじめハリーから奪ったのだが、まあ、今はどうでもいい話だろう。
「エイゼル、私は先程の言葉に賛同出来ません。憎悪は、美しさの糧になりません。少なくとも、私はこんなにも醜い、美しくなどなれなかった。私は彼等が手酷く殺される事を願ったのです。自分の幸福ではなく、他人の不幸をより強く望んだのです。精神的にも肉体的にも追い詰められた末の言葉、年端も行かない私が出した望みは紛れもない怨嗟でした。私の本質は、汚れなんです」
「君が、自己肯定出来ない最大の理由はそこか」
「……ええ。そうです、アークタルス様」
 愁傷なふりをして頷き、エイゼルの腕を撫でながら心ない声で謝罪すると、そんな事はどうでもいいのだと全くの正論で返された。
 汚れているとか、いないとか。そんな事はどうでもいい。
 重要なのは、彼等との契約は既に果たされた事。私の肉体は差し押さえられ、魂は扉の向こうへ行く前に回収されるから、魔法界の安寧を望むアークタルス・ブラックは兎も角、エイゼルの望む再会は永遠に果たせない設定を開示する方が本題だ。
 既に売却済みの魂を買い戻す手段をエイゼルは持っていない。そして例え手段を発見したとしても、交渉相手の不在により詰む。私ではない私との邂逅は一回性の出来事で、その後の手紙も一方的に届くだけだ。
 しかし、今迄の言動からして外向きのエイゼルに私を諦める選択肢は存在しない。それが出てくるのは、数年後だろう。
は、それで私が諦めるとでも?」
「汚れを受け入れて、契約に抗って、私を呪っても、辛くなるだけですよ」
「それでも、君の傍に居られない方が辛い」
 眉尻を少し下げるように意識して、何故こんなに好いてくれているのか理解出来ないと表情を作り、アークタルス・ブラックに同意を求める視線を送った。返って来た表情から読み取ったメッセージは理解出来ない事が理解出来ないだったのが意外だが、他人から見てエイゼルのこれは納得が行くものなのだろうか。
 隠す必要もないので表情に出して問い掛けてみると咽喉で笑われ、私はそれで良いのだと悲しさを払拭するように目を細められた。
「私のように多くを抱え、エイゼルのように何も持ち合わせていなくとも、過去は過去の物として出会った今から始めようと、あるがままを受け入れて寄り添う。無自覚ならば、それもまた汚れと共に内包された君の本質なのだろう。君の許しは、私達のような人間にとっての祈りと救いだよ」
「仮にそうだとしても、純粋でも無垢でもない存在に救われるのは、辛いだけですよ」
「彼に救われた君が、それを言うんだ?」
「彼に救われた私だからこそ、ですよ」
 腰に回っていたエイゼルの手が胸元を弄り、遺髪の入ったペンダントに触れる。
 当人と相手はそれで良くとも、周囲の人間の多くは本人たちの気持ちなど考慮せずに攻撃するものだ。特に救った側に社会的な非がある場合、それを根拠にして批難は加熱する。私を救ったからといって、彼が殺人を犯した事に変わりはないのは当然の事なのに、多くの人間はしたり顔でそう言うのだ。大抵、この異なる事象を一緒くたにして。
 主観ではあるが、この加熱具合が激しい場合、攻撃する為に批難する側へ加担する人間も一定の割合で出て来る。彼等を某少佐風に言うならば、手段の為ならば目的を選ばないという様などうしようもない連中、である。この連中の処理が実に面倒臭い。
 その辺りの面倒臭さはアークタルス・ブラックの方が理解しているらしく、苦笑しながらフィリッパさんの背中を撫でていた。
 私達の雰囲気が幾分か和らいだ事を感じ取ったのか、ルドルフ君も多少気を緩めた様子を見せていたので飲み物を置き、膝を叩いて合図する。
 フィリッパさんも完全に警戒姿勢を解いた訳ではないので遠慮がちに顎を乗せつつ、顔は常にアークタルス・ブラックへと向いていたが、それでも毛量が豊富で大きな尻尾が左右に振れていた。犬である以上仕方がない事なのだが、ルドルフ君の感情を隠し切れないところは、確かに私に似ているなと思う。
「けれど、そうですね。エイゼルの言う通り、リックに救われた命でもあるんです。アークタルス様に、エイゼルに、メルヴィッドやレジーに、名前も知らない沢山の方々にも救われた命です。だけが、私を救った訳ではありません」
、それでは」
「アークタルス様、結論が遅れて申し訳ありませんでした。全てとはいきませんが、可能な限り情報提供をさせて頂きます」
 この4年半の間に受け取り、未だ手元にある物の提出と、必要ならば聴取も。それを挙げると、エイゼルから全部ではないかと突っ込みが入ったが、これは振りであろう。
「手紙も、メイスも必要ならば差し上げます。けれど、記憶だけは、差し出せません。判ってはいるんです、たった一欠片でも、その有無で今後が大きく左右されるかもしれない事は。それでも記憶だけは、どうか見逃して下さい。これが、これだけが唯一、私が持ち合わせている、綺麗なままの物なんです」
 ハリーだけの、そして私だけのと断言出来る、綺麗な形を保ち続けている所有物は何もなかった。リチャードの遺品であるスノーウィ君は私を気に入らない連中に切り刻まれ、五体満足で生まれた肉体も既に肉や眼球が欠けていて、人間としての尊厳は虐待に次ぐ虐待で踏み躙られた。
 10年と少しの人生の中で、完全な形を留めている物はもう記憶しか残っていないのだと訴えると、意外にもあっさり、それこそ拍子抜けしてしまうくらい簡単に、アークタルス・ブラックは認めてくれた。
 恐らく彼も、落とし所をこの辺りと決めていたのだろう。エイゼルの懐柔を完全に失敗して宣戦布告される事は想定外だっただろうが、私の思考は単純且つ残念なので見通しは立っていたはずだ。記憶も丸ごと全部と言って来れば御の字、程度の期待だったに違いない。
 さて、ではどのようにしてブラック家前当主から繰り出されるハイリターンを回避しようかと考え込もうとした頭を、エイゼルの手が押さえ付けた。
 突然の事に演技ではなく驚いていると、視界に入ったエイゼルの表情が宣戦布告した時のそれと全く同じ事に気付き言葉を失う。僅かに視線が交わった後に大きな舌打ち。何が、彼をこの行動に駆り立てたのか全く判らない。
「虚言者め」
「エイゼル、一体何が」
「レジリメンスだよ。気付かなかった?」
「……アークタルス様が?」
 開心術をかけられたのだと指摘され、驚きの裏で安堵する。必要の部屋でメルヴィッドと出会ってこの方、一度だって閉心術を解除しなかった事が良い方向へと働いた。
 全く世の中何があるのか判ったものではないと思うが、よく考えてみると私が相手していたのは何度も口で、思考で褒め称えてきたあのアークタルス・ブラックである。普通に考えて、挨拶代わりにレジリメンスくらいするだろう。それを見越したのか、私の予想をエイゼルが肯定してきた。
「さっき、頬を揉まれた後に確認したよね、彼とは何時もそんな感じなのかって。多分、2人きりの時は毎回やられてる。、メルヴィッドから閉心術を習ったのは何時? 彼と出会う前と後、どっち?」
「え、ええと、アークタルス様に出会う前です。私の周囲が物騒だからと、メルヴィッドと出会って、割とすぐに」
「習得後は常にそうしているように、は言い含められてるか。今、私がやっても何も見えなかったから。習得順を難易度で決めなかったメルヴィッドも、それに応えた君も優秀だよ。良かったね、君の綺麗で大切な物は無事だよ」
 アークタルス・ブラックと初めて出会ったのは冬。それ以前の習得だと宣言しなければならなかったので適当にホラを吹こうとしたが、不自然にならないようエイゼルが合わせて来てくれた。この辺りのフォローは流石である。
 取り敢えず、整合性を持たせる為に帰宅したらメルヴィッドにこの事を伝えておかないとまずい。守護霊は教えたけど閉心術はまだだと適当な事を言われたら大惨事になる。
 ただ、今はそれよりも目の前で起こりそうな惨事を回避しなければならない。何処まで本気かは判らないが、エイゼルの右手が杖を抜いていた。それを脳が確認した瞬間、反射的に手首を掴んでそれ以上動かないように封じた私は偉いと思う。
「こういうのは、もっとロマンチックな雰囲気の時が良かったかな」
「エイゼル、貴方が何をする気なのかは聞きませんし聞きたくもありませんのでひとまず黙って今すぐ武装解除しましょう」
って偶に他人の話を聞かなくなる時があるよね」
「それが長所になる日が来るとは思いもしませんでしたよ!」
 言いながら、空いた左手で白く短い杖を掴み、思い切り引き抜く。まさか物理解除且つ腕力勝負で負けると思っていなかったらしく、振り返った先に見た呆気に取られたエイゼルの顔は大変可愛らしかったが、そんな彼を愛でるのは次の機会にしよう。
「レジリメンス程度で一々目くじらを立ててどうするんですか、アークタルス様に向かってあんな事を言うからエイゼルは理解しているものだと思っていましたよ。私さっき、はっきり言いましたよね。首を絞められても、骨を折られても構わないから晒していると。記憶だろうと首だろうと同じですよ、好き好んで晒している訳ではありませんし傷付けられたくもありませんが、貴方達になら何をされても恨みません。それが私の信頼なんです」
「……君の信頼の定義をぐちゃぐちゃに踏み潰して汚辱に塗れさせてやりたい」
「ズボンの裾と靴の裏が大変な事になりそうですね、ガーデニング用の長靴を用意しておきますから頑張って下さい。それとも葡萄踏みみたいに大きな樽でやりますか、この際男性用のピンヒールでも構いませんよ」
のそういう所、本当に嫌いだなあ」
 元々怒りを感じている姿が演技だったからか、適当に捲し立てるとエイゼルはすぐに殺気を引っ込めて私を抱き締めた。背中を丸めているらしく顎が肩に乗っているのだが、多分視線でアークタルス・ブラックを牽制しているのだろう。
 その辺りには触れず杖を確保したまま視線を正面に戻すが、アークタルス・ブラックは当たり前のように泰然としていた。
 まあ、そうだろう、そうでなければならない。
 これが経験値不足のレギュラス・ブラックであったら、眉根を下げて身を固くし、悪戯が見つかった子供のような愛らしい事この上ない挙動をするのだろうが、彼はアークタルス・ブラックなのだ。彼はこう振る舞えるから、とても優秀な駒なのだ。
「何時かはバレると思っていたが、思ったよりも遅かったかな。それに、荒れると踏んでいたが、全く動じていない」
「失望しましたか?」
「少し、驚いているよ。嬉しい意味合いで。それは本来、私の台詞のはずだからね」
 互いに苦笑し合い、それもそうだと同意する。
「改めて聞くが、失望したかな」
「いいえ、全く。元々、アークタルス様の昔話を聞いている内に、誰が相手でもそういう事は平然で出来る方なのだろうなと感じ取っていたので」
「自分の身にも降りかかると」
「予想していました。いえ、予想というか、期待ですね。そうでなければ、アークタルス様ではないと。そうでなければ、ブラック家の当主ではないと。そうでなければ、魔法界を庇護出来ないと。そうでなければ、理想の為に、貴方へ私を捧げられないと」
「そこまで誰かに期待されたのは、久し振りだ」
「一応、期待の皮を被った、理想の為にアークタルス様を利用します宣言なんですが」
「判っているよ。話の前にも献身ではないと、そう言ったからね。けれど、それでもだよ」
 君は清くはないが、尊い。そう告げて、アークタルス・ブラックが深く笑う。
 矢張り彼はどうあっても私を持ち上げたくて仕方がないのだろう。彼はシリウス・ブラックから徹底的に教育されたからそうなだけで、本来は情に厚い。冷徹になれないのだ。
「そう言えば、これは世間話だったね」
「一応は、そのような体ですね」
 唐突な改めての確認に、脳が警鐘を鳴らす。全く宜しくない展開が待ち構えている予想は付いているのだが、回避手段が思い浮かばない。
 そんな私の思考を嘲笑うかのように、アークタルス・ブラックが言ってくれた。
「では、面白い話を聞かせて貰ったお礼に、次回はちょっとした手土産を用意しよう」
「何ですかそれ。凄く不安なんですけれど何を用意するつもりですか。アークタルス様からのリターンが怖いから世間話にしたのに、結局こうなるんですか」
「別に怖いものではないよ、ちょっとしたサプライズだ。サプライズは嫌いかな」
「好きではありません」
「そうか。けれど、今宣言したからサプライズではなくなったね」
 これはアレである。好きだと言ったらじゃあ楽しみにしてと言い、嫌いだと言っても今のように返答が利く、始めから行き着く先が同じの、選択肢が潰された質問である。
 杖を返してくれれば問題を解決出来ると穏やかな声で告げるエイゼルの言葉を聞かなかった事にして、話題を変える為の助けを周囲に求めた。とはいっても、彼等以外に居るのはルドルフ君とフィリッパさんだけなのだが、意外にも今回はそのフィリッパさんが立ち上がってくれた。物理的に。
 何の予兆もなくその場から駆け出したフィリッパさんはリードが許す限りの距離でテントの入口へ向かい、遠くからやって来る彼女の本来の飼い主、デイヴィッド・ジョーンズの来訪を全身で歓迎していた。
 助かったと思ったのだが、案外そうでないかもしれない。アークタルス・ブラックが手土産の話を出す以前の空気では、誰も快く彼を迎える事が出来なかっただろうから、寧ろ唐突な話題と空気の変換は彼の為なのだろう。
「判ったからフィリッパ、落ち着け。まだ遊べない、簡単な挨拶と、飲み物を取りに来ただけだ。ダウンだ、ダウン、よし」
 巨大なブラッドハウンドに大歓迎されたロマンスグレーは、近くで見るとより一層美しく見えた。背中に張り付いているエイゼルに、ちょっと彼の隣に並んで私の視界に入って欲しいと頼んだら了承してくれるだろうか。絶対にしてくれないだろうが。
「さて、と。初めましてだな、ヒヨッコ共。マリウス・ブラックだ」
 妙に色っぽい皮肉げな笑みを浮かべ、先程まで赤いボールを投げていた手を軽く上げられながらの、この挨拶である。思わず振り返りエイゼルと顔を見合わせ、次いでゆったりと座るアークタルス・ブラックに視線で問い掛けるが爽やかな笑みで躱され、最後に発言者に視線を戻した。
 多分彼も、私のあからさまな態度で悟ったのであろう。灰色の目を大きく見開き、老人同士ながらも親と子くらいに歳の離れた従兄に向かって震える声で質問を投げ掛けた。因みに恐怖ではなく、怒りによる震えである。
「なあ、親愛なる従兄殿」
「何かな。ジョーンズ編集長」
「お前本当に性根がサルバドール・ダリが描いた絵みたいな男だな! そっちで紹介するなら言っとけよ! キャベツ野郎共とやり合ってる最中、俺がこのダサくて芋臭い名前の所為でどれだけ苦労したか知ってるだろう! 今この瞬間、鼻の下伸ばして可愛がってる子供に嫌われろ!」
はついさっき、私のこういう所を愛してると言ってくれたよ」
「……おい、そこの少年。昨日ちゃんと睡眠取ったか? 十分な食事は?」
「え、はい。ちゃんと寝て、ご飯も食べてます」
「脳味噌が働くように、甘いものとかも、ちゃんと貰ってるか」
「今クッキー食べて炭酸飲んでいますし、この間は、ダリが商品デザインしたロリポップ食べました。イチゴ味でした」
「じゃあ、体調は?」
「問題があったら流石に遠出はキャンセルします」
「オーケー、相手を変えよう。そっちの綺麗な顔した兄さん。この子に持病は?」
「持病はありませんが、年齢性別問わず面食いで性格の悪い相手が好きみたいですね」
「ありがとう、それだ」
 何がそれなのだろうか。
 私を抱えたまま固く握手を交わしているエイゼルにどういう事なのかと問い掛けるが、言葉のままだと返された。面食いは否定しないが、好みの性格は流石に否定したい。
 しかし、それよりもまずは態々屈んでくれた彼へ挨拶する方が先だろう。しかし、何と呼べばいいのだろうか。
「初めまして、ええと、ジョーンズ編集長とお呼びすれば宜しいですか?」
「ああ。いや、どうせならデイヴ、それかキャプテン・ブラックと呼んでくれ。第43コマンドーに所属していた事は今でも俺の誇りなんだ」
「サー、イエス、サー。大尉殿?」
「何で海兵隊式の敬礼とか知ってるんだよ。ミリオタっぽくはないな、見た目がパンクなだけで中身は頭が良くて素直で可愛い系の珍獣か。あと、個人的な好みで殿は要らない。それと俺はヤンキーじゃないからフルメタル・ジャケットの軍曹にもなれない。普通に大尉と呼んでくれ。何なら愛称のキャップでもいいぞ、特別に許可してやろう」
「マリウス」
「地を這うような声で名前を呼ぶなよ。悪かったって。でもお前にこのタイプの人間が懐くなんて天変地異の前触れじゃないか?」
 口数が多いにも関わらず詳細がまるで判らないが、マリウス・ブラックのそれは明らかに思い違いである事が判ったので、自己紹介も兼ねて一応訂正しておこう。
です。多分大尉が思っているような性格ではありません」
「自分の性格と能力は正確に把握しておけよ。生き残る秘訣だ、と。さっさとクーラーボックス持っていかないと病院飛び越して大量の葬儀屋呼ぶ羽目になるな。そんな死に方させたら先に逝った軍曹に顔向け出来ん。名誉の負傷をしたリトル・ソルジャー、また後で構ってやるから、それまでは俺の勇姿を目に焼き付けておけ。週明け、クラスメイトに自慢してもいいぞ、大伯父さんはクリケットのスーパーマンだったって」
「ロジャースかケントかは兎も角、出版社くらいは統一した方がいいかと思います。あと、大伯父様と言うのは」
「お前ジョイみたいな事言うんだな。アメコミ好きなら今度紹介してやるよ、スタイル良くて胸もでかいブロンドの美女だから期待してろよ。まあ、顔は勿論性格はかなり良い女だから好みには合わないかもしれないけどな」
 面食いは否定しないが別に性格が悪い人間が好きな訳ではない、と訂正したいのだが、多分あの様子では聞く耳を持たないだろう。何せハリーの大伯父という質問すら無視してクーラーボックスを抱え、早々試合会場に戻って行くような男性なのだ。
 エイゼルとは違うタイプの自由人なのだろう。ファーストコンタクトが短時間で終わってしまったので、色々知っているであろうアークタルス・ブラックに尋ねようと思ったが、顔を顰めたまま何も聞いてくれるなと雰囲気が物語っていたので止めておいた。
 その他、手土産に関しても問いただしたかったが、多分無理だろうから諦めよう。帰宅した後も今後についてメルヴィッドと相談しなければならないので、今はもうこれ以上頭を使いたくない。
 何度も言うようだが私はこんな事をしたくないからメルヴィッドと組んだのだ。なのに何故こうなってしまうのか、否、考えるのは止めよう。疲れるだけだ。警戒態勢を解いたルドルフ君を構いつつエイゼルに構われ、マリウス・ブラックを観察しながらクッキーを貪る事に徹しよう。
 テントの入口の向こう、野次の中でバットを構えている彼は愉快と呼ぶには些か厳つい経歴だが、スーパーマン宣言をした直後にお手本のような空振り三振するような子なので、取り敢えず微笑ましい部類に入れておくことにしよう。