ドライ・ミード
頭髪と同じ真っ白なユニフォームを着込んだ守備側の選手が老眼鏡を掛け直し、腰を庇いながら投擲態勢に入る。その間、2人の攻撃側の選手がこれもまた膝や股関節に気を使いながら対に設置されている棒の間を小走りで移動していた。
目の前で繰り広げられていたのは、老人とゾンビが繰り広げる超低速デッドヒート映画を彷彿させる、手に汗握りながらも和やかな雰囲気に包まれた試合である。
選手も選手なら観客も観客で、どう頑張っても緊張感が見当たらないクリケットが行われている先、芝生と牧草地を区切る石垣の向こうでは羊達が思い思いに草を食んだり昼寝をする姿が目に入る。村の人間らしき観客も数人見て取れたが、羊同様昼寝をしていたり談笑していたりと誰一人として試合に夢中になっていない。
そんな中、新たにやって来た2人と1匹に気付いた打順待ちの選手が数人、大きく手を挙げて挨拶をして来たので控え目に手を振り返すと、これもまた大きなジェスチャーで少し離れた場所に設置された白いベルテントへ行くように指示される。私が帽子を軽く外して礼を返す隣で、エイゼルはもう少しだけ丁寧な礼の返し方をしており、逆にルドルフ君は人間同士のスポーツに欠片も興味を示さず既にテントが気になるようだった。
この場には恐ろしく不釣り合いなデザインのテントなのだが、グランピングの類と判断してもいいのだろうか。グランピングは大自然の中にありながらホテル並みの快適さを追求したキャンプ方式なのだが、此処は古き良き田舎の村でリゾート地ではない。まあ、中に居るであろう人物の年齢を考慮すると、より快適である事に越した事はないのだが。
大人が10人程度入れそうなサーカス小屋にも似たテントを目指す私達の耳に、孫が応援に来るとかただの見栄に決まってると思っていたのに巫山戯るな羨ましいと敵味方関係なく投手に向かって野次が飛んでいるので、多分彼がデイヴィッド・ジョーンズなのだろう。
しかし、ピッチに立つ彼は地味な雑誌を編集するよりも、派手な雑誌に編集されるタイプの人間に見えた。
年齢こそ周囲の選手と変わりないようだが、モデルや俳優のような際立ったスタイルの良さがまず目に留まり、隙のない立ち振る舞いに思わず感嘆の息が漏れる。白いユニフォームに薄っすらと透けたタトゥーや年齢と共に重ねられた皺をも武器とした勝ち気で色気を含んだ顔立ちをしていて、ダンディなロマンスグレーという言葉を寸分違わず体現している。
はっきり言って、エイゼルと並び立っても遜色がない男性だった。
「ジョーンズ編集長は名前こそクラシカルですが、見目は洒落者の美人さんですね」
「彼も好みなんだ? って本当に面食いだよね」
「面食いには同意しますが、綺麗な方だと思うだけで好みではありませんよ。ついでに、顔立ちの良し悪しはお慕いする理由になりません」
「私にメルヴィッド、アークタルス様にレギュラスが居るのに?」
「残念ながら、リックを忘れています。英雄たる彼には強い敬慕を抱いていますが、容姿は十人並みで美人の範疇に入りません」
「残念ついでに一応訊いておくけど、クリーチャーはどうなのかな」
「クリーチャーは可愛らしい区分なので美人とはまた違いますね。因みにギモーヴさんもルドルフもぬいぐるみも人形達も同じ区分けに属しています」
クリーチャーには言及したのにジョン・スミスを除外したのは無意識なのだろうか、それとも意図的なのだろうかと下らない事を考えながら真顔で返すと、今後私に可愛いと評された物体は全てその外見を疑うと宣言される。
私が感じる可愛いには様々な意味が含まれているのだが、詳細を説明する必要も感じないのでこのまま省いておこう。共に暮らしている分霊箱の3人とブラック家の2人を見ていれば判るだろう、美人と可愛いは両立するのだ。
「あ、アウトだ」
「本当ですね」
そんな中、人間の美醜になど欠片も興味がないルドルフ君が顔を動かし試合風景に視線を移したので2人してつられて見てみると、薄い雲に覆われた空に再び打ち上げられたボールが投手の手の中に収まる瞬間を捉える事が出来た。
アウトを取ったにも関わらず盛大なブーイングに見舞われているのだが、あれは紳士のスポーツと名高いクリケット的に大丈夫なのだろうか。普段ノーコンの癖に孫の前でだけ良い格好しているなと文句を言っている味方選手の気持ちは判らないでもないが。
尤もデイヴィッド・ジョーンズは気にしているどころか芝居がかった仕草で腕を組み、どうだ羨ましいだろう等と大声で口にしているので心配する必要は微塵もないようだ。
先程まではのんびりとした牧歌的な雰囲気だった筈なのだが、私達の来訪により今やその姿は掻き消えてしまっている。次の打者への声援が凄まじい事になっている光景を背にテントへ近付くと、中にはシェルタイプのフロアソファに体を預けて寛ぐ予想通りの人物と、床一面に敷かれた絨毯の上で鎮座する予想していなかった動物がいた。
「とエイゼル、それにルドルフだったかな。よく来てくれたね」
「お久し振りです、アークタルス様。そちらの子は」
「ああ、ブラッドハウンドのフィリッパだ。宜しくしてやってくれ」
「フィリッパさんですか。初めまし、て」
土足で大丈夫だと告げられたので遠慮なくテントに入ると奇妙な感覚に襲われ思わず足が止まる。この表現が的確かどうかは判らないが、吸音材で囲まれた部屋に入った時の違和感と言えばいいのだろうか。打球音が、想像していたよりも遠くなったような気がする。
隣で律儀に止まってくれたルドルフ君は私を見上げて心配そうな顔をしてくれたが、部屋そのものに対して不審がった様子は見受けられない。どうかしたのかと声を掛けて来たエイゼルも平然としているように見えたが、彼の場合は演技かどうか判断が付かなかった。義眼さえあれば声や仕草に出さず問いかける事も出来たのだが、あれはエイゼルの手で現在改良中で手元というか目元にない。
取り敢えず誤魔化す為に絨毯が、とでも口にしておこう。実際、靴越しでも判る絨毯の上質さに笑顔が引き攣りそうになったのも事実だ。テントを目視した時にも思ったが、どう考えてもこんな田舎の草クリケット観戦には釣り合わない代物である。
恐る恐るアークタルス・ブラックの表情を伺うと非常に楽しそうにしていたので、想像していたようにこれも金持ちの道楽の一環なのだろう。諸事情があったにせよ、彼は屋敷1件を平然と譲り渡すような人間なのだ。土や犬の毛に塗れた絨毯など洗わせれば、否、買い換えればいいと思っているに違いない。
意を決して更に一歩を踏み出し、田舎のテントの中で高級品の絨毯を踏みしめているという奇妙な状況を飲み込みつつ、目の前の存在について問いかける。
「フィリッパさんは何時頃から飼い始めたんですか?」
「いや、彼女はデイヴィッドの飼っている犬でね。普段は知人に預けているらしいのだが、今日は私が荷物番だからと押し付けた挙句に、ついでに面倒まで頼まれたんだよ」
「そうだったんですか。他の方の犬ならば、ルドルフは近付けない方がいいですね」
ブラック家の元当主様に荷物番を押し付けられる豪傑がこの世に存在している驚愕の事実に突っ込みを入れたくなったが、犬同士の距離を取る方が先決だ。
テントに入ってから様子が普段とは違う私を心配してか、傍にぴったりと寄り添ってくれるルドルフ君をリードしつつフィリッパさんから遠ざかろうとすると、表情や動作から初心者と判断されたのか、仕方がない飼い主だとばかりに目の前の巨大な体が立ち上がり、お手本のような仕草でルドルフ君の尻の匂いを嗅ぐ。
すると、前の家で必要な躾をされていたルドルフ君も慣れた様子で匂いを嗅ぎ返し、戸惑う暇もなく完全に犬同士でコミュニケーションを成立させていた。きっと、犬には犬にしか判らない空気があるのだろう。
喧嘩ならば兎も角、仲が深まる分には問題ないので好きにさせよう。犬の事は犬に任せるのが一番だ、彼等への理解が浅い不甲斐ない飼い主が手や口を出すよりもずっと良い。
犬種こそ違うものの共に体の大きな2匹の姿を微笑ましく眺めていると、何時の間にか立ち上がっていたアークタルス・ブラックがフリードリンクと張り紙をされたクーラーボックスの蓋を開いた。とてつもない違和感が全身を駆け巡ったが、取り出したアイアン・ブルーとラベリングされた炭酸飲料を差し出し、私に構われてくれないのかと爺心を擽る可愛らしい事を言ってくるので即行でルドルフ君を放置する事を決める。
犬は犬同士、人間は人間同士と言いたい所だが、爺は爺同士としておこう。私をアークタルス・ブラックと同じ人間と括っていいのかが判らないので。
フィリッパさんと同様に余裕をもたせたリードを中央の支柱に結び、ソファの左端に腰を落ち着かせたアークタルス・ブラックの元に戻ると、これもまた恒例の挨拶が行われる。爺同士で申し訳ない限りだが、矢張り彼は私の事を愛玩犬か何かだと思っているらしい。
私を挟んでアークタルス・ブラックの反対に座ったエイゼルがランチバスケットの中身を取り出しながらポメラニアンと呟いていたが、こちらは無視する事にした。そもそも今はまともに喋る事が出来ない。
ブラック家本邸には劣るものの、それでも座り心地が快適なソファに背を預けたまま大人しく頬を揉まれ終わると、こちらも一通りの挨拶が終わったらしいルドルフ君とフィリッパさんが伸ばした足の先で寛ぎ始めた。両手に花どころか、両手足に花である。
頬を揉まれている間に準備をしてくれたのか、エイゼルの手がアルファベット模様のアイスボックスクッキーを2枚の皿に乗せて差し出して来たので受け取り、更に片方をアークタルス・ブラックへ差し出す。因みに今回の手土産は、例のクッキーモンスター発言で作る事となった謝罪の品の余りである。
エイゼルからは何も告げられなかったが、どちらがどちらの皿なのかはひと目で判るようになっていて、アークタルス・ブラックの皿には態々ARCTURUSと文字を並べて最後に肉球マークのクッキーが添えられている一方、私の方はSACJDSAOIとランダムに選ばれたとしか思えないクッキーが乗っていた。
「こんな可愛らしいクッキーを頂くのは久し振りだ。そう言えばクリーチャーも褒めていたよ、の作る焼き菓子は本当に美味で、何より、自分には出せない優しい味がすると」
「本当ですか。クリーチャーにそう言って頂けるのは光栄です」
「素直で良い子だ。この調子で他の賞賛もすんなり受け入れて貰えると尚いいのだが」
「それはそれ、これはこれです」
「ねえ、アークタルス様とは何時もそんな感じなんだ?」
「そうですよ。何か不都合でもありますか?」
「いや、不都合というか。クッキーを勝手にメドブーハのつまみにした事は謝るから、そろそろ私も構って欲しいなって」
「……もう。仕方ありませんね」
手渡された9文字に意図は存在しない、そう思ったのは一瞬だった。
自分の評価を下げてまで口にしたエイゼルの言葉は、全て嘘だ。彼の為に作ったクッキーを勝手に食べるも何もないし、私の前でメドブーハも飲んでいない。
これは、私に向けられたメッセージだ。隠語ではなく私の脳味噌で解を得られる簡単な暗号と連想ゲームだが、未来で作られるアニメーションが鍵となる為、この時代の人間には絶対に理解出来ない。
9文字を等分し、最初のSACは作品名のスタンド・アローン・コンプレックス。要素としては全く重要ではないが、とある話にメドブーハが出て来る。次のJDSは作品内で頻繁に引用される作家、ジェローム・デイヴィッド・サリンジャーの略称。最後のAOIはそのままアオイと読み、覗きが趣味だと淡々と口にする天才ハッカーの名前だ。
多分だが、見られているから下手な事をするな、という警告である。耳元で囁く事もせず魔法も使用しなかったので、かなり強力な手段で一挙手一投足が監視されているのだろう。違和感を表情に出した挙句それを探る手段さえ思い付かなかった私に対し、エイゼルはこの短時間でそれが監視だという事まで見抜いた。この子もメルヴィッドも頼りになり過ぎて頭が下がると同時に、自分の不甲斐なさに泣き崩れたくなる。
「メドブーハ、とは初めて聞く単語だね。アルコールかな?」
「ええ、そうです。ミードに水やアルコールを加えたスラブの蜂蜜酒なんですけど、素朴なこのクッキーと相性が良くて、もう1枚、あと1枚となってしまって。今日の為に持って行く事を知っていれば、もう少し自重出来たんですけど……まだ怒ってる?」
食べ物関係を鍵としたので、瞬時に理解出来た事を悟ったのだろう。それはもう自分の魅力を最大限に活用して尋ねて来たエイゼルに体を寄せてから、もう大丈夫だと首を縦に振って必要な情報が伝わった事を示してみせた。
「本当に?」
「本当です。ロールケーキだったら許しませんが、アイスボックスクッキーですから」
「成程、移動手段の詳細が伏せられたから私は救われた訳だ」
普段はアークタルス・ブラックの年齢を考慮してムースやシフォンケーキのような柔らかい菓子を作っているのだが、B.I.C.がナイトバスのように乱暴な移動手段だとしたら到着する前に轢殺死体化が決定事項となる為クッキーを手土産にした事が良い方向に働いた。というのは建前で、謝罪の癖に調子に乗って作ったアイスボックスクッキーの量がエイゼルとメルヴィッドの胃袋を以ってしても消費し切れなかったので元々作るつもりだったロールケーキを取り止めたのが真実である。
真実とは常に誰かにとって不都合なものなのだとか、悪い意味で適当な言い訳を心の中で並べつつ、オレンジ色の炭酸飲料を飲みながら先程利用したB.I.C.について質問している2人の会話に耳を傾けた。
「ああ、では矢張りブラック家が経営しているんですね」
「責任者は私ではないがね」
「そうなんですか?」
客の選別方法から考えてアークタルス・ブラックの管轄だと思っていたのはエイゼルも同じらしく、2人して演技ではなく少し驚いた表情をすると何とも表現し難い複雑な表情を返された。愛する孫が初めて作った美味しくない手料理の感想を訊かれた祖父の顔、とでも言えばいいのだろうか。
「昔は関わっていたが手が回らなくなってね、早々に席を譲ってしまったよ。今あの会社の実権を握っているのはマリウスという男だが、些細な問題でも大きなバッシングに繋がる立場にしては上手くやっているよ」
「それ程大きな問題を抱えた方なんですか」
「少々難はあるが、優秀な男だよ。面と向かって言う事は稀だがね」
テントの外で繰り広げられている光景を眺めていた灰色の視線が私を少しだけ掠め、エイゼルで結ばれる。しばらくそうした後で、いずれ判る事だろうからと溜息を吐き、年老いた唇から忘却の彼方へ飛ばしていた事実を告げられた。
「マリウスはブラック家の出で私の従弟だが、スクイブだ」
「スクイブの存在は知っていますが、それが問題になるのですか。魔法は経営に必須の要素ではありませんし、どうしてもと言うのならば秘書を雇えばいいだけの話では?」
彼がエイゼルと成る以前の彼では考えられないような言葉を平然と口にしているが、内容は尤もなものだ。経営に必要な資質に魔法は存在しない、突き詰めれば人対人の集合体であるそれに必要なのは超能力ではないのだが、しかしそれを考えると矢張りスクイブは不利な立場には居る。
この魔法界で、スクイブは明確な差別対象だ。人対人の状況に立たされた時、見下され、罵倒され、嘲笑されるのがスクイブである。それはブラック家の出身であっても例外ではないというか、ブラック家だからこそ、その排斥の強さは一般的な魔法使い以上だろう。
「全ての魔法使いがエイゼルのように割り切った考えを持っていれば、魔法界も多少はまともになるのだがね。スクイブは魔法界に繋ぎ止めておかなければならない人材であると判断出来る魔法使いは余りにも少ない」
スクイブを魔法界に留めなければならない理由が判るかと突如質問を振られ思わず肩が跳ねた。アークタルス・ブラックは時折このように私を試そうとするのだが、それだけ期待してくれていると前向きに捉える事にしよう。
錆びて枯れた脳味噌をフル回転させる必要もない、今迄のアークタルス・ブラックの言動から考えれば彼の欲しがる答えは容易に想像が付いた。
「マグル界への情報漏洩が怖くて手放せません」
「そうだね、流石に簡単過ぎたか」
スクイブの親が余程の慎重派でない限り、彼等は様々な魔法界の情報を手にする事が出来る。にも関わらず、成長してみると彼等の居場所は少なく、魔法と使えないという点だけで差別されている。ならば情報を売って復讐してやろうと、募らせた恨みを爆発させる人間が存在していても不思議ではない。
大多数は差別的な魔法使いを侮蔑の対象とみなし関係を持つ事すら嫌がるだろうが、中には私のように、積極的敵対を選択する人間も居るだろう。そして、そのような立場を進んで選び取る人間は、往々にして節度というものを持たない。
話を聞く限り、マリウス・ブラックは私とは真逆の考えを持つ、極少数派である魔法界と関わりながらも憎悪の感情を表に出していない人物なのだろう。ストレス耐性は高く、また経営者として優秀な事から相当出来た人物かと思われる。アークタルス・ブラックは難有りと言っているが、多分私にとっては気に留める必要もない位の小さな事だろう。是非、一度顔合わせをしてみたい。
腹の底で考えていた事が表情に出ていたのか、挙動だけは小動物なんだけど思考に子供らしさが皆無だとエイゼルは苦笑し、そう言えばと言いつつ私の頬を片側だけ軽く摘み、柔らかさを確かめるように数度揉んでから手を離した。
「聖ジェローム教会の牧師もスクイブだと自己申告して、アークタルス様には感謝していましたよ。随分助けて貰って、こうして平穏に老いる事が出来たと」
「彼か……彼は、両親共魔法使いだったな。そうか、そう言えるようになったのか」
遠い過去を思い出したような顔の皺に、深い笑みが刻まれる。優しい人だと思わず口に出してしまうと、先程私が言い当てたように決して善意からではないと老人の瞳に経営者然とした光が灯った。
「ブラック家の先祖は彼等の為に支援団体を設立して、スクイブがマグル界で暮らせるよう生活の面倒から教育の金銭負担、就職支援までやっているが、勿論条件が存在する。今もこの団体では、所属したら一生支援団体の管理下に入り、魔法界の為になる活動に加わる事を制約させている」
「けれど、その契約は双方同意の上で成されるものだと牧師から懇切丁寧な説明がありましたよ。オークビーが設立したスクイブ支援協会が煩いとも愚痴と一緒に、でしたけれど。スパイの養成所とか、ブラック家の狗と揶揄されると」
「ああ、あそこは支援と共に、スクイブの差別撤廃と地位向上を訴えているからね。私達とは思想が違う。それに、彼等がブラック家から放たれたスパイなのは事実だ」
自身を差別し排斥した世界を、それでも守る。余りに高潔過ぎて私には到底理解出来ない思想だが、そのような人間が一箇所に複数存在するものなのか。世界には、私が思っている以上に英雄が存在しているのかもしれない。
恐らく一部世間で賞賛されるのは声の大きいイドリス・オークビーのスクイブ支援協会なのだろうが、実際に両世界の間で上手いこと折り合いを付けてやっているのはブラック家の支援団体なのだろう。根強い差別のある魔法界で居場所を訴えるよりも、軋轢のない非魔法界で平坦な人生を歩む方が遥かに楽だし、嫌な思いも最小限で済む。自分の行動が、魔法界の為に使われるという現実さえ受け入れる事が出来ればの話だが。
そのように逃げて、率先して差別撤廃の運動を起こさないから何時まで経ってもスクイブの立場は良くならないのだ、辺りが支援協会の言い分だろうか。その場合、はっきり言って知った事ではないとしか返しようがないだろう。設立者たるイドリス・オークビーは19世紀後半の生まれだ。それだけ長期間活動しても状況が改善しないのならば、アプローチや運動方法が間違っていると考えた方が妥当だ。
その思考が表情に出ていたのか、皺だらけの手に頭と頬を撫でられ、怖い顔をしてはいけないよと窘められる。灰色の瞳には穏やかな笑顔が浮かんでいた。
「種類は違えど、も数多くの支援者を見て来たから、この辺りを敢えて説明する必要はないようだね」
「そうです、ね」
その視線と手が首筋へ下り、肩、腕、そして左手首へと触れ言葉に詰まる。4ヶ月前、あれだけ派手に暴れたのだから追求される可能性はあったが、何故、今このタイミングで。
「ところで君達の、最初の支援者である・と名乗っている存在について幾つか尋ねたい事があるのだが、勿論了承してくれるね?」
こうなる前に切り出した方がよかったのだろうか、否、それはそれでタイミングを間違えると大惨事になる予感しかない。今現在も、割と惨劇の幕開けのような気がするが次の手が全く思い付かず全身が緊張する。
普段は気にもならないブレスレットだけが、いやに冷たく感じた。