曖昧トルマリン

graytourmaline

目玉焼きとレタスとトマトのスープ

 イギリスと日本、それぞれの田舎に住んでみると、良い面と悪い面が浮き彫りになってしまうのは仕方のない事だろう。
 今迄はイングランド中部や南部の比較的人口密度が高い街を転々としていたが、アークタルス・ブラックに屋敷を譲られて以降は山と湖と牧草地しかないこの場所で放牧された羊の鳴き声を聞きながらのんびりと暮らしていたので、比較対象としての明確な像が出来上がってしまったのだ。
 今回挙げるのは観光業、もっと絞ってしまえば観光案内所の事である。メルヴィッドに引き取られて以降、イギリスの料理や宅配業者や鉄道業等、様々なサービスに不満を漏らし悪態を吐いて来たが、これに関しては素晴らしいの一言に尽きた。
 宿泊施設や公共交通機関の予約案内は勿論、現地の旅行に必要な各種パンフレットも充実しており、その土地の地図や最新のイベントの情報も手に入るので兎に角使い勝手が良い。去年、エメリーン・バンスに関する諸々で情報収集に利用させて貰ったのだが、ネットワーク環境が整備されていないこの時代において観光案内所は比較的正確な情報が大量に手に入る素晴らしい場所であった。何より、余程の僻地でもない限り、どんな小さな町や村にも必ず1件は存在するのが大変有難い。
 そして、その利便性に目を付けた魔法使いは、当然のように私以外にも居たのだ。
「B.I.C.? ああ、バックサイド・インフォメーション・コーチか。だから村外れの駅じゃなくて、中心に向かって歩いてるんだ」
「エイゼルはご存知なんですね」
「少しだけね、覚えた記憶はないけど、元から知識の1つとして刷り込まれてるみたいだ。ツーリスト・インフォメーション・センター裏に停留所を設置しているコーチだろう?」
「それです」
 外出中だから記憶喪失設定を忘れないように会話しろと釘を刺してくれたエイゼルに感謝しつつ、どうしても単語に違和感を覚えてしまい背中がむず痒くなる。
 どれだけ英語に慣れ親しんでいても根本は日本人なので、コーチと言葉を放つと人材育成が真っ先に候補に挙がってしまうが、今回の場合は長距離バス的な意味なので勘違いしてはならないと、違和感を排除するよう頭に理解させた。共に由来が四輪馬車のコチなのでこればかりは仕方がない上、よく考えると同音異義語の面倒臭さで日本人の私が文句を垂れるのも随分おかしな話である。
 その辺りはイギリス人であるエイゼルに説明する必要もなく、また日本人の私相手にボケ倒すつもりもないのか、ナイトバスみたいな3階建ては流石に目立つからボンネットバスでも来るのかなと無邪気で可愛らしい言葉を口にしながらチケットを曇天に透かしただけだった。何気ない仕草だが、彼等の一挙一動は本当に美しく見ていて飽きる事がない。
「詳細は判らないけど、こうした交通手段が複数あるのは良い事だよね。クリケット観戦って事はマグルの集まりだろう、そこに姿現しや箒で行くのは危ないから」
「ええ。かと言って、幾ら隣州でも田舎から田舎へバスと電車を乗り継いで、では時間がかかりますし、今日はメルヴィッドも居ませんからねえ」
 地図上では目的地を確認出来たのだが、欠片も魔法界らしさが感じ取れない場所なので姿現しは不安に過ぎ、昼間の箒移動は目撃される可能性が高まる上に私の視力と同行するルドルフ君の輸送方法に問題が生じる為、不採用。イングランドの田舎からスコットランドの田舎へ移動するのに公共交通機関を利用するのは時間と体力と金銭の無駄であり、唯一車の運転資格を持つメルヴィッドは別件で不在。そんな私達の悩みを解決すべくアークタルス・ブラックが提示したのがこの方法であった。
 元の世界では姿現しと暖炉で済ませてしまえるような生き方をしていたのでB.I.C.がどのような移動手段なのか詳細は全く不明だが、エイゼルには多少知識があり、アークタルス・ブラックから推薦されているので楽観視しても大丈夫だろう。特に、ブラック家の元当主様は明確な根拠もなく断言するような人物ではない。
 情報はないが不安もない、それが伝わっているのか初めて訪れる村でも怯むことなく興味津々で突き進もうとするルドルフ君を横に足を進めると、傾斜の付いた緩いカーブの先にようやく目的の建物が姿を現した。
 観光案内所とはいっても、周囲の風景から切り離されあからさまにそれだと判る日本のものとは違い、軒先に看板が出ている事を除けば隣家と何ら代わりのない外観の石造りの家である。湖水地方の村にありがちなアッシュグレーのスレートを積んで作られた可愛らしい外壁には小さな花を咲かせた蔓バラが絡まり、観光客が想像するイギリスの古き良き田舎の風景がそこにはあった。
 既に夏季休暇に入っている観光客達の背中を眺めながら正面を通り過ぎ、ご機嫌な様子で尻尾を振りながら散歩するルドルフ君を連れて小路に入ると、何かに気付いたのか鼻先を建物の裏手へ向けて一声鳴いた。今日はペットとして連れて来ているので盲導犬用ではなく普通の胴輪を付けているのだが、クラップの血が先にあるものの存在を感知したらしい。
 優秀な能力を持ち愛嬌に溢れ飼い主の事が大好きなルドルフ君はエイゼルが遣わした天使か何かじゃないかと早くも親馬鹿な事を考え、無愛想だがそこが可愛い青蛙神のギモーヴさんは種族名に神の字が入る位に尊い霊獣なのでルドルフ君も紛れもない天使なだろうと、論理的思考を放棄した結論に達した。
 脳の実在を疑いたくなるような馬鹿な考えだと自覚はしているが、この子の為にも、矢張り初めて訪れる場所への姿現しは挑戦するべきではないだろう。下手をしたら私かルドルフ君の内臓を拝む羽目になるかもしれない。
「頭の具合が残念そうな顔をしてるね。何を考えてるのか口に出してごらん」
「ギモーヴさんが月から気まぐれに降りて来たの神様ならば、ルドルフはエイゼルが遣わした天使かと考えていました。姿現しに失敗したらその天使の内臓が衆人環視の中で晒される可能性も十分にありえるんですが……所で天使に内臓は存在するんですかね?」
「二重の意味で気の毒な脳の構造をしてるね。どうしての想像力は右足をファンタジーに、左足をスプラッターに突っ込んだまま前進しようとするのかな」
「では、足を増やしましょうか。体の表面に付いている恥部ですら他人の目に触れると恥じらいを覚えるのだから、皮膚の下に隠されている内臓を見られるのはとてつもない羞恥心を感じるに違いないだとか、そんな方向で」
「そこで足を増やそうとする思考が理解出来ないし、方向性に至っては意味不明だよ」
 当然のように全却下されたので、それではエイゼルはどうなのかと問い掛けてみると、私からの問い掛けを待っていたかのように少年のように輝かんばかりの笑みを浮かべ、曇りなき眼で骨や内臓や筋肉のような古典的な部位は止めようと言い、そして続ける。
「同じ状態で行方不明にするなら断然脳味噌だね。脳とそれ以外の肉体が分離した時、人間と犬は自分の脳の不在に気付けるのかって実験してみたい」
「水槽脳仮説みたいな事を言いますね。まあ、正直興味はありますが」
 スプラッターはそのままに、ファンタジーの領域を廃し哲学の領域へシフトチェンジしたのだが、突っ込みを入れるよりも先に思わず同意してしまった。
 もしかしたら神秘部内に存在する脳味噌がそれなのかもしれないが、あくまでも想像に過ぎないのでこの場での言及は避けよう。しかしいざ考えてみると謎だとしか言い様がない、あの脳味噌は一体何なのだろうか。アークタルス・ブラック辺りなら知っているのかもしれないが、世間に公表していない事実を何故知っているのかと問われた場合、言い訳に困るので謎は謎のままにしておくしかない。
 まあ別に、気になる程度の問題で何が何でも知りたい訳でもないのだ。メルヴィッドが調べろとでも口にしない限り、この件に関しては放置の方向で問題ないだろう。
 クリケット観戦をする爽やかで穏やかな休日に見合わない思考かもしれないが、悲鳴と怒号が飛び交い人間の臓物が散乱する剣呑な平日が訪れた際には清涼感溢れる会話が出来るよう心掛けるので、それで釣り合いを取る事にしよう。
「ああ、ここだね」
 相変わらず馬鹿な事を考えながら路地を抜け案内所の裏に出ると、その瞬間に目的の場所を発見したエイゼルが木製の扉を指し示した。印象は薄いが視認出来る、という事は、隠蔽魔法は漏れ鍋と同系列なのだろう。
 エイゼルの背中に続いて扉の前に立つと、B.I.C.と頭文字がレリーフされたプレートがドアに貼り付けられている事が判った。一応、カーテンの隙間からパンフレットやカタログが陳列されたスタンドが見えたので、何らかの店である事には間違いなさそうである。ただ、バスが停まりそうな場所ではない。
 そして、アークタルス・ブラックはルドルフ君のチケットも送って来たのが、移動手段が判らないまま犬を連れて入店してもいいものなのだろうか。リードを何処かに繋いで入店し直接尋ねるのが一番早いだろうと考えが浮かんだ頃には追加の文字が浮かび上がり、サイズ問わずペットも歓迎致しますと案内されたので、気兼ねなく敷居を跨ぐ事にする。
「いらっしゃいませ。ようこそ、バックサイド・インフォメーション・コーチへ」
「こんにちは。初めて利用するから何も判らないんだけど、大丈夫かな」
「勿論です、どうぞこちらへお掛け下さい」
 エイゼルの後を追い足を踏み入れた店内は、驚く程普通だった。
 扉に備え付けられた来客を告げるベルといい、清潔で柔らかい印象を与える内装といい、カウンターに座っている女性がゴブリンである事以外は非魔法界の村にある小さな観光案内所と何ら変わらないように思える。細かい点ならば印刷物が魔法界製なので写真や文字が動いている事が挙げられるが、その辺りは大した問題ではない。
 促されるままカウンターチェアに座れば私の雑な道案内は終わりだ。後は全てエイゼルに丸投げして店の中を観察するが、矢張り魔法界らしさはほぼ感じられない。私達の日常生活の延長線と言っても差し支えない程しっくりし過ぎて、逆に不安になるレベルである。
「本日は当交通をご利用いただき、誠にありがとうございます。初めてご利用になられるお客様は会員登録が必要になりますが、当交通がマグルへ不必要に広まらないようにする為の措置なので、何卒ご理解のほどよろしくお願いします」
「その辺りは大丈夫だよ。ああ、そうだ。今回は友人が先にチケットを取ってくれたんだけど、今出した方が良いのかな」
「はい。でしたら先に拝見させて頂きます、登録用紙はこちらになりますのでお書きになってお待ち下さい」
 2人と1匹分のチケットが受け渡されている会話を聞きながら登録用紙に目を通し、用意されていたボールペンをノーカーボン紙の上に走らせる。全く違和感がないのだが、よく考えてみると違和感だらけの光景だ。
 ここは魔法界側の場所なのに、差し出されたのはノーカーボン紙にボールペン。隣のエイゼルも魔法界でこの形式の書類に当たるなんて思ってもみなかったと呟いているので、先程のように私の感性がおかしい訳ではない。
 何もかもを結び付けたくはないのだが、此処もアークタルス・ブラックの息がかかった企業なのだろうか。そもそも会員登録しなければならない理由からしてブラック家が関わっている匂いがする。一般的な魔法使いの常識である、バレても記憶を消せばいいという楽観的且つ腐った考えが微塵も感じられないのだ。
 ただ、そうなると1つ、不思議な点がある。登録用紙には種族の選択があるのだが、魔法使いやゴブリンに混ざってマグル(非魔法族)と書かれた項目が存在していた。
「種族の項目にマグルもあるんですね」
「はい。当交通は設立当初から、限定的ではありますがマグルの利用も認めております」
 何時の間にかカウンター内に戻って来ていたゴブリンが書き終わった登録用紙を回収し、代わりに呼び寄せた幾つかのパンフレットを広げ説明しても大丈夫かと問い掛けて来た。余裕を持って家を出たし、アークタルス・ブラックもこの辺りは見越しているだろうから頷くと、横でエイゼルもお願いしますとよそ行きの顔を作っていた。
 普通の人間ならば老若男女問わず見惚れてしまいそうな雰囲気を醸し出しているのだが、職務中は何があろうとも態度を崩さないと決めているのか、そもそもエイゼルが彼女の好みではないのか、こちらもこちらで営業用の表情を微塵も崩さず言葉を続けた。
「ご存知の通り、マグルは一切の転移魔法を使う事が出来ません。マグルにとって箒は清掃道具であり、フルーパウダーはただの粉に過ぎません。これはマグルがそう認識しているか否かではなく、例え魔法道具だと認識していても使用する事が出来ないか、使用出来ても制御が出来ないという意味です」
「ポートキーは魔法省の許可がないと作れない。姿現しは同行する魔法使いの能力に左右されるから、リスクが高いか。ナイトバスは転移魔法に失敗した魔法使い専用だし」
「はい、仰る通りです。なので、周囲に魔法使いが存在しない環境で魔法力を持つ子供が生まれた場合、多数の障害が生じてしまいます。魔法道具はロンドンやグラスゴー、ダブリン等の主要な都市で多く扱われておりますし、通販の為の梟も病気に罹ってしまった場合には矢張り同都市で治療をしなければならなくなります」
「ホグワーツへの移動なんて正にそれだね、例えば、北アイルランド在住者が飛行機で南イングランドにまで来て、子供は鉄道でスコットランドに、両親は飛行機でまた北アイルランドへ何日がかりの移動をするのは馬鹿げている」
「ニッシュ様と同様の考えを、当社の創立者も持っていました。また、当交通は転移魔法に慣れていないマグルの為に極力体への負担が掛からないよう考案されておりますので、マグル同様魔法が使えないスクイブや、環境の変化に弱いペット、お体の不自由な魔法使い、小さなお子様、精密魔法道具の移送にも安心してご利用頂けます」
 差し出されたパンフレットの1つを眺めるとかなり強気な値段設定となっているが、仕事の出張や都市部への送迎で蓄積される疲労と消費される時間、紛失しては困る荷物や社会的弱者の身の安全性を考慮すると納得が出来る。利便性に相応な対価は必要だろう。
 他にもチケット予約は窓口とふくろう便と郵便と電話の4種で対応していたり、支払いに両世界の通貨が使えたりと何かと便利だ。停留所も観光案内所裏だけではなく、グリンゴッツ脇や聖マンゴ正面、ホグズミード村郊外、9と3/4番線内部のように魔法使いが頻繁に利用する場所にも設置されている。
 当時は気にも留めなかった事象を今更納得した、だからこの世界に来たばかりの時、あの親子連れは村外れからやって来たのかと。自身と子供3人とベビーカーを箒で運べる筈がないし、住人が魔法使いばかりのホグズミードならば態々郊外に姿現しする必要はない上に、子供を3人連れての移動は常に危険と隣合わせだ。
 こうして解答を示されなければ気付けないから、私は間抜けなのだ。
様、気になる点が御座いましたら是非ご相談下さいませ」
「ああ、いえ。ソーホーに行くのにも便利だなと思っただけです」
「何でソーホー? に縁がある場所だとは思えないけど」
「エリザベスからデートのお誘いがあって。ダイアゴン横丁から移動しようと思っていたんですが、こちらの方が便利で安全だなと」
「でしたら、ご自宅への送迎まで含めたプランも御座いますので、是非ご検討下さい。こちらまでご家族様が姿現しで送迎される場合は、このパンフレットの注意事項に必ず目を通すようお願い致します」
 差し出された一際目を引くパンフレットには、魔法を使用してこの停留所に出入りする場合にはサービスを利用する、しないに関わらず別途料金が発生する旨が書かれていた。目を通しながら鉄道の入場料のようなものかとエイゼルが口に出して納得すると、今迄営業用の表情を浮かべていたゴブリンがあからさまに胸を撫で下ろしたので、この辺りでクレームを付ける魔法使いが多いのだろう。
 併せて書かれていた注意事項には、停留所から停留所への姿現しを行った魔法使いは住居侵入罪で魔法省に付き出すとあるので、まあ、つまりそういう事だ。
 金にがめつくモラルを持たない何処かの馬鹿がこの停留所に目を付け、無料で整備された安全地帯として使用した経緯があるのだろう。何せこの停留所は観光案内所の裏、大きな街どころか小さな村々にまで存在すると言っても差し支えないのだ。姿現しは長距離になるにつれて危険度が増すが、このような場所があれば短距離の移動を繰り返すだけで良い。しかも完全に管理されている為、人目に付く心配が全くない。
 人間とゴブリンの生活や会話に興味を示さないルドルフ君が暇を持て余し、遂に構って欲しい願望を抑え切れず顎を膝に乗せて上目遣いをして来たので苦笑すると、カウンターから見えなくても状況を理解したらしいゴブリンも話を纏めて立ち上がった。
「それではコーチへ案内させて頂きます」
 言いながら足を向けたのは店内にある何の変哲もない扉で、通された先も然程広さのないプレイルームに似た部屋だった。天井が低く窓がないので閉塞感を覚えるが、これと似た感覚を味わった事がある。
 一体何だったかと記憶を辿る前に、エイゼルが扉の脇に設置されたボタンに視線を注ぎながら軽く腕を組み、その答えを言い当てた。
「広いエレベーターの中に居るみたいだ」
「はい。当交通はバックサイド・インフォメーション・コーチとありますが、感覚としてはちらが近いかと思います。では、移動します」
 エレベーターよりも数が多く操作が複雑そうなボタンを躊躇なく押したゴブリンが私達に向かって合図すると、一瞬だけあの軽い目眩のようなものに襲われる。それでも従来の転移魔法と比較すると、その快適さは比べ物にならない。
 時計の秒針が僅かに動く間に到着しましたと告げられ、扉を開けた先には、今入って来たばかりの停留所とよく似た部屋が広がっていた。こちらの停留所は私達が来た方よりも観光地らしさが抜けて更に小じんまりとしているが、時間がゆっくりと流れている気分に浸れて居心地は良い。
 景色と匂いが変化した事に驚いているのか、ルドルフ君は私の傍らに留まったまま部屋のあちらこちらを眺めた後に体を擦り付けて来た。不安がっている様子はないが、慣れない不思議な事を目の当たりにしたので安心したいらしい。
 耳の裏を掻いて構っている間にエイゼルが復路のチケットと姿現し用の回数券をゴブリンから受け取り、念の為目的の場所の方向を尋ねてから私達を呼ぶ。
「それでは、良い1日を」
 深く頭を下げたゴブリンに礼を言いこちらも挨拶をして停留所を出ると、背後に存在していた筈の扉の気配が急激に薄くなった。カンブリアの村同様、存在はしているが見付けようと思わなければ見過ごしてしまう、そんな入り口だ。
 さて、と正面を向けば、辺り一帯には牧場が広がっている。胴回りが白い毛に覆われている牛が草を食みながら私達を見ているが、生物の視線といえばその位だ。
、何あの変な柄の牛。絵心のない奴にうろ覚えで色を塗られたパンダ? それともマレーバクの種を超えた親戚?」
「ベルテッドギャロウェイですね。可愛らしいですが、ああ見えて肉牛です」
「君、本当そういうのに詳しいね」
 可愛い動物が好きなのだと言うとルドルフ君が反応したので、勿論貴方も十分に可愛らしいと抱き締める。今も暇を見付けては一緒に遊んでいるが、夏季休暇に入ったら今以上に構い倒し、ブラッシング以外にも念入りなシャンプーをしてあげよう。
 白と黒の犬を抱き締める私の傍らで、エイゼルは同色の牛から視線を外して歩き始めた。付着した毛を魔法で取り除きながら隣に並び、今日は魚の予定だったが牛肉にしようかと問いかければ、折角鰻を手に入れたんだからそちらを食べたいと返される。
「……そう言えば、帰宅したら鰻のゼリー寄せが待っていましたね」
 今迄忘れていたが、薄く茶色がかったゼリーの中に浮かぶ、灰色の皮を纏った白いぶつ切りの身を思い出してテンションが下がる。それでも、ブラック家から手に入れた鰻も同時に食卓に出すのだから今日の夕食もきっと大丈夫だと自分に言い聞かせた。
 トマト煮にアヒージョ、燻製に骨煎餅に肝焼きに半助鍋。白焼きは山葵醤油か塩檸檬で。偶にはこのように、魚しか食卓に上らない日があってもいいだろう。そう前向きに考えていないと、ゲテモノは食べられるが不味いと判っているものを敢えて食べる事はない冒険心皆無の私に、あのゼリー寄せを食べる勇気が湧いて来ないのだ。