西瓜と檸檬の錦玉
普段は取り立てて用もないのでこうして足を踏み入れるのは稀なのだが、相変わらずこの部屋は居心地が良い。元は同一人物なので当然メルヴィッドの部屋とも雰囲気が似ているのだが、口の空いた菓子袋が放置されていたり、棚に並べられた本のジャンル分けや並び順が適当であったり、ゴミ箱が書き損じの紙でそろそろ溢れそうだったりと、所々が雑然としていて整理整頓をしっかり行っているメルヴィッド程の几帳面さは感じられない。
最大の相違点としてテレビの番組中や、以前世話になっていた里親の家で見た緑色の蛙のぬいぐるみを咥え尻尾を振りながら擦り寄って来た白黒の大きな毛玉が挙げられるのだが、一体何時の間に同居人が増えていたのだろうか。否、人ではないのだけれど。
「予想はしてたけど、何の躊躇もなく懐かれたね」
「確かに犬には好かれる方ですが、初対面でここまで懐いてくれる子は稀ですよ」
耳と尻尾と模様のパターンから第一印象は毛量が豊富なボーダーコリーだったが、近くに寄られると寧ろコリーらしさはおまけ程度で、基本はサモエドのような大型スピッツ系だという事が判った。体が大きいので勘違いしたが、顔立ちには未だあどけなさが残っているので成犬間近か、したばかりなのだろう。
かなり人馴れしている子のようで、脚に纏わり付きながらひとしきり匂いを嗅いだ後で甘えるように擦り寄って来てくれるのは非常に嬉しいのだが、何分夜食を率いている身なのですぐに構い倒して上げる訳にはいかない。まずは、そちらを片付けよう。
「作ってくれたんだ、バタークッキー」
「リンデンフラワーティーも淹れたので、そちらと一緒にどうぞ。ただ他の料理には合わないでしょうから炭酸水も持って来ました」
「ありがとう。炭酸水だけ貰うよ」
魔法で出現させたテーブルの上に皿と小鉢を並べる横でエイゼルは見覚えのあるトランクを呼び寄せると、ごく自然な仕草で蓋を開け、流れ出て来た冷たく白い靄の中からこれもまた見覚えのある透明な瓶を取り出し、ショットグラスに注ぎ始めた。
去年のクリスマスにプレゼントしたトランクが移動式冷凍庫に改造されているのは個人の自由なので全く問題ない、アルコール度数40%のウォッカを部屋に常備している事も別に構わない。ただ1つだけ問題があるとすれば、靄の中に見えた瓶の種類だ。
「以前飲まされたマラスキーノに、マリブ、シャルトリューズ・ジョーヌなんて序の口でしたね。何ですか今見えた蒸留酒の数、バーテンダーの勉強中ですか」
「飲み物にもこだわりたいだけだよ、は料理の腕こそ良いけど飲み物に関して悪い意味で適当だからね。偶には先に飲み物を用意してみればいいんじゃないかな」
「買い被りが過ぎますよ。ブラック家をこちらに招いた時はワインを先に、料理を後に回したのですが、結局面倒臭くなって途中から自分が作りたい物作りましたから」
「聞く人によってはとんでもない告白を平然としたね。ブラック家の当主達相手に面倒臭いとか舌が脳味噌に正直過ぎるよ、まあ、君なら咎められる事もないだろうけど」
ソファがなく、椅子も一脚しかないからとベッドを勧めたエイゼルは、コールスローサラダの乗った黒パンのオープンサンドを齧りながら再びショットグラスを満たして、それがごく自然の法則であるかのように透明な液体を私に差し出し言葉を続けた。
「悪くない」
簡単な評価と共にサンドイッチとショットグラスを受け取り、どう処理すべきか少しだけ悩んだ後で胃袋行きを決定する。エイゼルが悪くないと言うのなら、美味しいのだろう。
毎日就寝前に書いている日記が未記入であり、明日も平常通り学校があるので2杯目は無理だと断った上で行儀悪く立ったままサンドイッチを齧りショットグラスの中身を飲み干すと、成程、アルコールがかなりきついが悪くないと感心する。
態々勧めてくれただけあって相性は良かったが、恐らくこれが美味に感じるのはウォッカがそこそこ良い物だからだろう。安物の蒸留酒から時折発せられる特有の嫌な臭さは感じられず、直前まで冷凍されていたので口当たりが良くて癖も少ない。肴に更なる酸味か塩味が欲しくなるので最良とは言い難いが、少なくともリンデンフラワーのハーブティーよりは余程様になる組み合わせだ。
「美味しかったです」
「率直で簡潔な感想だね。それで、本音は?」
「このオープンサンドを酒の肴にするには少々物足りません。黒パンはそのままで、サワークリームに炙ったサーモンか、塩漬けしたイクラを乗せて食べたいです」
「それいいね。今度作ってよ、秋まで待ってるからさ」
市販のサーモンとイクラさえ手に入れば簡単に作れるオープンサンドなのだが、態々秋まで待つと宣言をしたのはホグワーツでも自由を謳歌し、尚且つメルヴィッドと共に酒盃を交わすつもりはない宣言と受け取るべきなのだろう。
全く素直な子だと笑い、炭酸で胃の中のアルコールを薄めてからベッドに腰掛けると、待ち望んでいたかのように白黒の毛玉が両膝の間を目掛けて突撃して来た。ぬいぐるみを押し付け、構って遊んで甘えさせてと大きな図体で力強くアピールする姿は全力で応えたくなるくらいに可愛らしいのだが、決して吠えず顔も舐めようとしない姿を見ると胸が痛む。
これ程人間に好意的で構われたがりの子が元野良である筈がない。ペットショップは大型の成犬は並ばない上に、ここまでしっかりした躾がされていないので除外される。躾の面だけ見るとブリーダーからの譲渡を考慮したいのだが、紛れもないミックス犬なのでそれも違う。肉体を手に入れたばかりのエイゼルは交友範囲が狭く、犬の保護を打診するような関係の知り合いもいない。
消去法で保護施設か譲渡会、飼い犬経験のある捨て犬なのだろう。
「もう名前はあるんですか?」
「一応あるよ」
山のように盛られたバタークッキーを齧っていたエイゼルはしかし名前をすぐに告げず、耳の後ろから背中にかけてを撫でられている犬を一度見下ろしてから再度口を開いた。
「カーミット」
「一応も何も、それはぬいぐるみの名前ですね。酔った勢いに乗じて貴方の事をクッキーモンスターって呼びますよ、今度はチョコチップクッキー焼きましょうか?」
「全身緑に染められて頭からゴミ箱に突っ込まれたいならそう言いなよ、オスカー・ザ・グラウチ。それと、カーミットは別口で作られたゲストキャラだから、その番組の括りにするべきじゃない」
「なんでアメリカの子供向け教育番組事情にまで詳しいんですか。あと頭からゴミ箱は嫌です、軽率な事を口にしましたごめんなさい」
私の腹と犬の体の間で潰されて、長い手足だけが飛び出しているぬいぐるみを救出しながら謝罪し、今度はアイスボックスクッキーで許すと言われたので了承する。酔っ払い同士の戯言だが、酔っている故に勢いに任せ、ハラペーニョソースで満たされたゴミ箱にタロットカード的ハングドマン状態で突っ込まれる可能性もあったので助かった。
そんな下らない心配を他所に、酔っ払いの応酬など気にも留めていない2色の毛玉は救出されたぬいぐるみを咥え、もう一度私の腹の上に置いてから伸し掛かって来る。これあげるのジェスチャーなのだろうか。貰った方がいいのか戸惑うが、それ以上に先程の阿呆会話で逸れてしまった話を戻す方が先決だと思い直し、もう一度同じ質問をする。
「ルドルフだよ」
「おや、思ったよりも重厚な名前ですね。エイゼルが付けたんですか」
「まあね」
試しにルドルフ君と呼んでみるが首を傾げられ、困惑した表情を返された。エイゼルが嘘を吐く理由もないので君付けが混乱の原因なのだろうかと思い、今度はルドルフと呼び捨てにすると嬉しそうに一声吠える。
狼っぽさもなければ、神聖ローマ皇帝のような威厳もないが、タイガーらしさが見当たらないという理由でタイガーと呼ばれるアメコミのヒーローもいる事だし、ルドルフ君本人が気に入っているのならばそれが一番だ。
色々と下らない考え事を脳内で巡らせていたのだが、全て顔に出ていたらしく、エイゼルは軽く肩を竦めて仕方がないだろうと口を開く。
「出先で飼い主とはぐれて野良になって、それでも諦めずに家に戻ったら自分の居場所に違う子犬が据えられてたんだから」
「続編のルドルフじゃないですか」
「だから言ってるだろう、ルドルフだって」
あちらは黒猫だけれど、そんなものは些細な違いだ。ここで飼い主に温かく迎え入れられれば性別が反対のラッシーになれたのだが、現実は非情である。
ただ、過去を振り返らない主義なのか、当事者自身は難しい事は何も分からないとでも言いたげな顔でひたすら撫でられ、機嫌良く尻尾を振っていた。本当に、それだけが救いだ。
「嘘だけどね」
「……エイゼル、自白が迅速過ぎやしませんか」
「普段ならもっと疑ってかかるんだろうけど、酔ってるみたいだし君が本気で信じた様子を観測出来たから満足した。でも、名前だけは本当だよ。1つ前の飼い主に引き取られた時、鼻周りに炎症を起こしていたのが由来らしいから」
「赤鼻のトナカイならぬ、赤鼻のミックス犬ですか。それはそれとして、ルドルフの本当の経歴は知りたくないので貴方の胸の奥底にしまっておいて下さい」
「多頭飼育崩壊した施設から保護されて新しい飼い主が見つかったはいいけど重い病気が発覚して子供が生まれたばかりの家計を圧迫しそうだったから捨てられたって理由と、マスコミに報道されるような救出劇の末に無事生き残って飼い主希望の馬鹿が殺到したけど成長期を迎えて予想外に大きくなった事に耐えられず飼えなくなったから捨てられたって理由、好きな方を選んでいいよ」
「どっちも嫌ですよ、何でいらない情報を開示するんですか」
「因みに正解はマスコミに報道されるレベルの多頭飼育で崩壊した施設から保護されて、テレビに大写しされたルドルフに飼い主希望が殺到。抽選で選ばれた夫妻は最初は可愛がっていたけどIMHAが発症した事が判ってこんな大型犬の介護は無理、夫妻の間には生まれたばかりの子供もいて精神も肉体も財布も余裕はないって理由で譲渡会に連れて来られてた」
「双方正解がこれ程嬉しくない問答も珍しいですよね」
この子も人間に振り回されて生きて来たのかと申し訳ない気持ちになるが、更に大切な単語がエイゼルの口から放たれたような気がしてならない。
元気があり余っているルドルフ君を一旦落ち着かせ、鼻梁を撫でるようにしながら白目と脈拍を確認する。黄疸は確認出来ず、脈にも異常は見られない。呼吸の速さも通常の犬と代わりなく、罹患している様子はない。よく見れば、鼻も黒々とした艶があり健康的だ。
「本当に溶血性貧血を患っているんですか?」
「がIMHAを知ってたのは少し意外だな。犬の飼育経験あったんだ」
「飼育ではなく、犬系の神様や妖怪とも知り合いなので多少の関わりなら。ではなくて、症状が見受けられませんが完治出来たんですか?」
IMHAこと犬の免疫介在性溶血性貧血、簡単に言ってしまうと体内の免疫システムが健康な赤血球を攻撃して貧血に陥る病気なのだが、原因が多岐にわたる為に治療が難しく致命率も高い。エイゼルには失礼な話かもしれないが、メルヴィッドなら兎も角、彼が完治させるのは困難な病気だと思ったのだが。
しかし目の前のルドルフ君は健康体そのもので、病気ってなあに、とでも言いたげな表情をしている。
「未だ実験段階だから完治してるとは言い切れないけど、症状は改善してる。世間には公表出来ない方法を使ったから魔法省に申請は出来ないけどね」
「違法な感じのアレですか」
「面倒なだけで、違法じゃないよ。というか、矢っ張り気付いてないんだ?」
メルヴィッドも気付いてなかったなとエイゼルが続けるのだが、メルヴィッドが気付かない事に私が気付ける筈がないじゃないかと胸を張る。黒い瞳が残念な生き物を見るような色を湛えたが、事実なので受け流そう。
「魔法を駆使した盲導犬モドキだろうと、病気がちだと難しいからね」
「盲導犬なんですか、この子」
「一時預かりする義眼の代わりで、前みたいな無茶を起こさない為の保険兼護衛だよ。まさかと思うけど、ただのペットだと思ってたのかい」
「そのまさかです」
元々この部屋には義眼の話の為に訪れ、一向にその気配がないので不思議には思っていたのだが、まさか盲導犬とは思わなかった。
ボクサーやシェパード、それに雑種でも、適正さえ合えば盲導犬になれる事は知っているのだが、どうしても真っ先に思い浮かぶのがゴールデンとラブラドールのレトリバー系、次いでジャーマンシェパードで打ち止めになる為、想像が及びも付かなかった。
「しかし、譲渡会ならば他にもそれらしい犬は幾らでもいたでしょう? この子の何が貴方の琴線に触れたんですか」
「強いて言えば、連れて来られた犬の中で一番ポメラニアンに近かったからかな」
「ポメラニアンですか」
「間抜け面がそっくりじゃないか、に」
「そうですか? 似ていますかねえ、爺にはこんな愛嬌ありませんよ」
「少なくともアークタルス・ブラックは否定しなかったよ」
「ええ、何ですかそれ」
エイゼルとアークタルス・ブラックという謎の組み合わせで、何時どのような経緯でその会話に突入したのか知りたくもないが、私の言動は親しい他人からそう見えるのだろうか。私が犬系か猫系かと選択肢を上げられれば圧倒的に犬である事は否定しないが、それは猫ではないという意味であって、犬であるという意味ではないと思っている。
まあしかし、エイゼルは兎も角、アークタルス・ブラックが私の事を人間ではなく愛玩動物の子供に対する接し方をしている点については強く否定出来ない。特に機嫌の良い時にやられる頬を揉む接触方法は完全に犬相手のそれだとは薄々勘付いていた。
可愛がって貰い、私自身も嫌ではないので受け入れているが、その内にちゃんと言って心の準備をさせておいた方がいいのかもしれない。いつか私にも、声が変わり髭が生える日が来ると。
「そうです、アークタルス・ブラックの事で1つ。話題変えても大丈夫ですか?」
「いや先にこっちを片付けよう」
オクラの肉巻きを口に放り込みながら白い杖を一振りすると、途端にルドルフ君が大人しくなり伏せの態勢を取った。よく見ると表情も凛々しく変化しており、カーミット君の事も無視している。幾ら何でも変化が唐突過ぎるが、胴回りに付けられた盲導犬用の黒いハーネスが原因だろうか。
「見て判るだろうけど、普通の盲導犬と同じでハーネスを付けると仕事をするように設定した。呪文で思考誘導させているけどストレスは溜まるから、長時間この状態だと犬が死ぬし過激派の動物愛護主義者に見付かったら君が殺される」
もう一度杖が振られハーネスが取り除かれるときょとんとした顔に戻り、すぐに満面の笑みをたたえてカーミット君を私の膝の上に乗せ直し尻尾を振り出した。自身の変化を理解しているのだろうが、細かい事は気にしない主義なのだろう。エイゼルが言ったこの子の出生が事実なら、ストレス耐性も高いに違いない。
ベッドの上に置かれたハーネスを確認してみると、かなり高度で容赦のない仕様の呪文が何重にも施されている事が見て取れる。しかし、私が失敗した義眼のように、機能衝突を起こしている様子はない。
私が怪我をして4ヶ月、この短期間で作り上げたにしては整い過ぎている。
「エイゼルが1人で作ったんですか?」
「構築したのはね。でもバスカヴィルやフライデイ辺りの魔法を大量に複製して短期間で仕上げる事が出来たから、ゼロから全てって訳じゃない」
「フライデイに使った魔法なんて防壁迷路や虹彩認識程度の些細なものでしょう。この辺りの魔法、ですよね、少し構築方法が古い感じがしますから。バスカヴィル君の魔法ってこんなに複雑な構造しているんですか」
「古臭いのは否定しないけど、ブラック家らしい力強くてスマートな魔法だよ。1つずつ紐解いて理解さえしてしまえば素直だから解析も流用も簡単だ。対して君は弱いけれど癖が強くて融通が利かない、その代わり、法則が掴めるまで一切の解析を拒否している。私は何度か君の魔法を見て手を加えた事もあるから扱えたけど、他の魔法使いがこれを見ても力技で捻じ伏せたい衝動に駆られるだけだよ」
説明と共に現れた魔法を構成する輝く言葉が常人では考えも付かないような発想の束で、改めて彼等が突出した天才だと理解させられた。私の事も褒めてくれたようだが、エイゼルの手で強化された魔法を見ると子供が気晴らしで作った玩具にしか思えない。
極力ルドルフ君の脳に負荷が掛からないよう気を遣っているのも微笑ましいが、その辺りは動作を円滑にする為の遊びと、いざという時は動物の本能の方が魔法よりも役に立つ事も少なくないからだと言われた。
「だから、ルドルフを虐待すると土壇場で裏切られる可能性もあるから気を付けてね。君はそういう事をしないだろうから全く心配してないけど」
「始終甘やかすのが虐待判定になるのなら危険かもしれませんが」
「私やメルヴィッドを含めた他の人間は危険かもしれないけど、・が主人だって命令してあるから君は大丈夫だと思うよ、元々スピッツ系は自立性が高い犬種だし。ああ、そうだ。餌は葱でも古タイヤでもなんでもいいから多めに用意して欲しい、治療の副作用でかなりの大食らいなんだ」
「溶血性貧血の原因である葱が大丈夫ってそれもう犬という生物として問題有りでしょう、いえ、古タイヤが消化出来る時点で実は犬の皮を被った異星体ですよね」
「気付いてないみたいだから言っておくけど、副作用は大食漢になっただけで、葱も古タイヤもルドルフは初めから平気だよ」
チーズとマッシュルームのオムレツを口に運びつつ、白い指先がルドルフ君の尻尾を指し示す。先端が白い、毛量の豊富なボーダーコリーのような尻尾をよく見るがエイゼルの言わんとしている事が理解出来ない。
試しに少し触れてみると途端に違和感を覚え、ルドルフ君が嫌がっていない事を確認してから両手で尻尾を掴み、ゆっくりと左右に広げる。
「……二股になっていますね」
「そうだね」
暖簾のように広げられた尻尾を元に戻し、改めてルドルフ君の顔を観察した。どう頑張って見ても、ボーダーコリー柄のサモエドだ。顔立ちにも毛並にも、テリア系要素は欠片も感じ取る事が出来ない。
「全く気配がなかったんですが、実はクラップの血が入っているんですね」
「そうだよ」
ジャックラッセルテリアに似た魔法生物で、二股の尾を持ち、庭小人から古タイヤまで何でも食べる掃除屋、クラップ。ニーズルも猫と交配出来るのだから、クラップが犬と交配していても不思議ではない。多分、魔法使いの元から逃げ出したか捨てられたクラップが犬と間違えられ収容され、その場所が例の施設だったのだろう。
未だ成犬には届かないのに飢えた形跡がない事にまず気付くべきだった。ハリーの体を奪い取ったばかりの私が体重を一般的な子供と同程度にするにも相当の時間が掛かったではないか。ルドルフ君は言葉の通じない犬なのだから、更に時間が掛かっていてもおかしくないにも関わらず、体格は普通の犬以上で毛艶も良好だった。
恐らく、施設では本来犬が食べられない物で腹を膨らませ、生き延びたのだろう。
「因みに施設内で犬の死体を共食いしてたハングリー精神溢れる個体でもあるよ、だから過剰に報道されて、善人振りたい馬鹿が保護したいって殺到した」
「腐った犬の死体の代わりに、人間の手で合法的に殺されて新鮮な内に加工された他の動物の死骸を沢山食べさせてあげたい! って主張しながら、ですか」
「物は言いようだね」
「受け取る側の心情を考慮しない負の事実は必ず誰かを傷付けるものです」
「それ、間違っても発言した側が口にしていい台詞じゃないからね」
白々しいやり取りをしながらルドルフ君を抱き締めると、人間同士の会話には興味がないらしく遊んで欲しいとじゃれて来た。触り心地も良好だが、夏の日本だと生きるのも辛そうな毛だ。此処がイングランドでも北に位置するカンブリアで本当に良かった。
「ブラッシングは2日か3日に1度ですか」
「それくらいかな、クラップの血に呪文も詰め込んであるからこまめにやった方が良い。この家では見た事ないから心配はしてないけど、チズパーフルが湧かないようにハーネスと一緒に必ず手入れして。トイレも含めて必要な道具は君の寝室にあるから」
今伝えられる用件はそれくらいだと言い、今日は強めのアルコールを飲んでしまったので義眼は明日から着手すると告げられた。ルドルフ君は許可を得た盲導犬ではないので明日からしばらくは片目で通学しなければならなくなるが、困るような授業もなければ、もうすぐ夏季休暇に入るので日数もそれ程多くない。
ただ、アークタルス・ブラックからデートの誘いがあり、その時はどうしようかと相談すると、ルドルフ君が同行しても問題ないと返された。
「バスカヴィルの魔法も参考にするって連絡して了承されたから彼は知ってるよ。保護者役として一緒に行ってあげるから、今週末のデートに連れて行けばいい」
「おや、ご存知でしたか」
実は先程変えようとした話題がそれだったのだが、エイゼルは既に知っていたらしい。手紙を渡してくれたのはメルヴィッドなので、そちらから伝わったのだろう。
「メルヴィッドは予定が入って無理なんだって? 折角シェアード・ユニバースの編集長を紹介して貰える機会なのに」
「仕方がありませんよ、今週末ですから。アークタルス・ブラックも急な事だから無理に予定を空けなくてもいいと書いていましたし」
「ダンフリーズ・アンド・ガロウェイ州でアマチュアの愛好家達のクリケット観戦だったよね。メルヴィッドが不参加となると車では無理だから、一度ブラック家に行ってからの移動になるのかな」
「その辺りはまた相談してみないと何とも言えません。それと、こちらは当分先になりますが、ジョン・スミスからもデートのお誘」
「行かない」
言い終わる前に明確な拒否を宣言されたが、こちらは予想通りであった。寧ろ、積極的に行くと言い出した場合、呪いか病気か裏があるのかの3択だ。
では、こちらは私1人で付き合う事にしようと決めベッドの上から窓の外を眺めると、先程と同じように青い炎が霧の中で跳ねていた。
今夜はもう遅いので見送るが、明日の夕方に霧が出たら、バスカヴィル君にもルドルフ君を紹介しよう。