蕗と昆布の煮染め
胡座をかいていた椅子から身を乗り出すようにして振り返った先には、音を立てた原因であるエイゼルが青く平たい缶に手を伸ばした状態で静止している。空腹とまでは行かないが口寂しかったのだろう、缶の表面にはバタークッキーのカラー写真がプリントされていた。恐らく、キッチンの焼き菓子は全て綺麗に平らげたに違いない。
「邪魔したかな」
「いえ、半分寝ていたので寧ろ有難かったです」
ゆっくりと伸びをして固まった筋肉や滞った血流を正常に戻してから軽く欠伸を溢し、腕を前に差し出すと、エイゼルが手に取った缶を素直に差し出して来た。
「今から夕食の準備をしますから、これは元の場所に戻しておきますね」
「そんなに大切な物なんだ?」
少しばかり意地の悪い笑みを浮かべたエイゼルにそうではないと告げ、言葉よりも実際見て貰った方が早いと思い至って蓋を開ける。途端に失望の表情を浮かべたエイゼルの気持ちも分からないでもない、丈夫で密閉性が高く、見た目も華やかな菓子の缶を端切れ入れにしている私が悪いのだ。
幾ら人外とはいえ、色も柄も大きさも異なる布の切れ端や材質の異なるボタン等で腹を膨らませる程、彼等は人間を辞めていない。去年の冬に購入したレースのリボンを摘み上げながら、前々から食べてやろうと狙っていたのにと口を尖らせながら可愛らしい事を言ってくれるエイゼルには丁度所持していたロリポップを見せて、ひとまずこれで我慢してくれないかと妥協を迫る。
「ストロベリーとコーラとキャラメル味がありますけれど」
「バナナとチョコレートが良いな」
「残念ながら、それも罠です」
黒い瞳がバタークッキー缶の近くに置いてあった平たい円柱形の缶を指したが、中に入っているのはチョコレート菓子の包み紙だけで、元々入っていたキャンディーは何年も前に食べてしまったし、味も美味とは言い難かった。
それでも疑っているのか、銀色の缶を手に取ったエイゼルは重さを確かめた後で軽く前後に振り、蓋を開けて内容物の有無を自身で確認してからようやく納得した様子を見せる。
「じゃあキャラメルで」
オレンジ色のパッケージを選んだエイゼルは、ロリポップから突き出た白く短い棒を指に挟んだまま椅子の背凭れに肘を掛け、机の上に鎮座する物体をしげしげと眺めた。和洋中折衷を半回転させた、最早杖と呼ぶには難しいそれに、伊達眼鏡の奥の黒い瞳に隠される事のない呆れの色が浮かぶ。
こちら側に来てから長く使っていたオークの杖と先日手に入れたリグナムバイタの杖は、以前宣言したように私の手によって仲良く魔改造され打撃系武具へと転生していた。
双方共ハンドル部分は紛う事なく日本刀だが、ハンドルエンドは中国刀や古墳時代の刀よろしく環頭状になっておりパラシュートコードで編まれた長いストラップが括り付けられている。ストラップの反対側にはスナップフックが取り付けられ、更にスナップフック同士は接続されていた。
簡単に表現してしまえば鎖の部分が長いヌンチャク、持ち手が物騒な短縄跳び、ヘルズ・キッチンのクライムファイターの得物であるビリー・クラブの色違い辺りが適切だろうか。最後の彼は人間のヒーローで私はアレな感じの化物だが、2人共視力に問題を抱えサングラスをしているので全く似ていない事もないだろう。
因みにリグナムバイタも予備の杖であったオークも木材としては硬くて丈夫なので、正しく振り回せば人体破壊もそう難しくない。但し、あくまで普通の人間、一般的な魔法使いが相手の場合に限るのだが。
「物理攻撃特化型とはいえ、この杖を作った魔法使いもまさか魔法の杖を派手なチギリギもどきに改造されるとは思わなかっただろうね」
「ええそうですねと同意するより前に、エイゼルが乳切木なんてマイナー武器の存在を知っていた驚きで次の言葉を見失いました」
「日本の武器が載った本を訳したのは君だろう。それともイギリス人らしくフレイルみたいだって言って欲しかった? まあ、チギリギにしては分銅が軽くて棒が短いし、ヌンチャクにしては鎖部分に当たるコードが長いから、ホースマンズ・フレイルが一番近い解答なんだろうけどね。君がマシュー・マードックに改名するならビリー・クラブって呼んであげてもいいけど」
「ミッドタウン・ウエストへの片道切符と赤い全身タイツを用意して頂けるなら視野に入れておきましょう。私は向こう見ずというより考え無しですが」
「恐れを知らない男って意味では大きな違いはないと思うけどね」
言いながら、今度はストロベリーのロリポップを抜き取り、パッケージの下から現れた赤い飴玉を私の口の中に容赦無く突っ込んで悪戯っぽく笑う。
この子は相変わらず勉強熱心と言うか、何と言うか。元々天才と評されている人間が趣味に重点を置き、好奇心の赴くままに知識を貪るとこうなるのか。
「ホームセンターでパラシュートコードとスナップフックを買って来て欲しいなんて言うから何に使うのかと思ったけど、まさか武器にされるとはね。杖は歴史的に見ても農具から進化して行った物だから殴る為の道具じゃないんだけど」
「……スコップは戦場の塹壕で」
「それは部隊の生存率を上げる為の例外的な扱われ方だからね? まあ、君らしい発想といえば、確かに君らしいよ。これ、反対側の棒は予備の杖?」
「ええ、去年魔法省で杖を調べていただいた時にオークだと判明したので」
「芯材は?」
「ユニコーンの尻尾でした」
「材料はありきたりで、デザインもオリバンダー製には見えないな。頑丈さだけが取り柄の何処にでもある量産型の杖か」
そこまで言ったエイゼルはやっとキャラメル味のロリポップを咥えて杖を手に取り、今度は柄の方をしげしげと眺めた後に特殊な巻き方だと呟いた。
「下地の滑り止めは以前言ってた通り鮫皮、グリップそのものはペルー・バイパーツースの革製か。君が翻訳していた本には鮫皮についての記述があったけど、ここまで正確に説明はされてなかったよね。2冊共コウヒセーから始まるタイトルの本」
「鮫皮精鑒録と鮫皮精義ですね。エイゼルの言う通り、あれらは鮫皮に関しての詳細な記述のみで柄の巻き方までは書いていません。日本刀関係だと享保名物帳なんかもデータベース上には存在しますが、あれは名刀リストですからねえ」
「突っ込まれた時の言い訳も、勿論考えているよね」
「一応は。数年前の事になりますが、この世界でも三原派の太刀や、流派は判りませんが拵えも数点、博物館で見た事がありますから」
「大英博物館?」
「いいえ、ウォレス・コレクションです。学校行事で見学したので、アリバイも含めて、そこそこの理由にはなるでしょう」
メルヴィッドに引き取られる直前の家庭での話なので、覚えていても不思議ではない、と判断して貰おう。相手が不審に思っても否定出来ない微妙な線だが、事実であるから少なくとも頭ごなしに糾弾出来る事ではない。
尤も、自分の考えこそが正しいと信じて疑わない輩は、私の言葉に等聞く耳を持たず持論を展開し、大声で非難するのだろうが。
「期間限定や特設の展示じゃないだろうね」
「世界中の武器が常設展示されていて、太刀もその1つでしたからその辺りは問題ありませんよ。心配なら今度一緒に見に行って、ついでにエイゼルに合いそうな近接武器も探してみましょうか」
「デートの誘い方としては物騒だし品性がない、何より興味が湧かないな」
「では、そうですね。今度、2人で映画でも見に行きませんか?」
「悪いけど、本当に見たい映画は1人で見る事にしてるんだ」
「じゃあ、それ程見たくない映画は?」
「見ないよ」
大した意味もなく模倣の台詞を交わして互いに苦笑し合った後、エイゼルから返却された杖のフックを外し、各々の環頭に取り付けた後でベルトに差し込む。不自然極まりない格好なのでその内使い勝手の良い杖帯を作らなければならなくなるだろうが、取り敢えず今は夕食の準備の方が先だろう。デザートは手軽にブランデーメロンにするつもりなので、その分おかずに少し手間をかけよう。
鳥の雛よろしく隣のキッチンまで付いてきたエイゼルは、気が向いたから手伝うと大変前向きで可愛い事を言ってくれた。味見目的で付いて来たとばかり思っていたのだが、想像しているよりもずっと良い子で頬の筋肉が緩んでしまう。メルヴィッドは真っ当な料理が作れるのに、自分はいまいちぱっとしない料理ばかりなのは嫌だから覚えたいと素直に告げる子をどうして無碍に出来ようか。
電子レンジで卵を破壊したり、ポリッジと缶詰のスパゲッティを一緒に茹でようとしたりと、メルヴィッドの最初はエイゼルのそれ以上に悲惨だった事は伏せ、では簡単な所から始めようとトマトと茄子を手渡す。幸いナイフの扱いは魔法薬学で慣れているので包丁捌きについて指導する必要がないのは有り難い。
「チーズ焼きやパスタ程度なら君の指導がなくても作れるよ」
「そう言われると思ったので、今日はトルコ版焼き茄子こと、パトゥルジャン・イマム・バユルドゥにしましょう。ではエイゼル、トマトのヘタを取って角切りにして下さい。出来たらザルに上げて塩をひとつまみ分振って水分を抜く所までお願いします。次の手順はここに表示しておきますから、分からなかったら聞いて下さい」
「僧侶が気絶する茄子。冷たい茄子の詰め物か、相変わらず珍名料理に詳しいね」
「おや、いつの間にトルコ語を覚えたんですか」
「完璧じゃないけど、暇潰しにちょっとね。その内日本語も覚えてあげるよ」
ホグワーツにいる間に覚えてメルヴィッドの前で堂々と内緒話をしてやろうと語るエイゼルは本当に楽しそうで、動機は不純だが思わず全力で応援したくなってしまう。こんな前向きな嫌がらせならば優しく見守り、手助けしてあげてもきっと誰も怒りはしないだろう。メルヴィッドは不機嫌になるかもしれないが、別に悪い事を企んでいる訳ではないのだし止める必要性は感じられない。
互いにロリポップを咥えながら器用に舌を動かし、玉葱を始めとする野菜を順に刻んで行く。トマトにビーツ、人参、ルバーブと今日はレシピが偏ったのか全体的に赤味がかっているが、カプサイシンではなくリコピンの赤なので修正する必要もないだろう。
「緑が欲しい」
そう思った矢先の、エイゼルのこの一言である。気にしていないと思っていたが、矢張り出身寮の関係で赤色は好んでいないのだろうか。
ピーマンと胡瓜のどちらを食卓に上げるべきか悩み、結局両方共簡単なおかずになって貰おうと決める。メルヴィッドとエイゼルの2人が揃っているのだ、品数が多過ぎて余る可能性は少ない。
「って偶に素で私達の事を馬鹿にするよね。寮は関係ないから」
「顔に出ていましたか?」
「何で出てないと思えるの?」
そうか、出ていたのならば仕方がない。
ピーマンを細切りに、胡瓜を一口大に切って貰う隣でレンジで加熱した玉葱を取り出し、パトゥルジャン・イマム・バユルドゥとルバーブのソースとビーツのスープ用に分けながら今迄抱えていた非常に下らない疑問を口にする。
「先週から書き始めたあの日記が赤い布張りだったので、あまり気にしてはいないだろうなとは思っていましたが」
「あまりどころか全く気に掛けてないよ。大体、赤色が嫌いならメルヴィッドが真っ先に瞳の色を変えてる筈だろう。出来るのにしないのは、そういう事だよ」
「それもそうですね」
ルビーよりもクリアなレッドスピネルのような瞳を思い浮かべながら頷き、しかし瞳の色を変える技術を普通に持ち合わせているのは流石だと感心する。目の周辺を下手に弄ると失明する危険が付き纏うのは、魔法界と非魔法界、どちらの世界でも変わらないのだ。
才能さえあれば平然と変化させたり、義眼の技術を考えるに、この辺りに関しては外科技術よりも魔法界の方が数歩先に進んではいるので、私のようにまともに視力が働いていない身としては非常に有り難い環境ではある。
「ああ、そうだ。目といえば、この義眼なんですけれど、どれだけ努力しても私の能力では機能衝突を回避出来ませんでした。赤外線と紫外線は問題ないのですが、超音波センサーが上手く受信が出来なくて、お願いします、助けて下さい」
「そろそろだとは思ったよ。取り敢えず3週間は欲しいな、調整に2週間、その後に1週間は不具合がないか様子見したい。使えなくなる義眼の代わりも用意してあるから時間が出来たら部屋に来なよ。当たり前だけど、肉体に入った状態でね」
「何から何までありがとうございます」
不具合のレポートを出現させながら、以前から報告していた機能衝突の件を持ち出せば二つ返事で引き受けて貰えた。事前に一言連絡をするだけでここまで楽になるのだ、今後とも情報共有に努めようと決意を新たにしながら、報酬内容を持ち出す。
「シリウス・ブラックの件でブラック家が1ヶ月前から大謝罪祭に突入しているので、大抵の物は融通出来るとは思いますが」
「横流しがバレた時に制裁されるから要らない」
「では保留の方向で宜しいですか」
「いや、先週申請した呪文は全部私の物になったから。今回は別にいいよ」
「とはいえ、端金でしょう。それでは私が心苦しいのですが」
千切りにした人参にも塩を振り放置、胡瓜はごま油と中華スープの元と一緒にビニール袋に入れさせて隠し味にラー油を少々垂らした後に揉み込ませて冷蔵庫へ。そんな指示をしながらも心苦しいと告げると、少し考え込まれた後、何やら腹に一物抱え込んだような笑みを浮かべて鰻のゼリー寄せが食べたいと言われた。
「あのイーストエンド名物の?」
「前から気にはなっていたんだけど、マグルの料理だからホグワーツに行ったら簡単に食べられなくなるだろう。だから今の内にと思ってね」
「本当に好奇心旺盛ですね。では今度ロンドンへ行った際に手に入れて来ますね」
「皆で食べるから、3人分宜しくね」
「は?」
「報酬なのに何で私だけが食べると思ってるのかな。それじゃあ罰ゲームじゃないか」
自己犠牲型馬鹿と、ユーリアンが以前何度か言っていた単語が脳裏に浮かんだが、それ以上に食材への冒涜との単語が強烈に主張し、世界各国の鰻のレシピが一瞬にして脳の中からリストアップされる。
「……分かりました。エイゼルの提案、受けて立ちましょう」
「サングラスしていても真顔って判るよ。もしかして怒った?」
「いいえ、怒ってはいません。しかし完全に巻き込まれ事故のメルヴィッドの分は私が責任を持って食べたいと思います。そして口直しとしてブラック家の会社経由で生の鰻を空輸の後、和風、オランダ風、イタリア風、スペイン風の4種類でイングランドの鰻料理が如何に生命と味覚と料理に対する冒涜であるかを教えて差し上げます」
「声色が怖いよ、君そんなキャラクターだっけ」
茄子の皮をピーラーでストライプ状に剥きながら今日の日記のネタが出来てよかったねと言われ、こんな嬉しくないネタは要らなかったと正直に返した。乞巧奠が上手く行かなかったので、既にネタはあったのだ。
エイゼルの手で弱火で炒められる茄子に葱と鰹節をたっぷり掛け、生姜醤油で美味しく頂くという大元のレシピを台無しにしたい気持ちを抑え、そもそもあれは交換日記じゃないと近況を告げる。
「大丈夫だよ、長期休暇が終われば返事も来るだろうから」
「それと言い忘れていましたが、登場人物が全員女体化しています」
「それも知ってる」
迂闊な私が馬鹿な事を書いていないか検閲しているに決まっていると返され、女体化というか女性名化そのものに問題がない事に驚く。流石にエイゼルでも嫌がるだろうと思い伏せていたのだが、私がメアリーの名前を使うと宣言した時から想像は付いていたそうだ。
「書き間違いしても誤魔化す為に頭の文字から似た綴りを使ってる事まで全部知ってるよ。というか、どんな偽名使うかメルヴィッドと賭けてたけど、2人共正解したから面白くなくなって途中で止めた」
「つくづくギャンブルに向いていませんね」
「主に君がね」
キャンディが溶けて無くなり唯の棒と化したロリポップを2人してゴミ箱へ投げ捨て、いつの間にかコーラ味のロリポップを確保していたエイゼルが子供のように無邪気な笑みを向け事実を告げてきたので、私は私でさもありなんと軽く肩を竦めた。
ひとまず、回避に失敗した鰻のゼリー寄せを何とか食べられる物にする為に、生臭さを消す魔法を開発しよう。そもそもイーストエンドには行かず、私自身の手で臭みを抜いた鰻を使い煮凝りを作れば平和に解決する話なのだが、まあ、あのようなものを食べるのもまた経験だと前向きに捉えていこう。
それでエイゼルの無茶が収まるとは到底考えられないが、別に大人しくなって欲しい訳でもないので、きっと、これはこれで良い事なのだろう。