アプリコット・ソーダ
見知った姿が追いかけて来ていない事に最後まで気を遣いながら走り切り、公園の隅に置いてある真っ赤な公衆電話前で息を整え、扉を開ける。すぐ近くで足音が聞こえるが、よく聞いて分析すれば広い歩幅や軽快なリズム、重い靴音からランニング中の20代から30代前半の男性と推測出来る。少なくとも女性、ペチュニア・ダーズリーではない。
「あれ、そこの坊や!」
「は……はい」
その、ランニング中の誰かから声を掛けられるのも、仕方がないといえば仕方がない。何せ日付も変わりそうな真夜中に幼児と呼べる子供が外で徘徊していれば、良識ある大人は声くらい掛けるであろう。尤も良識のない大人もまた、一声掛けるであろうが。
「どうしたんだい、こんな真夜中……何があったんだ!?」
子供の視線に合わせるように腰を屈め、優しい声で問いかけてくれた青年はしかし、明かりの下に晒されたこの体を見て声を張り上げた。よく見てみると下半身が血で真っ赤に濡れていた、多分リビングを全力で突っ切った際に血溜まりを踏み付けたのだろう。
「あ。ご、ごめんね、大きな声を上げて。怖がらせちゃったかな、お兄さんは、悪い人じゃないからね? ハリー君、だよね。何があったか、お兄さんに言えるかな?」
「……私の、名前」
何故この青年が知っているのだろうか。
マスメディアも未成年という事を考慮して虐待された少年、ハリー・ポッターの名は伏せていたはずである。
知っているのは一部の警察関係者と近所の噂好きな連中、そしてごく一部の魔法使い関係者だが、この青年はそのどれにも属していないように思えた。何故そう思うのかと問われると困るのだが、少なくとも勘ではない。
記憶を検索しながら視線を合わせる。雰囲気ではない、顔だろうか。濃いブラウンの瞳と髪をした20代前半に見える彼には、目付きが少し鋭い事以外は顔立ちにこれといった特徴がないように思えた。アラスカン・マラミュートのような凛々しく骨太な労働犬を思わせる青年、そうだ、確かにこの体格と気配に覚えがある。
「お兄さん、あの、救命士の?」
「覚えていてくれたんだね」
言葉と共に安堵の息を吐いて青年が私の体に薄手の上着を被せて抱き上げた。大丈夫だよと囁くように言ってくれた言葉は、本当に優しかった。
この世界に来て赤ん坊に間違って入って以来掛けられなかった、裏表のない声だった。
彼は、ダドリー・ダーズリーが倒れた際に駆けつけた救命士の一人で、私が窓越しに視線を合わせた人物である。当時は視力の矯正がなかったので詳しくは判らなかったが、あの時の彼が、またここに居た。
「ハリー、何処か痛い場所はあるかな? 転んだり、怪我をした所は?」
「ありません、大丈夫です」
「靴を履いていないけど、足の裏も平気?」
「痛くないです、大丈夫」
「……ねえ、ハリー。怖かったかもしれないけど、今だけ少し頑張って、お兄さんに教えてくれないかな、君のお家で何があったのか」
「伯母さんが、追いかけて来て。何か、振り回して」
「伯父さんは?」
「多分、リビングの。これ、伯父さんの」
怯えを表現するために詰まった返答をしながら震える仕草をすれば青年は宥めるように笑い、もう大丈夫だよと繰り返しながら公衆電話の受話器を取った。連絡先は9が3つ、この国の緊急通報用電話番号だ。
被害者でもなく、更に救命士だけあって冷静な通報である。淡々とした口調、情報提供の仕方としてはマニュアル通りではあるが、緊急時にはその無駄を省いたマニュアルこそが必要不可欠な良い例であった。
簡潔に、要領良く内容を伝えている青年の服を少しだけ握ると、勇気付けるような力強さで抱き返される。久し振りに、人間の優しさに触れたような気がした。
「あ、あの!」
「どうしたの、ハリー」
「お兄さん、服、血で汚れて」
「そんな事はどうだっていいんだよ、服の汚れは洗えば落ちるからね。そうだ、ハリーを助けてくれる人達が来るまで時間があるみたいだから、少しだけお兄さんと話をしてくれないかな。お兄さんは、こう見えて寂しがり屋なんだ」
「でも、お兄さんが私を助けてくれた」
「お兄さんより、もっとずっと強い人がもうすぐ来てくれるからね。あ、大丈夫だよ、強い人達だけど怖い人じゃないからね。正義の味方だよ」
死角になる背後を電話機本体に向け、オペレーターと繋がった受話器を片手に、もう片腕で私の体を抱え上げながら青年は子供を怯えさせまいと必死に振る舞う。その辺に殺人鬼が歩いている可能性があるというのに、救助先で一度目が合っただけの子供の為に行動する彼にこそ、その言葉はよく似合う。
たとえ、保護した子供が、実は人間の皮を被った化物であっても。
「お兄さんが、私の正義の味方です」
「……私が君の、正義の味方、か」
「はい」
「そうか。そう、なのか」
肺の空気を押し出して、遠くに高く響かせるような、そんな感嘆だった。何か彼なりに思う事でもあるのだろうか。
子供の為に繕っていた気配が消え、彼の口調が本来のものに少しだけ近付く。私の場合は受話器越しにオペレーターも聞いているだろうから、ありのままに言葉を放てないので多少苦痛が残った。メルヴィッドが何処かで見ている可能性が高いという意味合いで。
後で茶化されるのを覚悟しておかないといけないかもしれない。爺の癖に子供の演技だと詰られそうである。
「ハリーは、優しい子だね。勇敢で、頭も良いし、冷静で、理知的な子だ」
「そういうのは。よく、判りません」
「君の事を褒めたんだよ」
「……初めてです、誰かにそう言われたのは」
「それはきっと、君の周囲が悪い人ばっかりだったんだね。君は良い子だよ、とても」
手が空いていない事が残念だとでも言うように青年は笑い、やがて何か思い出したのか大きな声を上げた。名前、と単語が飛び出た。自己紹介がまだだと言いたいのだろう。
「私はリチャードと言うんだ。リチャード・ロウ、同僚……ああ、会社の仲間からはよく偽名みたいだと言われているけれど、本名だよ。リックと呼んで欲しい」
「リック?」
「そう、リックだ。君はハリーだね、そっちのウサギちゃんは何という名前なのかな」
「ピーター君」
「ピーター君? ピーター・ラビットのピーター君?」
「最初は、そうだったんです。今は……」
どう説明しようか迷い短くそれだけ言うと、言外の意味に気付いたのかリチャードは少しだけ悲しそうな表情をして首を傾げた。
「私は中々味のある男前だと思うよ。ハリーが直したのかな?」
「そう、です。布とか、貰えなくて、こんな風になってしまいましたけど」
「素晴らしい、ハリーには裁縫の才能があるよ。私なんてシャツのボタンの一つだって簡単には付けれないんだ、針に糸を通すのにも時間がかかるんだよ」
人の良いリチャードはヴォーパルバニーと揶揄されたピーター君を男前だと笑顔で言い切り、震えそうになっている腕にもう一度力を込めて私を抱き直す。辺りに人影がない事を確認する為に何度も身を捩って外を見ていた。
不意に落ちてしまった沈黙の中で、リチャードが唇を震わせながら次の話題を探そうとしているのが判る。受話器からは無意味に励ましの言葉を送るオペレーターの声が聞こえた。
彼は一般人なのだ。非日常に恐怖を感じる、ごく普通の。
ただ、人並み外れた勇気を持ってしまった故に逃げる事が出来なかった臆病者、或いは英雄のような人間。
「あの、リック?」
「どうしたのかな、ハリー。大丈夫だよ怖くない、もうすぐ警察が来てくれるからね」
「リックはどうして、2回も私を、助けてくれたんですか?」
子供を安心させる為だけの見え見えの去勢に敢えて応えず、全く別の返答をする。彼の耳の向こうにはオペレーターが居るが、別に聞かれて困るような話の内容ではない。
「最初に、警察に連絡してくれたのも、リックですよね。貴方のお陰で、私は地獄のようなあの場所から救われました。でも見ず知らずの私に、何故そこまでしてくれたんですか?」
「た、助けるだろう!? 助けようとするだろう普通は!」
手から受話器を取り落とし、血に濡れることも厭わずに両腕が私を掻き抱く。垂れ下がった受話器からは濁った声が聞こえるが、意味までは拾う事が出来ない。
「酷い、本当に酷い話だ。何故、君のような子が2度も助けられなければいけないんだ……1度でも多過ぎるというのに」
純度の高い言葉に晒されて流石に私も言葉に詰まった。
感情がそのまま素直に言葉になり、空気を振動させているのは聞いていて新鮮である。一応メルヴィッドも感情を素直に言葉としているのだが、方向性と吐き出す感情が真逆なのでリチャードのものはより一層強く感じた。
しかし私の歓心の沈黙を別の方向に捉えてしまったらしいリチャードは、慌てて腕の力を緩めると垂れ下がっていたままの受話器を拾い上げて電話口でひたすらに謝り始める。乾き始めた血が受話器の取手を汚してしまった事に気付きもう一度落とした後、諦めたように腹を括った顔で本来救命士である自分が、と取り乱したことに対しての謝罪を口にしていた。
彼に、そんな事をする必要があるはずない。彼よりももっと先にそうするべき人間は、それこそ数え切れないくらいに沢山居たというのに。
「リック」
「ああ、ハリー。ごめんね、驚かせてしまったよね」
「リック」
見当違いな謝罪をする彼に腕を伸ばし手を握る。黒ずみ始めた血が付着して汚れるから駄目だと言われたが、下半身が血塗れなのだから今更片手が汚れようと構いはしない。
「貴方のお陰です、私の英雄」
息を、呑む音を聞いた気がした。
驚いたような、それでいて泣きそうなブラウンの瞳にぎこちなく笑いかけ、赤い斑になってしまった互いの手の平を離す。粉になった黒い血が、少しだけ剥がれ落ちた。
「ありがとう」
目と耳を澄ませば闇夜に灯る沢山の人工色の光とサイレンの音が近付いて来た。もう狂人相手に気を張らなくても大丈夫だろう。
私の安堵が伝わったのか、リチャードも詰めていた息を吐き出してオペレーター相手に感謝の意を述べた。複数のタイヤがアスファルトを噛む音がすぐ外で聞こえ、無線越しに叫ぶ警官達が姿を現す。どうやら別の部隊がペチュニア・ダーズリーを発見したらしいが、詳細までは流石に聞き取れない。
私を抱えたまま扉を開けたリックは困ったような笑みを一度向けてから警官の一人に向き直り、腕を前側に付き出した。
「私は大丈夫です、この子を。本人は怪我はないと言っていますが、念の為確認を」
「リック」
「もう大丈夫だよ、ハリー。この人達が君を守ってくれる」
「リックは?」
「……私も後で行くよ、必ず。だから先に行って、待って居られるね」
彼は目撃者として、また通報者として状況を説明する為にこの場に残るのだろう。
これ以上この場に留まる理由もなく素直に頷くと、リチャードも安心したように笑って小さなこの体を腕から解放した。
警察官に抱えられながらパトカーに運び込まれるまで、私はただ黙って彼の大きな背中を眺める。窓の外の闇に浮かぶ彼の姿だけが、輝いているように見えた。
一度、彼が振り返り私に手を振る。未だ私を心配させまいと、優しい笑みを浮かべて。
「必ず、会いに行くから」
ブラウンの瞳に熱が篭る。
リチャードの、まるで尊い者に対する宣誓のような約束に混じるようにして、何処か遠くで銃声が聞こえた。