曖昧トルマリン

graytourmaline

鳥貝と独活の酢味噌和え

 祖父母や両親が仲睦まじかった事もあり恥ずかしながらこの歳になるまで目撃した事がなかった為、籍を入れた男女が口汚く罵り合っているのを見るというのは中々に苦行だという事を今日初めて知った。自分の内面を覗いた結果、どうやら私は他者の口喧嘩を眺める趣味は持ち合わせていないようである。無論、隣でうんざりした顔をしているメルヴィッドも、であろう。
「そんな厭そうな顔をするのならさっさと実行しろ」
「ピーター君を起動させるタイミングが掴めないんですよ」
「お前は本当に局地的に馬鹿が炸裂するな、何故そんなものを気にするんだ。あれが終わるまで待っていたら日付が変わる所か夜が明けるぞ」
「雰囲気は大事だと思うんですが。日付が変わるのは困りますね、仕方ありません」
 ダドリー・ダーズリーの半年目の月命日という事で今日という日を選んだので、日付変更は個人的な嗜好として困る事だった。
 手元の小さなモニターで魔法を選択、起動して、監視専用のモニターに視線を戻すと継ぎ接ぎだらけのピーター君に天井から円錐状の光が当たり、その存在を知らしめる。
 怒鳴り合っていた声が急速に静まり、やがて部屋の中は静寂で満たされた。単に恐慌前の静けさなので放置しておくと間違いなく残り数秒で感情が爆発するので、手早く始めるに越した事はない。
 全ての魔法の転送が終わったようで、ピーター君の口から優しく繕ってはいるが感情が読み取れない、無機質な女性の声が流れ始める。
『只今よりゲームを開始します。開始前にチュートリアルが選択出来ます、チュートリアルを選択される方はこのまま待機、ゲームを開始される方はスタートと音声入力して下さい』
「随分唐突だな」
「ゲーム自体は簡素なものですし、虚を突くのも大事かと思いまして。それとも、いっそ時候の挨拶から始めた方が宜しかったですか」
「お前の話は無駄で長い、挨拶中に人形がバラバラにされるのがオチだ。複製モニターを寄越せ」
 既に手慣れた仕草でメルヴィッドの指先が動き、今まで見ていた監視モニターが複製され視点変更が加えられる。どうやら好みのアングルではなかったらしい。
 序でなのでもう片方、この先で使用するモニターも隣に送り視線で確認を促す。モニター上にはカルテに書かれているような簡易の人体図があり、現在は左耳の耳朶が赤く点滅していた。夫妻のこれを切り落とすのが今回の目的であるが、心なしかメルヴィッドの表情が歪んだように思える。
 何か気に入らない事でもあったのだろうか。
『時間になりました、それではチュートリアルを開始します。ゲームを開始するとボードに本日のミッションとして身体の一部が指定され、破壊方法の指示が出されます。砂時計の砂が落ち切る前にプレイヤーは道具箱の中から道具を選び出し、自らもしくは相手どちらかの身体の一部を破壊して下さい』
 ピーター君の音声に合わせ、小さな黒板に文字と人体図が浮かび上がる。今回は例題として鼻が赤いチョークで指定され黄文字で骨折と板書きされているが、メルヴィッドの言葉もあり本番はそこまで生易しいものには仕上がらなかった。
 指示の重さは兎も角、全く以て理不尽なゲーム内容をようやく理解したらしい夫妻は再び顔を朱に染めて文句を吐き散らし始める。この辺りにダドリー・ダーズリーと親子であるという血の繋がりをひしひしと感じる、尤も、夫妻は元々他人同士なのだが。
『時間内に指示された箇所を指定の方法で破壊出来た場合クリアと判断され、欠損部分を治癒する道具が現れます。時間切れ、又は破壊方法の間違い等でクリア出来なかった場合ペナルティが発生し、指定された破壊が両プレイヤーに及びます。またペナルティ中に負った怪我に関しては治癒道具も出現しませんのでご注意下さい。それでは、ゲームを始めます』
 黒板の文字が消失し、本日のミッションという白文字が浮かぶ。理不尽なゲームの説明に罵詈雑言の前面に立たされているピーター君が可哀想にも思えるが、立たせているのは私であるし、代わるかと問われれば絶対に嫌だ。メルヴィッドには散々言われているが、この辺りの酷さは追求されなくてもそれなりに自覚している。
「ひとまず、今日はこれでいいか」
「何をされていたんですか?」
「見ていれば判る」
 退屈そうに欠伸を漏らしたメルヴィッドは手元の画面を消去して右手を差し出す。
「もう残りはキャンディーくらいしかありませんよ」
「仕方がないな、それで我慢してやろう」
 色付いた光に照らされた白い手の上にバナナとチョコレートが組み合わさった例のキャンディーを何粒か落とすと、一瞬だけ妙な顔をして一粒だけ口に含んだ。
「……甘過ぎる」
「参りましたね、貴方でもそう感じるんですか」
「お前が不味いと判断した物を私に渡すな。もういい、返す」
 ガラガラと砂糖の粒が缶の中に戻されて行く音を聞きながら顔を上げると、何故か先程までオールグリーンだった画面の中に一行だけ黄色で点滅している部分がある。メルヴィッドが何かしら手を加えたようであるが、それを確認する前に、横から実行しておけとの言葉がかけられた。
 確認もせず実行するのは若干怖いが、バグった場合、その時はその時で対応しよう。流石に私が対応しきれない設定変更をしでかしたとは思いたくない。こういったリスク管理の甘さが私の駄目な所で弱点の一つである事は一応判っているのだが、最早時間がそれを許してくれそうになかった。
『本日の指定部位は左手薬指、破壊方法は切断です。それでは、始めて下さい』
「おや?」
 夫妻は勿論、私の疑問も問答無用で置き去りにして砂時計の上下が反転される。画面の中で硬直したまま動けない二人は放っておいて、メルヴィッドに視線で問いかける事にした。
「あんな関係になっておいて、未だ結婚指輪をしている事に腹が立った」
「メルヴィッドの口から独身男の妬みを聞く日が来るとは思いませんでした」
「違う!」
 本気の否定らしく、言葉と同時にメルヴィッドの平手が後頭部に飛んで来た。そのまま私の頭頂部を鷲掴んであらん限りの力を込めて来る。痛みは兎も角、額に血管が浮く程怒っているのは流石に不味いと判断、謝罪の連続を何度も繰り返し、ようやく放して貰えた。
 次に馬鹿な事を言ったらただじゃ置かないと本気の赤い目が告げているので、杖先を喉元に突き付けられながらもう一度目線で謝っておく事にする。
「目に見える形で夫妻の絆を壊す事が目的で、お前の言った感情など、欠片どころか微塵も存在しない。判ったな?」
「すみません、この件に関しては本当に私が短慮を起こし馬鹿を言いました。ちゃんと反省しますので杖を下げていただけると有難いです」
「次はないぞ、いいか? 私が何時までもお前の馬鹿に付き合えると思うなよ?」
『巫山戯るなペチュニア! 大体この家で起こる事は全部お前の所為じゃないか! お前さえまともだったら、こんな普通じゃない目になど遭わんかった!』
『それを言うなら貴方だって! そもそもあの子が死んだのだって、あの時貴方が判らないだろうからってジュースを盗んだから起こった事じゃないの!』
『話を逸らすな!』
『自分の気に入らない事は全部私の所為だと言うの!?』
 私達の比ではない切羽詰まった言葉の応酬に、思わず私とメルヴィッドの視線が画面の方向を向く。確かに素人ならば指1本でもこうなるであろう事は予想が付いていたが。
 そろそろ砂時計の砂が落ちる事を2人は判っているのだろうか。チュートリアルではクリアと見なされた場合、治療がされると明示されているのだが、このままでは両者共に指を欠損する事になる。否、初手はそれが目的なのだが。
「……あれと同レベルの争いをしているように思えて来た。お前も反省したようだから、今夜はこれで大目に見てやる」
「本当に、要らぬ軽口を叩いて申し訳ありませんでした」
 肩から力を抜いて私の頭を解放したメルヴィッドは、大きく溜息を吐いてベッドに深く座り込み、無気力そうに宙を見上げて呟く。
「ああ、砂が全部落ちたな」
 そう言われて私も画面の方を見ると、彼の言葉通り小さな砂時計が重力に従い時間切れを告げていた。黒板に赤字でタイムオーバーと警告表示がされ、今にも掴み合って殴り合いにでも発展しそうな夫妻間に目に見えない魔法が絡み付く。
『本日のミッションは失敗です。ペナルティが発生しました、少々お待ち下さい』
 不可視の魔法が筋肉の束から舌の根に至るまで二人の全身を拘束し、強制的にベッドへ着席させる。それぞれの表情で怒りを顕にしていた二人であったが、ピーター君を照らす光の傍で光り輝く物を発見し、血の気を引かせ今更になって全力の逃亡に入ろうとした。
 宙に浮いてゆっくりと迫って来るのは一般家庭のキッチンには必ず存在する調理道具、包丁である。無論、ダーズリーのキッチンから拝借した物で、1本は私が普段から使っている為それなりの切れ味だが、もう片方は戸棚の奥に眠らされていたので随分錆びていた。これで指を切り落とされるのはさぞ痛いだろう。
 どちらの包丁が当たるかはランダムで決めていたが、切れ味が鋭い包丁がバーノン・ダーズリー、錆びた包丁がペチュニア・ダーズリーという振り分けになった。
 せめて首を横に振り自分の指が切断される瞬間を見ないようにと努力している必死の姿も見られるが、生憎彼等の行動の全てを魔法が封じている為に視線を逸らす事も、目を閉じる事も叶わない。
 包丁の切っ先がそれぞれに左手薬指に充てがわれ、残すはピーター君へ合図を送るばかりとなっていた。
「まるで断頭台で首が落ちるのを待つ観客だな」
「あれ等が見世物である事に変わりはありませんが、私は特に気分の高揚だとかその手の感性は持ち合わせておりませんよ。メルヴィッドは結構楽しそうですね」
「成程、お前が磔の呪文を軽く見ている理由はそれもあるのか。あれは痛め付ける事に悦楽を感じなければ真の力は発揮されない、あの呪文は憎しみではなく愉悦で操るものだ」
「加虐趣味が必要という事ですか」
「お前とは無縁そうな言葉だな。あれは合理的な残忍さはあるが全方向への嗜虐性のない男が使えるような呪文ではないという事だ」
 言われてみると確かに、人でなしやら化物やら言われる行動を私が取る場合は大抵相手にどれだけの恐怖を与える事が出来るかを主観的、又は客観的に考えた結果が基準となっている。特に気に掛ける必要もない人間に対しては恐怖を与える趣味はなく、割合適当な方法で殺人を済ませてしまっていた。
 メルヴィッドの場合は全方向の嗜虐症と言うよりも寧ろ、自分以外は全部無能と位置付けて居る故の呪文の威力なのだろう。その辺で這いずる虫の足を一本ずつ引き千切って暇を潰す、子供の残忍さだ。
 新たな、しかしどうでもいい情報を脳の隅に追いやり、そろそろ涙も枯れ果て精神的に限界まで追い詰められて失禁やら脱糞やら、その他色々吐き出しそうな二人に何度目か意識を向けた。既に肌の血の気は失せて、土気色にまでなっている。
「そろそろいいでしょうかね」
「そうだな、落とし頃だ」
 隣でメルヴィッドの手首が動き、手元の画面にそっと触れた。設定されていた最後の命令が、隣室のピーター君へと送られる。
『準備が整いました。それでは、ペナルティを施行します』
 宣告と共に、関節から指が断ち切られる音がした。舌が魔法で押さえつけられていなければ、さぞ耳障りな絶叫がこの通り中に響いた事だろう。
 指輪を嵌めたまま切り落とされた二つの薬指は、血の尾を引きながら床の上を転がって、ベッドの下へ入り込んでいった。切断面からは血が溢れてシーツを濡らしている。
『今回のゲームはこれで終了となります。それではまた、お会いしましょう』
 最後にピーター君が恭しくお辞儀をして部屋の明かりが落ちる。浮遊していた画面が役目を終えて消失し、役目を全うしたピーター君や道具一式がベッド脇まで戻って来た。
 同時に、獣のような咆哮が聞こえ始めたが無視しよう。魔法の呪縛から開放された2人が相変わらず罵り合いながら指を探し、救急車を呼ぼうとしているだけの事だ。
「ひとまず、今日はこれで終わりだな」
「続きは明日という事で。拷問の方法、また考えて下さいね」
「耳だな」
 体を伸ばし、筋肉の緊張を取りながらメルヴィッドが即答する。夕食のメニューを決めるような、そんな気軽な声だった。それに反して隣室は相変わらず喧しいが、幸いな事に我を失って私の方まで殴り込みに来る気配は今の所ない。
、あの豚共が救急車に担がれたら暇になるな?」
「ええ、はい。なりますね」
「では美味い夜食を作りに来い、それでなかった事にしてやる」
 それだけ言うとメルヴィッドは早々に姿を眩ませてしまい、部屋にはピーター君を除けば私一人だけが残される。
 どうやら彼はまだ、私の失言を怒っているようだった。