鰯のムニエルのセージソース
明かりを消した部屋の中でベッドに座り、浮遊する幾つもの電子ディスプレイのような物に指先で触れ情報を展開、ピーター君に施した各種設定の最終確認を行いながらダーズリー夫妻の現在の行動を監視する。宙を漂い淡く発光する実体のないモニターを操る姿は、最早魔法ではなくSFの世界だと呟いたのはメルヴィッドだった。
以前ミステリーにファンタジーが加わるとホラーになると言ったが、更にサイバーパンクもどきが追加された場合はなんと表現するべきだろうか。SFを模しているだけで、実際の構築要素はファンタジー能力で、それを使用したSFごっこと表現するのが正しいのだが。
随分手間を掛けた本格的なごっこ遊びではあったが基礎理論それ自体はこの世界に来る前からあの父と共同構築していたので、二流魔法使いの私程度の力でも半年ちょっとの間を全力で努力すればこれくらいの形には纏める事が出来た。こんな事も出来るようになりましたと先程発表した時のメルヴィッドの驚いた顔は、それは可愛らしいものであった。
思い出し笑いをしそうになるのを抑えながら最終確認を終了しモニターを一時最小化、糖分不足と喉の渇きを覚えて夫妻の監視を続けながら手元のデザートティーを飲み込む。
防御呪文を何重にも施してあるとはいえ、この空間も酷く静かであった。2人分の呼吸音と10分間針の進んだアナログ時計が秒針を刻む音、私の聴覚がこの部屋の中で拾ったのはそのくらいで、まるで昼間の喧騒が嘘のような。
「は客人に茶も出せない程耄碌したのか?」
訂正しよう、今の今までは静かだったのだ。
隣で彼が大人しく座っていた時までは。
「お茶請けも水出し紅茶も沢山用意したでは……もう完食したんですか」
きっとメルヴィッドの事だろうから作業途中でお腹が空くと思い用意したドーナツ各種と1.5Lのティーサーバーに作った水出し紅茶は既に彼の胃袋に消えたようだ。余談ではあるがこれが部屋が静かであった理由でもある。
「いっぱい食べるのは良い事ですが、深夜の早食いは推奨しませんよ」
「お前の思想などどうでもいい。この体は燃費が悪いんだ、それを寄越せ」
「それは別に構いませんが。そんな事よりも口端に付いた食べ滓の所為で威厳や色々な雰囲気が割と台無しになっていますからね?」
ペーパータオルで口元に付いた砂糖の欠片を拭ってやり、若干不満そうな表情をしている欠食青年にシナモン生クリームonタピオカ入りアイスティーという長ったらしい名の甘いデザートティーとローストナッツのタルトを手渡すと、満足したのか無言でもそもそと食べ始める。小動物とまで行かないが、休む間もなく口の中に菓子を突っ込む幼い子供のような食べ方だった。
幼児返りという訳ではないのだが、メルヴィッドは今でも時折こういった子供っぽい行動を取ることがある。特定の周期というものは無く、2ヶ月半前のように仕事で惚れ薬の類を頼まれた時はこうなる事が多かった。単なる自棄食いなのかそれとも私に甘えてくれているのかは残念ながら判断が付かないが、少なくとも食欲があるという事は精神の均衡を取り戻しつつあると見て大丈夫だろう。
彼の方から何も言わないのならば、この件にあまり嘴を突っ込むというのも野暮な話だ。愚痴を聞いて欲しい時には、彼はそれなりの判り易い行動を取るのだし。
「では、そろそろ始めましょうか」
ピーター君と道具一式を隣のダドリー・ダーズリーの部屋に転送し、彼の動作と各魔法が正常に作動しているかを別モニターで確認。この程度の魔法なら自分でも出来るので興味などない、という演技をして実はがっつり食いついているメルヴィッドの視線を無視して次の行動に移す為に後方で待機していたモニターを目前へ移動させ別口の魔法を展開する。
ピーター君の頭上で大人の手の平程もある大きな二匹の蝶が音もなく生まれ、それを観察する為のモニターも新たに目前に展開する。指示された行動を早速取り始めた蝶は弱々しい翡翠色の光を纏いながら、それぞれ客間とリビングへ向かう為に廊下を飛んで行った。
「さて、あの馬鹿共は引っ掛かるかな」
「引っ掛からなかったら次の手で行けばいい話ですよ。しかしまあ一応、今日は亡き息子の月命日ですし、親心を捨てていなければ来て貰いたい所ですね」
「間違ってもその息子を殺した当人が言う台詞ではないな」
指先に付いた食べ滓を舐めながらメルヴィッドは嗤う。よく見ればベッドの上に食べ滓が散乱しているが散らかり具合から見ても明らかに態となので注意しない事にしよう、こういう時は反応しない方が、少なくとも対メルヴィッドの場合は良手であった。
視線をモニターへ戻し、先に客間に辿り着いた蝶を観察する事にする。
客間とはいっても、別に今のダーズリー家にはメルヴィッド以外の客人が来ている訳ではない。ここで睡眠を取っているのは、息子の死後から始まった度重なる夫の暴力や周囲の誹謗中傷から逃げる為に逃げ込んだペチュニア・ダーズリーその人であった。夫婦の寝室が何時までも同じという文化も、こうして考えてみるとそれはそれで問題なのだろう。
翡翠の蝶は体を透過させて扉を通ると痩せ細った彼女の周囲を一周して、枕元で羽を休めた。その明かりが視界に入ったのだろう、ペチュニア・ダーズリーは寝返りを打ってその光から逃れようとする。
そしてそれとほぼ同時刻、リビングで安酒を煽っていたバーノン・ダーズリーもまた、部屋の中に侵入してきた緑色の蝶の気付いた。
『なんだ、この忌々しい蝶め! どこから入り込んだ、出て行け!』
酔っ払いの台詞ではあるが、バーノン・ダーズリーの場合は素面でも大体こんな感じなので別段何か感情を揺さぶられるとか、そのような事はない。
蝶はリビングの写真立てに止まっては飛び、また止まっては飛ぶ事を繰り返す。殺虫剤を散布されたが元々昆虫ではなく単に魔法力の塊なので効くはずもない、ひとまず各部屋の人間が蝶が一体何であるか勘違いするまで放置をしておこうか。
因みに過程を楽しむ趣味がないメルヴィッドは、既に飽きてベッドに寝転がっていた。つまらないと言いながら宙に浮くモニターの一つに触れようとするが、生憎私以外の誰にも割り込む事が出来ないよう設定してあったので彼の腕は虚しく素通りする。
背後の気配が、今は不機嫌なのだと告げた。
「呪文を発動させた魔法使いを中心軸に空中で円周軌道し全立体角調整可能な四面体に半固定化された画面は極小単位の光の粒子が発動者の魔力を帯びた指示だけに即時反応し設定された様々な魔法を文字及び画像又は音声で可視化と可聴化を行い補助しているようにも見えるが実際は単純にそれだけではなく基本的にはこの一辺が200mmから300mm四方の奥行きが存在しない各々の画面に多数の魔法や呪文そのものを圧縮封印し魔法使いが各個もしくは連続で展開の指示を与える事によって魔法が発現するといった事も可能という使い方によれば魔法使い同士による戦い方の根本を揺るがす呪文ではあるが無論難点も存在し一つは発光性の魔法なので明かりのない場所への潜入行動や敵への不意打ちで使用する際には発見され易く特に遠距離からではこれ以上ない的になるという事と一つは魔法使いではこの魔法の展開中はそれ以外の魔法が一切使えなくなる程の膨大な魔法力を消費する事そしてまた一つはその膨大な魔力の配分と制御を行う為に必要な過剰なまでの緻密さを維持する精神力であってその扱い辛さから使役者の能力はどちらも後天的には発現し難く先天的な所謂……」
「メルヴィッド、眠いのですか?」
「……暇なだけだ」
早々に食べ尽くし、また飲み尽くしてしまったメルヴィッドは抑揚なく私の扱っている魔法を解説した後に再び、つまらんと言ってから枕に顔を埋めながらボソボソと更に何か続きの言葉を呟いている。
曰く、発想力と制御力で私に負けるなぞ絶対に認めない何時かこんな物より優れた魔法を開発し鼻で笑って見返してやる、らしい。とても素晴らしい心がけだが、この魔法の発想は例によってアニメーションやドラマという二次元からであるし、この魔法の基礎理論を固めたのはあの馬鹿なのに頭だけは良い暇を持て余した私の父であり、私はこの世界に来てから手を加えて最近になってやっと発現させただけだと指摘するべきだろうか。
指摘した所で彼の心情は穏やかになりそうもないが、一応言っておこう。
「まあ、幾つか訂正させて頂くならば、発想の根源は相変わらず模倣ですし開発者は例の父です。それと慣れれば見た目以上に魔力も精神力も使いませんよ」
「黙れ煩いさっさと次に移動しろ、私は暇なんだ」
「録画のように不必要なシーンはスキップ……ええと、早送り出来ればいいんですが、生憎ライブ映像ですからそうも行きません」
言いながら、緑の蝶達に新たな指示を与える。とはいっても、もう少し強く発光しろ、という単純なものだがそれが気に入らないらしく背後で舌打ちが聞こえた。
「馬鹿息子の合成音声を作っただろう、他に使い道のないあれを今使わないでどうする」
「もう出してしまうんですか? 復讐と遊戯を兼ねた行為の手順や情緒は大切にするべきだと思うのですが」
一種の作法、またはお約束だろうと問いかけるも暇を持て余しておまけに不貞腐っているメルヴィッドはそんなルールを勝手に作るなと一蹴する。しかも比喩ではなく本当に膝で蹴られた。どうにも今の彼の中には行為の終盤に対する興味しかないらしい、余裕がある時は乗ってくれるのだが、気に入らない仕事の後で精神を立て直したばかりではこんなものなのであろう。
単に不機嫌なだけで手酷い八つ当たりをしないだけ大分良識があるとしておこう、ひとまず彼の意志に沿ってダドリー・ダーズリーの声に似せた合成音声を別モニター内から呼び出し翡翠蝶へ転送、音声情報が接続した事を確認して圧縮していた呪文を展開する。
『パパ、ママ。ぼくの声が、聞こえる?』
『坊や? ああ、坊やなのね! 私の可愛いダッドちゃん!』
「……こんな下らない事を信じるか、普通」
「蝶は霊魂の象徴と言われていますからね。人間は、信じたいものを信じるんですよ」
「信じる者は救われる、要は勘違いのまま死ねば幸せだという事か」
「まあ、そんな生易しい死を与えるつもりはありませんがね」
「異常者め」
「何とでも」
先に反応があったのはペチュニア・ダーズリーであった。矢張り我が身を痛めて生んだ子供の事は心底大切にしていたらしい、甥への対応は最悪であった事を除けばやや愛情過多ではあったが献身的な母親である。
尤も、その甥にしても進んで引き取った訳ではなく、あくる日目が覚めたら自宅の玄関に放置されていたというのだから愛情を注げなくても納得は行く。正直この家族にハリーを預けたダンブルドアはハリーと同じ目に遭って死ねばいいと思うが、但し、ダンブルドアの雑な扱いから引受けさせられた厄介は虐待と財産略取の言い訳にはならない。市場と比較しても相当割高な金銭を獲得したのならば、それ相応の対応をしなければ納得がいかない。
今でも育児放棄を続ているというのに、財産だけは一銭も与えず全てを生活費として懐に入れるのは厚かましい事この上ない。改心どころか反省の色すら見せない人間達に対する凄惨な復讐劇は至極妥当な措置であり、遠慮は無用だろう。
画面の中、息子の合成音声に咽び泣く母親にこれ以上構う必要はない。一息ついて今度は父親の反応を伺うと、こちらは真逆で忌々しげに顔を歪めていた。
『お願い、今すぐぼくの部屋に来て』
『何だこれは! どうせ性質の悪い嫌がらせに決っている!』
「酔っ払いに自問自答で完全に見破られたぞ」
「そのようですね。さて、次はどの手にしましょうか」
アルコールが入っている割には冷静な反応だ。否、この反応は寧ろ入っているからこそ、なのかもしれないが。
赤ら顔で酒瓶を蝶へ投げつけたバーノン・ダーズリーはそれを軽やかに避けた翡翠蝶を睨め付けて素手で捉えようと猛進し始めた。無論、酔っ払いに捕まる程間抜けに設定してはいないので蝶は音も無く低空へ逃れる。
「そのまま誘き寄せるのはどうだ?」
「採用させていただきます。折角ですからちょっと操作してみますか」
「興味はないが、暇潰しには丁度いいか」
翡翠蝶の操作モニターをメルヴィッドも触れる事が出来るよう変更して背後へ送り、隣に操作方法一覧の画面も念の為揃えておいた。数秒の沈黙後、勘でどうにかなるだろうという若干不安要素の残る言葉を放ちながら彼の指先が宙に浮かぶ画面に触れる。
「ふん、動きは鈍いが箒の操作とそう変わらないな」
「言われてみればそうですね。見たところ動きも全く問題ありませんし、序でにそのまま誘導をお願いします」
「お前に顎で使われているようで不満だが、いい加減見ているだけというのにも飽きたな。仕方がない、やってやるから感謝しろ」
「ありがとうございます、お願いしますね。私はバーノン・ダーズリーが部屋に到着するまでペチュニア・ダーズリーの相手をしますので」
「何だ、そっちはもう罠に嵌って部屋まで行ったのか」
「ええ」
「、お前面倒な方を私に押し付けたな?」
「まさか。なんでしたら交代しますか?」
別に両者の扱いが手に余り面倒だとかそういう風に思って押し付けた訳ではないので私は構わないのだが、発言者当人たるメルヴィッドはというと紅い瞳を各モニターに移動させ数秒間考えた後、こう言った。
「いや、このままでいい」
「でしょうね」
先程から暇だと騒いでいたのでそれに戻るのは却下、残るは夫妻どちらかの相手だが最適な音声を選んで入力する作業よりは蝶の操作の方がまだ楽しいと判断したのだろう。
もう少しすればそこそこ楽しくなるのでそれまで待って貰うとして、私の方も気持ちを切り替えて罠の中から脱出しないように適当な音声を選んでは蝶に出力させた。しばらくもしない内に階段から誰かが上ってくる音がして、既に操作を物にしたメルヴィッドがもうすぐだと告げて来る。
「部屋の扉は開いているな」
「ええ、そのまま罠に嵌めて下されば自動で閉じ込めます」
振り返ってモニターを注視し、悪態を吐き続けるバーノン・ダーズリーと翡翠蝶のどちらにも問題らしい問題が発生していない事を再度確認。懸念があるとすればアルコールの摂取量だが、今夜は慣らし程度なので多分大丈夫だろう。
乱暴で粗雑な、まるで教養や品性を感じない足音を鳴らしながら、蝶に誘導されたバーノン・ダーズリーが遂にダドリー・ダーズリーの部屋へ完全に踏み込む。
途端に蝶は分解され、部屋の周囲を数多の魔法が駆け巡った。扉は閉まり強固な魔法でなければ開かない呪文で固定化、防音や防御、警戒、撹乱に至るまで細かな呪文の全てを画面に流れる色彩と文字列で不可が出ていないか確認し、全ての文字が緑で統一されたのを最後にその画面を視界の端に位置する場所まで移動させる。
「さて、上手く行ったらお慰み」
「そんな軽い気持ちで挑んでいたのか」
「気負うと失敗する性質なので」
「気負わない方が失敗した時のダメージが小さい、という小心者の考えだな」
「見透かされていますねえ」
苦笑しながら指先がモニター上を滑らせると、暫し待てと砂時計のシンボルが現れた。
メルヴィッドもベッドの上に座り直しやっと始まるのかと独りごちる。確かに彼の言う通り、この画面上ではない砂時計の砂が落ちる頃には、今より少しは面白い事が起こっているはずだろう。