フレッシュトマトの冷製パスタ
その夏への足掛かりを感じ始めた頃からだろうか。
私が外出をすると必ずある猫に出会い、構われるようになった。ほっそりした体躯の割に角ばった動きのする不思議な縞模様の、言うなれば非常に猫らしくない猫であった。
正直に真実を話すと、彼女は猫ではないのだが。
何を言っているのか判らないと思うので結論を言おう。その猫はアニメーガスであり、正体はミネルバ・マクゴナガルである、と。
要は月一では不足だと判断されたらしく更に追加された、ただの監視である。彼女自身の表向きの仕事もあるので今のところ出会うのは主に休日となっているが、時折平日の登下校時に出会ったりもするので油断ならない。
何度かダーズリー家の前まで付いて来た時には流石に辟易したので、その日の夕食に予定していたハンバーグやらアーリオ・オーリオ・ペペロンチーノやらルバーブのジャムやらカフェ・モカやら、猫にとっての毒物と言われる物質の入った食事を薦めてみたが、元が人間のようで普通に完食していた。
中々諦めて貰えないのでどうやって追い払おうかとメルヴィッドに相談してみた所、夾竹桃や鈴蘭や鳥兜を盛ればいい序でにお前も一度死ねと、スパイに関しての対応とは到底思えない心底どうでもよさそうな表情と暴言で返されたのも懐かしい思い出である。
「今日はアボカドのガーリックチーズ焼きですよ」
本日夕食のメニューとして作った料理にも、アボカド、ニンニク、パルメザンチーズ、そして大量の黒胡椒と、猫に与えてはいけない食べ物が軒並みラインナップしてあった。主に猫にとっての毒物を餌用の小皿に乗せ差し出すと、目の前の猫もどき、もとい動物もどきはご機嫌に鳴いてから牙を立ててガツガツと食べ始めた。
裏口の前にしゃがんで猫もどきの食事風景を眺めていると、家からガラス製品が割れる音と怒鳴り合いという耳に馴染んでしまった組み合わせが響いて来る。危険と判断されるレベルの雑音に餌皿から顔を上げたミネルバ・マクゴナガルは不安そうな表情で一鳴きして私の顔を見上げた。ハリーの事を心配しているのだろうが、別段これといった行動は、たとえば公的機関への通報すら一切起こしてくれないので鬱陶しいだけである。
とはいえ、それを表情に出す程私も神経が切れている訳でもないので、いつも通り頭を撫でてから困ったように笑う演技で心配ないと誤魔化しておいた。
しかし、猫耳老女の頭を笑顔で撫でる若作り爺とは、言葉にすると酷い絵面である。
時間潰しにそんなどうでもいい事を考えていると人間には無害の毒餌を食べ終えたミネルバ・マクゴナガルが鼻先で私が常に持ち歩いているショルダーバッグを指し示した。手作りしたパッチワーク風の、四次元ポケット魔法が盛大に掛かったバッグである。
中は結構なカオスになっており、大体は家探しされて困るような物が詰め込まれているのだが、そう言えば今日は別の物も入れていたのだった。
「鼻が良いですね。お目当てはこれですか?」
四次元圏外の外ポケットから取り出した平たい円柱形の缶を取り出す。フタ側にバナナとチョコレートの写真がパッケージとして印刷された、どこにでも売っている飴玉であった。例の件でダドリー・ダーズリーに食べさせた物の残りである。
まだ残っていたのかと言われそうなのだが、これを一気に処分するには結構辛いのだ。主に味覚的な問題で。不味いという訳ではない、ただ爺の私にとってバナナとチョコレートの組み合わせが多量に存在するというのは少々甘味に過ぎるというだけだ。
「……今日は私の従兄の、丁度半年目の月命日だったんですよ。本当にいけ好かない、心の底から軽蔑する、愚かで最低の人間でしたが、伯父も伯母もあの調子ですから。ほんの少しだけ可哀想になって、一人でお墓参りに行って来たんです」
私の言葉に重なるようにリビングの窓ガラスが割れるが、今は無視。全く、あの夫婦は誰が掃除するのか考えているのだろうか。考えていないのだろうけれど。
「従兄はチョコレートとかキャンディーとか、スナック菓子が好きで、いつも食べていたんです。だから、お供えなら、花よりもこっちの方が喜ぶんじゃないかと思って。お一つ、如何です?」
缶から飴玉を2つ取り出して片方を空の皿の上に落としてやり、もう一方を口の中に放り込む。途端に、猫の尾が大きく膨れ上がった、かと思うと輪郭が奇妙に歪み動物もどきの魔法が解けてミネルバ・マクゴナガルが本来の姿を現した。
突然の出来事に演技ではなく素で驚いて行動不能に陥っている隙に、彼女は杖を私に向けてスコージファイとヒステリックな声で呪文を放つ。機会に恵まれず使用しなかったその呪文は一体何だったかと思い出そうとしたが、必要など無かった。
胃から食道から口の中まで泡で一杯にされれば、たとえ思い出したくないような状況でも知識の方から全速力でやって来る。
清めの呪文だ。気道確保ならばアナプニオの方が良かったのではと考えたが、あれは文字通り気管に詰まった物を取り除く呪文なので口に含んでいた物を吐き出させるには矢張りこちらの清めの呪文の方が適切なのだろう。
さて長々と語ったが、実はアナプニオの出番は先程ではなく寧ろ今で、その泡の所為で現在気道が塞がれていたりする。簡単に言うと、私は現在進行形で窒息中なのだ。脳内解説は割りと呑気であるが、実際動いているハリーの体は結構悲惨な状況になっており、早急に体内の泡を排除しなくては最悪酸素不足で死ぬ。
このままでは推理小説中で犯人に不利な証拠を見つけてしまった所為で殺される被害者と同じ末路を辿りそうなので多少荒療治になるが久々にやるしかない。
その場に屈み込み、指で舌の根を押さえ胃を無理矢理蠕動させる。無論泡だけではそう簡単に流れてくれないが、他の流動物の力を借りればそれほど難しくなくなる。朝食と昼食、そしておやつをちゃんと取っていて良かった、良かったのだろうか?
吐瀉物と共に泡を吐き出し続け、胃も食道も口内からも泡を退散させた所で咳き込みながらも息を整える。ハリーの体に吐き癖が付いてくれていて助かった、でなければ今以上に苦しんだ挙句失敗していたかもしれない。
ブラックアウトしそうになる意識を深呼吸で保ち、生理的に溢れる涙を袖で拭う。口の中が苦く焼ける不快感に再び嘔吐した。先程は感謝したが、今はこの吐き癖を恨みたくなる。
アナプニオの呪文を使えばいいのにと脳内でメルヴィッドが嘲笑しているが、ミネルバ・マクゴナガルが目の前に居る状態で正確無比な発動をした場合、ダンブルドアが私の正体を暴きかねない妙な予測を立てそうで怖いと反論した。
しかし冷静になって考えてみると、メルヴィッドがこんな馬鹿げた台詞を吐くとは思えない、恐らく脳に送られるはずの酸素が不足していて私の判断力が低下しているのだろう。元々爺程度の頭脳しかない筋肉塗れの脳がこれ以上枯れたら救いようがない。
「ハリー、貴方! このキャンディーを何処で!?」
そのどうしようもない脳が喚き声を認識した。
パニックに陥る寸前の、女特有のヒステリックな叫び声と、その内容を聞き取れるくらいには意識が回復したらしい。
それにしても自らの所為で嘔吐した人間が目の前に居るのならば普通は謝罪なり相手の体の無事の確認なりが先ではないだろうか、そうは思わないのか、ミネルバ・マクゴナガルという女は。所詮この女もセブルス・スネイプと同類という事なのだろう。
ああ、そうだろうとも。私が愚かなのだ。
今まで、この女はハリーの姿をした私に何をやってくれたかを思い出してみればいい。これもダンブルドアを崇拝している配下なのだから、そのくらいは予想しておくべきだったのだ。全くホグワーツの教職員共は、どいつもこいつもこんなのばかりなのかと悪態の一つも吐きたくなる。
一応私もハリー・ポッターなので、将来はホグワーツへ行って更なる情報収集をする事となるのだろうが、教育者がこんなのばかりでは命の危険を心配しなくてはならない。イギリス一安全と言われている場所へ行った方が死ぬ可能性が上昇するとは冗談としては面白くないし、事実だとすれば最悪だ。
「答えなさい、ハリー・ポッター!」
感情にまかせて子供の肩を掴んだ、その手の平の感触で自分が何をやったのか理解したのだろう。死んだ魚のような目をしている私を見て、ミネルバ・マクゴナガルはたじろいだ。
いい機会だ、これからしばらく付き纏わられないように牽制でもしておこうか。
「……騙していたんですね」
「違うんです、ハリー。私は」
「何の恨みがあるんだ、何故こんな事ばかり、こんな目にばかりに遭うんだ」
「違うんです、私は」
「私は、普通に暮らしていたいだけなのに。一体何なんだ、二度と私に近付くな。お前も、お前の仲間も、二度と私に関わるな。二度と、私の前に現れるな。この化物め」
そう吐き捨てて裏口の戸を荒々しく開けると、急いで体を滑り込ませて勢い良く閉める。ここで指や爪先を挟み込もうものならば偶然を装って千切ってやろうと思ったが、流石に止める勇気はなかったようだ。
ただの鍵をかけただけでは魔法使いには効果はないが、常識と冷静さを取り戻したミネルバ・マクゴナガルがこれ以上関わってくる事はないだろう、少なくとも今日は、だが。
リビング内で未だ続く喧嘩を無視して口を濯ぎ、マグカップには温かい紅茶を薄目に淹れる。嘔吐した所為で体が冷えて胃がムカつく。夕食に献立だったアボカドのガーリックチーズ焼きはオーブンに入れたまま、今日は紅茶だけで過ごそう。後で冷蔵庫に入れて、明日の朝にでも塩味の効いたオムレツにすればいい。ニンニク臭だけ、魔法を駆使して消し去らなければならないが。
夏だというのに震える体を擦り、呼吸を整えながら階段を上って与えられた部屋の扉を開ける。二重に設えた厚地のカーテンで外部との景色が隔離された薄暗い部屋の隅、丁度外からは察知されない死角に見知った人物が椅子に座って居たが、今はそれ所ではないのでもう少しだけ待機して貰おうか。
後ろ手に部屋の鍵を閉めマグカップを机上に置いて、開いた両手でカーテンを勢い良く引き光を部屋の中に招き入れる。数メートル下方では何事か言いた気なミネルバ・マクゴナガルが確認出来たが、一瞥をくれてやり直に雨戸に手を掛けた。
冷えた体を暖めるために夏用の薄い毛布を羽織ってベッドに座り、部屋の中に追加の防御呪文を施し終えるとようやく部屋の隅に居た人物、メルヴィッドが面白い小劇を見たような表情で告げる。
「自業自得な上に演技とはいえお前が他者を化物呼ばわりするとは、全く面白い話だな。まあ、あの餓鬼の記憶が確実にダンブルドア側の連中に観られているという事を体を張って確認した事については、褒めてやらないでもない」
「結構隅々まで観られているようでしたね」
飴の種類なんてどうでもいいだろうに、あちらはあちらで存在しないという名前を冠した何かの捜索に神経を擦り減らしているらしい。
あれももう半年前の事なのでかなり今更なのだが、無意識の内に出た私の癖みたいなものがダドリー・ダーズリーの記憶内に存在しない事を切に願う。
「そう不安気な表情をする必要もないだろう。お前の正体が判った所でダンブルドアはどうしようもない、あちらの連中では誰もお前を認識出来ないのだから」
「おや、心配して下さるのですか」
「今の所、使える手足がお前しかいないのだから仕方ないだろう。但し私は物持ちがよくなくてな、火の粉が飛びそうになるのなら早々に見切りを付ける」
「それがいいでしょうね、双方の為にも」
半年以上も組んで、結局見つけた妥協点は協力者という位置関係だった。
とはいっても相変わらず互いの家を行き来して、メルヴィッドが偶に愚痴を零したり、私が冗談に挑戦してセンスが最悪だと罵られたり、と妥協点としては友好的なものである。少なくとも、左手に短剣を隠し持ち右手で握手をしながら笑顔で腹の中を探り合うような険悪且つ基本的な協力関係ではない。
しかし、こうして改めて羅列してみると私ばかりが得をしているような気がしないでもない、否、しているのだろう。
「尤も、私が危険な目に遭う場合は否応なしにお前を巻き込むがな」
「巻き込むのは構いませんが、私に出来る事は限られていますよ」
「魔法の影響を受けず、視認出来ない。何よりも不死の化物ならば、それで十分だ」
私は死なないが彼は死ぬ、或いは消滅する可能性がある。
どうしようもなく単純だが、決定的に大きな差だ。天地どころか次元の差なのだ、その差は埋まらないし、埋めようがない。
「精々私の意見を仰いでいればいい。お前の考えはどれも碌なものではないのだからな」
さもありなん、と笑って返せば綺麗な顔が不快そうに歪む。
何度となく繰り返されたやり取りなのだから、彼もいい加減この手の事で私が反論しないという事を学習して欲しい。
そも、言い放ったのは彼の方だというのにそうではないと否定して欲しいとは、中々難しい事を言ってくれる。
少しだけ膨れっ面のメルヴィッドが静かに立ち上がり、雨戸の隙間から外界を覗いてつまらないと言いた気な表情に変化させた。先程までの気配を感じないので、ミネルバ・マクゴナガルが消えた事に何か思う事でもあったのだろう。
たとえば、せめて一言謝罪くらいはしろ、だとか。
苦笑している私の隣に、立ち上がった時と同様静かに座したメルヴィッドは、私のショルダーバッグの中から小さな木枠の砂時計を取り出して蔑むような笑みを浮かべた。
「尤も、異常な思考は私を凌ぐがな。それで、あの親豚共への拷問施行は今夜からだとして、手始めに半身不随位にはするのか?」
「メルヴィッドは相変わらず最初から豪速球を投げますね、軍人や魔法戦士なら兎も角相手は素人ですよ。平手で殴る、といった事からまず始めないと」
「温過ぎるな。地獄では生温いと言ったお前の言葉、あれは嘘か」
「そんなに気を立てないで下さい、手酷く扱うというあの言葉はどこまでも真実ですよ。そう、地獄鍋という料理が日本に存在するのですが」
「はぐらかすな」
「はぐらかしている訳ではありません。その地獄鍋という料理は、鍋に水を張って生きた泥鰌を投入して煮立たせるんです。で、頃合いを見計らって冷えた豆腐を入れます」
イギリス人にそんな食材が理解出来るかと罵られそうだが、泥鰌も豆腐も無駄知識としてメルヴィッドに教え込んだのでここでの説明は省いて次へ進む。
「すると熱い湯から冷たい豆腐へ泥鰌が逃げ込み、豆腐の中で徐々に煮上がります。これを泥鰌豆腐、或いは泥鰌地獄やら地獄鍋と言います」
「食べるのか、それを? いや、そもそもそれは料理と言えるのか? いや、言いたい意味は大体理解したんだが」
「要点を理解して下さった事については嬉しいです。それと個人的感想ですが、あれは立派な料理ですし、好みは分かれますが私は好きですよ。動物愛護主義者が発狂する付合せまで含めて。まあ、そんな事はどうでもいいですね。段階的にレベルを上げて感覚を麻痺させ、最後にこれ幸いと逃げ込んだ所が後戻りの出来ない墓場だった、というのが拷問からの処刑に至る醍醐味でしょう? 何だか前にも同じ様な事を言った気がしますが」
「……お前は本当に大概だな」
「そうでしょうかねえ」
そう言うのならばメルヴィッドの初球も大概なような気がするが、価値観の相違を無理矢理どちらかに合わせる必要も感じられないのでそれ以上の追求は放棄した。
今必要な結論は、拷問のスタート地点の位置取りである。
「しかし幾ら何でも平手は軽過ぎる。物事は最初が肝心だ、この際眼球を抉れとは言わないが、せめて片耳ぐらいは落とせ」
「成程そうですねえ、確かに耳は欠損しても髪を伸ばせば隠れますし。耳朶くらいならば痛みも他の器官より鈍いでしょうから」
「そして何よりも、素人でも簡単に削ぎ落とせる。中々、魅力的な提案だろう?」
言いながら砂の落ち切った死のシンボルを宙に掲げて嗤ったメルヴィッドの横顔は、磨き上げた鎌を月光に輝かせた、美しい死神のそれだった。