春雨のベトナム風スパイシーサラダ
「メルヴィッド、それ元ネタご存知ないはずですよね?」
とっぷりと日が暮れて夜の気配に街が沈んだ頃にメルヴィッドはやっと目を覚まし、雨戸を締めながら水を一杯所望した後にこう言ってきた。何故か目が据わっている事を除けば非常に綺麗な笑顔と優しげな口調をおまけにして。
「お前が何を言っているのかどうでもいいが、気分が優れなかったとはいえ犯してしまった失態は修正しなければならない。それ故に今から忘却術をかけようと思ったが、お前は忘却術が嫌いだろう。だから優しい私が魔法を使わず物理的に消去させてやろうと思ってな」
「忘却というか、打ち所が悪ければ存在そのものが消失しそうですよね。それは」
近くにあったからか手頃だったのかそれとも別の何かなのか、古ぼけて重いスタンドライトを手に野球の打者のようなフォームでフルスイングするメルヴィッドと間合いを計り、距離を置く。幾ら中身が私であろうとも、薄く小さなこの体にあれがヒットしようものなら持って行かれるのは骨の1本では済まされない。
不気味な風切り音が唸る中で、私はひとまず部屋の電気を点けた。勘で動かなければならない事態を避ける為には光源が欲しい、暗闇の密室で鈍器を振り回す青年と2人きりという、夕方に起きた事象とは真逆のシチュエーションは流石の私でも多少の恐怖を感じる。
まあ、一応、体は少年の形だが中身はそうではなく、腐敗し切って枯れつつあろうとも私なので、物理的攻撃が素人の相手ならば一撃も食らわず倒す事は出来るのだが。
「安心して身を任せろ。手加減はしてやる」
「満身の力を込めて素振りしている方にそう言われて、はいそうですか、と素直には頷けませんよ。第一、この体が死んだらどうするんですか。まさかまた何もない状態から新しい体を探せと言うんですか、探しますけれど」
「そうか、その体を殺してもお前自身は無傷で済むんだったな」
「相変わらず二言目には本音がだだ漏れていますよ、もうちょっと繕って下さい。それ以前に幾ら貴方でも私に攻撃を仕掛けたからには正当防衛を行使しますよ?」
数時間前、貧弱なハリーの体を操る私にマウントポジションを取られた事を思い出したのか、メルヴィッドは苦い顔をしてどう対処しようかと考えを巡らす。しかし私に対しての攻撃を諦めるという選択肢はないらしく、スタンドライトは未だ彼の手の中であった。
赤い瞳が右手のライトから腰の杖に移動する。まず魔法で身動きを封じてやればどうにでもなるという考えが透けて見えるが、それ以前にその魔法が当たらない場合を考えた方がいいと忠告するべきだろうか。した所で言う事を聞いてくれそうもないのは承知の上で。
思考の末にぱちり、と一度瞬きをしたメルヴィッドは諦めたように肩を下げてライトを戻し、大きな溜息を吐いてベッドの上に腰を下ろした。無論、諦めたように見えるだけであって、諦めた訳ではない、ただの演技である。
「判った、諦めよう。だがお前も忘れるよう努力をしろ、いや、二度と思い出すな」
不機嫌そうな顔をしながらさり気ない仕草で腰から杖を抜き、指示を強調するように杖を指し棒代わりにして私に向けた。
メルヴィッドは、それと同時だと思っただろう。しかし実際はこれが来る事を予想して備えていた私の方が幾分か速かった。
私が間合いを詰め始めた後に指し棒代わりの杖から放たれた無言呪文は背後の壁で散り、部屋を一瞬だけ眩しい程明るくする。壁に映った影はメルヴィッドの右手を弾き飛ばしながら絞め技へ入る所までを映したが、その影と閃光の色を確認する頃には私の腕は彼の頭部に絡み付いて技を決めていた。
「ですからね、忘却術は吐き気がするくらいに大嫌いだと再三言っているじゃないですか。貴方の記憶力が私に劣るはずがないのは判り切っているんですから、余りお巫山戯が過ぎるとこの細首2、3回ヘシ折りますよ」
無論、今の所この言葉はただの威嚇だ。出来るだけ圧迫をかけず苦しみを感じない程度に技をかけているので喋る事も出来るはずなのだが、少々薬が効き過ぎたのかメルヴィッドが何かを話す気配が全く感じられない。
一瞬の出来事だと言うのにまた汗を滲ませているのが可哀想になって来た。否、彼にここまでやっているのは私なのだが。
「メルヴィッド、判っていただけたのならタップして下さい」
まあ、今回は躾の一貫だと思い込もう。
軽く見られるのは構わないが、爺の私でも矜持や自尊心を持ち合わせているので何事にも限度というものがある。これで一応、彼の部下ではなく協力者でもあるという事を思い出して貰えれば有難い。
腰を軽くタップされた事を確認して腕を解くと、メルヴィッドは大袈裟に喉をさすって私と距離を取る。顔色を伺っているので、もう怒っていない事を告げるが信じて貰えない。
「思い出した、確かお前は脳筋設定だったな」
「設定ではありませんよ、事実です」
「そちらの方がより怖い」
メルヴィッドはまだ首元の違和感が消えないのかシャツのボタンを一つ外しながら転がっていた杖を拾い、机の上に放置してあった空のグラスを叩いて水を満たすと一気に煽る。
再びベッドにでも座るのかと思っていたが、そのまま机に付属した簡素な椅子に座った所を見るとまだ私を怖がっているらしい。やってはいけない事を判って貰えたようなのでもう怒っていないのに。
「実際自分の身で体験すると、信じない訳には行かなくなるな」
「今更ですが私の言葉を疑っていたんですか?」
「筋肉質な男なら兎も角、お前のような支援ばかりしたがりの威厳もない痩身男の特技が肉弾戦と言ったとしても普通は嘘か強がりにしか聞こえない」
「おや、少し勘違いしていますね。私は素手で殺り合うステゴロの肉弾戦よりも、得物を使う白兵戦の方が得意ですから」
「……これで忘却術以外はこだわり無く魔法を使うのだから、始末に負えないな」
「味方以外ならば、でしょう?」
ねえ、とピーター君に同意をさせて笑い掛けると、メルヴィッドも疲れたように笑い返して来た。最近曖昧になっていた私との関係の、本来の形をきちんと思い出したのだろう。
「そうだな、私達は互いが唯一の裏表ない味方で、理解は出来ないが共犯者だ。利益と目的が同方向で全く違った、な」
「同床異夢は思ったよりも心地良いですからね、どうにも忘れがちになってしまいます」
無機物ではあるが私の頼もしい味方、ピーター君の頭を撫でながら尚も笑を浮かべていると、憤怒を引きずっていない事を悟ったのかメルヴィッドも緊張を解いた。まあ、完全に無防備になっているという訳でもないが。
その証拠に、彼は机前の椅子からは動こうとせず私の動きをじっと観察し続けている。
「確認しておきたいが、その体でのの強さはどの程度なんだ」
「素手で、魔法を使わず、ですか?」
「そうだ」
「状況に左右される部分が大きいですが、対面での開始で今のメルヴィッドのように油断してくれていればスポーツをしない一般男性。そうでなく1対1の決闘ならば、男女共に10代半ば程度だと思います。私自身の技術と経験はありますが、何分この体ですので」
「その体が10代になるまで、どこまで引き上げられる」
「格闘技経験のある人間以外なら制圧出来るようにします。私とハリーは人種が違いますから、鍛え方次第ではもう少し上のレベルも可能かもしれませんが」
「化物だな」
「そうでもありませんよ」
言っては何だが、私の元の体は実戦向きに鍛えているにしては非常に貧弱だ。絞られていると表現すれば聞こえはいいが対人格闘、特にアジア系以外の人種や中型以上の魔法生物との格闘をするには圧倒的に諸々の筋肉が不足している。なので技術と経験を身に付け、得物を振るい、魔法を同時使用する事で補っている訳だ。
対して、ハリーの肉体は白人男性のものだ。黒人男性程ではないが、それでも筋肉の付き方、鍛えた場合の反映の具合は私の元の体よりも上だろう。体格と同じく、人種とは即ち目に見える才能の塊だ。尤も筋肉が付き易い分、上手く調節して行かないと妙な具合になりそうではあるが。例としては極端過ぎるが、筋肉質になり過ぎてボディービルダーのような見た目になっても困るのだ。
他にも、私の弱点は沢山あるのだから。
「この体でもベースが私である以上、どれだけ鍛えて武器の扱いに慣れても、弱点らしい弱点がちゃんとあります」
「意外だな、前後衛の兼任が可能ならば万能のような気もするが」
「気がするだけの器用貧乏ですよ。そもそも剣術と体術に魔法という複合技に頼るのは其々単体での攻撃は頼りない事の裏返しですから。私は緻密で繊細な魔法は扱えますが、逆に単純で火力のある魔法は高位の魔法使いに比べると大分見劣りします。物理攻撃に関しても一撃の重さを削いだ速度と手数に頼る軽量攻撃専門のアタッカーで、おまけに体があれなので防御が紙なんですよ」
そう、私は昔から前衛にしても後衛にしてもそれ単体でゴリ押しするには力不足がどうしても否めない人間だった。ダンブルドアやヴォルデモートのような強力な魔法使いが前情報を掴み、あらかじめ魔法防御と物理防御を二重に展開さた後に高威力の攻撃を一発打たれると、実はそれだけで詰む危険があるのだ。
つまり、私は真正面からの力技に弱い。序でに戦術を立てる為の頭も、余り宜しくない。
「情報がある程度掴まれて、且つ単騎だと不利なのか」
「単対複数ならば9割負けます」
「雑魚でもか?」
「いえ、流石に素人相手ならばある程度までは捌けますが。例えば前後衛を整えた部隊や、訓練し尽くされた団体相手だと勝てる気がしません」
「闇の陣営と騎士団はどうだ」
「頭の2名が静観して下されば6割弱、手を出されて正面衝突した場合は多く見積もっても1割強でしょう。逆に懐に入って背後から急襲すれば8割半ば程度まで引き上がりますが」
「成程、よく判った。つまりお前は遊撃戦に特化しているんだな」
「自覚はありませんでしたが、そう言われてみると、そうかもしれませんね」
「今まで無自覚だったのか、お前のその性質も考えるとより恐ろしいな」
そう言うと、メルヴィッドは完全にいつもの調子を取り戻したようで意地の悪い笑みを浮かべながら私の隣に座った。次に私に仕掛ける時は防御を強固にすれば防ぐ事が出来るのだと学習してしまったからかもしれないが。
「しかし白兵戦となると少し使い勝手が違ってくるな。得物と言っていたが、確かお前の武器は特殊なんだろう。イギリスで手に入るのか」
「長巻はまず不可能でしょうね。日本刀ならば或いは手に入るかもしれませんが、整備も出来そうにありませんし、今の私が手を出せるような値段の代物でもありませんから。何よりも、ハリーの体で扱える保証がないので」
「かと言って、得物がなければお前の力は半減するだろう」
「いえ、攻撃の軸が武器頼りなので、半減で済めばいい方ですよ」
今のメルヴィッドのように単騎同士の戦闘ならば兎も角、リーチが圧倒的に短い私にとって対多数の場合は槍のような中距離型の得物が必需で命綱となる。戦慣れしていない者が使う素人武器だと詰られそうだが、そもそも今は血塗れた中世ではなく一応表面上は平和な現代であるのに素人武器も何もあったものではない。
槍を例に出したように、元々私の得物も長巻という太刀に長い柄を付け足したような中距離型の武器であった。探せば代替えくらいはイギリスでも手に入ると思うのだが、しかしハリーの体でと考えると別の案が浮かんでくる。
「私としては、今回は金砕棒やメイスの系統を扱いたいと思っているんです」
「カナサイボウは理解出来ないが、鈍器を使うのか」
「そうそう、一括りにすると鈍器です。因みに金砕棒という鈍器は日本に住まう鬼という魔法生物が持っている、棘がびっしり付いた長さ2mくらいの鉄の棒ですよ。鬼の金棒と言えば大概の日本人には間違いなく通じます」
「イギリス人の私には通じないその情報は必要なのか? まあいい。それで、本当に扱えるのか。メイスもそうだが、話を聞くとお前の言う鈍器は同類の中でも特に中距離まで攻撃範囲がある金属製の粉砕特化型で、しかもかなりの重量があるように感じられるが」
「棒術も多少齧っていますので扱い自体は何とかなるでしょう、それにメイスも色々あって柄頭が出縁付き型の物ならそれ程重くないはずなので。それよりも、問題はどこで手に入れるか、ですよ」
「何処で、か。メイス自体は技術だけはあるゴブリン共に作らせてもいいが、足が付くな」
「確実に付くでしょうねえ。だからといって簡単に手に入るクィディッチのクラブではリーチ不足、リーチはありますが箒はすぐ壊れますからこれも駄目ですね」
「それ以前に武器としての品性が皆無だ、却下する」
「そうなると、今考えられる候補は鍬、スコップ、釘バット、鉄パイプ、角材、バールのようなもの……矢張り容易く手に入る物はどれもリーチが不足しますね。逆にリーチのある物は業務用の給食フォーク、斧や払い鎌辺りですが、それは鈍器とは言えません。代理になるのは、そうですねホームセンターの大型のハンマーくらいでしょうか」
「棍棒よりはマシだが、それも品がないな」
「確かに大立回りするのならば扱う武器にも多少の派手さが必要ですよね。しかしモーニングスターのようなフレイル系の入手も難易度的には同じですし、どうしましょうか」
結局は一番最初に出した武器が一番いいという結論に達してしまい、その難しさに溜息を吐いてしまう。先程も過ぎった考えたが、中世ならば兎も角、この時代は現代なのだ。
その辺で容易に手に入る刃物ならまだしも、欲しがっている物は鈍器の代表格であり撲殺に定評があるメイスである。どう考えても凶器にしか使いようのない得物の情報はかなり早い段階でダンブルドアと、今は未だ逃亡中の身であるが力を取り戻せば即ヴォルデモートの耳にも入るであろう。
それもの所為にしてしまえばいいと言えばいいのだが、武器を作ることに関しては矜持高く頑固で、また魔法界では保守派層の強いゴブリンが手紙の遣り取りだけで注文通りの武器を作ってくれるだろうか。
そもそも彼等との歴史を省みるに、人間の為の武器を作ってくれるかどうかも非常に怪しい。何より、ゴドリック・グリフィンドールの剣のような例も存在する。というか、あの話を編纂したのは間違いなく人類側なので、ブリカスという単語の由来を知っている身からするとゴブリンが一方的に契約を破ったとは到底思えないのだが。
それはそれとして、今現在、大抵のゴブリンが魔法界での境遇に満足しておらず人類全般を蔑んでいるのは確かなので、低姿勢で誠意を見せ過ぎて注文を受けて貰ったとしても、そのゴブリンから私達の情報が欠片でも流出しないとは限らないのだから、気軽に注文という訳にも行かないだろう。魔法界の些細な事象や流通経路に関してはあの2人の方が明らかに整ったものを持っているのだ、彼等の耳や目は到る場所にあり、その手は非常に長い。
いっそ日本刀のように一般人でも書類さえ準備すればそれ程気負いなく購入出来ればいいのだが。否、それならば可能かもしれない。
「メルヴィッド、貴方ならば職杖をご存知ですよね」
「ああ、あのマグルの議会で使用するような儀礼用メイスの事か」
「もしかして、ですが。武器としてではなく、文化的な事に使用する職杖ならば非魔法界側でも比較的容易に購入出来るのではないでしょうか」
メイスの中でも特に武器ではなく祭礼や儀礼に使用する職杖、通称セレモニアルメイスならば現在も非魔法界で作られており、入手難易度は随分下がるはずだ。
職杖というのは日本人にはあまり縁のない単語だが、要は武器としてではなく儀礼用に作られた、色彩や装飾に職人の気合が入ったド派手なメイスだと思って貰えればいい。もしも今の例えでも判り辛いのならば、メイスの柄頭が巨大なインペリアルイースターエッグに取って代わっている姿でも構わないだろう。兎に角、大きくて派手なのだ。
無論儀礼用に作られた派手な物なので、武器として扱うには少々脆く、また値段は張るが致し方ない。申し訳ないがポッター家の財産に手を付けさせて貰おう。
「マグルの職杖か。確かに手に入れる事が出来れば立派な武器になるが、しかし一体何処で購入するつもりだ?」
「おや、お忘れですか。それを調べるのが本来の私の役目ですよ」
「……それもそうだったな」
好きなようにしろと竦めたメルヴィッドの肩が不意に跳ねる。気が緩んだ所に階下からの怒声が効いたのだろう、小動物のような反応をしてしまった自分が恥ずかしいのか、唯一の目撃者である私を睨んで来た。何故私は平気なのかと責めているような視線でもあったが。
「単なる夫婦喧嘩ですよ。気にする程の事でもありません」
「ダドリー・ダーズリーの件か?」
「日によってまちまちですよ。死んだ一人息子や、虐待していた甥の露見、潰れかけた会社、妻の態度、他人からの突き上げや中傷等が主だった理由です」
「グランニングズ社だったか、あれが未だ潰れていないのは意外だな」
「彼はあれで結構な遣り手ですよ、あの歳で起業して成功していたんですから」
過去形か、と赤い瞳が美しく歪む。弱った獲物を甚振り殺す肉食獣の笑みだった。
「何にせよ、次は私も呼べ。あれは生まれた事を後悔させながら嬲り殺すのだろう?」
「それは勿論。なので貴方の持つ、若さ故の残酷さを期待していますよ」
「感覚が切れて鈍った老体の持つ残忍さ程ではないがな」
太い怒鳴り声と細い金切り声の応酬を聞きながら、私達は互いに軽口を言い合う。窓の外からは朧月に掻き消されまいとする、柔らかな春の花の香りがしたような気がした。