曖昧トルマリン

graytourmaline

金華ハムと姫甘藍のスープ

 意識が落ちている事に気が付いた。
 いつものように朝食事を摂って洗い物をして、今日は天気が良くなりそうなので洗濯を干して、つまらない学校へ行って、午後の早い時間に帰って来て、洗濯物を取り込んで、ついでにベッドメイキングをした事までは思い出した。
 そうだ、少しだけ休憩して、最近壊れ気味のピーター君を修理しようと思っていたのだ。
 霞がかった思考が晴れ、傍らにある筈のない人間の気配を感じ取ってはっきりと目を覚ます。輪郭の定まらない不明瞭な視界に入ってきた時計の針はもうすぐ午後4時半を指す所だった。30分程度昼寝するつもりが、もうこんな時間だ。
 カーテンを閉めた薄暗い部屋の中で眠っていたからか、体の末端が少し冷えているような気がする。長い冬が終わり暦の上では今日から4月に入ったので油断して毛布一枚で昼寝をしていたのだが、流石にこの時間帯まで暖かさは続かないようだった。イギリスの春は、日本のそれよりも随分寒い。
 大きく伸びをして体の筋肉を解し、真新しい眼鏡ケースから新品同然の眼鏡を取り出す。クリアになった視界を少し移動させれば、私を起こした犯人が優雅な仕草でベッドに腰掛けているのが確認出来た。
 音も立てず姿現しをする技術は流石だが、釈明しようのない不法侵入を家人に見つかったらどうするのかと余計な事を考えていると、その思考を読まれたようでメルヴィッドは馬鹿にしたように鼻で笑う。心配無用という事らしい。
「おはようございます、メルヴィッド」
「洗いたてのシーツ、新品のベッドで昼寝とは、いい身分になったものだな」
「お陰様で、5ヶ月前よりは快適な生活をしていますよ」
 眠たげな表情のまま、元はダドリー・ダーズリーの玩具収納部屋だった一室をぐるりと見渡す。その後で、昨年11月から12月までは私が、それ以前はハリーが居た階下に視線を遣りながら笑ってみせた。
 そう、結局ハリー・ポッターという存在は無能な行政機関の判断でダーズリー家に戻される事になったのだ。全く反省していないであろう虐待元に戻されたという意味と、私という存在をダーズリー家に近付けてしまったという意味で、彼等は二重に無能だった。特に前者の理由は大体以前言った通りなので、細かい事は推して知るべしだろう。
 とはいえ、生活領域が元に戻ったからといって生活環境そのものまで戻ったという訳ではない。幸いな事にダーズリー夫妻はハリーと、何よりもピーター君を恐れていた。それも、第三者の目から見るとかなり異常と言える程に。
 尤も、事の顛末を知っている側から見れば、我が子が倒れた日に現れ、捨てたはずのピーター君が、我が子が死んだ日に再び現れて消失し、更にハリーを伴って三度姿を見せたともなれば気味の悪さ、或いは恐怖を感じるのも道理である。
 帰宅後のダーズリー家では理不尽な暴力や暴言は消え、それと一緒にハリーという存在には必要最低限にしか触れないようにするという方針に転換しただけだとも言えた。この状態は私の世界でハリーが経験したものに近く、私自身もその方が快適なので特に不満もない。
 寧ろ長期間育児放棄をしてくれたおかげで体調も随分良好になった。虐待と早生まれという事が重なりハリーの体を同世代と代わり映えないくらいに引き上げるにはまだ時間が足りないが、それでも私なりの看護と調整で人間らしい輪郭は取り戻している。
「それで、こんな時間に突然どうしたんですか? どうせ夜にはお会いするでしょう」
「お前と私の仲だ、会いに来るのに理由がいるのか?」
「貴方にそう言われると嬉しい気持ちが隠し切れませんが、そういうのは春の過ぎた爺ではなく異性に言って差し上げなさい」
 まだ体の関節が固まっている気がするが、気の所為という事にしておこう。乱れた髪を手櫛で整えてから欠伸を一つ零すと、背中でメルヴィッドとの距離が縮まる気配を察知した。しかし別段怪しい雰囲気でもないので放っておくと何を思ったのか彼の指が癖の残る髪を梳いてきた。
「少しはまともな見てくれになったな、髪も退院時よりも良くなっている」
「体質改善や髪のケアは昔から得意なんです。今は家人の誰も干渉して来ませんから、私の好き勝手にさせていただいていますよ」
「お前の話を額面通りに受け取ればあれ以降家庭内環境が進歩したように感じるが、実際はただの育児放棄だろう」
「そうとも言いますが、私としては干渉されるより放棄された方が楽ですしねえ」
 欠伸をもう一つしてから、板を組み合わせただけの簡素な机に足を向ける。修復予定だったピーター君と裁縫箱を持ちメルヴィッドの隣に座るとまたかと呟かれた。
 膝上のピーター君は継ぎ接ぎだらけな上に顔や腹が大きく裂かれ、そこからあらゆる方向に綿が飛び出して最早原型を留めていない。針と糸だけでは修復し切れない部分の補修の為に裁縫箱から適当な大きさの布を取り出して鋏を入れる。
「ただの人形を毎回解体するとは、相変わらずの暇人共だな」
「全くです。彼等の所為でネザーランド・ドワーフの愛らしい面影も無くなってしまいましたよ、こんなに切り刻まれて可哀想に」
 ここで言うメルヴィッドの暇人共というのは月に一度ダーズリー家を訪れる監査官、の振りをした魔法使い達である。内訳としてはミネルバ・マクゴナガルともう1人のペアとなっており、1月と2月にはセブルス・スネイプ、3月にはエメリーン・バンス、今日やって来たのは再びセブルス・スネイプと、いずれも騎士団の人間がやって来た。
 あまりに不自然な訪問が続くので色々嗅ぎ回ってみて判った事だが、どうやら非魔法界側の監査官自体は近くまではきちんと来ているらしい。ただ、そこは記憶の改竄に定評のある魔法使い達、杖を一振りして偽の記憶を植え付け、自分達が監査官に成り済まして私への尋問を行なっているようだった。また、ペチュニア・ダーズリーとセブルス・スネイプは顔見知りのはずなのだが、その辺りもきっと、魔法でどうにかしているのだろう。
 恐らく偽の記憶により家庭事情に問題なしと報告しているであろう罪のない監査官には申し訳ないが、そろそろ私も動かなければならない時期に差し掛かって来た。職務怠慢だと再び国民から突き上げを食らうであろう監査機関に今の内に謝っておこうかと思う。心の中でだけ、無責任に。
「タイプライターはどうなんだ?」
「勿論壊されましたよ。一応レパロで直したのですが、キーボードの調子がどうにも良くないんですよね。元々重かったのが更に重くなったみたいで」
「また修理か。毎月ご苦労な事だ」
「既に生産終了している型番なので結構なお金がかかるんですよね、在庫部品にも限りがありますし。本当にいい加減にして貰いたいのですけれど」
 言い忘れていたが、ハリーの生活費は相変わらず一銭も手元には来ていない。
 養育費としては結構な額なのでまともな監査官ならばその辺りもきちんと追求してくれるのだろうが、この家に来るのは監査官でもなければそもそもこちらの事情に詳しくもない人間ばかりだ。自分達の使命とやらだけを私にぶち撒け黙秘を貫けば脅迫し、冷たい態度を取れば物に八つ当たる。ハリーを取り巻く環境など微塵も気にした様子もない。
 所詮、この世界のハリー・ポッターなど精々その程度の価値しかない、という事なのだろう。寧ろ私の世界の彼は高騰し過ぎていたのでこれが普通と言えば普通なのだが、何とも理不尽で悲しくて、どこにでもある有り触れた話だ。
 本当は本物の監査官にそれとなく現状を訴えたかったのだが、この状態では無理である。いい加減資産の無駄になるので時期を見てを代理人としてでっち上げグリンゴッツに書類を提出しよう。未だに一切の育児を放棄している彼等が一定以上の養育費を手に入れるのはどう考えても釣り合いが取れない。
 思わず溜息を吐いてしまいながら色も質感も全く違う布を残り物の赤い糸で縫い合わせていると、メルヴィッドの腕が伸びて来て、優しい手付きで慰めるように頭を撫でられた。今日は何時になく胡散臭い台詞や肉体的接触が多いような気がするが、彼の思惑に心当たりがあるので少し遊んでやろうかと笑顔を返すのみにしておき、激しいリアクションはしない事にする。
 私の反応が少し不服そうな表情を隠し切れていないのが可愛らしい。
「余程不満が溜まっているように見える」
「まだ抑え付ける事が出来る程度ですよ。そう、いい加減にして欲しい事と言えば、物置のダドリー・ダーズリーですかね」
「あれはお前があそこに居着かせたんだろう」
「いえ、物置の出入りはあれ以来禁止されているので啜り泣く声が鬱陶しい事以外に直接的な迷惑は被っていないんですが、毎月訪問して来る犯罪者達が色々聞いているらしいんですよね。手掛かりらしい手掛かりは残していないと思うので、それは別にいいのですが」
「あんな愚鈍な餓鬼に何を訊く」
「言葉なんて必要ありませんよ、ダンブルドアはペンシーブを所持していますから」
「憂いの篩か。そういえば、そんな厄介な代物を持っていたな」
「第三者が当事者の記憶を見ることが出来る、という道具は使い方によって強力な武器になりますからね。それにしても記憶のバックアップを可能にする装置はファンタジーよりも寧ろサイエンス・フィクション系の傾向……なんて事は、どうでもいいとして。今日は遂にセブルス・スネイプが銀色の液体を持って帰った姿を見ましてね、恐らくあちらに使ったんでしょうが」
 髪を梳くメルヴィッドを無視してピーター君の綿を何とか内側に押し戻しながら、薄暗い室内で会話を続ける。
「偶然を装って破壊するにはタイミングが掴めませんでしたし、第一記憶を採取した直後にハリーが壊すというのも胡散臭過ぎますからね。ほら、メルヴィッド今、少しずつ魔法界に接触しているでしょう? もう少し落ち着いたらハリーとも接触する予定ですし、どこで足元を掬われるか私では不安で」
「言い訳などしなくてもお前が愚鈍な男だという事は判っている。確かに、これからの時期は慎重に過ぎるという事はないから、勝手に動こうとしなければそれでいい」
 髪をいじっていたメルヴィッドの手が頬に降りて来た。指先からは揮発した薬草独特のほろ苦くて甘い香りがする。
 私が内職をしているように、メルヴィッドも冬の終わり頃からそういった傾向の物を始めていた。とはいっても、私のように空いた時間にちまちまと行う小遣い稼ぎ程度のものではなく、もう少し規模が大きい。一応ガードナー家の遺産はあるが、それに頼っているだけでは後々困る事くらいは予想しているのだろう。
 彼はが唆したという設定で魔法界のフリーペーパーに小さな広告を出し、魔法薬の調合を請け負っては自宅の一室で調剤を行なっていた。メルヴィッド曰く、特に資格等は必要ないので薬物を個人で調合、通信販売するという行為はここイギリスの魔法界で簡単に出来てしまうらしい、考えてみれば空恐ろしい世界である。
 そんな簡単に成れてしまう職業なので個人経営の調剤師自体は魔法界内でも少なくない職業でやや飽和状態なのだが、そこは人より頭一つ以上抜けている元ホグワーツ魔法魔術学校主席の魂である。小細工無しで正面から参入した割りには腕がいいと静かな評判となり、それなりにまとまった額を毎月稼いでいた。
 私も時折彼の手伝いをするが、行なっているのは専ら薬酒や、塩漬け、砂糖漬けの仕込みで要は料理の延長である。しかし売買に必要になるリカーライセンスなんてものは、勿論双方共に持っていない。それでも売る事が出来るというのだから、矢張り魔法界は暴力的な意味と違った理由で恐ろしい場所だ。
「指先に匂いが残っていますが、一仕事終えて来たんですね。薔薇に肉桂、姫茴香とバニラの香りがしますよ。アモルテンシアではありませんが、愛の妙薬の類でも頼まれましたか」
「香りは落としたはずなんだが、まだ匂うのか」
「爪の間にでも薬草が入り込んでいるんでしょう、近付かなければ判りませんよ」
「あんなものの匂いを纏うだけで吐き気がする」
 うんざりした様子のメルヴィッドは手を引っ込めて爪の間を覗き見た。私が歪な人生故に忘却術を憎悪するように、メルヴィッドはその生い立ち故に惚れ薬の類を嫌悪しているようだった。それでも彼は愚痴を零すだけに留まり、注文通り薬を作り上げていた。今、彼の心はどうなっているのだろうか。
 当然そんな私の心配など知る由もないメルヴィッドは、他にも面倒臭い客に思う事があるのか愚痴をしばらく続ける。私は相槌を打ちながらピーター君を修理しているのだが、兎に角誰かに不満を聞いて欲しいだけで意見を求めている様子はないので、きちんと聞けだとかそういう注意は特になかった。
「そういえば、の恋人はこの世界に存在しているのか?」
「唐突に嫌な所をストレートで突いてきますね。何です、春の陽気に恋でもしましたか」
 惚れ薬の話の延長なのか、前振りなど一切なく切り出してきたメルヴィッドに心にもない言葉を送ってみる。修理を終えて一層継ぎ接ぎだらけになったピーター君を脇に退け、裁縫箱に道具をしまいながら顔を上げた。
 その先にあった赤い瞳が、いつになく真剣なように見えた。
 再び頬に触れた左手の指先から先程と同じ香りが微かに漂う。何も変わらない、ローズ、シナモン、キャラウェイ、バニラの複雑で甘い香りだ。
「そうだ。と言ったら、どうする?」
「別にどうもしませんが、私はそういった類の隠蔽は苦手ですので貴方一人で相手の女性を上手く身内に引き入れて下さいね」
 態とらしくはぐらかすと目の前の赤が苛立ちの色を孕む。
 まあ年齢差と、一応性別もこの際だから置いておいて、薄暗い部屋のベッドの上で2人きりというシチュエーションならば、相手が自分に気があるのではと普通なら勘違いしたくもなる、特に相手が美しい青年ならば尚更だ。
 ただ私にはメルヴィッドの思惑が透けて見える上に何よりも、随分前に春を通り過ぎた爺なのである。精々可愛い孫が懐いてくれて嬉しい、くらいにしか思えない。
「引き入れる必要はない」
「おや、そうですか。ならば勘付かれないように気を付けて下さいね、貴方は私のような間抜けではないので大丈夫だとは思いますが」
「はぐらかすな。お前は愚鈍だが勘はいい。私の気持ちくらい、判っているだろう」
 頬に触れていた手が肩を掴む。元の体ならまだしも、碌に筋肉も脂肪もない骨と皮だけのハリーの肩は成人男性の力で掴まれると結構な痛みを感じた。
、お前は、お前の世界で起こった出来事を語る時も意図的にそこだけは避けていた。血縁者やお前の養父の事は絡めて話したが、恋人の事だけは間接的にダンブルドアに殺されたとしか聞いていない。何時殺されたのかも、何故殺されたのかも、私は知らない。そこまでして恋人の存在を避ける理由は何だ、何故私に隠そうとする」
 メルヴィッドの遊びに乗じた尋問に、さてどうするかと考える。
 以前にも言い訳したと思うのだが、私はトム・マールヴォロ・リドルという存在と恋人同士で肉体関係もあった事まではメルヴィッドに言っていない。というより、言えるはずないだろう。メルヴィッドの精神はこれで結構繊細なのだ。彼がもっと多方面に図太ければとうの昔に言ってしまえているに違いないのだが。
 更に適当にはぐらかしてもいいのだが、これはメルヴィッドなりの冗談なので私なりの最悪の冗句で返すのが礼儀であろうか。
「貴方に少しでも気取られたら、殺されてしまいそうですから。他人と判っていても、彼女が貴方に殺されるのは忍びありません」
「精神異常者らしくない言い分だ、死ぬにしてもどうせ他人だろう」
「違います、そうではないんですよ」
 メルヴィッドの左手首を掴み軽く捻って寝技に持ち込むと赤い瞳が驚愕で見開かれる。抵抗される前に馬乗りになって杖と身動きを奪い、一瞬の逆転劇に血の気が引いた首筋に手を這わせるとじっとりと汗が滲み皮膚から感じられる体温は下がっていて、少しひんやりとしていた。
 やり過ぎたような気がするが、やってしまったものは仕方がない。続けよう。
「彼女を一目でも見てしまえば、他の男に殺される前に私だけの物にしてしまいたい衝動に駆られて、殺してしまいますから。余りに必要のない殺人は、貴方だって困るでしょう?」
 唇から浅い呼吸を繰り返して次の言葉を探すメルヴィッドの視界から見えない場所に手を伸ばし、優しく笑いながら触れた物をゆっくりと手繰り寄せた。組み敷いた体から感じる体温は相変わらず低いが、心拍数が異常に速い。
 ゆっくりを息を吐いて、手に持った物を振り上げるとメルヴィッドは反射的に体が強張らせ目を瞑った。その顔面に、私は手に持っていたそれを押し付ける。
 もふん、と擬音にするならその辺りが妥当な音が聞こえた気がした。
「……な」
「エイプリルフール」
 修復されたばかりのピーター君と熱烈なキスをしたメルヴィッドが何とも表現し難い表情で私を見上げた。下がっていた体温が急激に上がるのを感じてピーター君を避難させてから上から退くと、ベッドの端に転がっていた杖をメルヴィッドが何故か逆手で持ちつつ起き上がった。魔法を放つには不自然過ぎる、もしかして刺す気ではなかろうか。
、お前……!」
「仕掛けたのはそちらが先ですよ、メルヴィッド」
 本日は4月1日水曜日。
 今日は何の日かと問われれば、エイプリルフールと迷わず答えることが出来る、そんな日だ。ここに来てからの彼らしくない行動は全て、つまりそういう事である。
 暇潰しなのか気晴らしなのか、私と違い彼はこんな事をする程暇ではないので恐らくは後者だろう。最近溜まりつつある鬱憤を私で晴らしたかった事がきっと主な理由に違いない。しかし、仕掛けるにしてももっとまともな仕掛け方があっただろうに、何故春も過ぎ去った爺の私にこの手で行こうと思ったのか。
「……最初から気付いていたのか」
「何処が最初なのかは判りませんが、やけに私に触れて来た辺りで気付きましたよ。幾ら何でも言動が不審過ぎます。何より、私だってエイプリルフールくらい知っています」
「お前が何を知っていて何を知らないのか、その境界線が全く判らない」
 爺で世間ズレしている私がエイプリルフールを知らないと踏んでいたらしいメルヴィッドは、色々と面倒臭くなったらしく脱力してベッドの上にかなり雑に座り込んだ。それでも相当格好良く見えてしまうのだから、美形の補正能力は上限知らずで恐ろしい。
 遊ぼうと思っていたのに逆に遊ばれた事が気に入らないらしく、恨みがましく私を睨め付けていたメルヴィッドだったが、それすら面倒になったのか大きな溜息を吐いて私の太腿目掛けてダイブして来た。当然ながら太腿も肩同様、まともな肉が付いていない。
「骨張って痛い」
「当然でしょう、この体はまだ脂肪も筋肉も付いていないんですよ?」
「太れ」
「これでも大分調整して体重を増やした方です」
「今すぐだ」
「無理です。ちょっと失礼しますよ」
 重い頭を乗せたまま足の位置を直して座り込むと、部屋の隅に置いてある救急箱を呼び寄せて綿棒と消毒薬を取り出す。無言でいるメルヴィッドの手を勝手に取って爪の間を掃除し始めると、やっと絞り出したような枯れた声が腰元から聞こえた。
「あの甘ったるい匂いが纏わり付く、気分が悪い」
「そうですね」
「愛の妙薬なんて滅びればいい」
「では滅ぼしてしまえば宜しいでしょう」
 何でもない風に返事をした私に面食らったのか、しばらく沈黙した後でしかメルヴィッドは口を開けなかった。
「お前は反対するかと思ったが」
「私の目的の障害にならなければ何をしても構いませんし可能な限り助力します、と最初にお伝えしたでしょう。愛の妙薬が滅びようと栄えようと、私は困りません」
 右手の人差し指の間を掃除し終え、新しい綿棒で中指に取り掛かりながら言葉を続ける。
「第一、服従の呪文を使用すればアズカバンで終身刑なのにアモルテンシアの使用では罪に一切問われない魔法界の現行法は明らかにザルだとは常々思っていましたからね。序でに同じ意味で忘却術辺りの使用規制も含めて検討していただけると有難いです」
「体よく自分の欲まで私に押し付けるな」
 下から伸びて来た左腕の先から放たれたデコピンが私の額で炸裂し、部屋に乾いた鈍い音が弾けた。まだ鍛えていない薄っぺらな体の上に眉間という人体急所の一つに攻撃をされ、声にならない声をしばらく上げる。
 頭上で悶絶する私を見るのが楽しいのか、メルヴィッドは人の膝に頭を乗せたままいつもの表情で笑っていた。
「私を騙してくれた礼だ。遠慮はいらない、受け取れ」
「受け取らせた後に言う台詞ではありませんよね」
 ただ、私も年甲斐もなくメルヴィッドに対し確かにやり過ぎた感は否めないので、それ以上は文句を言うこともせず爪の掃除を再開させる。
 右手の薬指、小指、親指を丁寧に掃除し終えて右手をベッドの上に置く頃には、外の景色は既に濃い橙色に染まっていた。左手が終わったら今膝の上でうつらうつらしている青年の夕食でも作りに行こうか。最近は私の指導もあり、一人暮らしも板に付いて私が居なくてもそれなりの物を作ることが出来るようになって来たのでそう毎日作りに行く必要はないのだが、この様子では今日はもう面倒臭いと言い出しかねない。
 しかしそういった愚痴が嬉しいと感じてしまうのは、最早孫離れ出来ない爺そのものだ。孫みたいだなんてうっかり言ってしまうと、物凄く怒られそうではあるが。
「メルヴィッド。貴方も偶には、息抜きもして下さいね」
 香りが連れて来る過去の感情から逃れたかったのだろう。睡魔に任せて眠りの世界へ行ってしまったメルヴィッドの左手を取り、彼を起こさないように爪の間を掃除する。
 ローズ、シナモン、キャラウェイ、バニラ。彼が嫌悪する記憶を運んで来る香りを削り落として消毒薬で殺し、これ以上の悪夢も見ないように薬の痕跡を一つ残らず消して行く。
 秒針が進む毎に闇を纏っていく景色の中で、形は美しいが生白い腕がぴくりと動いた。体温の低いさらりとした腕は、虚空で形のない何かを掴んでから、ゆっくりと握り潰す。
 彼の手の中で押し潰された空気が目の前で散り散りとなり、夕闇の中に無音で溶け込んでいく。薄暗い部屋の四隅が、じわりと冷えた気がした。