曖昧トルマリン

graytourmaline

パンデピス

 朝から降っていた雨は結局、止むことなく夕方まで降り続いている。
 体感はしていないが、それでも気分を憂鬱にさせる湿度の高いロンドンの冬にうんざりしながらダイニングから見える濡れた地面を眺めて、相変わらず雪になる気配はないとどうでもいい事を考える。すると、丁寧とも可愛らしいともいえるような仕草で夕食を口に運んでいたメルヴィッドが思ったよりも遅かったなと呟いた。前後の会話はなかったが、恐らく、今朝の事を言っているのだろう。
「しかし、あのマグル女を中心に調べ上げていたのなら、考えられない遅さではないか」
『遅いとは言っても、やって来たのはミネルバ・マクゴナガルとセブルス・スネイプでしたから、ダンブルドア自身はかなり早い段階で両者を結び付けていたんでしょうね』
「当然だ。殺人が起きた場合、まず最初に調べ上げるのは身内だからな」
『尤も、尋問前にあちらは勝手に家探しをしたみたいですが』
「お陰で愚か者が引っ掛かった」
 一通り料理に手を付けたメルヴィッドが、満足そうな表情でレモンを浮かべた炭酸水を飲み干した。計画の進行具合と食事の質、どちらに対しての表情なのかまでは判らないが、前向き思考で両方という事にしておこう。
『あの無意味な暗号は何時頃解かれるんでしょう』
「駒は暗号を解いていないが、ダンブルドアが解いていないという訳ではないから何とも言えないな。どの道、あれはただの暇潰しだ」
『暇潰しというか、阿呆を踊らせる馬鹿手紙というか』
「しかしその阿呆共のお陰でこちらは美味い夕食にありついているのだから、今日という日付が変わるまで気に掛けてやってもいいだろう」
『それはまた、お優しい事で』
 今朝方起こった事の感謝も込めて普段よりも少しだけ豪華に作った食事を前にして食べる事に対する幸せが滲む表情と、不遜ではあるが酷く御機嫌な様子でフォークとナイフを扱う仕草に私の口元も綻ぶ。
 目の前の食卓には硬めに焼いたライ麦パン、出来立てでふわっとした食感がまだ楽しめる小エビのスフレ、フェンネルと根菜のコンソメスープ、今が旬の鱈とポロ葱とニョッキのグラタン、鴨のコンフィとバルサミコソースのソテー、口直しの為に甘酸っぱく味付けた蕪とスモークサーモンのマリネ。これで足りないのなら、作り置きのソースを使ってパスタを作る予定だ。
 まだこの場にないデザートはスフレと交代で焼き始めた香辛料たっぷりのずっしりとしたキャロットケーキと、それとは対照的に冷凍庫で冷やされているさっぱりとしたヨーグルトのアイスクリーム、そして普段よりも少しだけ品質の良い紅茶。
 こう羅列されたメニューを改めて確認すると、1人分とするにはかなり量が多い上に味付けも相当重いのだが、彼にはこれくらいでようやく満腹になる。
 尤も、これにはちゃんとした理由がある、らしい。
 先日の栄養失調気味から爆発卵の件が余りに印象深く、愚かな私はこの前まで微塵も気付かなかったが、普通はあの時点で疑問に思うだろう。
 彼の大元は分霊箱ホークラックスだ。体の10割が魂で構成されている為、本来ならば生気のみを食し他の食物を摂取する必要はないはずだ。しかし、それを指摘して返って来た話を聞くにどうにも勝手が違うらしい。
 魂や肉体の可視化及び具現化は兎も角、肉体の維持に生気を使用するのは燃費が悪いのだそうだ。メルヴィッドの本体は髪飾りなので、幾ら私が居るとはいえ何時供給が絶えるかも判らない貴重な生気を使用するのは非効率だと愚痴っていたのは記憶に新しい。
 肉体の維持に食事という手段を取る事は呼吸と並んで生物として自然且つ根源的な事でもあるし、食事という行為も他者との距離を縮める重要なツールなので、前述した部分も含めて考えた場合メルヴィッドも特に抵抗なく折り合いを付けたのだという。
 相も変わらず的確な例えではないが、マッチの炎を実体化したメルヴィッドに置き換えた場合、あの赤い頭薬が生気、芯の木材が食事とでもしておこう。炎の維持に頭薬のみを使用するのはどう考えても非効率だ、というそれだけの話である。
 そのような点から考えると、燃料になるのならば料理などせずに毎日栄養補助食品やらレトルトやらテイクアウト品でも変わらないといえば変わらないのだが、私の爺心はこういった時に余計な能力を発揮させるのだ。
「なんだ、じっと見て」
『若い人が沢山食べる姿を見るのが、年寄りの楽しみの一つなんですよ』
「お前が奪った体も若いだろう」
『今は主に病院食ですから。たとえ高血圧で苦しもうとも塩気が大好きで中々止められない日本人にとって、栄養学にだけ忠実なあれは味気なさ過ぎます』
「そう言われれば、買い置きの食材と並んで大量の塩があったな。発見した時は致死量という単語と共にあれを全部使い切るのかと慄いたものだが」
『直接料理に使うのではなくて、後で発酵食品類を作るのに必要なんですよ。種麹がないので味噌や醤油は作れませんが、魚醤や咸肉や漬物なら』
「ならばどの道、最終的には料理に使って口に入るのではないか」
『……う。確かに、そうなんですが』
「冗談で言っているつもりだろうが、爺なのだから気を付けないと本当に高血圧で死ぬぞ」
 真顔で語るメルヴィッドの正論に口篭る。しかし、自分がどれだけ愚かだと判っていてもここだけは譲れない。
 田舎の山中の出身で判る通り、私の料理はイギリス料理と真反対でかなり塩気が強い。米を食べ酒を飲む為に作ったものなのでそれらを一度に大量摂取する事は稀なのだが、それでもメルヴィッドの言う通り、最終的には体に蓄積されるので言い訳は出来ない。
 出来なくても、それでも私は、その上で質よりも味を取りたい。低カロリー、低糖質、低塩分で美味しいものを食べたいなどというのは我儘だ、そもそも、その条件が揃った食材を皆が皆、美味しいなどと感じる舌を持つ生物だったら、地球上にこれ程繁殖出来なかったに違いないと論点をズラして行こう。
 しかしその前に、メルヴィッドが追求を辞めてしまった。
「まあいい、今日は私も気分が良いから程々にしてやろう」
 空になったスフレを横に退け、マリネで口直しをしながら赤い瞳が私を見つめ、言う。
「少し早いが、にクリスマスプレゼントだ」
『は?』
 メルヴィッドとクリスマスプレゼント。
 容易く想像が出来ない組み合わせに思わず冬の妖精の呟きか、それとも高齢で聴覚神経が混乱したか等と脳が判断し、間抜けな返答しか出来なくなっていた。その隙に炭酸水を注ぐ音と共に言葉が続けられる。
「以前、教授にお前が言っていた菌のコウジがどうとか話題を振ったんだが、それを覚えていたらしくて昨日の食事会で実物を持って来られた。私にはこんなもの必要ないが、お前は欲しがっていただろう?」
『これは、まさか麹ですか!? しかも緑の種麹ですよね! イギリスでは絶対に手に入らないこんな貴重な物をいただいて宜しいんですか!?』
「ああ、しかしの事だから譲り受けるとは思っていたが……お前、相変わらず食物が絡むと性格が豹変するな」
『麹は生命線ですから! 教授様に爺が大変喜んでいましたとお伝え下さい! これで、高くて不味くて二の足を踏んでいた輸入物に頼らず味噌と醤油が作れます!』
「馬鹿が、伝えられる訳がないだろう。お前、聞いて……もういい」
 よし、今夜のイベント前にイギリスで手に入る米と麦と大豆、そして水質についてを纏めよう、そしてイベントを終了させ次第麹作りのスケジュールを組もう。本来ならば人手の要る作業だが、ここは魔法という便利な能力に活躍して貰おう。混ぜ込みや種麹撒き、果ては温度湿度の管理まで、知識と技術さえあればこれ程役に立つ力もそう存在しないだろう。
 思わぬプレゼントに上機嫌のまま麹をしまう為にダイニングへ赴き、ついでに冷凍庫とオーブンの様子も見る事にした。アイスはいい仕上がりになっているし、キャロットケーキも上手く焼けている。
 パンに付けるバターの追加も頼まれたのでついでに持って来た所で、メルヴィッドは先程の続きを繰り出した。
「さて、贈ったからには当然貰う権利が発生する訳だ。お前から私へのプレゼントだが、ハリー・ポッターの身柄とポッター家の財産で手を打とう」
『逆藁しべ長者も度肝を抜かれる交換条件でも私は一向に構いませんが、クリスマスまでに間に合いそうにないので、もう少し待って下さいませんか。それにしても、メルヴィッドがハリー、というよりも、私を引き取るんですか?』
「肉体を詐取したお前に財産目的と罵られる謂れはないが?」
『いえ、そういう事ではなくて』
 どうにもハリー引き取りプランはメルヴィッドの中で随分前から決定事項だったような口振りだ。ポッター家の財産と、後は私のハウスキーピング能力欲しさからだろうが、それは別に構わない。メルヴィッドさえ問題なければ私としても施設送りにされるより養父となって欲しいと思っているくらいだ。その方が今朝のような事が起こった場合でもボロを出さずに済む。
 ただ矢張りどうにも、彼の知識は偏っているようだ。知識の偏り自体は私にも言える事なので安易な批判は出来ないが、しかし現状から考えるとメルヴィッドがハリーを引き取る、という計画は現時点では9割方無理だろう。
『養子縁組の件もあってあの後色々と調べたんですが、この時代のイギリスは里親になるのは比較的簡単でも非血縁者との養子縁組となると審査が厳しくて通る事も難しいんですよ』
「私とあの女は簡単になれたではないか」
『一定の判断力の付いている人間同士なら問題ありませんが、ハリーは子供で、しかも被虐児童なんです。学生の肩書きを持った独身男性、しかも養子縁組に入ったばかりの人間に関係機関が被虐児童を任せるとは思えません』
 今はまだ慌ただしくて動けないが、ダドリー・ダーズリーとハリー・ポッター双方の件が落ち着き始めたら関係機関が動くだろう。
 施設が可能性としては一番高く、次点で顔も知らない赤の他人の家庭へ里子、しかし同率で懸念材料が出ている。ハリーが、ダーズリー夫妻の元に返される可能性だ。
「それは流石にありえないだろう」
『何処の国の政府も無能ばかり、ですよ。特にイギリスでは血の絆という物を大切にしているようで、実親か血縁者の元に戻す事を第一と考えて支援がされているんです。夫妻は今回の件で実子を亡くしますし、ポッター家の財産だけは欲しい事に変わりはありません。その辺りがどう噛み合ってくるかで……物凄く不愉快そうな顔をさせて申し訳ありません』
「料理が不味くなった」
 フォークとナイフをコンフィの上に投げたメルヴィッドは、それはもう心から不愉快そうな顔をして私を睨んで来た。他に睨むものがないのだから、仕方ないといえば仕方がない。
『では下げましょうか?』
「……いや、食べる」
 完食したのはスフレのみで、皿の上には他の料理が鎮座したままだった。その姿を見てどう思ったのかは判らないが、私の提案を彼は退けた。
 食糧難の時代を生き抜いたからか、それとも本当に私の料理を気に入ってくれているからなのか、むっつりと、それでも食器を再び手に取ったメルヴィッドに、少しだけ気分が上昇するような話題を提供してみる。
『私としては、あの夫妻が引き続きハリーを引き取るとはっきり言ってくれた方が有難いんですがね。近くに居て下さった方が突発的な事態に対処が出来て、殺すのに便利ですから』
「確実にダンブルドアの見張りが付くぞ。その中で、どう殺す」
『ダンブルドア本人が来る訳でもないのならどうもしませんよ、11月中にきちんと時間を掛けて下準備しています。私でも、ハリーでも、でもない普通の人間に殺して貰いましょう。ああ、しかしどこかに穴があるといけないのでメルヴィッドにいい案があるのならば是非そちらを使いたいですが』
「いや、お前の言った通り私は確信犯や革命家の気質でシリアルキラー型の連続殺人は得意でない。一つ忠告するなら、聖マンゴの時のように殺し過ぎるな、くらいだ」
『メルヴィッドは人を快楽殺人者みたいに言うんですから』
「快楽ではなく猟奇だろう」
 いつものような流れになり苦笑して返すと、メルヴィッドもこの遣り取りに慣れたようで溜息一つで片付けてくれた。
 肩の力が抜かれ、赤い瞳が時計を一度確認してから再び料理に向かう。
「そういえば、例の教授からワインを貰ったんだが」
『書類上の貴方は未成年、と責めるのも野暮ったい話ですね。ならば今夜はそのワインに合う肴を作りましょうか、色は何ですか?』
「白だが詳しくは知らない。向こうに置いてある」
『では後で見ましょう。肴のリクエストは』
「デザートも含めて何品か作れ、それ以外は任せる」
『では白なので全体的に軽目としましょうか。あ、そろそろパスタ茹でますか?』
「いや、夜食にジェノベーゼで出せ」
 グラタンの中の白身魚を食べながら色々と注文をしてくれるメルヴィッドを眺めながら私は頬を緩ませて行った。
 他の人間はどう思っているのか知らないが、色々と注文出来るのは食べるという事に興味が出てきたという証拠。それに何よりも、若い子が沢山食べるのは良い事だ。