曖昧トルマリン

graytourmaline

鯛と豆腐の柑橘蒸し

 厚いカーテンの向こう、週末の土曜の朝は雨が降っている。短く切り揃えられた癖っ毛が湿気でふわりと膨らむような感覚は元の体では味わえない奇妙なものだった。
 クリスマスも来週に迫っているような時期だが、ここロンドン近郊は日本に比べて緯度が高い割に雪と縁が少ない土地なので雪に変わるという事はないだろう。
 海流や気団が関係しているのだろうか、そういえばイギリスには偏西風と北大西洋海流以外にどのような海流や気団が存在するか全く知らない事に今気付いた。朝にラトロム=ガードナー宅に出かけ朝食を含めた諸々のの準備も済ませてしまい、どうせ夜までは暇なので後で調べてみようか。
 ただでさえ空虚なイギリス料理を徹底的に自己崩壊させたような、味の感想を口に出すのも憚られる病院食を食べ終わり、小さな個室から動く事なく医師の回診を済ませる。
 病気という訳ではないので体力は順調に回復しているらしいのだが、どうもハリーは事件渦中の人物であるため共同部屋に移動出来る状態ではないそうだ。同じように事件被害者のダドリー・ダーズリーも個室が与えられている。しかも、同じ病院内に。
 ちょっと部屋割りを考えたというか、緊急搬送をした人物達を呼んで被害者と加害者家族を同じ病院に入れるとは何を思っての事かと小一時間問い詰めたい。今の所はまだ、あの夫妻と顔を会わせてはいないがどう考えても時間の問題ではないだろうか。
 溜息と共にズレてきた矯正用の眼鏡を掛け直し、不思議の国や鏡の国の向こうに放置してある百科事典を引っ張り出してページを捲る。ハリーの腕ではそれすら持ち上げるのに苦労したが、リハビリの一環とでも思い込んでおけば然程苦ではない。
 開いた古い本の香りに混ざったのは、外の冷たい雨と、病院関係者に徹底的に除菌されたにも関わらずシミが取れていないピーター君や、シーツの清潔で不健康な香りだった。消毒液と糊と死んだ雑菌の、無機質な香り。あまり良いイメージの単語は並べていないが別に病院の匂いが嫌いという訳ではない、ただどうしても病院という場はこういった表現の匂いになってしまうのだ。
 カーテン越しに雨音を聞きながら重い眼鏡を何度も直し、あの物置の中よりも格段に温かい部屋の中でページをただ眺めていると、廊下の向こうから複数の人間が歩いて来る気配がした。体を持っていない時分では消失していた気配を探るという事も、ハリーの体を乗っ取ってからは再び出来るようになっていた事は喜ばしい。
 私、というよりもハリーの来客かどうかまでは判らないが、態々体を抜け出して見に行く必要もないだろう。現在時刻は病院側が定めた面会時間に重なっているので、別の個室患者の見舞い客の可能性もある。
 足音が近付くにつれ、どういった人間がやってきたのかも判るようになった。視覚の代わりとして何とか機能させていたボロボロの聴覚も治療のお陰であの時よりも格段に良くなって来ている、否、人並みとなった、と訂正すべきだろうか。
「女と、男が一人ずつ?」
 近寄って来た足音で人数を把握し性別を振り分けるが、少なくとも事情聴取をしに来た警察関係者やダーズリー夫妻ではない。男性の足音が明らかに訓練を受けた警官でも、バーノン・ダーズリーの物ではないからという判断からだが、しかしどこかで聞いた靴音だ。
 先を切って床を打ち鳴らしているのは女性物の低いヒールで、歩幅はそれ程広くなく体重は軽い。速く一定の間隔で乱れること無く刻まれる足音からすると融通が利かず厳格そうな性格の持ち主、だろうか。イメージとしては誰に対しても平等に厳しい修道女。
 対して男の方は心身共に疲れているのか、足を擦るようにして女の後ろを歩いている。こういった足音を立てる人物に心当たりはないのだが、矢張りどこかで聞いた靴音だ。さて一体どこだったか、元の世界だとか、それ程昔ではないような気はするのだが。
 ここにメルヴィッドが居てくれれば直に解決しそうな些細な悩みなのだが、解決前に物凄く馬鹿にされるか、物凄く呆れられるかの二択が真っ先に思い浮かんでしまった。確かに冷静に考えるとその二人は既に部屋の前まで来ているので考える必要すらないのだが、しかしこう、思い出せそうで思い出せないのは何とも気持ちが悪い。
 膝上で百科事典を抱えたまま喉から出そうで出ない解答に苦心していたが、結局時間切れとなっていまい病室の扉が叩かれる。叩いたのも恐らくヒールの女性だろう、随分神経質なノックの仕方だったが、想像通りの律儀な性格なようで私が返事をするまでは扉を開けようとはしなかった。
「……どうぞ」
 脚の上から事典を下げ、ピーター君を抱え直してから声をかける。
 ほぼイメージした通りの女性が病室に入って来たと同時に、私は数日前に証拠品やらを置いていけと口頭注意をしてくれたメルヴィッドに心の底から感謝した。これはもう、今夜一緒にテレビを見るときは何か礼として彼の好物を作るべきだろう。
 私が内心でメルヴィッドを崇めている事など知る由もない女性は、備え付けの椅子にも座らず厳しい表情のままベッドで体を休ませている私を、ハリーを見下ろしていた。
 対して男は数歩引いたまま、蔑んだ目をしている。彼の内心を代弁するのならば、お前が死ねばよかったのに、辺りが適当だろうか。
「こんにちは、初めましてハリー。私はミネルバ・マクゴナガル、こちらはセブルス・スネイプ。私達は貴方の……ご両親の、知り合いです」
 現時点における単純ではない状況を纏めるために妙な場所で間と沈黙が入ったのは仕方ないと言えば仕方ないだろうが、そう思えるのは私がハリーの両親と目の前の二人の関係性や現在の状況をある程度把握しているからに過ぎない。
 何も知らないというハリーを装うならば、ここはどう切り返すべきか。
 少しも悩まずに、私は手元のナースコールを押した。元々警察関係者からは不審人物が訪れた場合、直に押すようにと再三言われているので問題ないだろう。尤も彼等はこういった存在ではなくメディア関係者、特に契約関係を持たないフリーの輩が潜入して来る事を警戒して、なのだろうが。
 事前に調べたのかナースコール程度の知識は持っていたようで、自分達がハリーにどのような存在と判断されたか理解したミネルバ・マクゴナガルは眉を顰めセブルス・スネイプは実に忌々しそうに舌打ちをした。どう控え目に見ても不審人物の取る行動なのだが、2人はその辺りまで理解しているのだろうか。
「ハリー、私達は怪しい者ではありません。本当に、貴方のご両親の知り合いなんです」
 彼女の言う通りその言葉は紛れもない事実なのだが、頭の硬そうな組み合わせが怪しさを更に引き立たせていたので普通の感性を持つ人間ならば信じるのは到底無理な話だろう。せめてここにもう一人、子供に対して人当たりの良い人間、例えばリーマス・ルーピンでも居れば話は違ってくるだろうが増援はないようだ。
 ミネルバ・マクゴナガルとセブルス・スネイプ、初対面でこの2人に、たとえ事実だろうと何かを言われて信じる人間が居るならば名前を教えて欲しい。私はその人間とは是が非でもお近付きになったり、知り合い等にはなりたくないので。
 余計な事を考えつつ私はピーター君を抱き締めたままもう一度ナースコールを押して時間を稼ぐ。今はまだ午前中の忙しい時間帯だ、前述した通りハリーの体は病気に罹っているという訳でもないので、命の都合からそう簡単に看護婦も訪れる事が出来ないのだろう。
 後はただひたすらに見知らぬ人間の全てを拒否するという意思を示すように窓の方を向きベッドの上で子供のように膝を抱えた。ミネルバ・マクゴナガルの背後、セブルス・スネイプが苛々し始めていたが、私には関係ない事だ。下手なことを言って言質でも取られてはメルヴィッドに申し訳ない。
 カーテンを開けた窓の下、雨の中で見知った男達、毒殺未遂事件に関係する事情聴取担当の警察関係者の影が見えた。ついでに、窓ガラスに映り込んだセブルス・スネイプが杖を振って防御呪文を部屋の前に撒いているのも。看護師と警察、被虐児童とされているハリーの頼みの綱の救援はまだしばらくは来ないらしいが、それでも素知らぬ振りをして時間潰しに彼等の来訪目的を考える。とはいっても、心当たりは既にあった。
 だって、当然だろう。
 11月9日にポッター夫妻が原因不明のまま死亡し、翌月14日にはダドリー・ダーズリーが全治不明の毒殺未遂をされたとあっては、流石にペチュニア・ダーズリー及びハリー・ポッター周辺を怪しんで話を聞きに来るのは妥当な判断だ。
 彼等の事だから、既にペチュニア・ダーズリーに対しての尋問は終わっているかもしれない。でなければ、ダドリー・ダーズリーが倒れてから1週間程度も期間を開けてハリーを尋ねたりはしない。一見好々爺然としていて長考派に見えるダンブルドアはしかし、先を読んで罠を設置し駒を動かすのが異常なまでに速い。
 有益な情報を手に入れる為に私の周囲にも既に罠が張ってあると見て間違いないだろう。週の頭に物的証拠を消せと忠告し、ダンブルドアは何時でも動ける態勢にある事を示唆したメルヴィッドには本当に感謝し切れない。おかげで、少なくとも想定外の事態に追い込まれ思考停止には陥らずに済んだ。
 一切を拒絶する素振りを見せる私を見て、ミネルバ・マクゴナガルは深い溜息を吐く。ここで引き下がってくれれば有難いのだが、小声でこのような手段は好きではないのですがと前置きをしたので、今から強硬手段に出るという事なのだろう。
「ハリー、貴方はという名前の人間に心当たりはありませんか?」
 罠に引っ掛かった。私ではなく、彼等が。
 恐らくダンブルドア一派はダーズリー家の物置を家捜ししたに違いない。あの物置の床下には件のU.N.オーエンの手紙が仕掛けてある、しかし罠とは言っても有名な古典ミステリの劣化版で、非常にあからさまで下らないものなのだが。
 私は警戒しながら顔を上げ、何故その名を知っているのかという風を装った。男と女の、厳しい視線に痣だらけの白い肌が晒される。
「知っているんですね」
 疑問ではなく確定の言葉に、私は否定も肯定もしなかった。メルヴィッドと相談し、あらかじめ設定しておいたという名を持つ、世界の何処にも存在しない犯罪者の設定を脳内で確認する。本当に、メルヴィッド様々である。
「その人間は、何者ですか」
 見知らぬ人間になど言うものかと態度で示す為に、私は再び顔を逸らした。彼等が暗号まで解読出来ているのかも、出来る事なら確かめたい。ただ以前にも危惧した通り私の頭に合わせて作ったかなり単純であからさまな代物なので、ダンブルドア辺りならば一目見て解読しそうではあるが。
 沈黙を通す私に限界点が超えたのか、今まで後ろに下がっていたセブルス・スネイプが杖を持って前に出る。杖先には威嚇用の魔法が放たれる寸前にまでなっていたが、ハリーは現時点ではまだ魔法界についての何も知らないので変質者を見る目のまま無知を通した。魔法という存在の事実を知らない人間から見れば、今のセブルス・スネイプは棒っきれを振り回す変人にしか見えない。
「言え、とは何者だ、何を目的で動いている人間だ」
 中身は兎も角、外見は子供である存在に対して威圧的な態度を取るような人間には言えるような事も特になく、それ以上に何か知っていたとしても言うはずがない事をセブルス・スネイプは理解しているのだろうか。どこの世界にこんな状況で悪役然とした男に対し、自分の持つ情報を素直に吐く子供が居るのかと問うてみたい。
 否、正常な子供であったら暴力の前に臥すのかもしれない。自分の何が悪いのかも判らず泣きながら許しを請うのかもしれない。
 しかし、このハリーは虐待を繰り返され度を越した暴力には慣れ切っていた。たとえ拳を振り上げられたとしても些細な反応しか見せない程、精神が窶れている。
 そういう、設定だった。
「言え! そいつの目的は何だ! そいつがリリーを殺したんだろう!?」
「セブルス、まだそうと決まった訳ではありません」
「何故リリーが死んでお前が生きているんだ! 何故お前が殺されなかった!」
「セブルス!」
 愛しい者が死に、憎き者がのうのうと生きているという遣り場のない怒りは私にも判るつもりだ。判るつもりだが、しかし、だから何だというのだ。私は彼ではない。
 感情を爆発させているセブルス・スネイプと、それを抑え込もうとするミネルバ・マクゴナガルで病室は俄に騒がしくなる。煩いと言いたかったので眉を顰めたが、当然のようにスルーされた。同じ英国人で魔法使いでもあるメルヴィッドならば空気を読んでくれるのに。
「何故リリーは死んだ!」
「いい加減にしなさい!」
 リリー・ポッターと甥のダドリー・ダーズリーが害された時期が非常に近い。共通点であるペチュニア・ダーズリーは何も知らなかったが、ハリーには妙な人物と接触した形跡がある。ならば、その人物こそが犯人だろう。
 改めて確認してみると途中経過も相当だが何よりも結論が随分とお粗末且つ強引で、同一犯の犯行だと考えるには余りにも突飛な発想だ。その癖、実はそれがほぼ正解というのが非常にアレだったが。
 ただし、その同一犯が私ではなくという名の架空の存在だと言うのならば、残念ながら不正解だ。
 私はようやく顔を上げ、どうでもいい事で騒いでいる二人の大人を見上げた。そろそろ彼等の相手にも飽きて面倒になって来た、情報収集は大切だがこの調子だと今日を逃しても近い内に再び誰かが訪れるだろう。
「帰って下さい」
 未だ痣の残る口元から、外の雨と同じ温度の声を出した。
 セブルス・スネイプは憎悪の目で、ミネルバ・マクゴナガルは困惑の目で私を見たが、拒絶を感じ取ったようで改めて出直すべきだと悟ったらしく不満気な表情を浮かべながらも入り口の側へ足を向ける。
 人払いの呪文も次いで解かれたようで、入れ違いに看護婦が若干不思議そうな顔をしながら入室して来た。私は2人の面会者を指さし、警察に言われていた事を告白する。
「知らない人」
 当然病院側も警察から説明を受けているので、看護婦は眼の色を変えて2人に詰め寄り、慣れた仕草で病室の外に連れだそうとする。流石に毎日のように我儘な大人を叱っているだけはあり手馴れていた。しかし、こうして眺めていると病院関係の職業はどこの世界もあまり変わらないものだなと実感する。
 ハリーの両親の知り合いだと真実を話している両者の訴えを適当に流し、看護婦は不審人物をあるべき場所へと移動させて行く。あの細腕にどれ程の力が秘められているのか判らないが、大の大人2人は全く抵抗出来ていないようだった。
「ハリー、何故ですか。貴方は知っているでしょう? 私達がジェームズやリリーの古くからの友人だと」
 知らない人だと指をさしてまで言っているのに助けを求めるなど、全くお目出度い頭である。それだけジェームズ・ポッターやリリー・ポッターの存在は偉大であったのだろうが、生憎と今の私、ハリーの名を騙るハリーではない私に説明しろと訴えても己の首を締めるだけだという事も判っていないらしい。
「……それ、誰ですか?」
 ピーター君を手繰り寄せながらそんな人間など知らないと宣告をすると、2人の表情から感情が抜け落ちた。予想だにしなかった返答だったのだろう。
 これ幸いと不審者2人を病室の外に連れ出していった看護婦の背中を眺めながら、私は百科事典を手に取り冬の窓に向かって溜息を吐いた。
 大人しく連れて行かれたものの、どうせあの2人の事だ、魔法を適当に使って看護婦の手から抜け出すに決っている。全く、魔法は科学と一緒で便利で厄介な代物だ。
 しかし、何故彼等は、虐待を経て保護されたハリーが魔法界や両親の事をあの一家から欠片でも教えて貰えた等と思ったのだろうか。
 ああ全く、彼等の頭はお目出度い。