曖昧トルマリン

graytourmaline

ホットオレンジラム

『と、いうお話だったとさ』
 洗い終わった硯と筆をしまいながら、めでたしめでたしと続けようとした私の頭の真ん中を畳まれた新聞が通り過ぎて、壁に当たってから屑籠へ入った。ワンバウンドさせてから入れるとは中々素晴らしいコントロール力を持っている。
「何を昔話だったかのように捏造しているんだ、進行途中の事実だろう」
 元ガードナー宅、現在は名義変更によりラトロム=ガードナー宅となっているテラス・ハウスのリビングで、一人掛けのソファに座ったままメルヴィッドが呆れた表情で言って顎で屑籠の中の新聞を指す。
 覗いて見えた記事には無差別殺人未遂事件に巻き込まれた被害者家族から一転、児童虐待の加害者となった夫婦2人が写真入りの実名で記載されていた。マスコミ的には割と美味しい展開なのだろう、机上に放置されている他社の記事も見出しを確認すると大体似たり寄ったりの事が書いてある。
 批判、擁護、中立。社説は様々だが、バーノン・ダーズリーとペチュニア・ダーズリーの顔写真と名前の公開という点だけは足並みを揃えているようで、今や彼等は時の人となっていた。限りなくマイナス面の、だが。
「大体その状態でこんな所に居ていいのか、ハリー・ポッターの体はどうした」
『病院のベッドの上で管塗れになっていますよ。早朝のこの時間なら夜勤の看護師もコールしなければ来ませんから、起こされる心配もありませんし』
 なので事の顛末について報告にしに来たと言うと、メルヴィッドは予想通り過ぎてつまらないと呟きながらもう一つ新聞を投げて私の額に当ててから屑箱へ入れた。一々私の頭を経由する必要性が判らない、否、嫌がらせなのであろうが。
 杖を振ってティーカップにミルクと紅茶を淹れメルヴィッドに渡すと、シュガーポットから角砂糖を取り出して3個投入していた。意外にも、彼は甘党らしい。
「で、あの豚は何時頃死ぬ予定だ。いくらお前が暇だからといっても四六時中見張っている訳にも行かないだろう」
『そう思って今は色々仕込んだピーター君に自律行動させていますよ、昨日担当医の会話を聞いた所、慢性中毒らしいのですぐには死にそうにありませんから』
「血中濃度は陰性になったか?」
『いいえ未だに陽性です、0.1μg/ml未満でしたけれど。数値的には実際どうなんでしょうか、運が良ければ生き残りますかね』
「いや、摂取したのが一昨日の夕方で未だ陽性が出るなら間違い無く死ぬな。今は第2期だから循環器系の障害が出ているはずだ。因みに血中濃度は4時間で2μg/ml、6時間後で0.9μg/ml、16時間で0.16μg/ml、24時間後で0.1μg/ml未満ならば助かる、大体の目安として覚えておけ」
『忘れていいのなら』
 3紙目の新聞が額目掛けて飛んで来た。
「忘れる前提で覚えるな。大体たった1ヶ月で私に知識を追い越されるとはどういう事だ」
『萎びた爺の頭にこれ以上詰め込むのは無理ですよ、と言うよりも、それ以前にメルヴィッドが優秀過ぎるんです』
 追いつけるはずがないと両手を上げて降参すると、もう少し努力をしろと叱咤される。努力をしても追いつけない才能の差と言うものがあるのだが、やる前から諦めるなと真面目に叱られそうな雰囲気だった。
 一応ポーズの為にメルヴィッドの前に積まれた本を1冊抜いて目を通すと該当項目が見つかり、視線を動かすと赤い目が使用する毒物の基本くらいは最低限知っておけと呆れたような感情を浮かべていた。
『第3期の肺機能障害は今夜から、でいいのですかね。生存期間は1~2週間と、子供なのでもう少し短いかもしれませんが……苦痛を延長させる為の延命措置は病院内だと露見する可能性もありますし、ここで手を打つのは避けた方が懸命でしょうか』
「今更確認とは、本当に何も知らないまま使っていたんだな。これだから無知は怖い」
『元々不気味だと思われているのですから、今更気味の悪さや恐ろしさが多少増えても大して変わらない……何ですか、これ』
「何がだ」
 本を元の位置に戻し、まだ投げつけられていない朝刊に目を通す。そこで、今まで目にした事のない単語を発見した。一応、文字通りに受け取れば意味は判るのだが、こんな言葉が実在していたのかと衝撃を受ける。
『全治不明なんて言葉、初めて目にしましたよ』
「治る見込みが皆無ならば全治不明だろう。要は危篤状態だ」
『いえ、意味は判っているつもりなんですが。こういった言葉も存在するんですね』
 どうでもいい事に感心している年寄りの相手に飽きたのか、甘いミルクティーを飲み干したメルヴィッドは自分でおかわりを淹れて再びソファに座り直した。今度はミルクが多目でシュガーポットから砂糖を4個。紅茶が渋いのか、舌が馬鹿なのだろうか、それとも本当に単なる甘党か、もしかしたら朝なので脂肪分や糖分が欲しいのだろうか。
 そんな温かく甘いミルクティーでほっと一息つくと、少し伸び気味の爪が手近にあった黄色の短冊を摘んで表裏や書いてある文字を確認する。興味無さげに少し小首を傾げる仕草が可愛らしいと思ったが、口に出したら残りの新聞を全て投げ付けられそうだ。
 代わりの言葉として、符と言うんですよ、と短冊の正体を告げてみると、意外にも知識があるのか中国の物かと返された。ただ魔法生物やら僵尸やら、所謂そちら系の単語も聞こえたのでそちらじゃないと訂正をする。
『間違っていませんが違ってはいますね、呪詛系ではなく治癒系です。符水といって、これを燃やして灰にした物を水に溶いて飲むと色々な治療に使えるんですよ』
「フスイ? イギリスでは聞かないな。の国、日本だったか、地理的に中国と近いそちらでは一般的なのか」
『どうなんでしょう。治癒符だと張角の符水等は結構有名ですから、符を扱う人間なら知っていなければ鼻で笑われるでしょうが……魔法使いではない人間も符の書き方は兎も角、存在そのものを知っている方はいらっしゃると思いますよ。太平道に興味のある方とか、中国史や三国志演義が好きな方とか』
「後半が何を言っているのか理解出来ないが、しかし、マグルが知っているのか」
『別に驚く事もないでしょう。ファンタジーの分類ですが、パラケルススのホムンクルスやアル・アジフの大いなるクトゥルーへの嘆願の呪文なども割と有名ですし』
「錬金術の人造生命にジョン・ディーのネクロノミコンか。どちらも私の趣味じゃない」
 符を元あった場所に戻したメルヴィッドはテレビの電源を入れ、最新のニュースを流しているチャンネルに合わせる。私の視覚や聴覚は自分でも知らない内に実家の薄型テレビに慣れてしまっていたようで、小さなブラウン管のテレビから流される映像や音声は酷く懐かしく思えた。
 80年代のCMを流している画面を突っつきながら懐かしんでいると、テレビが珍しいか野蛮人と背後から雑言を浴びせられる。何故か今すぐメルヴィッドを近未来の日本に連れて行きたい衝動に駆られた、もしくは日本製アニメを見せてその反応を見てみたい。ラインナップは数秒で出来たが現在発表されていない作品が多く占めている事と、彼は日本語を理解できない事が難点だが。
『しかし貴方の場合、言語が理解出来ても結構冷めた反応を返しそうではありますよね』
「数秒の沈黙でお前の脳内はどんな過程を経てその結論に達した」
『馬鹿にされそうなので黙秘します。所でこのテレビの映らないチャンネル、1つ頂いていいですか。後でちゃんと元に戻しますから』
「お前もお前で徐々に自由に振る舞うようになって来たな……まあ、チャンネルは構わないが、今度は何をするつもりだ」
『演し物の佳境はとっくに過ぎてしまいましたが終幕までにはまだ多少時間がありますし、役者がきちんと割り当てられた役割を演じ切れるかどうか観劇しませんか。何でしたら開演時間も指定できますが』
 何時頃がいいかと問いながら壁のカレンダーを確認すると、今週の金曜の夜は例の老教授と食事会らしかった。相変わらず抜け目がないというか、人付き合いがマメで上手い青年だと感心する。とても私には真似出来そうにない。
 土曜の夜10時過ぎが適当かと口を開こうとすると、私の目線から思考を読んだのかそれでいいと返事が来た。
『では今週土曜の22時半にしましょうか』
 病院へ帰ったら早速ピーター君にそのような指示を入れなければと頭の中に書き留めていると、メルヴィッドが何かを思い出したような顔をして手を差し出して来た。
 まだ彼と私は以心伝心、阿吽の呼吸で物事を行う程の仲ではないので何を伝えたいのかが理解出来ず、首を傾げながら差し出された手に手を重ねる仕草をした。当然のように見当は外れ、4紙目が眉間目掛けて飛んで来る。
「あの小瓶を寄越せという意味だ!」
『パラコートが入っていたあの瓶ですか、どうかしましたか?』
「本当に何も判っていないのか、どうしようもない爺だな! 他の魔法使いはまだしも、ダンブルドアがお前の周囲を不審がって接触して来た時まで瓶を持っていたら問題だろう!」
『ああ、成程』
 気付かなかったという事を言おうとしたが、その前にメルヴィッドから証拠は隠滅しろその程度の事は気付け危なっかしいからホグワーツから持って来た物は全て一時的にここに置いておけと一息で叱咤された。
 怒鳴り声を適当に聞き流しながら相槌を打ち、相手の感情や仕草を観察する。なんとなくだが、今朝のメルヴィッドは何時にも増して怒りっぽいような気がするのは私の気の所為だろうか。彼は直情型だが、あまりこのような怒り方はしない。怒っているというより、苛々していると表現した方が適切なような。
 そこまで考え、ふと彼の手元に目が行った。角砂糖が4つ入った温かいミルクティーも残り少なくなっており、ポットにはまだ紅茶が波々と残っている。
 まさかと思うが、まさかだろう。だって彼は魔法使いだが誇り高きイギリス人だと意味不明な納得の仕方をする。
『メルヴィッド、近頃何を食べましたか』
「何だって?」
『昨日の三食、今日の朝食。一体何を食べたのかと聞いているんです』
 私の目が据わっている事に気付いたのだろう、メルヴィッドはやや視線を落とし口を噤んだ。どうやら言いたくないらしい。
 パブや中華料理を含む外食、冷凍食品、缶詰、ファーストフード、予想として適当なのはこれくらいだろうか。少なくとも自炊はない、絶対にない。リビングに直結しているダイニングが不自然なまでに綺麗過ぎる。
 リビングからは死角だが、キッチンも私が掃除したっきり冷蔵庫とレンジ以外を使用したようには思えない。きっと五徳は磨かれたままの状態で光を反射しているに違いない。
 威圧感を醸し出しながら腕を組んで仁王立ちする私を前に、何故急にそんな偉そうな素振りをするのだと目だけで訴えていたメルヴィッドも結局は諦めたようで、非常に大きな溜息を吐いて体の力を抜いた。
 お前は私の何なんだと言いたそうな表情だったが、私も食を前にした日本人の本気を舐めるなと言っておきたい。それ以外は案外適当に済ませるが。
「昨日の昼食はキュウリのサンドイッチだった、夕食と昨日今日の朝食は食べていない。面倒だったからな、紅茶で済ませた」
『突然ですが、メルヴィッド。成人男性の1日に摂取する理想的な平均カロリーが2000kcal前後だと言う事はご存知ですか、ああご存知ない。因みに紅茶は1杯約1kcal、コーヒーミルクは1杯分で約10kcal、砂糖は1個約25kcal、胡瓜のサンドイッチは切断していない状態で1個約50kcal。さて、ここで問題です。24時間以内に貴方が摂取したカロリーの総量を述べ、それが理想値に届いているかを答えなさい』
「そんな事計算するまでもない、届いていないに決まっているだろう」
『胸を張って言わないで下さいよ!? カロリーもですが栄養学的にも、いえ、寧ろこちらの方が問題山積みですからね、そのラインナップ! ダイエット中の女性だってもう少しまともな物食べますよ!?』
の沸点は掴み辛いな」
『食事関係と血族関連は、間違いなく瞬間沸騰する話題です』
「判った、一瞬で鎮火する事も含めて覚えておこう」
『そうしていただけると有難いです』
 きっと基本的な栄養素の種類も知らないであろうメルヴィッドにはこれ以上何を言っても無駄だろう。月並みだがキャベツとレタスの区別が付かないかもしれない、砂糖が炭水化物と説明しても知識のない現段階では絶対に理解されないに違いない。
『メルヴィッド、貴方、最近集中力が持続しなくなっているんじゃないですか。冷え性と睡眠障害、消化器系の不快感、意味の判らない苛々も。で、それを薬で補っていると』
「何故判った」
『どう考えても低栄養状態が原因ですよ。薬では治りませんので、ちゃんとバランスの取れた食事を心がけましょうね?』
 敢えて指摘しなかったが消化器系がおかしいのなら便秘にもなっているのだろう、偏頭痛や目眩も併発しているかもしれない。それも、かなり以前から。
 嫌な予想が完全に当たった事で怒る気が失せ、何故か医師や教師のような口調になってしまった。そして今からは、必要に迫られたしがない兼業主夫となる。兼ねている業務が多少一般的な物から脱しているのは目を瞑って貰いたい。
『とは指摘したものの、忙しいメルヴィッドにそんな事をさせるのは忍びありませんので、料理の時間は私の方で受けたいのですが。料理自体はそれなりに出来ますし、この頃雑務をやらせていただいてないので少し調子が狂っているんです』
「私は料理が不得手だからそれは構わないが、妙な物は作るなよ」
『妙と炒って似ていますよね、成り立ちは全然違いますが。アレルギーや嫌いなもの、苦手な味付けはありますか? ないのなら軽くスクランブルエッグでも作りましょうか、賞味期限の切れていない卵と牛乳……ならパンさえあればフレンチトーストも出来ますね』
「人の話を聞け」
 最後の新聞が筒状に握られ、私の頭から胴にかけて袈裟懸けに振り下ろされた。別に変な物も妙な物も作る気はないと返答しようとしたが、思った以上に赤い瞳が真剣だったので思わず舌が止まる。
 メルヴィッドにそこまでの表情をさせる理由に見当が付かず、キッチンに向かっていた足を止めて正面から向き直った。彼は私が静止した状態を確認すると、まるで部下を死地に送る命令を下さなければならない上官のような顔付きで、こう言った。
「いいか、生卵は絶対に電子レンジで温めるな」
 ……ああ、爆発させたのか。
 レンジ+生卵=爆発、今時小学生でも知っている危険物の精製方程式だ。
 彼の時代に電磁調理器は存在していなかったのでそれに関しては仕方がないと思う。しかしそれにしても、生きている間に住み込みの独り暮らしをしていたはずなので料理の経験は一般イギリス人並にありそうなのだが。ただ、その一般レベルがアレであるし、どうにも観察していると今現在の彼自身に料理のセンスが欠落しているようにしか思えない。
 私よりも一般的な知識を持っているはずなのだが、文明の利器に対する興味が抜けているらしい。互いに補いあって丁度良い、とは言うまい。私とメルヴィッドという組み合わせでは残り一人が並外れて万能でない限り文殊の知恵は絶対浮かばない。
『因みに、どのような卵料理を作ろうとしたんですか?』
「ゆで卵だ」
『レンジで簡単爆発卵。鉄板の古き良き時代のネタですね』
 半笑いで言い、止まっていた足をキッチンへと動かす。
 メルヴィッドの事なのできっと取扱説明書を一通り眺め、出した結論が電子レンジに入れれば取り敢えず火が通るか温まるかする、だったのだろう。あれの構造を知っていても温めてみたい気持ちは判らなくもない、自分の物でやる勇気はないが。
 それにしても、この行動を見る限りメルヴィッドは意外とお約束な展開が好きな人間なのかもしれない、バナナの皮を床に設置したら自主的に滑りに行ってくれるだろうか。無理を承知の上どころか不可能の領域に突入しているので全く期待していないが、もしも行ってくれるのなら是非録画したい。
 そんな下らない事しか考えていない私の思考と、それに伴う視線にかなり不純な成分を見出したメルヴィッドは怪訝そうに眉を顰め、本当に妙な物は作るなと念を押してくる。彼の思考のまともさには頭が下がった。
『そんなに大した物は作れませんが、絶望させるほど酷い物も作りませんよ』
 しかし珍しく自信に満ちた私のこの台詞は、数秒後に覆される事となった。
 仕方がなかったのだ、私は何も知ろうとしなかったし、問おうともしなかったのだから。それが当たり前だと、半ば常識のように思っていたのだ。
 彼の性格を含めてまでよく考えなかった、私が悪いのだ。
 そう、全て私が悪かった。それでいい。
『冷蔵庫の食品が軒並み賞味期限切れ、くらい予想しておくべき事態でしたよね』
「調味料系やシリアル、ポリッジは無事だな。残りは後で捨てろ」
『勿論ですとも。あ、ちょっと目を離した隙に何勝手にお湯沸かそうとしているっ、それらを共に入れる事は断じて許しませんよ!』
 発見したポリッジと、悪名高き缶詰のスパゲッティを缶ごと、しかも同時に茹でようとするメルヴィッドを制止しながら精神的貧血で崩れそうになる膝を必死に叱咤し、朝食に使用できそうな買い置きの缶詰を選り分ける作業に突入する。
 自分の調理法に文句を付けられたメルヴィッドは少々不満そうな顔をしていたが、爆発卵無断作成の件から自分自身の料理技術に問題があるという事は理解していたらしく結局は私に主導権を握らせてくれた。
 注意しても意固地にならない辺り、メルヴィッドは矢張りとても出来たいい子だと思う。基本的な事さえ教えれば、それ以上の事を難無くこなしてしまう理由は才能に依る所もあるが、この若々しい素直さが鍵なのかも知れない。
 そんな彼の朝食を缶詰アレンジ料理というのは非常に心苦しいのだが、冷静になってよく考えると料理センスが欠如し金銭はあるのにきちんと食材を確保していないメルヴィッドが主な原因のような気がしないでもない。
 尤も、結局作った料理を手放しで喜ばれたのでもうどうでもいいかと思い至り、空になった皿を嬉々として洗っている私も大概耄碌している事に違いないのだろうが。